ポーランド孤児を救った日本 「未来世紀ジパング」より
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■2014年4月7日放送
テレビ東京系「未来世紀ジパング 〜沸騰現場の経済学〜」
知られざる親日国・ポーランド【ポーランド孤児 救われた765人の命】

こちらではテレビ大阪で放送されています。
この日は親日国シリーズ第5弾、ポーランドでした。
なぜポーランドは親日なのか?
その大きな理由のひとつとして、94年前の日本との絆の物語が取り上げられました。
その部分を書き起こします。
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■2014年4月7日放送
テレビ東京系「未来世紀ジパング 〜沸騰現場の経済学〜」
知られざる親日国・ポーランド【ポーランド孤児 救われた765人の命】

こちらではテレビ大阪で放送されています。
この日は親日国シリーズ第5弾、ポーランドでした。
なぜポーランドは親日なのか?
その大きな理由のひとつとして、94年前の日本との絆の物語が取り上げられました。
その部分を書き起こします。
【出演者】
夏野剛、坂下千里子
有川アンナ(ポーランド人通訳。ワルシャワ大学日本学科卒。夫は日本人)
SHELLY、大橋未歩(テレビ東京アナウンサー)
ナビゲーター:太田康彦(日本経済新聞論説委員)
内容紹介ここから____________________________

ワルシャワ郊外の共同墓地。
そこに一組のポーランド人夫婦がやって来た。

タデウシュさん。
彼の父親は、14年前、90歳で亡くなった。
タデウシュさんは父親のことで、日本に深く感謝しているという。

タデウシュさん
「私の父は94年前、日本に命を救われたのです。もしあの時、日本が父を救ってくれていなかったら、私はこの世に存在していないのです」
94年前にいったい何があったのか。
タデウシュさんの自宅へと向かった。

タデウシュさん
「どうぞ、上がって下さい…」

取り出したのは、父・ヘンリックさんの、在りし日の写真。

ヘンリックさんが子供の頃の写真も見せてくれた。

これは、1920年に日本で撮影されたものだという。

多くのポーランド人の子供たちと一緒に写っている。

妻 ハンナさん
「私がお嫁に来た時には、夫の父親から、日本はいい所だったと、いつも聞かされたんですよ」

【765人 奇跡の物語】
実はこの写真に、ポーランドと日本を結ぶ、奇跡の物語が隠されていた。

第一次世界大戦が終わる1918年まで、ポーランドは帝政ロシアの支配下にあった。

多くのポーランド人がシベリアに流され、留め置かれた。
その数、10万人を超えるとも言われている。

しかし、1917年、ロシア革命が勃発。
ロシアは内戦状態に突入した。

戦火の中、逃げ惑うシベリアのポーランド人は、

極寒の地で、次々と命を落としていった。

ポーランド国立アーカイブセンター。

ここに、当時シベリアにいたポーランド人たちの名簿が残っている。

歴史博士 クシシトフ・スモラーナさん
「この中には、15歳にも満たない子供たちが、数多く含まれていたんですよ」

名簿に並ぶ、子供たちの名前。

5歳や7歳、中には、3歳の幼児までも。

冬のシベリアで、餓死寸前の子供たち。
せめて、両親を失った子供たちだけでも、救うことはできないか。

ポーランドは、アメリカやイギリスなど各国に、助けを求める手紙を出した。
しかし、返事はなかった。

そんな中、唯一、返事を送ってきた国がある。

ポーランドから遠く離れた島国、日本だった。

クシシトフ・スモラーナさん
「信じられませんよ。日本が支援を決定してくれたことに、ポーランド人は、本当に頭が下がる思いだったでしょう」

そして、765人の孤児たちが、船で日本へと運ばれた。
そこでは、想像もつかないほどの温かいもてなしが待っていた。
(いったんCM)

94年前、冬のシベリアで、餓死寸前だったポーランドの孤児たち。
765人を助け出してくれたのは、日本だった。

【ポーランド孤児の真実】
彼らは、日本でどう過ごしたのか。
当時のことをよく知る人物が、ワルシャワにいると聞き、取材班は訪ねた。

日本人だ。
ジャーナリストの、松本照男さん。
松本照男さん
「どうぞ…」

松本照男さん
「一部なんですけど…」
彼らの遺品や手紙を、数多く預かっている。

一人の元孤児との出会いをきっかけに、松本さんは、彼らとの交流を深めていったという。

松本照男さん
「まぁとにかくね、すごいんですよ。もうね、日本に感謝するっていうのがね。日本ってのは非常に良い国だと、人道的な国だと、サムライ精神に溢れる国だなんて、今から聞くとね、何か、こっちが気恥ずかしくなるような表現をするわけですよ」
それほどまでに感謝する、日本での生活とは、どんなものだったのか。

来日当時、ポーランド孤児たちは、栄養不足からチフスを患い、頭にはシラミが湧く、最悪の健康状態。

そんな彼らを懸命に看護したのは、日本赤十字社から派遣された看護師たちだった。

それだけではない。
当時の赤十字社の日誌には、

増上寺からは、おもちゃと文房具が送られ、
慶應義塾は、子供たちのために、音楽会を開いた。

全国から集まった寄附は、72万円を超える。
今の金額に直すと、5億円近い。

松本さんのもとには、孤児たちが当時書いた日記が残っている。

松本照男さん
「毎日、果物やアメや、おもちゃ、ケーキなどを、たくさん頂いています。もう多すぎて、もう全部食べきれずに、もう隅に置いてありますと」

手厚い看護と支援を受け、子供たちは回復。
次第に、明るさを取り戻していった。
松本照男さん
「あの、日本だって決して大正時代、豊かだったわけじゃないですからね。まあまあ、当時の日本も結構いいことしたじゃないかと、いうことで」

ポーランドへ帰国することになったのは、2年後。
誰一人、欠けることはなかった。
出発の朝、子供たちは泣いて別れを惜しんだ。

そして、港から出る船の上で、全員で君が代を斉唱。
日の丸を振り続けた。

その後ポーランドに戻った孤児たちは、日本での体験を語り継ぎ、終生、日本のことを忘れなかったという。

松本照男さん
「彼らは、ポーランド社会における親日感の語り部だと。それが今、ポーランド社会にずーっといまだに残ってるんですよ。そういう感情が」

2002年、救出から82年後に、天皇皇后両陛下が、ポーランドを公式訪問した際、真っ先に駆けつけたのが、高齢になった元孤児たちだった。

元孤児の女性
「私は大阪におりました」
天皇陛下
「ああー、ああ、そうですか…」
元孤児の女性
「人生最大の感謝を抱いております。人生で一番の良い時間でした」

94年前に結ばれた絆が、今も、ポーランドと日本を、つないでいるのだ。
<以下、スタジオトーク>

坂下千里子
「ちょっと、むちゃくちゃいい話じゃないですか? これ、私も今、初めて知ったんですけど、日本で全然、そんなに知られてないですよね?」
SHELLY
「そうですねえ。…アンナさん、この話ご存知でしたか?」

有川アンナ
「はい。ま、何回かポーランドのテレビでも、あの、取り上げられていますので。今でも、感謝の気持ちでいっぱいで、感動しました」

SHELLY
「その後ポーランドはその恩を忘れずに、日本に恩返しをしてくれるっていうことなんですよね」

太田康彦
「はい。第2次世界大戦中にポーランドは日本に、極秘情報の提供をしてくれたんです」
SHELLY
「へえー」
太田康彦
「ヤルタ会談って覚えてますよね」
SHELLY
「ヤルタ会談…」

大橋未歩
「1945年、連合国側の、イギリスのチャーチル、そしてアメリカのルーズベルト、ソ連のスターリンというトップたちが、いま話題の、ウクライナのクリミア半島の、ヤルタという場所で、第2次世界大戦後の秩序、ま、世界をこの後どう形成していくかをめぐって、行った会談なんですね。で、もちろん敵国であるドイツや日本には、極秘の会談でした」

太田康彦
「で、この会談でですね、ソ連が日本に攻め込むと、つまり日本の領土をこう侵攻するっていうことを決めたんです。で、この極秘情報をポーランドがキャッチして、日本にいち早く、実は教えてくれてたんですね。ポーランドは連合国側の国なんですよね。にもかかわらず、それを、こっそり教えてくれたんです」
一同
「うーん」
SHELLY
「さらに、ポーランドの恩返しっていうのは今も続いてるんですよね」
太田康彦
「そうなんです。こちら。阪神淡路大震災ですね、この時に被災した日本の子供たちを、ポーランドが招待してくれたんですね」
一同
「へえー」

大橋未歩
「そうなんです。60人をポーランドに招きまして、3週間もてなし、元気づけてくれました」
一同
「へえー」
大橋未歩
「で、ポーランド孤児の生存者たちがやって来まして、一人一人に、バラの花を渡して、慰めてくれました」

太田康彦
「あの、一方、日本もですね、1989年にポーランドが自由化した時からですね、こちら、ODAですね、344億円、ポーランドの発展を支援しています」
(以下省略)
____________________________内容紹介ここまで
この日、ポーランド孤児以外に番組で取り上げられた内容は、番組サイトを。WEB限定「ジパング・お蔵入り映像」もあります。
今回は紹介されなかったけれども、ポーランド孤児に関しては他にもたくさんの感動的なエピソードがあります。
後年、ポーランドの日本大使公邸に、孤児の方々が招かれた時のお話もそのひとつです。

平成5年から9年までポーランド大使を務めた兵藤長雄さんは、番組でも紹介された松本照男さんからポーランド孤児の話を聞き、その存在を知りました。
兵藤さんは、平成7年(1995年)10月、8人の元孤児の皆さんを大使公邸に招きました。
当時、すでに皆さん80歳以上のご高齢で、家族の付き添いでようやくお越しになれたご婦人もおられたそうです。
彼らを迎えて、兵藤さんはこのような挨拶をしました。
「ようこそお越しくださいました。国際法という法律では、日本大使館と大使公邸は小さな日本の領土とも考えてよい場所です。ここに皆さんをお迎えできたことを、本当に嬉しく思います」
すると、皆さん「ああ、私たちは日本の領土に戻ったんだ」と本当に感激されて、その場所に跪いて泣き崩れられたそうです。
そして、やっとのことで公邸にいらっしゃったご婦人が、こうおっしゃったそうです。
「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼をいいたかった。しかし、もうそれは叶えられません。ですから大使から公邸にお招きいただいたと聞いた時、這ってでもうかがいたいと思いました。しかも、この地が小さな日本の領土だと聞きました。今日、日本の方に、この場所で私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう死んでも思い残すことはありません」
実は皆さんは、ポーランドに帰国後に「極東青年会」という団体を組織し、第二次世界大戦前のポーランドで、日本の素晴らしさを紹介する活動を行なうと共に、日本に行くための資金の積み立てもされていたそうです。
しかし、世界大戦の戦乱と、東西冷戦が彼らの夢を断ち切ってしまったのでした。
皆さんは、兵藤さんが驚くほど鮮明に日本の印象を覚えておられたそうです。
生まれて初めて動物園に連れて行ってもらって、嬉しかったこと。
支給された浴衣の袖の中に飴やお菓子をたっぷり入れてもらって、大喜びしたこと。
帰国のために日本から乗船した船で、日本人船長が毎晩巡回して、毛布を首まで掛けてくれたこと…。
あるご婦人は、「一生大事に持ち続けてきた宝物を、今日は大使に差し上げたいのです」と言って、分厚い封筒を取り出されました。
それは、当時の日本の庶民生活のスナップや京都や奈良など名所旧跡を写した風景写真コレクションで、彼女はそれを戦争の最中も、ひと時も肌身離さず持っておられたのだそうです。
別のご婦人は見知らぬ日本人から貰った扇子を、また別のご婦人も離日時に日本人から贈られた布地の帽子を大事に持参しくださっていたそうです。
(以上、『歴史街道』2014年3月号:ポーランド孤児を救え!〜日本とポーランドの友好を育んだ物語を多くの人に伝えたい(兵藤長雄さんの寄稿)より)
他にもたくさんのエピソードがあります。
例えば、当時の皇后陛下(貞明皇后。大正天皇のお后)が行啓され、孤児たちと親しく接見されたこと。
成長後にナチスと戦うレジスタンス組織を指導した元孤児、イエジ・ストシャウコフスキも有名ですね。
ポーランド孤児にまつわるエピソードは、保守系サイトを中心に幅広く紹介されています。
興味を持たれた方はぜひご覧になって下さい。
■【中韓サヨナラ…世界の親日国】「美人の国」ポーランド、日露戦争から連綿と続く親愛感 日本人はモテモテ(藤井厳喜氏のコラム)
■日本と世界のいい話>日本とポーランドの親愛
■ねずさんの ひとりごと>大和心とポーランド孤児
■かつて日本は美しかった>シベリアのポーランド人孤児の救出
■Japan On the Globe(142) 国際派日本人養成講座>地球史探訪: 大和心とポーランド魂
その他、日本とポーランドの友好全体について、在ポーランド日本国大使館のHPでエピソードがいくつか紹介されています。
こちらも合わせてどうぞ。
■在ポーランド日本国大使館>日本・ポーランド関係のエピソード
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※拙ブログ関連エントリー
・【一覧】外国人から見た日本と日本人
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※拉致被害者奪還 日本列島縦断デモ行進はじめ、各種デモ・集会のまとめ
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竹島に関する動画:英語版(Takeshima - Seeking a Solution based on Law and Dialogue)
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両陛下がご訪問された時、写真に写ってらっしゃるご高齢のご婦人が立とうとなさったのを、美智子皇后陛下がやさしく押しとどめて、お座りになったままでお話ください、と示されたのがとても印象的でした。お会いになった皆さんもきっとさぞお喜びになったことでしょう。
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憲法九条のノーベル賞受賞の署名です。九条と検索しても敵の署名しかでてのなかったので作りました。
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何度読んでも、胸に込み上げて来るものがあります。
誰も賞賛しないであろう、
関係も無い、遠い弱小国の子供たちを、
多大な負担や苦労も省みず、助ける。
日本でほとんど語り継がれていないのも、如何にも日本的。
良い事をしても、それを言い振らしたり、恩着せしたりしないのが日本人。
すばらしいです。
この一つの例をとっても、
戦前の日本人が、日本社会が間違った存在では無かった
証明になるのでは、と思います。