3月11日に天皇皇后両陛下がなされた事
産経新聞で3日間に渡ってこのような特集記事が掲載されました。
■【祈り 両陛下と東日本大震災】(上)お見舞い「1人でも多く」 前に進む勇気、お与えに(4/27)
■【祈り 両陛下と東日本大震災】(中)「自分で厳しく律する」国民に模範(4/28)
■【祈り 両陛下と東日本大震災】(下)復興へ、ともに歩まれて(4/29)
各地の避難所、被災地への「祈りの旅」を続けられている天皇皇后両陛下。
災害のたびに国民の精神的支柱となってきた皇室の歴史や、側近らのエピソードを交え、そのお姿を伝えたものです。
最終日の「(下)復興へ、ともに歩まれて」の中に、このような記述があります。
太字強調の箇所を読んだ時、私は、昭和天皇の御巡幸にまつわるエピソードをいくつか思い出しました。
■【祈り 両陛下と東日本大震災】(上)お見舞い「1人でも多く」 前に進む勇気、お与えに(4/27)
■【祈り 両陛下と東日本大震災】(中)「自分で厳しく律する」国民に模範(4/28)
■【祈り 両陛下と東日本大震災】(下)復興へ、ともに歩まれて(4/29)
各地の避難所、被災地への「祈りの旅」を続けられている天皇皇后両陛下。
災害のたびに国民の精神的支柱となってきた皇室の歴史や、側近らのエピソードを交え、そのお姿を伝えたものです。
最終日の「(下)復興へ、ともに歩まれて」の中に、このような記述があります。
「両陛下のご訪問は、被災者にとって何よりの薬。行政が(村民が避難生活を送った)4年5カ月かけて一生懸命がんばっても、両陛下の一言にはかなわない」。12年に島が噴火して被災した東京都三宅村の平野祐康村長は、ご訪問が被災地に与える「効果」を、最大限の言葉で表現する。
帰島後の復興視察も含め、両陛下は公式に6回、三宅島民がいる避難所などを訪問された。村によると、非公式にも数回あり、皇后さまが御料牧場のアイスクリームを届けられたこともあった。
13年8月、両陛下が静岡・下田に避難している三宅村の漁業者を慰問された際には、小さい子供が皇后さまに「おばあちゃん、うちにも遊びにきてね」と話しかけた。皇后さまは翌朝、その子が住んでいるアパートの玄関先にいらっしゃったという。「子供の約束まで果たしてくださった。それほどまで、被災者の気持ちをくんでくださっている」と平野村長。
一方、阪神大震災のご訪問の際、避難所にいた男性は「励ましよりもお金がほしい」と避難所で大声で話していた別の被災男性が、陛下から声をかけられると、せきを切ったように大声で泣き出した光景が忘れられないと話す。
ほかの被災地の町の幹部も「政治家は体育館の壇上から『がんばれ』と一言いって帰るだけ。両陛下のなさりようは全然違う」。
太字強調の箇所を読んだ時、私は、昭和天皇の御巡幸にまつわるエピソードをいくつか思い出しました。
【当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。
ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。】
<SAPIO 2009.2/11・18合併号「昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々」>[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸/松崎敏弥>
【私は終戦の翌年に小学校に入学し、戦後教育を受けた人間である。そのため、一時期は皇室の存在自体に疑問を抱くほどリベラルな思想に染まっていた。だが、中学3年生の頃、谷口雅春氏らの著書を読んで昭和天皇のお人柄、事蹟に触れ、目から鱗が落ちるように感激した。
〈中略〉全国を行幸されたときのエピソードにも感銘を受けた。例えば、地方によってはまともな宿泊施設がなかったため、焼け残った民間の建物や学校の教室にお泊まりになることも厭わなかった。また炭鉱では労働者が皇室制度に反対する演説をぶとうと待ち受けていたが、いざ昭和天皇がこられると、自然と万歳を唱えていた。昭和天皇の持つ、言いようのないご威光を感じたに違いない。】
<SAPIO 2009.2/11・18合併号「昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々」>[ワイド]我が心の昭和天皇 陛下の自然体のご威光を受けながら日本は驚異の復興を遂げた/平沼赳夫>
【(静岡県静岡市の戦災者・引揚者寮にて)
天皇は一室ごとにお言葉をかけて回られる。
中には「巡幸反対」を唱える共産党員もいたが、全く気にせず、等しくお言葉をかけられた。
天皇のお帰りの際、その共産党員は御召車すれすれに顔を寄せ、叫んでいた。
「天皇陛下、万歳!」
大金益次郎(おおがね・ますじろう)侍従長は、その模様をこのように記している。
「陛下の虚心な御行動の先ざきでは、我々の複雑な先入観は、常に事実として、払拭される。そこで、我々はただ日本人を見る。党派も階級も貧富も見えない。我々はただ日本人の血の叫び、魂の交流だけを感ずる。党派も貧富も階級もその障壁をなさない」】
<「昭和天皇論」第7章 昭和天皇の御巡幸/小林よしのり>
昭和天皇の御巡幸は、終戦直後、塗炭の苦しみにあった国民を勇気づけるとともに、戦後日本の復興の大きなエネルギー源となりました。
今上天皇陛下の御代となり、雲仙・普賢岳の噴火、阪神・淡路大震災、三宅島噴火、新潟県中越地震、中越沖地震などさまざまな災害における、両陛下による「平成の御巡幸」とも言うべき被災地ご訪問もまた、被災された方々に大きな勇気と力を与えてきました。
このたびの東日本大震災では、天皇陛下はビデオメッセージという形で異例の「御言葉」を発信されました。
被災された方々はもちろん、被災を免れた地方の国民にも、「一緒に日本を立て直そう」という一致団結の精神をもたらしました。
5月1日放送「たかじんのそこまで言って委員会」で、京都産業大学教授の所功さんが、両陛下についてこのようなお話を紹介されましたので、文字起こしをしておきます。
【私は今の両陛下が、まさに今回の3月11日の大震災にあたって、最も早く、最も的確に行動されたということを知り、驚きました。
その原点は何かというと、お二人とも、陛下が昭和8年、皇后様が昭和9年のお生まれで、昭和20年の8月15日に日光へ疎開しておられた皇太子様が書かれた作文があります。
どういうことが書いてあるかというと、今度の大戦で、陸・海の軍人もよく戦った、それから国民も一所懸命に戦った、でも敗れた、そこで、この国を本当にこれからどん底から立ち直らせていくのは自分の責任だと、自分がしっかりその困難に耐えて行かねばならんということを、書いておられるんですよ。当時まだ11歳ですよ。そういうお気持ちが、もうお小さい頃からあられたということ。
それから皇后様は、おひとつ下ですけれども、戦時中に差し入れを受けられた物語を読まれて、そこの中に日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の物語が出てくると。
ご承知の通り、東国へ遠征された時に、相模湾に入水されて、それで、夫たる日本武尊のために役立とうとされた。そのことを『子供時代の読書の思い出』というお話*1の中に引かれてですね、愛と犠牲というものが、二つのものではなくて不可分の一体のものだということを知って、非常な感銘を覚えたということを述べておられますと。
そういうご自身のお小さい頃からのご体験とか、そういうご覚悟というものがあって、実は3月11日にどんなことがあったかと言いますと、その日の2時頃に、皇居の勤労奉仕に行った人々が、実は、御会釈を賜ると言いますけれども、天皇皇后両陛下が、ご苦労様でしたということで、御言葉があったんですね。直ちにみんながそこで感激してお別れをされたところに震災があったと。
で、びっくりされて、それで、これではさっき会ってきた勤労奉仕の人々どうしてるかということを言われて、直ちに侍従か何かが行きましたら、ま、とりあえず大丈夫だということになったんですが、もうしばらくしたら東京都内が全然、交通麻痺してる。
これじゃ遠くから来てる人は帰れないだろう、ということで、両陛下がそれじゃあ何とか人々を、皇居の中に泊めることはできないかと、いうことを言われて、直ちに検討して、結局、窓明館(そうめいかん)という休憩所があるんですが、そこに数十名の方が、そこに泊めていただいたんですね。
それだけでも異例のことなんですけども、その翌日、また心配をなさいまして、7時半頃に、皇后陛下がそのみんなの休んでる所へ来られて、それで、ま、お見舞い下さったというようなことがありました。
こういうようなことはもう異例中の異例なんですけども、そのあと、さっきも(VTRなどで話が)出ておりますように、自分で自主停電をされるとか、色々なことありますけど、大事なことは、自分でできることを直ちにやっておられるということですね。そして困難は自ら引き受けるという、そういうお姿というものは、やはりお父様である昭和天皇、お母様である香淳皇后などから受け継がれた、ま、歴代のそういうご精神の影響もあり、それからご自身のその体験にもありますけれども、そういうものを私、見ましてですね、本当に我々今回、ま、この関西あたりは直接被災はありませんでしたけれども、あの時に自分にできることをすぐ何かやったかと言いますと、それほどできてないと。
しかし陛下は自分でできることを直ちになさり、そして皇后様も直ちにそれを助けてなさろうとなさったということを、やはりお手本として、我々も少しでも自分にできることを、しかも短期間でなくて5年、10年かけて、一緒にやっていこうという気持ちを持ちたいものだと、つくづく思っております。】
*1 皇后陛下は1998年(平成10年)、インドで開催された「国際児童図書評議会(IBBY)」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」の中で、日本武尊と弟橘媛の物語などを引いて、御成婚以来のその胸中を語られ世界中に大反響を呼びました。
所さんのこの話を聞き終えた桂ざこば師匠は、感動のあまり号泣しながら、「ぶっちゃけた話、私は日の丸の国旗を持ってません。さっそく買って、5月5日に鯉のぼりの隣りに差したい」と話していました。
ついでに、テレビのこちら側では我が夫も号泣してました。
昔は「天皇なんかいらん!」と声高に言い、私と大喧嘩までした人が、変われば変わるものです(ざこば師匠につられて「もらい泣き」してしまっただけ、という可能性もありますが(^^ゞ)。
菅首相の被災地・避難所訪問では被災者の方々からは冷ややかな反応しか返ってきませんが、天皇皇后両陛下はどこの被災地・避難所に行かれても大歓迎を受けておられます。
それは何も、「首相は一部の人に適当に声をかけただけですぐに帰って行くが、両陛下はひざを床につけられ一人一人に言葉をかけられる」などといった、目に見えることだけが理由ではありません。
また、歴史的に天皇や皇室が日本国民にとって有り難い存在であると理解しているから、という理由でもないと思います(もちろんそういう被災者の方も中にはおられるでしょうが)。
被災者の方々は、両陛下の過去から現在に至るまでのその立ち居振る舞いから、両陛下が無私無欲の存在であり、「公」の体現者であることを直感しているのです。
所功先生のお話にあったような両陛下の細かなエピソードとかは知らなくとも、両陛下が国民の身に起きた不幸を我が事として受け止められ、その不幸を分かち合おうとなさっていることが分かるから、喜びをもってお迎えするのです。
まさに昭和天皇の御巡幸の際に大金益次郎侍従長が記したような、「ただ日本人の血の叫び、魂の交流だけ」がそこにあり、「党派も貧富も階級もその障壁をなさない」光景が、この平成の御代にも繰り広げられているのだと、私は感じずにはおれません。
てか、そもそもが天皇と首相では次元が全く違いますから。
(比べるのも失礼な話ですが、いちおう書いてみます)
天皇は「権威」。日本の古来よりの歴史と伝統に根付いた存在です。制度ではなく自然に形成されたものです(後になって「制度」が憲法や皇室典範に定められはしたものの)。何より、長年に渡って積み上げられてきた国民との「絆」があります。
一方、首相は「権力」。議院内閣制の国家の行政府の長として、制度の中で人工的に作られたに過ぎない存在です。
また、両陛下はご自分たちのご使命が何であるかもよく理解されています。
が、少なくとも、今の首相の菅さんはそこのところが未だに理解できていないようです。
仮に、今の首相が菅さんでなくてもっと人間の出来た人だったら(両陛下のように「無私無欲」でとは言わないまでも、誠実に被災地対応・原子力災害対応に当たる人だったら)、被災者の方々もそれなりに敬意を払ったかもしれません。
が、菅さんの場合は誰が見ても私心まみれ、私欲まみれなのがバレバレですから。
2009年4月10日、両陛下はご成婚50周年(金婚式)を迎えられましたが、その時2ちゃんねるにこのような書き込みがありました。
「天皇皇后という立場が偉いんじゃなくて、そういう立場に恥じないように生きようと努力されている姿に感動する」
当時、私はブログでこの書き込みを紹介し、「多くの国民の両陛下に対する心情を代弁した意見ではないか」と添えました(09/4/11付:天皇皇后両陛下ご成婚50年に寄せて)。
果たして菅さんは、首相という立場に恥じないように生きようと努力しているでしょうか?
残念ながら私にはそのようには全く見えません。
東日本大震災は、被災地はもとより日本国民全体にとって大変不幸な出来事ではありますが、一方で、天皇の存在の大きさについて再確認された方や、「日本に生まれて良かった」と改めて感じられた方が多いのではないでしょうか。
※拙ブログ関連エントリー
・09/2/10付:戦後の昭和天皇を振り返る
・11/4/2付:天皇皇后両陛下が避難所ご訪問 このような方々を戴けた日本人の幸運
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takeshima dokdo dokto tokdo tokto
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ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。】
<SAPIO 2009.2/11・18合併号「昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々」>[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸/松崎敏弥>
【私は終戦の翌年に小学校に入学し、戦後教育を受けた人間である。そのため、一時期は皇室の存在自体に疑問を抱くほどリベラルな思想に染まっていた。だが、中学3年生の頃、谷口雅春氏らの著書を読んで昭和天皇のお人柄、事蹟に触れ、目から鱗が落ちるように感激した。
〈中略〉全国を行幸されたときのエピソードにも感銘を受けた。例えば、地方によってはまともな宿泊施設がなかったため、焼け残った民間の建物や学校の教室にお泊まりになることも厭わなかった。また炭鉱では労働者が皇室制度に反対する演説をぶとうと待ち受けていたが、いざ昭和天皇がこられると、自然と万歳を唱えていた。昭和天皇の持つ、言いようのないご威光を感じたに違いない。】
<SAPIO 2009.2/11・18合併号「昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々」>[ワイド]我が心の昭和天皇 陛下の自然体のご威光を受けながら日本は驚異の復興を遂げた/平沼赳夫>
【(静岡県静岡市の戦災者・引揚者寮にて)
天皇は一室ごとにお言葉をかけて回られる。
中には「巡幸反対」を唱える共産党員もいたが、全く気にせず、等しくお言葉をかけられた。
天皇のお帰りの際、その共産党員は御召車すれすれに顔を寄せ、叫んでいた。
「天皇陛下、万歳!」
大金益次郎(おおがね・ますじろう)侍従長は、その模様をこのように記している。
「陛下の虚心な御行動の先ざきでは、我々の複雑な先入観は、常に事実として、払拭される。そこで、我々はただ日本人を見る。党派も階級も貧富も見えない。我々はただ日本人の血の叫び、魂の交流だけを感ずる。党派も貧富も階級もその障壁をなさない」】
<「昭和天皇論」第7章 昭和天皇の御巡幸/小林よしのり>
昭和天皇の御巡幸は、終戦直後、塗炭の苦しみにあった国民を勇気づけるとともに、戦後日本の復興の大きなエネルギー源となりました。
今上天皇陛下の御代となり、雲仙・普賢岳の噴火、阪神・淡路大震災、三宅島噴火、新潟県中越地震、中越沖地震などさまざまな災害における、両陛下による「平成の御巡幸」とも言うべき被災地ご訪問もまた、被災された方々に大きな勇気と力を与えてきました。
このたびの東日本大震災では、天皇陛下はビデオメッセージという形で異例の「御言葉」を発信されました。
被災された方々はもちろん、被災を免れた地方の国民にも、「一緒に日本を立て直そう」という一致団結の精神をもたらしました。
5月1日放送「たかじんのそこまで言って委員会」で、京都産業大学教授の所功さんが、両陛下についてこのようなお話を紹介されましたので、文字起こしをしておきます。
【私は今の両陛下が、まさに今回の3月11日の大震災にあたって、最も早く、最も的確に行動されたということを知り、驚きました。
その原点は何かというと、お二人とも、陛下が昭和8年、皇后様が昭和9年のお生まれで、昭和20年の8月15日に日光へ疎開しておられた皇太子様が書かれた作文があります。
どういうことが書いてあるかというと、今度の大戦で、陸・海の軍人もよく戦った、それから国民も一所懸命に戦った、でも敗れた、そこで、この国を本当にこれからどん底から立ち直らせていくのは自分の責任だと、自分がしっかりその困難に耐えて行かねばならんということを、書いておられるんですよ。当時まだ11歳ですよ。そういうお気持ちが、もうお小さい頃からあられたということ。
それから皇后様は、おひとつ下ですけれども、戦時中に差し入れを受けられた物語を読まれて、そこの中に日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の物語が出てくると。
ご承知の通り、東国へ遠征された時に、相模湾に入水されて、それで、夫たる日本武尊のために役立とうとされた。そのことを『子供時代の読書の思い出』というお話*1の中に引かれてですね、愛と犠牲というものが、二つのものではなくて不可分の一体のものだということを知って、非常な感銘を覚えたということを述べておられますと。
そういうご自身のお小さい頃からのご体験とか、そういうご覚悟というものがあって、実は3月11日にどんなことがあったかと言いますと、その日の2時頃に、皇居の勤労奉仕に行った人々が、実は、御会釈を賜ると言いますけれども、天皇皇后両陛下が、ご苦労様でしたということで、御言葉があったんですね。直ちにみんながそこで感激してお別れをされたところに震災があったと。
で、びっくりされて、それで、これではさっき会ってきた勤労奉仕の人々どうしてるかということを言われて、直ちに侍従か何かが行きましたら、ま、とりあえず大丈夫だということになったんですが、もうしばらくしたら東京都内が全然、交通麻痺してる。
これじゃ遠くから来てる人は帰れないだろう、ということで、両陛下がそれじゃあ何とか人々を、皇居の中に泊めることはできないかと、いうことを言われて、直ちに検討して、結局、窓明館(そうめいかん)という休憩所があるんですが、そこに数十名の方が、そこに泊めていただいたんですね。
それだけでも異例のことなんですけども、その翌日、また心配をなさいまして、7時半頃に、皇后陛下がそのみんなの休んでる所へ来られて、それで、ま、お見舞い下さったというようなことがありました。
こういうようなことはもう異例中の異例なんですけども、そのあと、さっきも(VTRなどで話が)出ておりますように、自分で自主停電をされるとか、色々なことありますけど、大事なことは、自分でできることを直ちにやっておられるということですね。そして困難は自ら引き受けるという、そういうお姿というものは、やはりお父様である昭和天皇、お母様である香淳皇后などから受け継がれた、ま、歴代のそういうご精神の影響もあり、それからご自身のその体験にもありますけれども、そういうものを私、見ましてですね、本当に我々今回、ま、この関西あたりは直接被災はありませんでしたけれども、あの時に自分にできることをすぐ何かやったかと言いますと、それほどできてないと。
しかし陛下は自分でできることを直ちになさり、そして皇后様も直ちにそれを助けてなさろうとなさったということを、やはりお手本として、我々も少しでも自分にできることを、しかも短期間でなくて5年、10年かけて、一緒にやっていこうという気持ちを持ちたいものだと、つくづく思っております。】
*1 皇后陛下は1998年(平成10年)、インドで開催された「国際児童図書評議会(IBBY)」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」の中で、日本武尊と弟橘媛の物語などを引いて、御成婚以来のその胸中を語られ世界中に大反響を呼びました。
所さんのこの話を聞き終えた桂ざこば師匠は、感動のあまり号泣しながら、「ぶっちゃけた話、私は日の丸の国旗を持ってません。さっそく買って、5月5日に鯉のぼりの隣りに差したい」と話していました。
ついでに、テレビのこちら側では我が夫も号泣してました。
昔は「天皇なんかいらん!」と声高に言い、私と大喧嘩までした人が、変われば変わるものです(ざこば師匠につられて「もらい泣き」してしまっただけ、という可能性もありますが(^^ゞ)。
菅首相の被災地・避難所訪問では被災者の方々からは冷ややかな反応しか返ってきませんが、天皇皇后両陛下はどこの被災地・避難所に行かれても大歓迎を受けておられます。
それは何も、「首相は一部の人に適当に声をかけただけですぐに帰って行くが、両陛下はひざを床につけられ一人一人に言葉をかけられる」などといった、目に見えることだけが理由ではありません。
また、歴史的に天皇や皇室が日本国民にとって有り難い存在であると理解しているから、という理由でもないと思います(もちろんそういう被災者の方も中にはおられるでしょうが)。
被災者の方々は、両陛下の過去から現在に至るまでのその立ち居振る舞いから、両陛下が無私無欲の存在であり、「公」の体現者であることを直感しているのです。
所功先生のお話にあったような両陛下の細かなエピソードとかは知らなくとも、両陛下が国民の身に起きた不幸を我が事として受け止められ、その不幸を分かち合おうとなさっていることが分かるから、喜びをもってお迎えするのです。
まさに昭和天皇の御巡幸の際に大金益次郎侍従長が記したような、「ただ日本人の血の叫び、魂の交流だけ」がそこにあり、「党派も貧富も階級もその障壁をなさない」光景が、この平成の御代にも繰り広げられているのだと、私は感じずにはおれません。
てか、そもそもが天皇と首相では次元が全く違いますから。
(比べるのも失礼な話ですが、いちおう書いてみます)
天皇は「権威」。日本の古来よりの歴史と伝統に根付いた存在です。制度ではなく自然に形成されたものです(後になって「制度」が憲法や皇室典範に定められはしたものの)。何より、長年に渡って積み上げられてきた国民との「絆」があります。
一方、首相は「権力」。議院内閣制の国家の行政府の長として、制度の中で人工的に作られたに過ぎない存在です。
また、両陛下はご自分たちのご使命が何であるかもよく理解されています。
が、少なくとも、今の首相の菅さんはそこのところが未だに理解できていないようです。
仮に、今の首相が菅さんでなくてもっと人間の出来た人だったら(両陛下のように「無私無欲」でとは言わないまでも、誠実に被災地対応・原子力災害対応に当たる人だったら)、被災者の方々もそれなりに敬意を払ったかもしれません。
が、菅さんの場合は誰が見ても私心まみれ、私欲まみれなのがバレバレですから。
2009年4月10日、両陛下はご成婚50周年(金婚式)を迎えられましたが、その時2ちゃんねるにこのような書き込みがありました。
「天皇皇后という立場が偉いんじゃなくて、そういう立場に恥じないように生きようと努力されている姿に感動する」
当時、私はブログでこの書き込みを紹介し、「多くの国民の両陛下に対する心情を代弁した意見ではないか」と添えました(09/4/11付:天皇皇后両陛下ご成婚50年に寄せて)。
果たして菅さんは、首相という立場に恥じないように生きようと努力しているでしょうか?
残念ながら私にはそのようには全く見えません。
東日本大震災は、被災地はもとより日本国民全体にとって大変不幸な出来事ではありますが、一方で、天皇の存在の大きさについて再確認された方や、「日本に生まれて良かった」と改めて感じられた方が多いのではないでしょうか。
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・09/2/10付:戦後の昭和天皇を振り返る
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Comments
天皇は日本国民の権威そのものである
という事を改めてしめしたものだと言う事です。
勿論、陛下と菅の如きを比較するのは
大変失礼などころぢゃ無い話ではありますが
それにしても流石は皇室といった話が記事に
出ていますね。こうやって日本と皇室の安泰
が計られるのだと(^o^)
私利私欲むき出しのサヨク共とは全然違うのだよ!と。
録画を家族が寝てから見ていたので、憚りなく泣けました。
そのご、youtubeで、両陛下のご巡幸の映像を見て、ずっと涙が止まりませんでした。
http://www.chosunonline.com/news/20110430000048
「同志たちよ、補償法案が国会を通過したそうだ。 目を閉じる瞬間まで解けることのなかった恨み。 今になって少しは解けたか。 遅かったな。とても遅かった」
59年12月12日午前、馬山港を出港した。船底で約30時間じっと待機した末、 広島の呉港に到着した。
在日韓国・朝鮮人975人を乗せた第1次帰国船が新潟港を出発した日だ。
工作隊の任務は、 当時の岸信介政権の指示を受けて帰国事業を主導していた 日本赤十字社の建物を破壊すること、 帰国事業を担当していた日本側要員の暗殺、 帰国船が入港する新潟港に通じる鉄道線路を破壊することなどだった。
詳細はブログ「韓流研究室」でお願いします。
http://toriton.blog2.fc2.com/
少し安心しました。問題は引き続きあるものの、陛下が励ましてくださる限り、日本人として立ち続けることはできると思います。
今は、当然、放射能の問題が最優先ですが、
いずれは黄砂の問題もやらなければならないと思います。
5/1の「たかじん」は録画しましたが、まだ観ていません。
予告で安倍さんが来られるということだったので、前に書き起こした分もあるし、ゆっくり書き起こそうと思います。
他の方がされるかもしれませんが、私は私で、テキストだけ、べた打ちでやろうと思います。抜粋か全文かは番組を見てから考えます。
夫に怒られるので、本当に少しずつやります。
出来損ないの馬鹿息子達と、よその国からの非礼な下宿人をなんとかして、国難を乗り切るぞ!
今回も地元でもあるのに相変わらずみたいで。
今回の所先生のテキスト起こし部分、私のエントリーでも紹介させて頂きたく、引用させて頂きたいと思いますので、よろしくお願い致します。
文字起こしの部分を転載させて頂きました。
今後ともよろしくお願い致します。
花うさぎさん:
いつもお世話になっております。引用OKですよ。今後引用・転載のご用の際も、事前の断りは不要ですので、どうぞご遠慮なく。
(但し、後で誤字などに気づいて修正する場合がありますので、当該URLを添えていただくと助かります)
ざこばさんと一緒で泣けました。。
あと、『皇室』という本の50号に
50号の特別企画で【両陛下の一週間(3/7〜13日)】の記事があります。
偶然、震災の3月11日のご様子も書かれています。
是非、永久保存版にどうぞ↓
http://www.amazon.co.jp/dp/4594607225
子供の頃から、『皇室』という存在を特に意識したことはありませんでしたが、逆に考えればそれは「いらして当たり前」だという両親の考えがあったからなんだろうなあと、つくづく思います。思い返せば、母方の祖父母の家には昭和天皇の御真影がありましたし、子供の頃の愛読書は日本神話「かみさまのお話」(3冊組本)、そして現在、私の本棚には「古事記」が鎮座しております。もう10年以上前に買ったもので、訳者を代えて2冊もある(笑)。HNにも使うほど大好きです。
子供の頃、たくさんある本の中で、なぜアンデルセンでもアラビアンナイトでもイソップ童話でもなく、「かみさまのお話」だったのか。理屈抜きに心が惹かれたからだとしか言いようがありません。まさに、日本人の魂の為せる業なのでしょう。そして今もそういう自然な心、ありのままの魂で、皇室の方々に心を寄せております。それがそのまま、祖国日本に心を寄せることでもある、と私は思っております。
ですが今は、ちょっと「自然」な形を逸脱し、意識して、強く、東北の方々に心を寄せて、息長く支援していく気持ちを忘れずにいようと思います。
国民をみんな我が子のように慈しんでくださる両陛下の御心にはただただ感動します。それと他国に対して俺たちにはこんな素晴らしい陛下をもっているんだぞという誇らしい気持ちを覚えます。
ただ、不敬かもしれませんが、昭和天皇陛下、今上陛下のような国民を思いやる御心がきちんと皇太子殿下にも承継されているのかが心配です。皇太子殿下、雅子后、しっかり両陛下の姿を目に焼き付けておいてください。
産経新聞の記事、よかったですね。産経WEBサイトの皇室ウイークリーも毎週読みごたえがあります。
のびーさんが教えてくださった『皇室』注文しました。ついでに関連本も数本買いました。
1日のたかじんが良かったことは、最後のざこばさんの涙が証明していると思います。
yamabeさん、皇太子殿下は国民を思いやる御心をちゃんと継承されていると思います。両陛下がお育てになられたのですから。
5月5日はざこばさんのようにみなさんも日の丸を揚げましょう。
先日、ポーランド人と会話(日本語で)しました。私は下記の外務省HPの内容をかいつまんで話し、お礼を言いました。そうしましたら、教科書に昔、シベリア孤児765名が一年間お世話になり、その中の一人がイエジ・ストシャウコフスキ青年であったこと。その青年がヒトラーの弾圧にレジスタン活動で戦い、日本大使館の書記官が支えてくれた事を話してくれました。1996年阪神大震災の震災孤児30名がポーランド政府により招待されました。そこにこの四人のシベリア孤児たちが75年前の話を涙ながらに語ってくれたそうです。
外務省HP 「がんばれ日本! 世界は日本と共にある」(世界各地でのエピソード集より)
3月12-27日 ポーランド 全カトリック教区
ポーランド司教団(依頼を受け、カリタス・ポーランドが実施。)
地震・津波被災者のため募金。
3月18日 ポーランド クラクフ日本美術技術博物館
18日の人間国宝・鶴賀若狭掾の新内公演の入場料を全額気仙沼市に寄付(同美術館には、97年に気仙沼市から鯉が描かれた大凧がプレゼントされ、以来、同博物館では毎年「子どもの日」イベントにこの大凧を掲げ子どもの繁栄を祈ってきた)。
3月17日 ポーランド クラクフ
タクシー運転手 邦人がタクシーを利用して料金を支払おうとしたところ、運転手が「日本人なら料金はいらない。これが今日本のために自分ができる精一杯のことだから」と言って料金を受け取らなかった(同邦人はそのタクシー代を赤十字に寄付)。
3月24日 ポーランド ワルシャワ メリディアン学校(小・中学校)
「日本との連帯の日(Day of Solidarity withJapan)」を設定、生徒は制服のかわりに日本国旗をイメージした赤色の私服を着用。また、生徒は日本の被災者を励ますポスターを作成(ポスターは後日、生徒より日本大使へ手交予定)。
3月25日 ポーランド プルシュクフ プルシュクフ市長
ポーランド在住の日本人ピアニストを演奏者に招き、無料ピアノコンサートを一般市民向けに開催。コンサート後、ピアニストが日本で希望を表す折り紙の鶴の折り方を披露、参加者と一緒に折り紙を折る。
* 3月27-29日 ポーランド クラクフ ヤギェウォ大学日本語学科
カジミェシュ地区で「日本デー」を開催。また、夏期休暇等に日本の児童をポーランドに招待できないか検討中。
3月25日 ポーランド ワルシャワ ワルシャワ大学日本学科
これまで日本から受けてきた数々の支援に対して自分たちが返す番がきたとして、被災者支援のアピールを掲げて募金活動を開始。千羽鶴と義捐金を日本大使館に届けることを計画。
4月2日 ポーランド ワルシャワのワジェンキ公演 日本人・ポーランド人有志の発起人
被災者支援のためコンサート等が行われた。被災者へのメッセージや子どもたちの絵を描いたスライドを背景としたステージで9時〜18時ピアノを演奏。
ポーランド ポズナン アダム・ミツキェヴィチ大学日本語学科
千羽鶴と義捐金を日本大使館に届けることを計画。
4月4日 ポーランドポーランド・ラジオ局同局ホールで、チャリティ・コンサートを開催。民俗楽器演奏家でもある元駐日ポーランド大使夫人の呼びかけに応じたポーランドの代表的な音楽家及びグループ30名以上が出演し,ショパンやバダジェフスカを始めとする両国に縁の深い曲を演奏。
4月17日 ポーランド ウッジウッジ音楽院学生及び教授陣
地震支援のチャリティーコンサートを開催予定。ウッジ美術大学学生による美術作品のオークションも行われる予定。
侍とは生き方そのものを芸術に
した人たちだというような評しか
たをした。
日本にはそういう価値観があるわけです。
生死、個と公、義理と人情、そういった
ものの鬩ぎ合いの狭間にあって
徹底的に磨き上げられた美意識で
対応する。
本来日本的恥の概念とは全体主義の卑しい、他者目線によるものではなかったんです。