小野田寛郎さん靖國神社を語る…WiLL2005年8月号より
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8月26日発売のWiLL2014年10月号、大特集は【朝日新聞の「従軍慰安婦」は史上最悪の大誤報だった!】。小野田寛郎さんの特集も。
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[産経新聞より8月15日午後の靖國神社]
毎年、終戦の日前後には反日メディアが総理や閣僚の靖國参拝批判をくり広げますが、今年は昨年に比べるとかなり静かでした。
理由としては、
★安倍総理の参拝見送りが早い段階で予想されていたこと
(実際参拝しなかった)
★中韓の批判のトーンが昨年よりもうんと低かったこと
(日本と関係改善したいのでしょう)
★彼らにとって靖國よりも大きな懸案事項があり
そちらに集中せざるを得なかったこと
(言わずと知れた「集団的自衛権行使容認」)
……などがあったようです。
朝日新聞も今年の8月15日の社説では、靖國ではなく集団的自衛権行使容認や「積極的平和主義」「防衛装備移転三原則」などをテーマにし、安倍政権批判を展開していました。
ただ、朝日は8月5日・6日に慰安婦検証記事を出した直後ですから、「そういや慰安婦だけじゃなくて、靖國を外交問題にしたのも朝日だよな」と世論に突っ込まれるのを恐れて靖國を避けたんじゃないかと、私は少し疑っています。
それはまぁ置いといて…\(^^\)
今日は小野田寛郎さんが生前、雑誌に寄稿された文章を紹介します。
WiLL2005年8月号です。
靖國神社をテーマとしたものですが、慰安婦問題も語られています。
8月15日はとっくに過ぎてしまいましたが、やはり夏に読むのにふさわしい内容だと思うので、紹介することにしました。
ちなみに2005年当時の日本(と中韓)は、小泉総理の靖國参拝をめぐり、とても騒がしい状況にありました。
※小野田さんが亡くなった2014年1月16日の数日後にYahoo!ニュースに再掲された記事の転載です。
※画像はこちらで付け加えたものです。太字強調も私の独断。
転載ここから________________________________
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8月26日発売のWiLL2014年10月号、大特集は【朝日新聞の「従軍慰安婦」は史上最悪の大誤報だった!】。小野田寛郎さんの特集も。
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[産経新聞より8月15日午後の靖國神社]
毎年、終戦の日前後には反日メディアが総理や閣僚の靖國参拝批判をくり広げますが、今年は昨年に比べるとかなり静かでした。
理由としては、
★安倍総理の参拝見送りが早い段階で予想されていたこと
(実際参拝しなかった)
★中韓の批判のトーンが昨年よりもうんと低かったこと
(日本と関係改善したいのでしょう)
★彼らにとって靖國よりも大きな懸案事項があり
そちらに集中せざるを得なかったこと
(言わずと知れた「集団的自衛権行使容認」)
……などがあったようです。
朝日新聞も今年の8月15日の社説では、靖國ではなく集団的自衛権行使容認や「積極的平和主義」「防衛装備移転三原則」などをテーマにし、安倍政権批判を展開していました。
ただ、朝日は8月5日・6日に慰安婦検証記事を出した直後ですから、「そういや慰安婦だけじゃなくて、靖國を外交問題にしたのも朝日だよな」と世論に突っ込まれるのを恐れて靖國を避けたんじゃないかと、私は少し疑っています。
それはまぁ置いといて…\(^^\)
今日は小野田寛郎さんが生前、雑誌に寄稿された文章を紹介します。
WiLL2005年8月号です。
靖國神社をテーマとしたものですが、慰安婦問題も語られています。
8月15日はとっくに過ぎてしまいましたが、やはり夏に読むのにふさわしい内容だと思うので、紹介することにしました。
ちなみに2005年当時の日本(と中韓)は、小泉総理の靖國参拝をめぐり、とても騒がしい状況にありました。
※小野田さんが亡くなった2014年1月16日の数日後にYahoo!ニュースに再掲された記事の転載です。
※画像はこちらで付け加えたものです。太字強調も私の独断。
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追悼 小野田寛郎 ルバング島から帰国して30年 わが心の靖国神社
私は、靖国神社に一度祀られた人間です。最初の戦死公報は昭和二十年九月、二十五年に一度取り消されますが、二十九年に再び戦死とされ、四十九年に作戦命令解除の口達を受けて帰還するまでの二十五年間は、戸籍上死んでいたわけです。
十五年間、靖国神社に入っていたことになる。
最近は、年に三カ月はブラジル、九ヶ月は日本という生活ですが、日本に戻ったときは、八月十五日、必ず靖国神社にお参りをしています。
靖国神社の参拝について、今大きな問題になっていることについては、まったくばからしい、と思っている。
そもそも、おかしくなったのは、昭和六十一年、中曽根首相の参拝取り止め以後です。
小泉首相のやり方も拙劣でした。八月十五日に参拝すると言っておきながら、十三日にしてしまった。
首相になる前に、八月十五日に参拝する、と言い、それで首相に選ばれたのだから、これは国民との公約です、「自分の信条だ」と明言して、その通り参拝すればいい。中国などに対しても、「自分は参拝することを国民に約束して首相になったのだから、国民相手にウソは言えない。だから八月十五日に参拝する」と言えばよかったのです。
「私の参拝は日本国民の総意だ」と明言しておけば、中国は、日本国民全体を相手に文句を言わなくてはならないことになる。相手が首相個人、日本政府だと思うから、中国は文句を言い易い。日本国民全体を相手にして文句なんか言えるはずがありませんよ。
まあ、行かないよりはましではあるけれど、小泉首相は、やりかたがヘタすぎると思います。結局、腰がすわっていない。
中国に、弱味を見せるとろくなことはありません。中国人のやることは戦前から変わっていませんよ。「反日デモ」など、支那事変(日中戦争)前の、排日運動とまったく同じです。
抗日運動、日貨排斥運動(日本製品のボイコット運動)……結局あのときは戦争になったけれど、そもそもは幣原喜重郎外相の「軟弱外交」がいけなかったんです。
(米英協調、中国内政不干渉、国際連盟中心主義などを柱とする国際協調外交)。
中国に長く住んだ先輩からよく聞かされました。
中国に対する甘い対応が、抗日運動、排日運動に火をつける結果になったのです。今とまったく同じではないですか。日本は、昔も今も交渉ごとがヘタすぎる。
処刑された人は「受難者」だ
A級戦犯を分祀すればいいとかいう話まであるが、そもそも「A級戦犯」なんて、戦勝国が勝手に決めただけでしょう。東京裁判なんか、まともな法律から言ったら、茶番劇です。
ラグビーの試合が終わってから、勝った方が負けた方に、「お前はボールを持って走ったからいけない」と文句を言うようなものです。自分たちだってボールを持って走ったのに、負けた相手に「サッカーのルールでは違反だ」と言い出すようなものですよ。
「平和に対する罪」なんて戦前にはなかった。それなのに、占領中に一方的に裁かれて処刑されてしまった。
受難者ですよ。(処刑されたA級戦犯は七人、BC級戦犯では約千人)
戦争をしたのは「犯罪」ではない。「戦犯」といわれるが、犯罪者ではないんです。A級もBC級も関係ありません。
私は三十年間の作戦中に自分に不利な山小屋を焼き払い、戦闘では多くの敵を殺傷しました。戦争だからです。投降の時、銃殺刑を覚悟していましたが、フィリピンのマルコス大統領(当時)は、「軍人の模範だ、過去の行為をすべて許す」としてくれました。戦場で闘った者はみな犯罪者になるのでしょうか。
百歩譲って、戦争指導者たちが「戦犯」であったとしても、刑期を終えればすでに「犯罪者」ではありません。
日常起きるどんな犯罪であれ、刑期を終えた後まで犯罪者呼ばわりされることがないのは、当たり前のことです。
国のために死んだら靖国神社にお祀りするというのは、戦争で死んだものたちとの約束です。それを国が護持しない、別の施設を作る、などというのは、借金を返さないよりもっとたちが悪い。
死んだ人にウソはつけない、というのは、日本人の良心です。死んでしまったからもういいんだ、約束は流してしまっていいんだ、などというのはとんでもないことです。
中国人にはわからないかもしれないが、けっして死んだ人との約束をたがえてはならない、死者に鞭打つようなことはしてはいけない、というのは日本人の古来の感情ですよ。
戦友への礼が軍国主義か
日本に帰還したときに、当時の田中内閣から百万円の「見舞金」をもらいました。全国からたくさんの見舞金もいただいた。私はこれを、靖国神社に奉納した。
国のために戦って死んだ戦友たちにせめて礼をつくそうと思ったからです。
しかし、このことは大きな批判を浴びました。記事にも書かれたし、投書も来た。「軍国主義に荷担する行為」と言い、「戦死者を慰める一番いい方法は二度と戦争をおこさないことで、寄付をするならそういうことのために使うべきだ」と言うんです。「自分で稼いだ金を寄付しろ」とも。
「寄付など貴様の気休めだ」という意見もあった。「気休め」の批判は甘んじて受けますが、これは個人の自由の問題でしょう。
しかし、私はルバング島の作戦で、多くの戦友が目の前で死んだのを見てきました。私の作った爆薬で二十数人の傷病兵が自決しました。昭和二十九年五月には一緒にいた島田庄一伍長が戦死、昭和四十七年十月、終戦から二十八年目に小塚金七一等兵もまた、私の目の前で撃ち殺されました。ふたりの戦友を、戦後になってから「戦死」させたのです。
ほかにも多くの戦友が死んだのです。
私は生き残った。
気休めにしかならないと言われても、せめて靖国に眠る戦友たちに詫びなければ、これから先、生きていけないと思いました。
私は、勝手に三十年間戦った訳ではありません。任務解除の命令が届かなかったからですが、政府から補償はもらえません。とにかく働いて生きていく糧を得なくてはならない。そのためには、どうしても、心のけじめのようなものが必要でした。「気休め」「自分勝手」と言われても、そうせずにはいられなかったのです。
それが、「軍国主義に荷担する行為」だそうです。国のために戦死したものたちは、死んだら神様なんです。
「心ならずも」ではない
小泉総理が、若者たちは「心ならずも」戦争に行かされて、戦死したような言い方をしましたが、とんでもないことです。
既婚者は、家族を遺して死ぬことに心残りもあったかもしれないけれど、独身の若い者たちは、自分が先頭に立って戦わねば、とみな思っていた。年寄りを前に立たせたってしかたないのですから。これはどこの国だって同じでしょう。命がなくなることは覚悟していた。
私は陸軍中野学校二俣分校で訓練を受けました。ここは南方戦線と本土における遊撃(ゲリラ)要員を養成する学校です。二年間かかる諜報、謀略技術を、語学を省き、必須事項のみを朝から晩まで、三カ月で詰め込まれました。
日々、国体、国家、社会などについても、徹底的に教官と意見をぶつけあうのです。なぜ命をかけてこの仕事をしなくてはならないか、を討論したものです。
漫然と「天皇陛下のために」だけでは死ねない。天皇とは国のことで天皇のためにではなく、日本のために死ぬのだ、ということを本当に理解するための議論の中では、天皇を批判することもありました。そうしなければ、成功しても発表さえされず、失敗すれば命がない、カネにもならなければ名誉にもならないことは、とてもできないからです。
自分たちをおいて、誰がこの任務を果たせるか、という気持ちで、私は同期の四十三名とともにフィリピン戦線に送られた。そして、昭和十九年、「ルバング島でゲリラ戦を指導せよ」という命令を受け、見習士官として赴任した私は、それから三十年間、終戦を信じず「残置諜者」として戦い続けることになった。
私たちだけはない。みな、若い人は覚悟を決めていました。「心ならずも」なんていう気持ちで、特攻機に乗れますか?
だから、彼らは死んで私達に恩恵を与えてくれる神様なんです。独身者は、親兄弟が死んだら、もうお祀りしてくれる人はいません。でも靖国神社がある。国のために戦死した人を国で祀ることは当たり前で、これは、日本だけのことではない。どこの国だって当たり前の感覚です。
日本人はそれさえわからなくなってしまったのか、と思います。
カネ、カネの世の中
私は政府からもっとたくさんの補償をもらったのだろうとか、当時、そんなことも言われた。日本はカネ、カネの世の中になってしまっていた。
私が、帰国して一年ほどで、日本を離れブラジルに渡ったのは、靖国神社の一件が、一番大きなきっかけです。
寄付騒ぎのあと、外国人記者クラブに呼ばれたことがあります。どうせまたカネのことを聞かれるのだろうと思ったから、私は挨拶するときにこう言った。
「今日はお招きいただいてありがとうございます。私はルバング島から裸同然で帰ってきました。けれど今日は裸のまま来るわけにはいかないから、借金をして買った服を着てきました」と。
「でも印税があるでしょう。立派な資本家ではありませんか」とすぐに聞かれた。
日本に戻ってから、戦闘経過の報告書のつもりで書いた『わがルバン島の30年戦争』(七四年講談社、九九年日本図書センターより刊行)が六十万部売れたおかげで私は六千万円の印税をもらったのですが、三千万円は税金だった。
私の手元に残った三千万円のことを聞かれたわけです。
私はすぐさま、「女中さんをして働いても、三十年かかれば三千万円ぐらい貯まるでしょう」と切り返しました。そもそも、税金として納めた三千万円だって、私はこれ一冊書くのに三十年かかっているのだから、そのぶんの必要経費を認めてもらいたいぐらいのものです、とすぐ答えた。
外国人の記者たちは大笑いして、それ以上は聞きませんでした。外国人記者は、こちらに余裕がある、と見ると深追いをしてこないんですね。
私はもともと気が強いのか、親とも、学校ともケンカや議論ばかりしていたから、こういうことには慣れているんです。
ニューヨークに行ったときには、予想通り、原爆のことを聞かれました。私は「科学の進歩は本当にありがたい。ブラジルに渡ってからもブルドーザーやトラクターのおかげで本当に助かっている。その科学を人殺しに使っては困りますね」と皮肉を言いましたよ。
外国人記者クラブでのやりとりを、当時の『週刊朝日』は、「言葉の弾を巧みにかわした情報将校」と書いていた(笑)。
[ビルマ(現ミャンマー)のミイトキーナ(現ミッチナ)付近で米軍の捕虜になった朝鮮人慰安婦。通訳である日系兵士の質問に答えている]
「あやまち」はアメリカだ
「小野田は軍国主義の亡霊だ」「小野田は軍人精神の権化だ」マスコミの論調はみんなそれでした。私はせっかく戻ってきた祖国がますますイヤになっていきました。
広島の平和記念館に行ったときのことです。私は慰霊碑に書かれた言葉に驚きました。「安らかに眠ってください。あやまちは再び繰り返しませぬから」とある。これはいったい誰が作ったのか、私にはわからなかった。
原爆を落としたのはアメリカでしょう。アメリカは原爆を落とし、無差別に大量の国民を殺した。「あやまち」を犯したのはアメリカではないのですか。「日本が負けたのがあやまちで、二度と負ける戦争はしない」という意味なのか、本気で「あやまち」と書いたのなら、こんなもの爆破してしまうぞ、と案内した中野学校の仲間と笑いました。
いくらでもやり方はある。爆破などは簡単なこと。完全犯罪が可能です。私は情報や破壊や謀略の教育を受けたのですから(笑)。
「あやまちは繰り返しません」という……あれが、日本の「戦後」を表していますね。
日本は自らの歴史を歪曲してしまったのです。子供たちは、東郷元帥も、乃木大将も知らない。ヘタをすると、日本がアメリカと戦争をしていたことさえ知らない子供がいる。しかしこれは、子供たちの罪ではない。教えないのだから、知らないのが当たり前です。
「従軍慰安婦」の件もそうです。「従軍慰安婦」なんて言葉、私は聞いたことがありません。
十七歳のときに商社員として滞在した中国の漢口(現在の武漢)にも、二十歳で入隊して赴いた江西省南昌にも、「特殊慰安所」はありました。漢口では雑貨を納入したりしていたから、慰安所の経営者とも、女性たちとも話をしたことがあります。内地人も、朝鮮人も、中国人もいました。確かに、たちの悪い経営者に騙されて連れて来られた人も、本人は知らないが実は親に売られてきた人もあったでしょう。特に朝鮮半島には悪質な方法で、女性をかどかわす者がいると聞いています。悲劇もあったと思います。
しかし女性たちはみんな、お金稼ぎに熱心でした。当時は知事や少将の年俸が一万円、と言われていましたが、「それよりもずっと儲けた」と言う者もいた。一日に三十何人相手にしたとか。
実際に悲劇もあったけれど、作り話を「ウリ」にする強者もいました。「私は女学校に行っていたのに、従軍看護婦の仕事だとだまされて連れてこられた」などというウソにだまされる兵士もいました。
今とは違って、娼妓がいた時代で、当時慰安婦のしたことは、ただの商売です。それをなんで「軍が関与」とか言って問題にしているのか。もちろん、軍が病気の検査や、丸腰で客になる兵隊を警備していた。それだけのことです。
誇りを失った日本人
なんでこんな日本になってしまったのか。仲間は「負けたのが悪いんだ」という。私は「オレのせいじゃないよ、オレは三十年戦ってたんだから」と答えた。
私は三十年間戦って、勝てなかった。けれども負けはしなかった。戦闘を中止せよ、と言われて降伏したが武装解除もされず捕虜の扱いも受けなかった。
日本は、戦争に負けたとき、誇りも失ってしまったのでしょう。
戦場でも、一度ケガをすると、それですっかり怖じ気づいて、使いものにならなくなる兵隊がいる。ケガをして、かえって「こん畜生!」と思い、「弾なんか当たるときは当たるさ」と開き直る人もいるが、飛んでくる弾の音に全部当たる気になってしまう人もいる。こうなると、まったくダメなんです。
日本は戦争に負けて、そうなってしまった。私がルバング島で戦っていた間、日本人は、大人たちは、なぜもっとしっかりしなかったのか。
経済の発展と、物質文明ばかりを追いかけ、あれがないからいやだ、あれがないからできない、そんなことばかりを言っている。「あれがないからできない」というのは、自らの無能を証明する言葉です。
そんな大人はどうにもならないでしょう。せめて、真っ白な気持ちと頭を持った子供たちに、日本をまともな国にしてもらうしかない。少しでもその手伝いをするのが、私の今のつとめでもあると思っています。
(平成17年『WiLL』8月号より)
小野田寛郎
_________________________________ 転載ここまで
この寄稿では小野田さんは慰安婦については少し触れられた程度ですが、別の場所で大いに語っておられます。
■「正論」2005年1月号への寄稿
http://www4.airnet.ne.jp/kawamura/enigma/2005/2005-01-16-onoda_ianhunoshoutai.html
ユーモアも交えつつ、当時の慰安所と慰安婦の実態を述べておられます。
■インタビュー動画
http://www.youtube.com/watch?v=dnJEBlCS1NQ
米下院でいわゆる慰安婦決議が通ったという話が冒頭ありますので、収録は2007年の6月から7月にかけての頃と思われます。
朝日新聞の慰安婦検証報道……、もし小野田さんがご存命だったらどんなコメントをされたでしょう?
聞いてみたかった!(T_T)
小野田さんは、帰国後は本当にいろいろと誤解されたようです。
今年2月に「TVタックル」でビートたけし氏は、小野田さんから聞いたこんな話を披露していました(「テレビにだまされないぞぉ」様より)。
【この間、あのー思い出すのはですね、この間あのー、小野田(寛郎)さんが、お亡くなりになりましてですね。僕は小野田少尉、少尉?だったかな、小野田さんをやる予定のフィリピン出発の前に交通事故で、ドラマが吹っ飛んでしまったんですけどねぇ。
そいで、小野田さんと2,3回会ったかな。したらね、あのー、まぁ靖国の問題だけども、
小野田さんはね、オレが『じゃあ靖国を、、A級戦犯の合祀じゃなくて違うとこにね、移動して、、兵士のアレをやったらどうですか?』って言ったら、
『たけしさん、何言ってんだ。我々はね、"靖国で会おう"と言って死んでいくんだよ』って。『靖国なんだよ』って。『それを変えてもらっちゃ困る』っていうのと、
あと、もっと『この人やっぱり日本人、日本兵だな』と思ったのは、帰りの飛行機で記者の人が『天皇陛下、陛下にねお会いしますか?』って言った時に『僕は会わない』ってちょっと言ったんだって。
そしたらいつの間にか、陛下を恨んでるみたいな意見になってしまったんだって。
だけどね、『自分はね、冗談じゃない。私はね、陛下の兵隊ですよ。それで命賭けていって、もし今の陛下に会ったら、陛下が私に頭を下げてしまうだろう』って、"申し訳なかった。ご苦労さん"って。それをさせたくないから会いたくないって言ったんだって言ってねぇ。凄いね、オイラ、怒られたことがありますけどね。
日本人もねやっぱり、かつて戦争という不幸な事件もあったし、その時の気持ちも色々あるけども、片っぽでね、あらゆることですよ、ジャパニーズとしての気質とかさぁ、本質的な、こう日本人の考え方、その美学もあるわけだから、それを考えて、こう政治もやってほしいなと。】
もうひとつ、小野田さんにまつわるちょっといい話。
WiLL2014年5月号に寄稿された、小野田自然塾理事の徳宿恭男さんの追悼文から。
小野田さんが帰還された74年の初夏、徳宿さんの自宅を訪問されたのが、お2人の出会い。
徳宿さんは当時、警視庁の広報課長でした。
小野田さんはその時、徳宿さんに2つの依頼をされたそうです。
・帰国して日本で大騒ぎになり、中には心ない誹謗中傷もある。我慢に我慢を重ねているが、今後どんな厄介なことに巻き込まれないとも限らないので、そんな時のために、いつでも警察に相談できるルートを作っておきたい。
・ルバング島での捜索隊には警視庁の機動隊も大勢派遣された。お世話になった全ての人に感謝を伝えたい。ついては代表の警視総監にお礼を申し上げたいので、窓口になってほしい。
冷静沈着なだけでなく、とても律儀な人だったのが分かります。
そして、徳宿さんが小野田さんを特に尊敬している点として挙げられているのが、以下の3つです。
・不撓不屈の精神。どんな困難にも、どんな強い者にも決して屈しない。その一方で、弱い者、幼い者に対しては、これが同じ人かと思うほど優しい。本当に強い者だけが本当に優しくなれるということを、40年間のお付き合いの中から学んだ。
・無私無欲。国のため、社会のため、人のために、私財をなげうって尽くされた。小野田自然塾も自宅マンションを抵当に入れて借りた数千万円に、全国を回って話をした講演料を少しずつ貯めてつぎ込んで作った財団法人。
・あれだけの苦難を経てきたのに、過去を決して振り返らなかった。ルバング島での経験も、誰かが聞いてはじめて答えるというのが常。過去にとらわれず、いつも自由で前向きな視点で行動していた。小野田自然塾として少年健全育成の大事業に取り組む時もそうだったが、いつも物の考え方が実に柔軟だった。小野田さんに向かって、軍国主義の権化だなどと言葉を投げつけた人は、全く小野田さんを誤解している。いつも前向き思考で、自分にできることで日本に恩返ししたい、と全身全霊を傾けていた。
小野田さんの話を聞いたり読んだりすると、「私も日本のために何かしたい」といつも思います。思うだけでほとんど何もできてませんが…。
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UP直前に知ったニュースです。
■最後の元残留日本兵、小野盛さん死去 インドネシア独立戦争に参加(産経2014.8.25 13:17)
謹んで哀悼の意を表します。
生前の小野さんの動画。
今年1月24日放送、テレビ朝日「世界の村で発見!こんなところに日本人」出演時のものです。
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私は、靖国神社に一度祀られた人間です。最初の戦死公報は昭和二十年九月、二十五年に一度取り消されますが、二十九年に再び戦死とされ、四十九年に作戦命令解除の口達を受けて帰還するまでの二十五年間は、戸籍上死んでいたわけです。
十五年間、靖国神社に入っていたことになる。
最近は、年に三カ月はブラジル、九ヶ月は日本という生活ですが、日本に戻ったときは、八月十五日、必ず靖国神社にお参りをしています。
靖国神社の参拝について、今大きな問題になっていることについては、まったくばからしい、と思っている。
そもそも、おかしくなったのは、昭和六十一年、中曽根首相の参拝取り止め以後です。
小泉首相のやり方も拙劣でした。八月十五日に参拝すると言っておきながら、十三日にしてしまった。
首相になる前に、八月十五日に参拝する、と言い、それで首相に選ばれたのだから、これは国民との公約です、「自分の信条だ」と明言して、その通り参拝すればいい。中国などに対しても、「自分は参拝することを国民に約束して首相になったのだから、国民相手にウソは言えない。だから八月十五日に参拝する」と言えばよかったのです。
「私の参拝は日本国民の総意だ」と明言しておけば、中国は、日本国民全体を相手に文句を言わなくてはならないことになる。相手が首相個人、日本政府だと思うから、中国は文句を言い易い。日本国民全体を相手にして文句なんか言えるはずがありませんよ。
まあ、行かないよりはましではあるけれど、小泉首相は、やりかたがヘタすぎると思います。結局、腰がすわっていない。
中国に、弱味を見せるとろくなことはありません。中国人のやることは戦前から変わっていませんよ。「反日デモ」など、支那事変(日中戦争)前の、排日運動とまったく同じです。
抗日運動、日貨排斥運動(日本製品のボイコット運動)……結局あのときは戦争になったけれど、そもそもは幣原喜重郎外相の「軟弱外交」がいけなかったんです。
(米英協調、中国内政不干渉、国際連盟中心主義などを柱とする国際協調外交)。
中国に長く住んだ先輩からよく聞かされました。
中国に対する甘い対応が、抗日運動、排日運動に火をつける結果になったのです。今とまったく同じではないですか。日本は、昔も今も交渉ごとがヘタすぎる。
処刑された人は「受難者」だ
A級戦犯を分祀すればいいとかいう話まであるが、そもそも「A級戦犯」なんて、戦勝国が勝手に決めただけでしょう。東京裁判なんか、まともな法律から言ったら、茶番劇です。
ラグビーの試合が終わってから、勝った方が負けた方に、「お前はボールを持って走ったからいけない」と文句を言うようなものです。自分たちだってボールを持って走ったのに、負けた相手に「サッカーのルールでは違反だ」と言い出すようなものですよ。
「平和に対する罪」なんて戦前にはなかった。それなのに、占領中に一方的に裁かれて処刑されてしまった。
受難者ですよ。(処刑されたA級戦犯は七人、BC級戦犯では約千人)
戦争をしたのは「犯罪」ではない。「戦犯」といわれるが、犯罪者ではないんです。A級もBC級も関係ありません。
私は三十年間の作戦中に自分に不利な山小屋を焼き払い、戦闘では多くの敵を殺傷しました。戦争だからです。投降の時、銃殺刑を覚悟していましたが、フィリピンのマルコス大統領(当時)は、「軍人の模範だ、過去の行為をすべて許す」としてくれました。戦場で闘った者はみな犯罪者になるのでしょうか。
百歩譲って、戦争指導者たちが「戦犯」であったとしても、刑期を終えればすでに「犯罪者」ではありません。
日常起きるどんな犯罪であれ、刑期を終えた後まで犯罪者呼ばわりされることがないのは、当たり前のことです。
国のために死んだら靖国神社にお祀りするというのは、戦争で死んだものたちとの約束です。それを国が護持しない、別の施設を作る、などというのは、借金を返さないよりもっとたちが悪い。
死んだ人にウソはつけない、というのは、日本人の良心です。死んでしまったからもういいんだ、約束は流してしまっていいんだ、などというのはとんでもないことです。
中国人にはわからないかもしれないが、けっして死んだ人との約束をたがえてはならない、死者に鞭打つようなことはしてはいけない、というのは日本人の古来の感情ですよ。
戦友への礼が軍国主義か
日本に帰還したときに、当時の田中内閣から百万円の「見舞金」をもらいました。全国からたくさんの見舞金もいただいた。私はこれを、靖国神社に奉納した。
国のために戦って死んだ戦友たちにせめて礼をつくそうと思ったからです。
しかし、このことは大きな批判を浴びました。記事にも書かれたし、投書も来た。「軍国主義に荷担する行為」と言い、「戦死者を慰める一番いい方法は二度と戦争をおこさないことで、寄付をするならそういうことのために使うべきだ」と言うんです。「自分で稼いだ金を寄付しろ」とも。
「寄付など貴様の気休めだ」という意見もあった。「気休め」の批判は甘んじて受けますが、これは個人の自由の問題でしょう。
しかし、私はルバング島の作戦で、多くの戦友が目の前で死んだのを見てきました。私の作った爆薬で二十数人の傷病兵が自決しました。昭和二十九年五月には一緒にいた島田庄一伍長が戦死、昭和四十七年十月、終戦から二十八年目に小塚金七一等兵もまた、私の目の前で撃ち殺されました。ふたりの戦友を、戦後になってから「戦死」させたのです。
ほかにも多くの戦友が死んだのです。
私は生き残った。
気休めにしかならないと言われても、せめて靖国に眠る戦友たちに詫びなければ、これから先、生きていけないと思いました。
私は、勝手に三十年間戦った訳ではありません。任務解除の命令が届かなかったからですが、政府から補償はもらえません。とにかく働いて生きていく糧を得なくてはならない。そのためには、どうしても、心のけじめのようなものが必要でした。「気休め」「自分勝手」と言われても、そうせずにはいられなかったのです。
それが、「軍国主義に荷担する行為」だそうです。国のために戦死したものたちは、死んだら神様なんです。
「心ならずも」ではない
小泉総理が、若者たちは「心ならずも」戦争に行かされて、戦死したような言い方をしましたが、とんでもないことです。
既婚者は、家族を遺して死ぬことに心残りもあったかもしれないけれど、独身の若い者たちは、自分が先頭に立って戦わねば、とみな思っていた。年寄りを前に立たせたってしかたないのですから。これはどこの国だって同じでしょう。命がなくなることは覚悟していた。
私は陸軍中野学校二俣分校で訓練を受けました。ここは南方戦線と本土における遊撃(ゲリラ)要員を養成する学校です。二年間かかる諜報、謀略技術を、語学を省き、必須事項のみを朝から晩まで、三カ月で詰め込まれました。
日々、国体、国家、社会などについても、徹底的に教官と意見をぶつけあうのです。なぜ命をかけてこの仕事をしなくてはならないか、を討論したものです。
漫然と「天皇陛下のために」だけでは死ねない。天皇とは国のことで天皇のためにではなく、日本のために死ぬのだ、ということを本当に理解するための議論の中では、天皇を批判することもありました。そうしなければ、成功しても発表さえされず、失敗すれば命がない、カネにもならなければ名誉にもならないことは、とてもできないからです。
自分たちをおいて、誰がこの任務を果たせるか、という気持ちで、私は同期の四十三名とともにフィリピン戦線に送られた。そして、昭和十九年、「ルバング島でゲリラ戦を指導せよ」という命令を受け、見習士官として赴任した私は、それから三十年間、終戦を信じず「残置諜者」として戦い続けることになった。
私たちだけはない。みな、若い人は覚悟を決めていました。「心ならずも」なんていう気持ちで、特攻機に乗れますか?
だから、彼らは死んで私達に恩恵を与えてくれる神様なんです。独身者は、親兄弟が死んだら、もうお祀りしてくれる人はいません。でも靖国神社がある。国のために戦死した人を国で祀ることは当たり前で、これは、日本だけのことではない。どこの国だって当たり前の感覚です。
日本人はそれさえわからなくなってしまったのか、と思います。
カネ、カネの世の中
私は政府からもっとたくさんの補償をもらったのだろうとか、当時、そんなことも言われた。日本はカネ、カネの世の中になってしまっていた。
私が、帰国して一年ほどで、日本を離れブラジルに渡ったのは、靖国神社の一件が、一番大きなきっかけです。
寄付騒ぎのあと、外国人記者クラブに呼ばれたことがあります。どうせまたカネのことを聞かれるのだろうと思ったから、私は挨拶するときにこう言った。
「今日はお招きいただいてありがとうございます。私はルバング島から裸同然で帰ってきました。けれど今日は裸のまま来るわけにはいかないから、借金をして買った服を着てきました」と。
「でも印税があるでしょう。立派な資本家ではありませんか」とすぐに聞かれた。
日本に戻ってから、戦闘経過の報告書のつもりで書いた『わがルバン島の30年戦争』(七四年講談社、九九年日本図書センターより刊行)が六十万部売れたおかげで私は六千万円の印税をもらったのですが、三千万円は税金だった。
私の手元に残った三千万円のことを聞かれたわけです。
私はすぐさま、「女中さんをして働いても、三十年かかれば三千万円ぐらい貯まるでしょう」と切り返しました。そもそも、税金として納めた三千万円だって、私はこれ一冊書くのに三十年かかっているのだから、そのぶんの必要経費を認めてもらいたいぐらいのものです、とすぐ答えた。
外国人の記者たちは大笑いして、それ以上は聞きませんでした。外国人記者は、こちらに余裕がある、と見ると深追いをしてこないんですね。
私はもともと気が強いのか、親とも、学校ともケンカや議論ばかりしていたから、こういうことには慣れているんです。
ニューヨークに行ったときには、予想通り、原爆のことを聞かれました。私は「科学の進歩は本当にありがたい。ブラジルに渡ってからもブルドーザーやトラクターのおかげで本当に助かっている。その科学を人殺しに使っては困りますね」と皮肉を言いましたよ。
外国人記者クラブでのやりとりを、当時の『週刊朝日』は、「言葉の弾を巧みにかわした情報将校」と書いていた(笑)。
[ビルマ(現ミャンマー)のミイトキーナ(現ミッチナ)付近で米軍の捕虜になった朝鮮人慰安婦。通訳である日系兵士の質問に答えている]
「あやまち」はアメリカだ
「小野田は軍国主義の亡霊だ」「小野田は軍人精神の権化だ」マスコミの論調はみんなそれでした。私はせっかく戻ってきた祖国がますますイヤになっていきました。
広島の平和記念館に行ったときのことです。私は慰霊碑に書かれた言葉に驚きました。「安らかに眠ってください。あやまちは再び繰り返しませぬから」とある。これはいったい誰が作ったのか、私にはわからなかった。
原爆を落としたのはアメリカでしょう。アメリカは原爆を落とし、無差別に大量の国民を殺した。「あやまち」を犯したのはアメリカではないのですか。「日本が負けたのがあやまちで、二度と負ける戦争はしない」という意味なのか、本気で「あやまち」と書いたのなら、こんなもの爆破してしまうぞ、と案内した中野学校の仲間と笑いました。
いくらでもやり方はある。爆破などは簡単なこと。完全犯罪が可能です。私は情報や破壊や謀略の教育を受けたのですから(笑)。
「あやまちは繰り返しません」という……あれが、日本の「戦後」を表していますね。
日本は自らの歴史を歪曲してしまったのです。子供たちは、東郷元帥も、乃木大将も知らない。ヘタをすると、日本がアメリカと戦争をしていたことさえ知らない子供がいる。しかしこれは、子供たちの罪ではない。教えないのだから、知らないのが当たり前です。
「従軍慰安婦」の件もそうです。「従軍慰安婦」なんて言葉、私は聞いたことがありません。
十七歳のときに商社員として滞在した中国の漢口(現在の武漢)にも、二十歳で入隊して赴いた江西省南昌にも、「特殊慰安所」はありました。漢口では雑貨を納入したりしていたから、慰安所の経営者とも、女性たちとも話をしたことがあります。内地人も、朝鮮人も、中国人もいました。確かに、たちの悪い経営者に騙されて連れて来られた人も、本人は知らないが実は親に売られてきた人もあったでしょう。特に朝鮮半島には悪質な方法で、女性をかどかわす者がいると聞いています。悲劇もあったと思います。
しかし女性たちはみんな、お金稼ぎに熱心でした。当時は知事や少将の年俸が一万円、と言われていましたが、「それよりもずっと儲けた」と言う者もいた。一日に三十何人相手にしたとか。
実際に悲劇もあったけれど、作り話を「ウリ」にする強者もいました。「私は女学校に行っていたのに、従軍看護婦の仕事だとだまされて連れてこられた」などというウソにだまされる兵士もいました。
今とは違って、娼妓がいた時代で、当時慰安婦のしたことは、ただの商売です。それをなんで「軍が関与」とか言って問題にしているのか。もちろん、軍が病気の検査や、丸腰で客になる兵隊を警備していた。それだけのことです。
誇りを失った日本人
なんでこんな日本になってしまったのか。仲間は「負けたのが悪いんだ」という。私は「オレのせいじゃないよ、オレは三十年戦ってたんだから」と答えた。
私は三十年間戦って、勝てなかった。けれども負けはしなかった。戦闘を中止せよ、と言われて降伏したが武装解除もされず捕虜の扱いも受けなかった。
日本は、戦争に負けたとき、誇りも失ってしまったのでしょう。
戦場でも、一度ケガをすると、それですっかり怖じ気づいて、使いものにならなくなる兵隊がいる。ケガをして、かえって「こん畜生!」と思い、「弾なんか当たるときは当たるさ」と開き直る人もいるが、飛んでくる弾の音に全部当たる気になってしまう人もいる。こうなると、まったくダメなんです。
日本は戦争に負けて、そうなってしまった。私がルバング島で戦っていた間、日本人は、大人たちは、なぜもっとしっかりしなかったのか。
経済の発展と、物質文明ばかりを追いかけ、あれがないからいやだ、あれがないからできない、そんなことばかりを言っている。「あれがないからできない」というのは、自らの無能を証明する言葉です。
そんな大人はどうにもならないでしょう。せめて、真っ白な気持ちと頭を持った子供たちに、日本をまともな国にしてもらうしかない。少しでもその手伝いをするのが、私の今のつとめでもあると思っています。
(平成17年『WiLL』8月号より)
小野田寛郎
_________________________________ 転載ここまで
この寄稿では小野田さんは慰安婦については少し触れられた程度ですが、別の場所で大いに語っておられます。
■「正論」2005年1月号への寄稿
http://www4.airnet.ne.jp/kawamura/enigma/2005/2005-01-16-onoda_ianhunoshoutai.html
ユーモアも交えつつ、当時の慰安所と慰安婦の実態を述べておられます。
■インタビュー動画
http://www.youtube.com/watch?v=dnJEBlCS1NQ
米下院でいわゆる慰安婦決議が通ったという話が冒頭ありますので、収録は2007年の6月から7月にかけての頃と思われます。
朝日新聞の慰安婦検証報道……、もし小野田さんがご存命だったらどんなコメントをされたでしょう?
聞いてみたかった!(T_T)
小野田さんは、帰国後は本当にいろいろと誤解されたようです。
今年2月に「TVタックル」でビートたけし氏は、小野田さんから聞いたこんな話を披露していました(「テレビにだまされないぞぉ」様より)。
【この間、あのー思い出すのはですね、この間あのー、小野田(寛郎)さんが、お亡くなりになりましてですね。僕は小野田少尉、少尉?だったかな、小野田さんをやる予定のフィリピン出発の前に交通事故で、ドラマが吹っ飛んでしまったんですけどねぇ。
そいで、小野田さんと2,3回会ったかな。したらね、あのー、まぁ靖国の問題だけども、
小野田さんはね、オレが『じゃあ靖国を、、A級戦犯の合祀じゃなくて違うとこにね、移動して、、兵士のアレをやったらどうですか?』って言ったら、
『たけしさん、何言ってんだ。我々はね、"靖国で会おう"と言って死んでいくんだよ』って。『靖国なんだよ』って。『それを変えてもらっちゃ困る』っていうのと、
あと、もっと『この人やっぱり日本人、日本兵だな』と思ったのは、帰りの飛行機で記者の人が『天皇陛下、陛下にねお会いしますか?』って言った時に『僕は会わない』ってちょっと言ったんだって。
そしたらいつの間にか、陛下を恨んでるみたいな意見になってしまったんだって。
だけどね、『自分はね、冗談じゃない。私はね、陛下の兵隊ですよ。それで命賭けていって、もし今の陛下に会ったら、陛下が私に頭を下げてしまうだろう』って、"申し訳なかった。ご苦労さん"って。それをさせたくないから会いたくないって言ったんだって言ってねぇ。凄いね、オイラ、怒られたことがありますけどね。
日本人もねやっぱり、かつて戦争という不幸な事件もあったし、その時の気持ちも色々あるけども、片っぽでね、あらゆることですよ、ジャパニーズとしての気質とかさぁ、本質的な、こう日本人の考え方、その美学もあるわけだから、それを考えて、こう政治もやってほしいなと。】
もうひとつ、小野田さんにまつわるちょっといい話。
WiLL2014年5月号に寄稿された、小野田自然塾理事の徳宿恭男さんの追悼文から。
小野田さんが帰還された74年の初夏、徳宿さんの自宅を訪問されたのが、お2人の出会い。
徳宿さんは当時、警視庁の広報課長でした。
小野田さんはその時、徳宿さんに2つの依頼をされたそうです。
・帰国して日本で大騒ぎになり、中には心ない誹謗中傷もある。我慢に我慢を重ねているが、今後どんな厄介なことに巻き込まれないとも限らないので、そんな時のために、いつでも警察に相談できるルートを作っておきたい。
・ルバング島での捜索隊には警視庁の機動隊も大勢派遣された。お世話になった全ての人に感謝を伝えたい。ついては代表の警視総監にお礼を申し上げたいので、窓口になってほしい。
冷静沈着なだけでなく、とても律儀な人だったのが分かります。
そして、徳宿さんが小野田さんを特に尊敬している点として挙げられているのが、以下の3つです。
・不撓不屈の精神。どんな困難にも、どんな強い者にも決して屈しない。その一方で、弱い者、幼い者に対しては、これが同じ人かと思うほど優しい。本当に強い者だけが本当に優しくなれるということを、40年間のお付き合いの中から学んだ。
・無私無欲。国のため、社会のため、人のために、私財をなげうって尽くされた。小野田自然塾も自宅マンションを抵当に入れて借りた数千万円に、全国を回って話をした講演料を少しずつ貯めてつぎ込んで作った財団法人。
・あれだけの苦難を経てきたのに、過去を決して振り返らなかった。ルバング島での経験も、誰かが聞いてはじめて答えるというのが常。過去にとらわれず、いつも自由で前向きな視点で行動していた。小野田自然塾として少年健全育成の大事業に取り組む時もそうだったが、いつも物の考え方が実に柔軟だった。小野田さんに向かって、軍国主義の権化だなどと言葉を投げつけた人は、全く小野田さんを誤解している。いつも前向き思考で、自分にできることで日本に恩返ししたい、と全身全霊を傾けていた。
小野田さんの話を聞いたり読んだりすると、「私も日本のために何かしたい」といつも思います。思うだけでほとんど何もできてませんが…。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
UP直前に知ったニュースです。
■最後の元残留日本兵、小野盛さん死去 インドネシア独立戦争に参加(産経2014.8.25 13:17)
謹んで哀悼の意を表します。
生前の小野さんの動画。
今年1月24日放送、テレビ朝日「世界の村で発見!こんなところに日本人」出演時のものです。
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※拙ブログ関連エントリー(小野田寛郎さん)
・06/12/8付:【過去】開戦の日:小野田寛郎さん語録
・14/1/20付:小野田寛郎さんのご冥福をお祈りします(同郷です)
※拙ブログ関連エントリー(戦争を考える)
・06/8/26付:首相の靖国参拝反対派への反論
・08/8/16付:【終戦の日】外国人から見た日本と日本人(7)
・08/11/3付:「雷」工藤艦長の武士道精神とサー・フォールの報恩
・08/12/25付:TBSの東條英機のドラマを見て感じたこと
・09/12/8付:【記憶せよ12月8日】外国人から見た日本と日本人(16)
・10/2/6付:北方領土の日によせて【将兵万葉集】(1)シベリア抑留者
・10/3/8付:中共が靖国を否定する理由【将兵万葉集】(2)特別攻撃隊・神風-1
・10/3/20付:「たかじん委員会」SP 英霊に捧げられた花嫁人形
・10/5/7付:民族の誇りに…【将兵万葉集】(3)特別攻撃隊・神風-2
・10/7/20付:勝者に裁かれ【将兵万葉集】(4)戦争裁判の犠牲者-1
・10/8/2付:【日韓併合】外国人から見た日本と日本人(19)
・10/8/14付:国の行く末を案じ…【将兵万葉集】(5)戦争裁判の犠牲者-2
・11/2/22付:日本統治肯定で逮捕の韓国人作家『嘘の歴史で反日に』「SAPIO」02.7.24号
・11/8/14付:昭和天皇の涙…二つの位牌を手にした少女
・11/8/16付:【終戦の日2011】外国人から見た日本と日本人(30)
・11/9/24付:日本人が知らない八田與一「ビーバップ!ハイヒール」より
・11/12/17付:鈴木史朗さんが「南京大虐殺」は真実ではないと思う理由
・12/2/13付:子供たちに教えたい柴五郎
・12/2/27付:河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱
・12/7/7付:昭和21年7月南京・元日本兵の証言&米国高校副読本「虐殺40万人」
・12/7/16付:映画「凛として愛」と東京裁判史観ムラ
・12/7/30付:子供たちに教えたい森川清治郎と広枝音右衛門
・12/8/14付:【終戦の日2012】外国人から見た日本と日本人(35)
・12/12/8付:世界が愛した日本〜インドネシアとウズベキスタン「ビーバップ!ハイヒール」より
・12/11/12付:真珠湾攻撃の日に特別攻撃隊について改めて考えてみる
・13/3/8付:中山成彬議員が衆院予算委で日本の真の朝鮮統治(インフラ整備、創氏改名、慰安婦など)を語ってくれました
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・13/12/3付:【続・記憶せよ12月8日】外国人から見た日本と日本人(37)
・13/12/9付:ルーズベルトが仕掛けた日米戦争 ドーク教授の見解
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Comments
そうそう、ここ最近、その経験者たちが体験談を語るような番組がいくつもありましたけど、終戦当時「2才」だった人が雄弁に語ってましたよ。(苦笑
で、「最近の日本の政治は、戦前のようだ」などと。
終戦当時「2才」だった人が、どうして戦前の政治がわかるの?(苦笑
戦争体験者の方が戦争は嫌だというのは当たり前ではないですか。大変なところへ赴かれ、家族や友人と別れたり、言葉に尽くせない程大変な体験をされたのですから。なぜ、メディアや教育はその部分ばかり(しか?)強調するのでしょう。
もっと大切なのは、その苦しい中において、私たちの先輩方が何のために戦地に赴かれ、どのような思いで戦われたのかということではないでしょうか。メディアでも教育でもその点にもっとフォーカスしていくべきだと思います。
いつも有り難う御座います。
小野盛先輩が亡くなられたとこのブログで知りました。
本当にお疲れ様でした、そして
有り難う御座います。
日本の兵隊さんが命をかけてこられた、すばらしい意思を、決意をもたれて、インドネシアの為にご活躍されてこられた諸先輩方皆様に、安らかに。
あなた様の功績はインドネシアの方々に語り継がれ、日本との架け橋になっていますよ。本当に有り難う御座います。
いつも拝見させていただきありがとう御座います。
小野盛さんの訃報で思わずコメントしてしまいました。
色々思うところはありますが、小野田さんや小野さんの言動を拝見して強く感じるのが、自虐史観や誤った個人主義に染められる以前の日本人はこんなにも高潔で強かったのかと、また男として粋でカッコいい生き方とはかくあるものかと。
主義主張や左右の思想はさておき、単純に「かっこ悪い」んですよね、矛盾と欺瞞・嘘と偽りに満ちたサヨクは。
どこか己に後ろめたさがあるから、どんなに綺麗ごとを語っていても、外面を取り繕っても臭うんですよ、人として隠しきれない卑しさが。
小野田さん、小野さんら先人の残してくれたもの、取り戻さなければならないもの、失われかけているもの、課題は山のようにあり増えはすれども減りませんが、過去を見て後悔する間にどんどん前を見て創らなければなりませんね、本当の日本を。
小野田さんの「わが心の靖国神社」の転載、ありがとうございます。いろいろ教えられ、またゆっくり読み返したいです。
日本のために時間をとってのブログの更新、感謝するばかりです。
慰安婦での日本バッシングなど戦後70年にむけて、中韓両国はますます攻撃してきますが、小野田さんが願った誇りある日本を未来に残していきたいです。