「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(3)
イザベラ・バード著「朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けするシリーズ、第3弾です。
※過去記事
8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)
9/13付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)
【バードが旅したルート。画像をクリックすると新規画面で拡大します】
「朝鮮紀行」の著者イザベラ・バードはイギリス人女性。1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、4度にわたり朝鮮を旅行しました。
当時の朝鮮は開国直後でした。
1894年8月に日清戦争が勃発、翌年には下関条約により長年支那の「属国」だった朝鮮は独立します。
列強各国の思惑が入り乱れ、まさに激動の時代にあった朝鮮の貴重な記録ということになります(ちなみに日韓併合成立は1910年)。
この第3弾では、日清戦争や朝鮮王室にまつわる記述をメインにお送りします。政治色が強く、やや重たい感じですが、ついてきて下さいね(^^ゞ
バードが最初に朝鮮入りした1894年初め頃、すでに東学党(主体は農民)は動き始めていました。本格的な内乱となったのは春で、6月、清が朝鮮側の要請により軍を派遣。それを見た日本も軍を派遣します。
戦争が迫り来る中、バードはイギリス副領事の忠告によって済物浦〈チエムルポ〉(ソウルの海港。漢江〈ハンガン〉の河口にある)をあとにせざるをえなくなります。
バードは秋の旅に備えた荷物を元山〈ウオンサン〉に置いたまま日本の肥後丸に乗船、最初の寄港地である清国の芝罘〈チーフー〉(現在の山東省、煙台)に降り立ちます。
そして牛荘〈ニユーチヤン〉(現在の遼寧省、営口)を通り満州に到着、そこで二カ月過ごします。満州については「同じ清国でも漢族の住む地域と異なった点がいろいろあって興味深かった」と記しています。
また、この時代からすでに満州(当時ロシア領)には約三万世帯の朝鮮人が暮らしていて、バードは「その大半は一八六八年以降、政治的混乱と官吏による搾取のために祖国を離れた人々である」と述べています。
満州の後は奉天、長崎、ウラジオストクでの記述を経て、その後いよいよ王室——李氏朝鮮の第26代王である高宗、高宗の王妃である閔妃(韓国では明成皇后と呼ぶ)、高宗の父である大院君を中心とした——の記述に入ります。
閔妃殺害事件(乙未事変)のくだりでは日本批判がかなり多くなっています。バードは閔妃に何度も謁見し好感を抱いていたため、それが大きく影響したものと思われます。
とはいうものの、バードの記述には閔妃を批判した部分、日本を擁護した部分も少なからずあります。
「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)でも紹介した通り、そもそもバードは日本による朝鮮の改革そのものは大変評価しているのです。
その改革をことごとく潰したのが、他ならぬ閔妃でした。
閔妃殺害事件の経緯をざっと振り返りますと——
閔妃は自分の一族の政権登用を乱発し、大勢の大院君派を国政から追放、流刑あるいは処刑にするなど強権を振るっていました。
また、宗主国の清を後ろ盾とし朝鮮の改革を嫌っていた事大党を重用したことにより、政治改革はことごとく閔妃によって潰されてしまっていました。
やがて閔妃は親露に傾いていったため、それに不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国にいっそう警戒されることになります。
このような情勢の中、1895年(明治28年)10月8日、大院君を中心とした開化派武装組織によって、景福宮にて閔妃は暗殺されました。
この時、日本公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられました。日本は国際的な非難を恐れ、三浦らを召還し裁判にかけましたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり、釈放。
朝鮮政府はこれとは別に李周会、朴銑、尹錫禹の3人とその家族を、三浦らの公判中の同年10月19日に犯人およびその家族として処刑しています。
さらに閔妃暗殺の現場にいたと考えられる高宗(閔妃の夫)は、露館播遷(ろかんはせん。1896年2月11日から約1年間、高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことをいう)の後、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)ら6名の処刑を勅命で命じています。
が、事件の全容は未だ明らかになっておらず、現在も論争が絶えません。ただ、日本政府による計画的な策謀でなかったことは判明しています。
「朝鮮紀行」の閔妃殺害事件に関する記述が、学術的に価値があるのかどうか私は知りません。ただ、少なくとも当時の雰囲気が読み取れるという意味で、それなりに貴重な資料ではないかと思います。
以下、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」の引用です。
〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
フリガナについては固有名詞以外の判りやすいもの(「流暢」「狡猾」など)は省略しました。
※なお、この第3弾では「訓練隊」という名称が何度も登場しますが、これは日本人が教官の朝鮮人部隊です。
「朝鮮紀行」引用ここから_________________________
●東学〈トンハク〉党は朝鮮の官軍を何度か打ち負かしており、朝鮮国王は逡巡を重ねたすえ、清に援軍を要請した。清はこれに対して即座に応じ、一八九四年六月七日、朝鮮へ自軍を送る旨、日本に通告した。両国とも天津条約により、当時のような状況下では派兵できる権利を同等に有していたのである。同日、日本は清に対してみずからも進軍の意志があることを明らかにした。清国軍葉〈ヨー〉[志超〈チーチャオ〉]提督は三〇〇〇の兵を率いて牙山〈アサン〉に上陸し、また日本軍は済物浦〈チエムルポ〉とソウルを武力で占領した。
急送外交文書では清は二度朝鮮を「わが国の属国」と呼んでおり、これに対して日本は、大日本帝国政府は朝鮮を清の属国と認めたことは一度としてないと答えている。(p.265)
●七月二五日、輸送船高陞〈コウシン〉号がイギリス国旗を掲げて一二〇〇名の清国兵を運ぶ途中、日本の巡洋艦浪速〈なにわ〉に撃沈されて多くの人命が失われ(引用者注:当初イギリスで対日批判が起こったが、真相が判明するとともに日本側の正当性が認められた)、その四日後には日本軍が牙山の戦いで清国軍を撃退した。七月三〇日の時点ですでに朝鮮は清との協定を破棄すると宣告したが、これはすなわち自国に対する清国の宗主権をもはや認めないと言っているのと同じである。八月一日、宣戦が布告された。これら一連のできごとの結末については、いや、できごと自体についてすら、わたしたちはほとんどなにも知らず、七月上旬まで奉天は「悠々自適の道」を歩んでいた。(p.266)
●八月一日に宣戦が布告されると、事態は急速に悪化した。日本が制海権を完全に掌握していたため、清国軍は満州を通って進軍せざるをえず、吉林、斉斉哈爾〈チチハル〉その他の北部都市から集めた、訓練を受けていない満州族兵士が一日一〇〇〇人の割りで奉天を通過していった。満州族兵士は南進する途中、手当たり次第にものを略奪し、料金も払わずに宿屋を勝手に占領し、宿の主人をなぐり、キリスト教へのというより西洋文明への反感からキリスト教聖堂を荒らした。外国人に対する憎悪は奉天から四〇マイル離れた遼陽〈リヤオアン〉で最高潮に達し、満州族兵士は聖堂を破壊したあとスコットランド人宣教師のワイリー氏を撲殺し、「洋鬼子」と親しいからという理由で行政長官に危害を加えた。(p.267-269)
●奉天に向かうすべての道路は(引用者注:清国軍の)兵士でごった返した。行進とはほど遠いだらだらした歩き方で、一〇人ごとに絹地の大きな旗を掲げているが、近代的な武器を装備している兵はごくわずかしかいない。ライフル銃一丁持たない屈強な体つきの連隊すらある! ((中略))正確無比の村田式ライフル銃を持っている日本軍を相手に、このような装備の兵を何千人も送りだすのは殺人以外のなにものでもない。兵士もそれを知っていた。だからこそ西洋人を見ると「こいつら洋鬼子のせいでおれたちは撃たれにいくんだ」ということばが出てくるのであり、総督の宮殿に大群で押しかけて護衛から撃つぞと威嚇されたとき、「どうせ朝鮮で撃たれるのだから、ここで撃たれてもかまわない」と言い返したのである。(p.269-270)
●戦時中であり、船が戦争にとられているうえ状況も不穏のため外洋交通は徹底的に乱れていた。大海戦が勃発するといううわさが毎日のように飛ぶなかで、何週間かかけてウラジオストク行きの汽船を探したが、ようやく見つかったのは、乗客ひとりだけならとしぶしぶ応じてくれたドイツの小型船しかなかった。そして悪天候にもまれた船で快適とはほど遠い五日間をすごしたのち、ちょうど菊が満開の季節を迎え、真っ赤な紅葉の燃えるように美しい長崎で、わたしはそれまでとはがらりと変わった気持ちのいい一日を味わった(引用者注:清国の芝罘から満州へ向かうのにバードが利用したこのウラジオストク行きの船は、長崎にも立ち寄るコースだった)。照明もあり、清潔で、完璧なまでに治安もよく、道路には穴ぼこもごみの山もない——この矮人〈こびと〉と人形のこぎれいな町は、清国のほとんどの都市ででも外国人居留地の外に出さえすれば見られる、吐き気を催すような不潔さやみすぼらしさとは、胸のすく対照を示していた。
清国人は支配民族の一員たる雰囲気を漂わせて長崎の通りを歩きまわっていた。彼らに要求される唯一の手続きは在留登録で、それさえしてあれば、憂さなどとはまったく縁のないようすで商売にいそしみ、大事な買弁〈ばいべん〉[売買仲介人]の呼び出しを行っている。清国では日本領事の要請ですべての日本人が国外へ逃げだし、人身・物品の双方に危害を受け、はぐれた「矮人〈ウオジエン〉」が町で見つかろうものならまちがいなく殺されているはずなのに、である。(p.274-275)
●(ウラジオストクの港で)しばらくのあいだことばもちんぷんかんぷんななかで何隻ものサンパンを渡りあるいたすえ、わたしはよく笑い大声で話す、身なりの汚ない朝鮮人の若者多数に陸まで運んでもらった。この若者たちはわたしの所持品をめぐって仲間どうしかなり強烈なブローをかわし合ったあと、わたしの荷物を肩にかついでばらばらな方向へ逃げてしまった。わたしはけんかのあいだ必死で握っていたカメラの三脚とともに残され、途方に暮れた。そう遠くないところにドロスキー[ロシアで使われる屋根なし軽装四輪馬車]があり、四、五人の朝鮮人がわたしを捕まえて声高な朝鮮語で話しかけながら、それぞれ自分の馬車のほうへ引っ張っていこうとした。そこへコサックの警官が来て彼らをどやしつけ、いさめてくれた。波止場には何百人もの朝鮮人がいて、騒々しいのと強引な点をのぞけば、済物浦〈チエムルポ〉に上陸したようなものである。(p.277-278)
●朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが(ロシアの)沿岸州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行のよさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。(p.307)
●シーズン最後の日本の汽船でウラジオストクを発ったわたしは、元山〈ウオンサン〉で二日すごした。元山はほとんど変わっておらず、変化といえば、町並みのむこうの山が雪をかぶっていることと、朝鮮人が戦時中に日本人の払ったとほうもない労賃で裕福になったこと、商取り引きに活気があること、木造の哨舎〈しょうしゃ〉に日本人の番兵が立って平穏な通りを警備していることくらいだった。戦時中は一万二〇〇〇人の日本兵が元山経由で平壌に向かったのである。つぎにわたしが上陸した釜山には二〇〇人の日本兵がいて、新しい浄水所ができ、丘の上にある軍墓地に立つおびただしい墓碑は、大量の日本兵が死んだことを示していた。(p.319)
●その前年(一八九四年)の冬の不況は終わっていた。日本は支配的立場にあった。この首都に大守備隊を置き、内閣の要人数名が国の名代として派遣され、日本の将校が朝鮮軍を訓練していた。改善といって語弊があるなら変化はそこかしこにあり、さらに変化が起きるといううわさがしきりにささやかれていた。表向き王権を取りもどした国王はそのような状況を容認し、王妃(引用者注:閔妃のこと)は日本人に対して陰謀をいだいているとうわさされたが、井上[馨]伯爵が日本公使を務めており、伯爵の断固とした態度と臨機応変の才のおかげで表面上は万事円滑に運んでいた。(p.322)
●(前項のつづき)一八九五年一月八日、わたしは朝鮮の歴史の広く影響を及ぼしかねない、異例の式典を目撃した。朝鮮に独立というプレゼントを贈った日本は、清への従属関係を正式かつ公に破棄せよと朝鮮国王に迫っていた。官僚腐敗という積年の弊害を一掃した彼らは国王に対し、《土地の神の祭壇》[社稷壇〈しゃしょくだん〉]前においてその破棄宣言を準正式に執り行って朝鮮の独立を宣言し、さらに提案された国政改革を行うと宗廟前において誓えと要求したのである。小事を誇張して考える傾向のある国王は自分にとってきわめて嫌悪を感じさせるこの警告をしばらく延期しており、式典の前夜ですら、代々守ってきた道をはずすことはならぬと祖先の霊から厳命される夢を見て、式典執行におびえていた。
しかし井上伯爵の気迫は祖先の霊を凌駕し、北漢山〈プツカンサン〉のふもとの鬱蒼〈うっそう〉とした松林にある、朝鮮で最も聖なる祭壇において、王族と政府高官列席のもとに誓告式は執り行われた。(p.322)
●国王の宗廟誓告文
((中略))今後わが国は他のいかなる国にも依存せず、繁栄に向けて大きく歩を踏み出し、国民の幸福を築いて独立の基礎を固めるものとする。その途において、旧套〈きゅうとう〉に陥らず、また安直もしくは怠惰な手段を用いることなく、ただ現状を注視し、国政を改め、積年の悪弊を取りのぞいて、わが祖先の偉大なる計画を実行できんことを。((後略))(p.326)
●国政改革のための洪範一四カ条
一、清国に依存する考えをことごとく断ち、独立のための確固たる基礎を築く。
二、王室典範を制定し、王族の継承順位と序列を明らかにする。
三、国王は正殿において事を見、みずからら大臣に諮〈はか〉って国務を裁決する。王妃ならびに王族は干渉することを許されない。
四、王室の事務と国政とは切り離し、混同してはならない。
五、内閣[議政府]および各省庁の職務と権限は明らかに定義されねばならない。
六、人民による税の支払いは法で定めるものとする。税の項目をみだりに追加し、過剰に徴収してはならない。
七、地租の査定と徴収および経費の支出は、大蔵省の管理のもとに置くものとする。
八、王室費は率先して削減し、各省庁ならびに地方官吏の規範をなすものとする。
九、王室費および各省庁の費用は毎年度予算を組み、財政管理の基礎を確立するものとする。
一〇、地方官制度の改革を行い、地方官吏の職務を正しく区分せねばならない。
一一、国内の優秀な若者を外国に派遣し、海外の学術、産業を学ばせるものとする。
一二、将官を養成し、徴兵を行って、軍制度の基礎を確立する。
一三、 民法および刑法を厳明に制定せねばならない。みだりに投獄、懲罰を行わず、なにびとにおいても生命および財産を保全するものとする。
一四、人は家柄素性に関わりなく雇用されるものとし、官吏の人材を求めるに際しては首都と地方とを区別せず広く登用するものとする。(p.326-327)
※過去記事
8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)
9/13付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)
【バードが旅したルート。画像をクリックすると新規画面で拡大します】
「朝鮮紀行」の著者イザベラ・バードはイギリス人女性。1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、4度にわたり朝鮮を旅行しました。
当時の朝鮮は開国直後でした。
1894年8月に日清戦争が勃発、翌年には下関条約により長年支那の「属国」だった朝鮮は独立します。
列強各国の思惑が入り乱れ、まさに激動の時代にあった朝鮮の貴重な記録ということになります(ちなみに日韓併合成立は1910年)。
この第3弾では、日清戦争や朝鮮王室にまつわる記述をメインにお送りします。政治色が強く、やや重たい感じですが、ついてきて下さいね(^^ゞ
バードが最初に朝鮮入りした1894年初め頃、すでに東学党(主体は農民)は動き始めていました。本格的な内乱となったのは春で、6月、清が朝鮮側の要請により軍を派遣。それを見た日本も軍を派遣します。
戦争が迫り来る中、バードはイギリス副領事の忠告によって済物浦〈チエムルポ〉(ソウルの海港。漢江〈ハンガン〉の河口にある)をあとにせざるをえなくなります。
バードは秋の旅に備えた荷物を元山〈ウオンサン〉に置いたまま日本の肥後丸に乗船、最初の寄港地である清国の芝罘〈チーフー〉(現在の山東省、煙台)に降り立ちます。
そして牛荘〈ニユーチヤン〉(現在の遼寧省、営口)を通り満州に到着、そこで二カ月過ごします。満州については「同じ清国でも漢族の住む地域と異なった点がいろいろあって興味深かった」と記しています。
また、この時代からすでに満州(当時ロシア領)には約三万世帯の朝鮮人が暮らしていて、バードは「その大半は一八六八年以降、政治的混乱と官吏による搾取のために祖国を離れた人々である」と述べています。
満州の後は奉天、長崎、ウラジオストクでの記述を経て、その後いよいよ王室——李氏朝鮮の第26代王である高宗、高宗の王妃である閔妃(韓国では明成皇后と呼ぶ)、高宗の父である大院君を中心とした——の記述に入ります。
閔妃殺害事件(乙未事変)のくだりでは日本批判がかなり多くなっています。バードは閔妃に何度も謁見し好感を抱いていたため、それが大きく影響したものと思われます。
とはいうものの、バードの記述には閔妃を批判した部分、日本を擁護した部分も少なからずあります。
「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)でも紹介した通り、そもそもバードは日本による朝鮮の改革そのものは大変評価しているのです。
その改革をことごとく潰したのが、他ならぬ閔妃でした。
閔妃殺害事件の経緯をざっと振り返りますと——
閔妃は自分の一族の政権登用を乱発し、大勢の大院君派を国政から追放、流刑あるいは処刑にするなど強権を振るっていました。
また、宗主国の清を後ろ盾とし朝鮮の改革を嫌っていた事大党を重用したことにより、政治改革はことごとく閔妃によって潰されてしまっていました。
やがて閔妃は親露に傾いていったため、それに不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国にいっそう警戒されることになります。
このような情勢の中、1895年(明治28年)10月8日、大院君を中心とした開化派武装組織によって、景福宮にて閔妃は暗殺されました。
この時、日本公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられました。日本は国際的な非難を恐れ、三浦らを召還し裁判にかけましたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり、釈放。
朝鮮政府はこれとは別に李周会、朴銑、尹錫禹の3人とその家族を、三浦らの公判中の同年10月19日に犯人およびその家族として処刑しています。
さらに閔妃暗殺の現場にいたと考えられる高宗(閔妃の夫)は、露館播遷(ろかんはせん。1896年2月11日から約1年間、高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことをいう)の後、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)ら6名の処刑を勅命で命じています。
が、事件の全容は未だ明らかになっておらず、現在も論争が絶えません。ただ、日本政府による計画的な策謀でなかったことは判明しています。
「朝鮮紀行」の閔妃殺害事件に関する記述が、学術的に価値があるのかどうか私は知りません。ただ、少なくとも当時の雰囲気が読み取れるという意味で、それなりに貴重な資料ではないかと思います。
以下、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」の引用です。
〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
フリガナについては固有名詞以外の判りやすいもの(「流暢」「狡猾」など)は省略しました。
※なお、この第3弾では「訓練隊」という名称が何度も登場しますが、これは日本人が教官の朝鮮人部隊です。
「朝鮮紀行」引用ここから_________________________
●東学〈トンハク〉党は朝鮮の官軍を何度か打ち負かしており、朝鮮国王は逡巡を重ねたすえ、清に援軍を要請した。清はこれに対して即座に応じ、一八九四年六月七日、朝鮮へ自軍を送る旨、日本に通告した。両国とも天津条約により、当時のような状況下では派兵できる権利を同等に有していたのである。同日、日本は清に対してみずからも進軍の意志があることを明らかにした。清国軍葉〈ヨー〉[志超〈チーチャオ〉]提督は三〇〇〇の兵を率いて牙山〈アサン〉に上陸し、また日本軍は済物浦〈チエムルポ〉とソウルを武力で占領した。
急送外交文書では清は二度朝鮮を「わが国の属国」と呼んでおり、これに対して日本は、大日本帝国政府は朝鮮を清の属国と認めたことは一度としてないと答えている。(p.265)
●七月二五日、輸送船高陞〈コウシン〉号がイギリス国旗を掲げて一二〇〇名の清国兵を運ぶ途中、日本の巡洋艦浪速〈なにわ〉に撃沈されて多くの人命が失われ(引用者注:当初イギリスで対日批判が起こったが、真相が判明するとともに日本側の正当性が認められた)、その四日後には日本軍が牙山の戦いで清国軍を撃退した。七月三〇日の時点ですでに朝鮮は清との協定を破棄すると宣告したが、これはすなわち自国に対する清国の宗主権をもはや認めないと言っているのと同じである。八月一日、宣戦が布告された。これら一連のできごとの結末については、いや、できごと自体についてすら、わたしたちはほとんどなにも知らず、七月上旬まで奉天は「悠々自適の道」を歩んでいた。(p.266)
●八月一日に宣戦が布告されると、事態は急速に悪化した。日本が制海権を完全に掌握していたため、清国軍は満州を通って進軍せざるをえず、吉林、斉斉哈爾〈チチハル〉その他の北部都市から集めた、訓練を受けていない満州族兵士が一日一〇〇〇人の割りで奉天を通過していった。満州族兵士は南進する途中、手当たり次第にものを略奪し、料金も払わずに宿屋を勝手に占領し、宿の主人をなぐり、キリスト教へのというより西洋文明への反感からキリスト教聖堂を荒らした。外国人に対する憎悪は奉天から四〇マイル離れた遼陽〈リヤオアン〉で最高潮に達し、満州族兵士は聖堂を破壊したあとスコットランド人宣教師のワイリー氏を撲殺し、「洋鬼子」と親しいからという理由で行政長官に危害を加えた。(p.267-269)
●奉天に向かうすべての道路は(引用者注:清国軍の)兵士でごった返した。行進とはほど遠いだらだらした歩き方で、一〇人ごとに絹地の大きな旗を掲げているが、近代的な武器を装備している兵はごくわずかしかいない。ライフル銃一丁持たない屈強な体つきの連隊すらある! ((中略))正確無比の村田式ライフル銃を持っている日本軍を相手に、このような装備の兵を何千人も送りだすのは殺人以外のなにものでもない。兵士もそれを知っていた。だからこそ西洋人を見ると「こいつら洋鬼子のせいでおれたちは撃たれにいくんだ」ということばが出てくるのであり、総督の宮殿に大群で押しかけて護衛から撃つぞと威嚇されたとき、「どうせ朝鮮で撃たれるのだから、ここで撃たれてもかまわない」と言い返したのである。(p.269-270)
●戦時中であり、船が戦争にとられているうえ状況も不穏のため外洋交通は徹底的に乱れていた。大海戦が勃発するといううわさが毎日のように飛ぶなかで、何週間かかけてウラジオストク行きの汽船を探したが、ようやく見つかったのは、乗客ひとりだけならとしぶしぶ応じてくれたドイツの小型船しかなかった。そして悪天候にもまれた船で快適とはほど遠い五日間をすごしたのち、ちょうど菊が満開の季節を迎え、真っ赤な紅葉の燃えるように美しい長崎で、わたしはそれまでとはがらりと変わった気持ちのいい一日を味わった(引用者注:清国の芝罘から満州へ向かうのにバードが利用したこのウラジオストク行きの船は、長崎にも立ち寄るコースだった)。照明もあり、清潔で、完璧なまでに治安もよく、道路には穴ぼこもごみの山もない——この矮人〈こびと〉と人形のこぎれいな町は、清国のほとんどの都市ででも外国人居留地の外に出さえすれば見られる、吐き気を催すような不潔さやみすぼらしさとは、胸のすく対照を示していた。
清国人は支配民族の一員たる雰囲気を漂わせて長崎の通りを歩きまわっていた。彼らに要求される唯一の手続きは在留登録で、それさえしてあれば、憂さなどとはまったく縁のないようすで商売にいそしみ、大事な買弁〈ばいべん〉[売買仲介人]の呼び出しを行っている。清国では日本領事の要請ですべての日本人が国外へ逃げだし、人身・物品の双方に危害を受け、はぐれた「矮人〈ウオジエン〉」が町で見つかろうものならまちがいなく殺されているはずなのに、である。(p.274-275)
●(ウラジオストクの港で)しばらくのあいだことばもちんぷんかんぷんななかで何隻ものサンパンを渡りあるいたすえ、わたしはよく笑い大声で話す、身なりの汚ない朝鮮人の若者多数に陸まで運んでもらった。この若者たちはわたしの所持品をめぐって仲間どうしかなり強烈なブローをかわし合ったあと、わたしの荷物を肩にかついでばらばらな方向へ逃げてしまった。わたしはけんかのあいだ必死で握っていたカメラの三脚とともに残され、途方に暮れた。そう遠くないところにドロスキー[ロシアで使われる屋根なし軽装四輪馬車]があり、四、五人の朝鮮人がわたしを捕まえて声高な朝鮮語で話しかけながら、それぞれ自分の馬車のほうへ引っ張っていこうとした。そこへコサックの警官が来て彼らをどやしつけ、いさめてくれた。波止場には何百人もの朝鮮人がいて、騒々しいのと強引な点をのぞけば、済物浦〈チエムルポ〉に上陸したようなものである。(p.277-278)
●朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが(ロシアの)沿岸州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行のよさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。(p.307)
●シーズン最後の日本の汽船でウラジオストクを発ったわたしは、元山〈ウオンサン〉で二日すごした。元山はほとんど変わっておらず、変化といえば、町並みのむこうの山が雪をかぶっていることと、朝鮮人が戦時中に日本人の払ったとほうもない労賃で裕福になったこと、商取り引きに活気があること、木造の哨舎〈しょうしゃ〉に日本人の番兵が立って平穏な通りを警備していることくらいだった。戦時中は一万二〇〇〇人の日本兵が元山経由で平壌に向かったのである。つぎにわたしが上陸した釜山には二〇〇人の日本兵がいて、新しい浄水所ができ、丘の上にある軍墓地に立つおびただしい墓碑は、大量の日本兵が死んだことを示していた。(p.319)
●その前年(一八九四年)の冬の不況は終わっていた。日本は支配的立場にあった。この首都に大守備隊を置き、内閣の要人数名が国の名代として派遣され、日本の将校が朝鮮軍を訓練していた。改善といって語弊があるなら変化はそこかしこにあり、さらに変化が起きるといううわさがしきりにささやかれていた。表向き王権を取りもどした国王はそのような状況を容認し、王妃(引用者注:閔妃のこと)は日本人に対して陰謀をいだいているとうわさされたが、井上[馨]伯爵が日本公使を務めており、伯爵の断固とした態度と臨機応変の才のおかげで表面上は万事円滑に運んでいた。(p.322)
●(前項のつづき)一八九五年一月八日、わたしは朝鮮の歴史の広く影響を及ぼしかねない、異例の式典を目撃した。朝鮮に独立というプレゼントを贈った日本は、清への従属関係を正式かつ公に破棄せよと朝鮮国王に迫っていた。官僚腐敗という積年の弊害を一掃した彼らは国王に対し、《土地の神の祭壇》[社稷壇〈しゃしょくだん〉]前においてその破棄宣言を準正式に執り行って朝鮮の独立を宣言し、さらに提案された国政改革を行うと宗廟前において誓えと要求したのである。小事を誇張して考える傾向のある国王は自分にとってきわめて嫌悪を感じさせるこの警告をしばらく延期しており、式典の前夜ですら、代々守ってきた道をはずすことはならぬと祖先の霊から厳命される夢を見て、式典執行におびえていた。
しかし井上伯爵の気迫は祖先の霊を凌駕し、北漢山〈プツカンサン〉のふもとの鬱蒼〈うっそう〉とした松林にある、朝鮮で最も聖なる祭壇において、王族と政府高官列席のもとに誓告式は執り行われた。(p.322)
●国王の宗廟誓告文
((中略))今後わが国は他のいかなる国にも依存せず、繁栄に向けて大きく歩を踏み出し、国民の幸福を築いて独立の基礎を固めるものとする。その途において、旧套〈きゅうとう〉に陥らず、また安直もしくは怠惰な手段を用いることなく、ただ現状を注視し、国政を改め、積年の悪弊を取りのぞいて、わが祖先の偉大なる計画を実行できんことを。((後略))(p.326)
●国政改革のための洪範一四カ条
一、清国に依存する考えをことごとく断ち、独立のための確固たる基礎を築く。
二、王室典範を制定し、王族の継承順位と序列を明らかにする。
三、国王は正殿において事を見、みずからら大臣に諮〈はか〉って国務を裁決する。王妃ならびに王族は干渉することを許されない。
四、王室の事務と国政とは切り離し、混同してはならない。
五、内閣[議政府]および各省庁の職務と権限は明らかに定義されねばならない。
六、人民による税の支払いは法で定めるものとする。税の項目をみだりに追加し、過剰に徴収してはならない。
七、地租の査定と徴収および経費の支出は、大蔵省の管理のもとに置くものとする。
八、王室費は率先して削減し、各省庁ならびに地方官吏の規範をなすものとする。
九、王室費および各省庁の費用は毎年度予算を組み、財政管理の基礎を確立するものとする。
一〇、地方官制度の改革を行い、地方官吏の職務を正しく区分せねばならない。
一一、国内の優秀な若者を外国に派遣し、海外の学術、産業を学ばせるものとする。
一二、将官を養成し、徴兵を行って、軍制度の基礎を確立する。
一三、 民法および刑法を厳明に制定せねばならない。みだりに投獄、懲罰を行わず、なにびとにおいても生命および財産を保全するものとする。
一四、人は家柄素性に関わりなく雇用されるものとし、官吏の人材を求めるに際しては首都と地方とを区別せず広く登用するものとする。(p.326-327)