「たけしの教科書に載らない日本人の謎」仏教特集
■1/3放送 日テレ「たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか」
09年、10年に続く第3弾です。
2時間強という長丁場なので完全起こしとはいきませんが、今年も番組内容をまとめてみました。
※過去放送分のまとめはこちらを
・09/1/3放送「たけしの“教科書に載らない”日本人の謎」良かったです
・10/1/2放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(1)
・10/1/2放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(2)
・12/1/9放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2012」(日本語特集)
大ざっぱな内容紹介ここから_________________________
◆オープニングナレーションより
初詣人気スポットランキングでは、神社とお寺が混在している。
さらに除夜の鐘は仏教、注連飾りや鏡餅は神道。
日本人は神様と仏様を同時に拝む民族。
神社の神様は日本古来の神々。
お寺の仏様は海外からやってきたいわば助っ人外国人。
◆仏像をエライ順番に大紹介!
お寺には仏様が仏像という形で祀られている。だが一口に仏像といっても種類は豊富。
大仏、阿弥陀如来、不動明王、帝釈天、毘沙門天、金剛力士など。
その姿も、立っていたり、座っていたり、笑っていたり、怒っていたり。
実は日本は世界一と言われるほど、多種多様の仏像が数多く祀られているが、どうしてなのか?
一番偉いのはどれ?役割は?性格は?
仏像は種類が非常に多いが、関係性は単純にできていて、人間社会とよく似ている。
仏像界では大きく4つのグループに分かれている。
如来を頂点としたピラミッドで、とても明確な上下関係が存在している。
グループ内でもさらに役割が決められている。
(1)如来グループ
大仏が属す。最も位が高い。
企業の役職に例えると、社長、会長、名誉会長。
如来は真理に目覚め悟りを開いたもの。如来以外は全て修行中。
世界最初の仏像は釈迦如来。1世紀に作られた如来の一種。作られたのは釈迦の死後およそ500年後。それまで仏像はこの世には存在しなかった。
しかし仏教の布教には仏像が必要だった。釈迦の姿を拝みたいという信者たちのラブコールに応え、釈迦は仏像となり釈迦如来となった。つまりお釈迦様の仏像が作られたのだ。
歴史が下ってくるとだんだん仏教を信じる人の裾野が広がっていく。それによって、こういう仏がいたらいいなという庶民のニーズに応える形で様々な仏像が出てきた。
その後、庶民の細かなニーズに応える形でも仏像が作られた。
医療を中心にした薬師如来。極楽浄土の案内人として阿弥陀如来。阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」と唱えれば成仏できるという手軽さが受け、日本の寺院で最も多く祀られている。
さらには太陽を神格化した大日如来など、経典に記された数々の如来が仏像となっていった。
奈良の大仏は毘盧遮那(びるしゃな)如来を仏像にしたもの。鎌倉の大仏は阿弥陀如来。
如来は釈迦が悟りを開いた姿を表したもので、その多くが座っていて、衣をまとっただけの質素な形。
これらは仏像界の頂点に立つグループなのだ。
(2)菩薩グループ
弥勒菩薩、観世音菩薩、地蔵菩薩(お地蔵様)。
庶民から圧倒的支持を受ける。
企業の役職でいうと部長など中間管理職。
菩薩は悟りをめざし修行中。上を目指して修行しながら苦しむ人々を救う仏。
菩薩とは、修行僧という意味の、古代インド語(サンスクリット語)のボーディ・サットヴァが元になっている。
ちなみに、釈迦の次に悟りを開くとされているのは弥勒菩薩だが、悟りを開くのは56億年7千万年後。
如来は難しい語り口で教えてくれるため理解しがたい。菩薩はそれを優しく説いてくれる。なので、菩薩の方がより身近。
全ての人を救うには如来だけでは手が足りない。そのため、菩薩は如来の脇に立ち、如来とユニットで作られることが多かった。
釈迦如来の脇には文殊菩薩と普賢菩薩。文殊菩薩は知恵を司り、普賢菩薩は修行を司る。「三人寄れば文殊の知恵」は、この文殊菩薩から来ている。
如来が座っているのに対し、菩薩は動物に乗っていたり立っていたりしている像が多い。その理由は、菩薩は少しでも早く人々を救えるように。腰を捻ったり片足を踏み出してる像もある。
他にも、菩薩は美しい布をまとい、多彩なアクセサリーを身に付けた姿。これは釈迦の出家前の王族時代の姿を現したもの。
菩薩は俗人に近いため人気が出た。特に鎌倉時代以降、庶民信仰の中で人気に。
それを象徴するのが観世音菩薩。優しそうな外見で人気を集めた。観音様はもともと男性でも女性でもないが、優しいイメージのため、いつしか仏像の姿も女性のイメージになり爆発的人気に。
あまりの人気に、如来を差しおき単独で活躍することになり、さらに人々の欲望のままに変身を遂げ、二本の手だけでは救えないだろうと手を増やした結果、千手観音が生まれ、また、世界中をもっと見渡せるようにという十一面観音も。
さらに、大船観音、高崎観音のように巨大化したものまで。
寺まで行かなくてももっと親切な菩薩もある。アンパンマン顔負けに助けに来てくれる、それが地蔵菩薩。
人々を助けるため自ら出向き、救いの手を差し延べ、ダメな人ほど救ってくれるという。
なぜ親しみのある愛らしい顔をしているのか?
地蔵菩薩は地獄に堕ちた人までも救ってくれるという。親より先に死んだ子は賽の河原で親不孝の責め苦を受ける。それを救うのが地蔵菩薩。そこで賽の河原から連想される石で作り、顔も子供たちそっくりの丸い形で作られるようになったのだという。
上流階級がきらびやかな観音様に傾倒していく中、お地蔵様は身近さから庶民のアイドルに。
地蔵菩薩というのは庶民のささやかな願いも聞いてくれる、身代わりになってくれるという信仰が強い。身代わり地蔵、とげ抜き地蔵、子育て地蔵などなど、全国さまざまなバリエーションを生んでいった。
(3)明王グループ
歌舞伎の市川海老蔵が結婚を報告した成田山新勝寺のご本尊は不動明王。
が、不動明王はなぜ怒っているのか?
京都の東寺の講堂には、不動明王を中心とした四体の明王が。東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王。不動明王とあわせて五大明王。
しかしこの仏像、他と違いみんな怒っている。なぜか。
明王は密教で大日如来の化身・分身。特に明王が救うのは難解の衆生(なんげのしゅじょう)、すなわち、いくら言っても聞かない人。
大日如来が変身して悪を懲らしめる、これが明王。
明王は激しい煩悩を背後の炎と剣で焼き尽くし、左手の縄で縛ってでも救うという。慈悲の心ではなく怒りで仏教界を守る、いうなれば闇の仕事人、裏のガードマン。
平安時代に弘法大師が中国に留学して密教を学び、不動明王を持ち帰った。当時の人々は非常に衝撃を受けたと伝えられている。武力でもって力尽くで人を救う。
【当日のテレビ欄より】
如来と菩薩と明王…一番エライのは?仏像の序列大公開▽密教とたけし軍団は似ている▽天才バカボンは仏教用語がいっぱい▽怨霊vs空海…平安京(秘)決戦▽初公開!天皇の即位儀礼に密教儀式▽たけし人生初の高野山参り
【出演者】
MC:ビートたけし
ゲスト:荒俣宏、今田耕司、羽田美智子、優木まおみ、柳原可奈子
ナビゲーター:羽鳥慎一(NTV)
VTR出演:カンニング竹山、小島よしお
09年、10年に続く第3弾です。
2時間強という長丁場なので完全起こしとはいきませんが、今年も番組内容をまとめてみました。
※過去放送分のまとめはこちらを
・09/1/3放送「たけしの“教科書に載らない”日本人の謎」良かったです
・10/1/2放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(1)
・10/1/2放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(2)
・12/1/9放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2012」(日本語特集)
大ざっぱな内容紹介ここから_________________________
◆オープニングナレーションより
初詣人気スポットランキングでは、神社とお寺が混在している。
さらに除夜の鐘は仏教、注連飾りや鏡餅は神道。
日本人は神様と仏様を同時に拝む民族。
神社の神様は日本古来の神々。
お寺の仏様は海外からやってきたいわば助っ人外国人。
◆仏像をエライ順番に大紹介!
お寺には仏様が仏像という形で祀られている。だが一口に仏像といっても種類は豊富。
大仏、阿弥陀如来、不動明王、帝釈天、毘沙門天、金剛力士など。
その姿も、立っていたり、座っていたり、笑っていたり、怒っていたり。
実は日本は世界一と言われるほど、多種多様の仏像が数多く祀られているが、どうしてなのか?
一番偉いのはどれ?役割は?性格は?
仏像は種類が非常に多いが、関係性は単純にできていて、人間社会とよく似ている。
仏像界では大きく4つのグループに分かれている。
如来を頂点としたピラミッドで、とても明確な上下関係が存在している。
グループ内でもさらに役割が決められている。
(1)如来グループ
大仏が属す。最も位が高い。
企業の役職に例えると、社長、会長、名誉会長。
如来は真理に目覚め悟りを開いたもの。如来以外は全て修行中。
世界最初の仏像は釈迦如来。1世紀に作られた如来の一種。作られたのは釈迦の死後およそ500年後。それまで仏像はこの世には存在しなかった。
しかし仏教の布教には仏像が必要だった。釈迦の姿を拝みたいという信者たちのラブコールに応え、釈迦は仏像となり釈迦如来となった。つまりお釈迦様の仏像が作られたのだ。
歴史が下ってくるとだんだん仏教を信じる人の裾野が広がっていく。それによって、こういう仏がいたらいいなという庶民のニーズに応える形で様々な仏像が出てきた。
その後、庶民の細かなニーズに応える形でも仏像が作られた。
医療を中心にした薬師如来。極楽浄土の案内人として阿弥陀如来。阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」と唱えれば成仏できるという手軽さが受け、日本の寺院で最も多く祀られている。
さらには太陽を神格化した大日如来など、経典に記された数々の如来が仏像となっていった。
奈良の大仏は毘盧遮那(びるしゃな)如来を仏像にしたもの。鎌倉の大仏は阿弥陀如来。
如来は釈迦が悟りを開いた姿を表したもので、その多くが座っていて、衣をまとっただけの質素な形。
これらは仏像界の頂点に立つグループなのだ。
(2)菩薩グループ
弥勒菩薩、観世音菩薩、地蔵菩薩(お地蔵様)。
庶民から圧倒的支持を受ける。
企業の役職でいうと部長など中間管理職。
菩薩は悟りをめざし修行中。上を目指して修行しながら苦しむ人々を救う仏。
菩薩とは、修行僧という意味の、古代インド語(サンスクリット語)のボーディ・サットヴァが元になっている。
ちなみに、釈迦の次に悟りを開くとされているのは弥勒菩薩だが、悟りを開くのは56億年7千万年後。
如来は難しい語り口で教えてくれるため理解しがたい。菩薩はそれを優しく説いてくれる。なので、菩薩の方がより身近。
全ての人を救うには如来だけでは手が足りない。そのため、菩薩は如来の脇に立ち、如来とユニットで作られることが多かった。
釈迦如来の脇には文殊菩薩と普賢菩薩。文殊菩薩は知恵を司り、普賢菩薩は修行を司る。「三人寄れば文殊の知恵」は、この文殊菩薩から来ている。
如来が座っているのに対し、菩薩は動物に乗っていたり立っていたりしている像が多い。その理由は、菩薩は少しでも早く人々を救えるように。腰を捻ったり片足を踏み出してる像もある。
他にも、菩薩は美しい布をまとい、多彩なアクセサリーを身に付けた姿。これは釈迦の出家前の王族時代の姿を現したもの。
菩薩は俗人に近いため人気が出た。特に鎌倉時代以降、庶民信仰の中で人気に。
それを象徴するのが観世音菩薩。優しそうな外見で人気を集めた。観音様はもともと男性でも女性でもないが、優しいイメージのため、いつしか仏像の姿も女性のイメージになり爆発的人気に。
あまりの人気に、如来を差しおき単独で活躍することになり、さらに人々の欲望のままに変身を遂げ、二本の手だけでは救えないだろうと手を増やした結果、千手観音が生まれ、また、世界中をもっと見渡せるようにという十一面観音も。
さらに、大船観音、高崎観音のように巨大化したものまで。
寺まで行かなくてももっと親切な菩薩もある。アンパンマン顔負けに助けに来てくれる、それが地蔵菩薩。
人々を助けるため自ら出向き、救いの手を差し延べ、ダメな人ほど救ってくれるという。
なぜ親しみのある愛らしい顔をしているのか?
地蔵菩薩は地獄に堕ちた人までも救ってくれるという。親より先に死んだ子は賽の河原で親不孝の責め苦を受ける。それを救うのが地蔵菩薩。そこで賽の河原から連想される石で作り、顔も子供たちそっくりの丸い形で作られるようになったのだという。
上流階級がきらびやかな観音様に傾倒していく中、お地蔵様は身近さから庶民のアイドルに。
地蔵菩薩というのは庶民のささやかな願いも聞いてくれる、身代わりになってくれるという信仰が強い。身代わり地蔵、とげ抜き地蔵、子育て地蔵などなど、全国さまざまなバリエーションを生んでいった。
(3)明王グループ
歌舞伎の市川海老蔵が結婚を報告した成田山新勝寺のご本尊は不動明王。
が、不動明王はなぜ怒っているのか?
京都の東寺の講堂には、不動明王を中心とした四体の明王が。東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王。不動明王とあわせて五大明王。
しかしこの仏像、他と違いみんな怒っている。なぜか。
明王は密教で大日如来の化身・分身。特に明王が救うのは難解の衆生(なんげのしゅじょう)、すなわち、いくら言っても聞かない人。
大日如来が変身して悪を懲らしめる、これが明王。
明王は激しい煩悩を背後の炎と剣で焼き尽くし、左手の縄で縛ってでも救うという。慈悲の心ではなく怒りで仏教界を守る、いうなれば闇の仕事人、裏のガードマン。
平安時代に弘法大師が中国に留学して密教を学び、不動明王を持ち帰った。当時の人々は非常に衝撃を受けたと伝えられている。武力でもって力尽くで人を救う。
(4)天グループ
明王グループと同じく武道派集団。
「天」とは耳慣れない言葉と思われるかもしれないが、「寅さん」で有名な葛飾柴又の帝釈天、戦の神様の毘沙門天、東大寺の金剛力士も天の一員。
同じ武道派集団の明王との違いは?
天は元々インドの神話に出てくる神様で、仏教界の一員ではない。
天とは、神という意味の、古代インド語(サンスクリット語)のテーヴァが元になっている。天は当て字。
仏教が広まる前のインドでは、ヒンドゥー教という多神教が信仰されていた。その中には最強の戦士インドラという神や、ブラフマンという宇宙を作った創造神など多彩な神様がいた。インドラは帝釈天、ブラフマンは梵天として仏教に取り入れられていった。
元々いたインドの神様たちを、仏教を守るガードマンとして取り入れたのが天。いわば正規軍ではないが、外から助けてくれる助っ人外国人のようなもの。
天はインドの神話に出てくるということで様々な姿をしている。菩薩や如来より、より身近なものがあった。
たとえば、天の最高位の四天王と呼ばれる多聞天、広目天、増長天、持国天は東西南北に分かれ、如来・菩薩を守ると言われる。足の速さを形容する韋駄天、地獄の王の閻魔様も天の一員。
そして天はしばしば、御利益によりユニットのように複数で組む。例えば、多聞天が武将の間で人気があるとなると、多聞天はソロデビュー。
多聞天は戦国時代に名前を変えて活躍した。それが上杉謙信の守り神で有名な毘沙門天。毘沙門天はさらに弁財天、大黒天とともに日本の神様ともユニットを組み、七福神として日本にすっかり定着した。
以上4グループ以外に、空海、鑑真などの高僧も仏像となっている。
その年、その時代に合わせ、救いの形を進化させ、日本の民衆に愛されてきた仏像。願いの数だけいろんな仏像がほしい、そんな人間の御利益主義が多種多様な仏像を生んだのかもしれない。
◆日本語の中に隠れた仏教
・玄関
もともと「玄妙な道に入る関門」という意味で、仏門に入るいとぐちを指していた。それが寺の門、特に禅寺の入口に使われるようになり、やがて一般の家の入口もそう呼ぶように。
・ガタピシ
擬声語ではなく、漢字では「我他彼此」。ものが対立してうまく行かないことを表す言葉だったが、やがて建て付けを表す言葉に。
・ずぼら
「坊主」の逆さ言葉。江戸時代、戦乱が治まり世の中が安定すると、戒律を守らずお酒を飲んだり女性に手を出すだらしないお坊さんが現れるように。そんな坊主らを人々は「ずぼう等(ずぼうら)」と呼ぶようになり、やがてそれが短く「ずぼら」に変化。
・ごたごた
あるお坊さんの名前に由来。町民らがややこしい話の代名詞に使った「ごったん和尚」。鎌倉時代に実在した「兀庵普寧(ごったんふねい)」という建長寺の住職。その説教は難解でややこしかった。それでややこしい話を「ごったんごったんしている」と言うようになり、それがやがて「ごたごた」に。
・もっけの幸い
思いもよらない幸いという意味だが、この「もっけ」とは「もののけ」。古代より日本人は怨霊・もののけを恐れてきた。これらの退治に有効と言われたのが外国から渡ってきた仏教。だから人々は仏教をありがたがった。つまり仏教側からすれば、日本に怨霊やもののけがあったことが幸いして全国に教えを広めることができた、「もののけも幸いだった」ということ。
・果報は寝て待て
良いことは自然にやってくるという意味でよく使われている。「果報」は仏教用語で、過去の行いの善悪に対して、必ずそれに応じた結果があるという意味の言葉だった。つまり因果応報。だから過去に良いことをすれば良い結果に、悪いことをすれば悪い結果に。本来は「果報は練って待て」ということで、努力なくして良い結果は得られないという意味の言葉。
・挨拶
師匠と弟子の問答を禅宗では「挨拶」という。挨=押す、拶=迫るという意味がある。挨拶とは本来、押したり迫ったりしながら互いの悟りが深いか浅いかを試すという意味。それが今では日常的に礼を交わす言葉として使われるようになった。
・ごちそう
漢字で書くと「ご馳走」。走るという意味の言葉が使われている。韋駄天のようなスピードで料理人が新鮮な食料をあちこちから集め、走り回って準備してくれた大変ありがたいものという深い教えが込められている。
・ぜんざい
名付け親は一休さん。ある日、1番目の弟子が小豆を甘く炊いた物を出すと、一休さんは喜んで食べた。2番目の弟子が焼いた餅を出したところ、これも一休さんは喜んで食べた。そこで3番目の弟子が小豆を甘く炊いた物に焼いた餅を入れて出したところ、一休さんは大絶賛、「善き哉」と叫んだ。この「善き哉」は仏が弟子を賞賛する時に使われる仏教用語。それを一休さんが使ったことで、「善哉(ぜんざい)」という言葉になって食べ物の名前になったとか。
・カルピス
乳酸菌飲料。1919年発売。カルピスの創業者の三島海雲がその名前を仏教にちなんでつけた。古代インドのサンスクリット語で「最上の味」を意味する「サルピス」という言葉を選び、そこに当時流行していた栄養素の「カルシウム」という言葉を合わせてできた。
・スジャータ
コーヒーフレッシュクリーム。釈迦が悟りを開く前の修業時代、ミルク粥を差し出したのがスジャータという娘だった。
・Canon(キヤノン)
社名の由来が仏教に関係。1934年、前身の精機光学研究所は初号機とも言える試作機を完成。この時、観音様のご慈悲にあやかり、世界で最高のカメラを創りたいと、試作機には「観音」という名前が付けられた。その時のマークには千手観音が描かれている。1935年、本格的なカメラの販売を開始。世界で通用するブランドにしようと、英語で聖典・規範・標準という意味を持ち、なおかつ発音が観音に似ているキヤノンに変更された。
・天才バカボンのキャラクター
「バカボン」の由来は、連載第1回の表紙で「バカなボンボン」のことだと書かれているが、他の説も存在する。1つめの説は英語のバガボンド(Vagabond=放浪者)、もう1つの説はお釈迦様。その説によれば、バカボンを漢字で書くと「薄伽梵」で、お釈迦様の尊称。
さらに「これでいいのだ」という決まり台詞は釈迦の悟りの境地を示している?
赤塚不二夫氏の事務所に聞くと、「そういった説があるのは知っているが、公式にそういった設定があるということはありません。赤塚がそういった考えの上でタイトルを決めたりキャラクターを描いたということも聞いていません」。
ところが、バカボン=お釈迦様説を裏付ける新たな材料が。それはレレレのおじさん。モデルとなった仏像があると。それは周利槃特尊者(しゅりはんどくそんじゃ)。お釈迦様の弟子の一人で、自分の名前が覚えられないほど頭の良くなかった人で、お釈迦様からほうきを渡されて、一生懸命掃除しなさいと言われたと。
レレレのおじさんは連載当初はほうきを持ってなかった。何がきっかけで赤塚氏はほうきを持たせたのか?
周利槃特尊者はある時、ついに仏様の教えが分かった。掃除をしているのは実は自分の心の塵を払っているのだと。掃除によって悟りの境地に至った。レレレのおじさんのモデルなのか?その写真がこれ。
島根県の一畑寺にある周利槃特尊者の像。が、手には「ほうき」ではなく「はたき」!?
赤塚事務所のコメントは「読んでいただいた方に好きなように解釈をしていただくのもひとつの楽しみ方」。
・他に「ふとん」「楊枝」「帽子」「知事」「大袈裟」「しゃかりき」「上品・下品」「ウロウロする」なども仏教由来。ウロウロの漢字は「有漏有漏」。「漏」は煩悩のこと。
◆仏教の宗派
真言宗、浄土宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗などなど……。
日本の伝統的な仏教には10以上の宗派がある。それらの宗派がさらにいくつも枝分かれしており、派閥は160に及ぶという。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば浄土宗か浄土真宗か時宗。座禅を組めば臨済宗か曹洞宗。「南無妙法蓮華経」と唱えれば日蓮宗。
が、なぜ同じ仏教なのに宗派がたくさんあるのか?
そもそも宗派とは、お釈迦様の教えに対する学説の違いから生まれた。
2000年以上前のインドのお釈迦様が起源の仏教。修行をすることで悟りを開き、人々を苦しみから救うというもの。
それが中国に伝わってきた時、お釈迦様の教えをどう解釈するか研究が頻繁に行われ、見解が分かれていた。
失礼ながらラーメンに喩えると、麺をどう作るかにこだわる一派、スープにこだわる一派、バランスにこだわる一派というように、目標は同じだが取り組み方が違う。
仏教でも目標は同じだが、教えの解釈をめぐる学説の違いから、色々な学説が生まれることに。それは経典におけるお釈迦様の教えが多岐に渡っており、色々な解釈が可能だったから。
最先端の宗教として仏教が公式に日本に渡ってきたのは538年と言われている。その時、朝廷に金の仏像が上程された。30センチにも満たない小さな仏像だったが、仏像というフィギュアが良かった。
もともと日本の神様は自然に宿ると考えられていて、埴輪や土偶はあったが、神そのものを形にしたものはなかった。山や森などの自然そのものが神で、神様に形はなかった。それがピカピカの仏像といういわばフィギュアに形を変えて目の前に現れた。これは分かりやすく、衝撃だった。
それまで日本の神々は姿形をはっきり持っていなかった。そういう神々よりもずっと力があるパワフルな神々として仏たちを受け入れた。木や岩に宿るほのかに見えていたものがバーンと出てきたから、その威力は凄まじかっただろう。
しかも仏像には「国家の平安に効きます」という効能書も付いていた。大和政権はこれを利用しようと考えた。
そして聖徳太子が政治の実権を握ると、仏教を国の政治に大々的に取り入れた。法隆寺、四天王寺もそのために建てられた。
日本の神々の世界は哲学や体系を持たなかった。しかし仏教は高度な体系を持っている。そのシステムを使うという考え方は国を造っていく上で大変有効だった。
たとえば真ん中に大きな仏様がいらして、これが世界の中心を司る、世界を支えているという考え方は、天皇を中心とした国を造ろうとしていた日本にはとても向いていた。
仏を祀るから国を守ってほしいという考えのもと、聖武天皇と光明皇后は全国に国分寺、国分尼寺を建立。さらに東大寺や法華寺が建てられた。そして東大寺は仏教の総本山として経典を研究する場所になった。
僧侶は政府のブレーンとして、お寺の中でいくつもの宗派を分析し、国の政治に役立てていた。今で言う国立研究所、東京大学などの国立大学を全部合わせたようなもの。だからこの時代、僧侶は民間に布教はしなかった。仏教は国のものだった。
しかし奈良時代末期、力をつけた寺の内部が腐敗。堕落した僧侶が現れるようになった。
これはいかんということで平安京遷都。お寺を一回チャラにした。
この混乱期に登場したスーパースターが空海と最澄。天台宗と真言宗の誕生だ。
彼らが唱えた仏教は「仏が国を守ってくれる」+「信仰によって民衆の救済も目指す」という実践的なもの。普通の人の魂を救う仏教へと変わっていった。
空海と最澄によって日本の仏教の基礎が築かれた。この二人については後ほど。
最澄の時代から約300年経った平安末期、天台宗や真言宗はまだエリート学問で難しかった。
そこに現れたのが法然。
「南無阿弥陀仏」さえ唱えれば、厳しい修行なくして極楽浄土に行ける。ハウツー本のような仏教だった。これが浄土宗。「南無阿弥陀仏」=「阿弥陀様、どうか私を極楽浄土にお導き下さい」の意。
それまでの仏教は、病気になったら薬師様というように、時と場合によって拝む対象を変えていたが、南無阿弥陀仏は阿弥陀様だけ。たった一人の神。それ以外はダメという考え方だから一神教的。
貴族の力が衰え、武士が台頭しつつある動乱期には、釈迦の教えも届かなくなったという末法思想が広まっていた。死後の世界に救いを求めた。
念仏だけを唱えれば救われるという法然の教えは民衆の心に響いた。
さらにそれを進めたのが親鸞の浄土真宗。
親鸞は自ら妻帯し、悪人でも救われると説いた。いわゆる悪人正機説。
但し、ここで言う悪人とは、犯罪者という意味ではなく、私たちはみな悪人という認識に基づいて、その認識を持った者こそが救われるという意味。
このように、念仏さえ唱えれば誰でも極楽浄土に行けるというので、それまでエリート層のものだった仏教がどんどん民衆に広まった。
鎌倉時代、仏教にさらに大きな変化が。禅宗が広まったのだ。
そのキーマンは栄西と道元。
宋に渡って仏教を学んだ彼らは、当然、日本にない物を持ち帰ろうと考えた。それが禅。最澄らの時代にはなかったニューウェーブ。仏教の常識を打ち破ったのである。ちなみに栄西は臨済宗。道元は曹洞宗。
栄西は京に入って布教しようしたが、彼は京都にとっては抵抗勢力だった。それで栄西は京の影響の弱い鎌倉に。すると、鎌倉で政権を握る武士の倫理観に栄西の禅宗は大きく受け入れられた。
当時流行していた阿弥陀信仰はいわゆる他力信仰。それに対して禅宗は、自分の心身を鍛え上げることで自らの力で悟ろうというもの。
当時の武士に禅宗は合致した。武士はいつ有事があるか分からない。その時に混乱してはいけないので、そういう心と身体を作るために禅が役に立つと考えられた。
鎌倉幕府にも、ニューウェーブの宗教を使って京都に対抗していこうという意志があったに違いない。武士を束ねるのに良い宗教になるということで、臨済宗の寺が建てられ、武士に広まっていくことに。
かつて天台宗が国のエリート宗教であったように、鎌倉武士らにとって禅宗がエリート宗教になっていった。
武田信玄、上杉謙信、織田信長も禅宗。武士らにとって禅宗は圧倒的な思想だった。金閣寺、銀閣寺、龍安寺なども禅宗。能や華道、茶道といった文化も禅宗から生まれた。
来世で人を救おうという禅宗に対し、現世で人を救うべきと説いたのが日蓮。
日蓮は法華経という経典の中にこそ最高の真理があるとした。経典を信じることで救われると説いた。そして強烈な個性で教えを広めていった。
ところが、経済力が増えた寺は権力に対抗する武力を持つようになり、大名たちも手を焼くようになった。これでは大変ということで、寺を武装解除したのが豊臣秀吉。
全国みな仏教徒になったのが江戸時代。
徳川幕府は宗教反乱を恐れた。特にキリシタンを排除しなければならない。そこで寺請制度を作った。
これは国民は身分・職業に関係なく近くの寺に住民登録をするというもの。
寺請制度は幕府にもお寺にもメリットがあった。幕府は役人を使わずに手間が省けるし、お寺は確実に信者を得ることができる。
住民票はお寺が発行。出生届、住所変更、結婚、出稼ぎや旅行の際にも必ずお寺から証文をもらわなければならない。
こうすることで全国民を仏教という網で囲い込み、キリシタン信者や反乱分子を抑え込んだ。
今や葬式といえばお寺だが、江戸時代にはこれが大きな意味を持っていた。
誰かが死ぬとキリシタンではないか確認するのも寺の役目。今で言う役所の仕事をお寺がやっていたのだ。お寺は葬式と墓地を管理し、国民を把握しておく役目を担っていた。
だから、ある地域に曹洞宗のお寺があれば、そこの住民はみんな曹洞宗。引っ越したら、そこの宗派に問答無用で全員登録制。
寺子屋もできた。
お寺がこういう存在になったので、宗派同士の争いもなくなった。
その制度が大きく崩れたのが明治時代。新たな制度で戸籍を登録するようになり、お寺はお役ご免となったが、それでも墓の管理をごっそり変えるわけにはいかない。
今、お寺にお葬式とお墓が残っているのは、このような江戸時代の思惑があったから。たくさんの宗派が日本に残っているのはこのような歴史があったからなのだ。
◆最澄と空海
彼らがいなければ、日本仏教というのはかなり変わった形になっていたかもしれない。日本仏教のいちばん元になったような非常に大きなスケールのものを、平安時代の初めに広めた。
教科書の記述では、「最澄は天台宗を開き、空海は真言宗を開いた。ともに遣唐使として唐に渡り、日本で仏教を広めた」とある。
しかし、その性格は全く対照的。秀才肌で真面目な最澄、天才肌で外交的な空海。喩えるなら往年時代の王と長嶋、漫才界のやすしきよしのような存在?
(謎1)二人は元祖・尾崎豊だった?
767年に近江の国に生まれた最澄は、19歳で年間10人しか認められない朝廷の正式な僧侶に。仏教界の若きスーパースターだった。
7歳下の空海も18歳で奈良に行き、キャリア官僚になるため猛勉強の日々。だが、この時は全くの無名。
奇しくもこのあと二人はドロップアウト。
最澄は僧侶になって間もなく、法華経などの研究のため比叡山に籠もってしまう。空海も奈良を離れ山に入った。
いったい二人に何があったのか?
当時の仏教は「位」とか「お寺を建てる」ための仏教だったので、嫌気が差し、自分の好きなことができる仏教を求めたのではないかとみられる。
奈良時代後期、僧侶として出世することが社会的ステータスになったが、僧侶が政治に介入することが増え、世の中は混乱。貴族たちの脱税のために寺院が利用されるなど堕落の一途を辿っていた。
社会に反発する二人の姿は、まさに反逆のカリスマ尾崎豊!?
そんな中、京都に都を移した桓武天皇は、新しい宗教とスターが必要だと考えた。そこで、比叡山にいた最澄を朝廷の重要な役職に任命し、天台宗を開くことを認めた。再び主流に戻ってきた最澄。
そして二人はやがて再び共通の思いを抱く。「唐に行こう」。当時の唐は最先端国家。日本は遣唐使を通じて新しい仏教を学んでいた。
日本だけで仏教を極めるのに限界を感じた二人は唐を目指したのだ。
804年、最澄38歳、空海31歳の時、これまで接点のなかった二人は、奇しくも同じ遣唐使の一員として唐に向かうことに。
桓武天皇に認められていた最澄は旅費も無料、通訳付きの特別待遇。しかし空海は長期滞在が義務づけられた、その他大勢の留学僧だった。
実は空海は正式な僧侶の手続きをしていなかった。慌てて手続きをして遣唐使船に飛び乗った。旅費をどうやって稼いだかは未だに謎。
(謎2)二人が持ち帰った密教とは?
空海は2年余りの期間で驚異的な活躍を見せた。彼が目に付けたのが当時最先端と言われていた密教。難解なサンスクリット語をすぐマスター。密教の経典や曼陀羅もゲット。わずか2カ月で密教の全てを受け継いだ。日本で埋もれていた天才は世界に旅立つことで花開いた。
一方、最澄は視察目的の短期留学ということで、世界的に主流だった天台宗の奥義をマスターしたものの、1年足らずで帰国。それゆえ密教に関しては不完全なままだった。もっと学びたかったのだが。
密教というものが大きな力を持っているという情報が日本にも入ってきて、しかも日本では桓武天皇から嵯峨天皇に変わっていた。「天台宗もいいが今の流行は密教だ」と。
嵯峨天皇は、密教をマスターした空海に仏教で国家を守る役割を任せることにした。エリート最澄についに並んだのである。
最澄はプライドを捨て、7歳下、しかも格下の空海に弟子入り。
元来努力型の秀才の最澄は真摯に学び、空海もそんな姿に感銘して、お互い尊敬し合う仲になった。
そもそも、密教とはどんな教え?
大日如来と一体化することを目指したものだが、それまでの仏教が経典によって広く教えを伝えようとしたのに対し、密教は師匠から弟子へ口伝えで奥義を教える。
そんな密教は最近の仏像ブームに一役買っている。貢献したのは曼陀羅の存在。言葉で表すのが難しい密教の世界観を見た目で示すもの。
曼陀羅は何を表しているのか?
もともと原点は、見えない世界の仏を見えるようにして我々に教えてくれるという発想。仏のグループ分けは曼陀羅によって初めて日本人にもたらされた考え方。
喩えるなら、たけし軍団の相関図のようなもの?人間関係が一目瞭然となる。
曼陀羅は、見た目で表すことで誰にでも分かりやすく密教の世界観を教えた。こうして庶民の拝む対象が明確になり、仏像は平安時代に一大ブームになった。
日本に多くの仏像が残っているのは、空海と最澄が伝えた曼陀羅が大きく影響。
(謎3)仲の良かった二人が決別した理由とは?
些細なことがきっかけ。密教の経典の貸し借りで仲違いしたのだ。密教の秘法を学んでいない最澄の申し出を空海が拒絶したためだった。
さらにその後、空海のカリスマに魅せられた最澄の弟子が空海に弟子入りしてしまった。
これらを機に二人の関係は断絶したと言われている。
密教というのは経典を写すとか聞くだけとか頭の中で考えるだけでなく、自分でやってみるもの。最澄は忙しくてそれをやる時間がなかった。だから最澄はその時点で天台宗に密教的な要素を含めるのはやめようと。
密教に対する考え方が違っていて、それぞれ自分の信じる別の道を歩いた。
(謎4)二人が今の日本人にもたらしたものは?
最澄が開いた比叡山延暦寺は仏教の総合大学といわれ、その後のスーパースターを数多く輩出。浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗などは、もともと天台宗から派生したもの。
一方、空海はそのカリスマ性ゆえに自らが信仰の対象になった。川崎大師や西新井大師などの「大師」とは弘法大師、つまり空海のこと。また「弘法も筆の誤り」という諺を残すほど書の達人。さらに漢詩の文集や解説書を記すなどマルチな才能を発揮した。
そして空海は布教とともに全国を行脚し、社会貢献を行った。
空海が見つけたといわれる温泉は全国各地に存在している。さらに治水事業として行った「讃岐の水瓶」満濃池は今も利用されている。
また、四国八十八か所巡りは、修行中の空海が八十八の寺院を遍路したことから生まれたという。
努力を重ね多くの弟子を育てた最澄、天才的な才能で自らがカリスマとなった空海。
二人はそれまで高貴な人間の専有物だった仏教を広く民衆に広めることに成功。それこそが、彼らの最大の功績。仏教の日本化である。
日本人の仏教にまつわる考え方や生活習慣は、この二人がいなかったら全く違ったものになっていたかもしれない。
ビートたけし曰く、「空海はロケットに乗る宇宙飛行士、最澄はロケットの設計図を書いた人」。
◆仏教の拡大と怨霊の存在
奈良の東大寺の大仏は作られた当時、世界一だった。
ここでひとつの疑問が。当時の日本は仏教が伝来して間もないアジアの小国。なぜ世界一の大仏を作ろうとしたのか。
そして現在、コンビニより多い寺の数。なぜ仏教はここまで受け入れられたのか。
日本でこれほど仏教が広まったのは、天皇が仏教を取り入れようと言ったからに他ならない。日本が仏教の力を借りて国をまとめようというふうに移行していったのは、怨霊に対する畏れがあったから。
日本最初の怨霊、長屋王(684-729)。
天武天皇の王子と天智天皇の王女の間に生まれた。いずれ天皇になってもおかしくない生まれ。事実、重要ポストを歴任していた。
が、当時、朝廷では藤原氏が台頭。藤原氏の四兄弟は天皇と姻戚関係を結ぶべく、妹で光明子を聖武天皇の皇后にしようと働きかけていた。長屋王はこれに強く反対し、藤原氏と対立。
長屋王はサラブレッドで重要な政治的地位にいたため、藤原氏から恨みを買って蹴落とされたと思われる。
729年、長屋王が政府転覆しようとしているという密告があった。藤原四兄弟らが率いる軍勢は、これ幸いにと長屋王の邸宅を包囲。長屋王は弁明する余地も与えられぬまま自害。妻や子も後を追った。
しかし長屋王の死後、異変が相次ぐ。
「日本霊異記」によれば、長屋王の遺骨を土佐の国に移して葬ったところ、農民たちの変死が相次ぐようになり、このままでは国中の農民が死んでしまうので、埋葬場所を変えてほしいという嘆願書が役所に出された。これが日本最古の説話集に記された怨霊の記録。
さらに都では疫病が大流行。藤原四兄弟もわずか4カ月の間に次々と命を落とした。
この祟りに対し、聖武天皇が神道以上に頼ったのが仏教。
疫病の流行が止むことを祈願して各国に釈迦像を造り、大般若経を写すことを命じた。741年には全ての国に巨大な寺院を二つずつ造る国分寺創建を宣言。743年には大仏建立を発表。
よく教科書で、大仏は疫病が流行ったから造られたと書いてあるが、その疫病自体が長屋王の怨霊だと恐れられていた。
聖武天皇は大仏を建立して出家している。現職の天皇が出家するというのは大変な事件だった。国民は天皇は神だと思ってる。その神が出家して仏にぬかずいてしまう。これを見た国民は、仏というのはそういう存在なのかという風に見ただろう。
聖武天皇の孫の時代の桓武天皇の時代にも怨霊は生まれた。それは桓武天皇の兄弟である早良親王。
桓武天皇はある決意をする。当時、都は怨霊の跋扈する非常に危険な状態と考えられていた。その怨霊から逃れるために、794年、建設途中の長岡京を放棄し、平安京への遷都を発表。
このことが、最澄、空海の運命を変えていった。
実は、平安京の、魔が入ってくるといわれる「鬼門」の方角で修行をしていたのが最澄だったのだ。
802年、国費留学生として最澄の唐への派遣を決定。最新の仏教を学んで怨霊から親族や民を守ってもらうためだった。
最澄が唐から戻ってまずしたことは、病床の桓武天皇の祈祷だったが、その甲斐なく桓武天皇は亡くなった。
その後を継いだ息子の平城天皇も、弟の伊予親王を謀叛の疑いで服毒自殺に追い込み怨霊化させてしまうなどし、桓武天皇亡き後も、平安京は怨霊に悩まされ続ける。
次の嵯峨天皇は空海が唐から持ち帰った密教に興味を持ち、今までにない特別な霊力ということで盛んに取り込んでいこうとした。
嵯峨天皇は日本中に疫病が流行った際、空海に祈祷を命じた。すると疫病はたちまち治まった。嵯峨天皇は空海への信頼度を深め、823年には京都の東寺を空海に与えるなどし、次の淳和天皇も空海を重用した。
密教は仏にすがるだけでなく、自分たちも修行して高めることによって、自然のいろいろな物までも動かしていく可能性がある。このような密教に人気が集まった。貴族、天皇も密教を取り入れていく。
◆天皇の即位儀礼に密教儀式
神道の中心である天皇が密教を儀式に取り入れていた。それは即位儀礼。従来は神道の儀式だけだったが、ある時そこに仏教の儀式も行われるようになった。
それを竹田恒泰氏の監修のもと再現。
天皇の即位式の際の最も重要な儀式「紫宸殿(ししんでん)の儀」は御所の紫宸殿で行われる。
板敷きの空間の中央に高御座(たかみくら)が置かれている。その内部には椅子が置かれている。
ここに座ることで、天皇の即位が象徴的に示される。この高御座に着席された後、天皇の密教儀式が行われていたというのだ。
天皇が女官の差し出した「さしば」で覆われている時にしていること。
密教で仏を表すポーズである印相を組み、仏を意味する言葉、真言を唱える。どちらも大日如来を示すものだったと考えられている。
なぜ重要な儀式に仏教が取り入れられたかというと、神仏習合が進んでいたから。神道の最高神は天照大御神だが、仏教ではこれは大日如来に相当するんだという考え方。
天皇は即位の儀礼の時に、神道儀式で天照大御神の霊力を受け、仏教儀式で大日如来の霊力を受ける、これによって天皇は完成すると。
この即位勧請は平安時代に始まって、幕末の孝明天皇まで続けられた。
そして明治維新。廃仏毀釈で仏教を叩いた新政府。
日本に仏教の霊力は必要とされなくなったのか?
実は明治天皇は即位の前日、ある人物の怨霊の鎮魂を丁重に行っていた。その人物こそ史上最大の怨霊と呼ばれた崇徳天皇(昨年紹介済。「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(2)終参照)。
この時、神道・仏教の両方でお祀りがなされた。
このように、日本人は神様・仏様、両方を平安時代から現在まで大切にしてきた。
私たちが神社・寺を区別せず、神様・仏様に同じようにお祈りしてきた理由は、このような歴史に隠されていたのだ。
◆ビートたけし、人生初の高野山参り
空海が「東西に龍の臥せるが如く」と表した高野山。密教の聖地。
悟りの世界を具現化したというその地を、ビートたけしが訪ねた。
まず壇上伽藍(だんじょうがらん)。
伽藍とは僧侶が住んで仏道を修行する所。
朱に塗られた根本大塔は建物自身が、太陽の化身とも言われる大日如来を象徴している。
ご本尊は胎蔵界大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)。脇には、金剛界四仏が鎮座し、さらに周りの十六本の柱には菩薩が描かれ、全体で悟りの世界を象徴する金剛界、胎蔵界、二つの曼陀羅を立体的に表現している。
胎蔵界の曼陀羅は現実の世界をそのまま表したような世界で、大日如来が中心にいて、人間が修行によって仏に近づく事を表現。
金剛界は悟りの世界で、仏の方から我々に救いの手を差し延べるもの。
テレビも映画も何もない時代の人にとっては、曼陀羅は別世界。今よりももっと感動し、曼陀羅の世界に入ったであろうと思われる。
立体曼陀羅の前に立つ時、人は仏教を体感するのかもしれない。
今からおよそ1200年も前に山の上に築き上げられた聖地・高野山。
どれほどの労力と思いが注ぎ込まれたのだろうか。
当時ほとんど知る人のいなかった真言密教をひとり学び、日本に根付かせた空海とは一体どんな人物だったのか。
空海直筆の国宝「聾瞽指帰(ろうごしいき)」。24歳の時の作品。
戯曲風に、儒教、道教、仏教を論じ、自らが仏教を選び出家する決意を示している。
空海は中国語で書いている。中国の古典の知識をふんだんに使っている。
唐に渡って密教を修め、高野山を開いた空海。
持ち帰った真言密教は、その後、天皇から庶民まで多くの人を惹きつけた。
高野山真言宗総本山金剛峯寺。ご本尊は弘法大師、空海。
歴代天皇の位牌が今も安置されている金剛峯寺内には特別の部屋がある。上段の間。天皇や将軍の参拝時の応接間。総金箔張り。高野山がいかに信仰を集めていたかを物語る。
比叡山を焼いて高野山にも攻撃を仕掛けた織田信長も、本能寺に倒れたあと、高野山に墓が作られた。
高野山には、空海が今なお人々を救うためにこの地で行を続けている入定信仰がある。
午前6時。毎日、僧侶たちによって弘法大師(空海)に食事が届けられる。
食事を届ける御廟(ごびょう)。
奥の院に向かう道には20万基もの墓が並ぶ。
別宗派である浄土宗の開祖・法然。川中島を戦った上杉謙信と武田信玄。さらに豊臣秀吉……。
身分などで区別しない。この地では空海のもと、天皇から庶民まで同じ場所で眠っている。
同じ場所で未来永劫眠る。その元となるのは、空海が未来永劫にわたって祈り続けているという信仰。
空海の御廟に向かう最後の橋、御廟橋。ここから先は聖域中の聖域。
通常ではこの橋から先の撮影は認められていないが、今回は特別に御廟の拝殿である燈籠堂で行われる勤行を撮影させていただけることに。
1200年もの間、弘法大師が人々のために祈り続けてくれているという信仰。
弘法大師に対し、毎日食事を備え、祈りを捧げてきた何世代もの人々。
その思い全てが、毎日の勤行の中に息づいている。
たけしの感想。
「空海って人は、現代で言えば非常に科学的だなと。今だと、物(の原理)がいろいろ、原子とか分子の振動とか、そこの世界まで行くんだけど、意外と空海の頭の中にはそういう宇宙観とか、生命とか仏とかをかなりよく理解しようとしていて、人間の修行でも、なぜその修行をするのか科学的に考えたのでは。その科学的な中にもちゃんと日本独自の信仰とか、当時の日本の神道とかいろんな宗教の基盤に立って、それを融合させて、新しい宗教というのを作ったように感じる。装飾なんかを見ると、なぜそういう装飾が必要なのか、芸術的にも分かってるんじゃないかと。一種の天才ですね」
_________________________大ざっぱな内容紹介ここまで
私は高野山のある和歌山県に4歳から21歳まで住んでたんですが、実は高野山には一度も行ったことがないんです。
住んでたのが和歌山市内で、これが高野山から微妙に遠くて、学校の遠足や林間学校のコースには組み込まれなかったのが大きな理由かも。
むしろ大阪在住の人の方が行く機会があったんじゃないかという気が。
実際、生まれてからずっと大阪市内在住の夫に聞いたところ、「高野山は林間学校で行った」とのことです。
※拙ブログ関連エントリー
・09/1/3放送「たけしの“教科書に載らない”日本人の謎」良かったです
・10/1/2放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(1)
・10/1/2放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(2)
・12/1/9放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2012」(日本語特集)
★このブログが面白かったらクリックして下さい→
★ご面倒でなければこちらも→
________________________________________________
★トラックバックを下さる方へ
お手数ですがこちらに一度目を通されてから宜しくお願いします。
★コメント(投稿)を下さる方へ
初めてコメント下さる方は、お手数ですがこちらに一度目を通されてから宜しくお願いします。
明王グループと同じく武道派集団。
「天」とは耳慣れない言葉と思われるかもしれないが、「寅さん」で有名な葛飾柴又の帝釈天、戦の神様の毘沙門天、東大寺の金剛力士も天の一員。
同じ武道派集団の明王との違いは?
天は元々インドの神話に出てくる神様で、仏教界の一員ではない。
天とは、神という意味の、古代インド語(サンスクリット語)のテーヴァが元になっている。天は当て字。
仏教が広まる前のインドでは、ヒンドゥー教という多神教が信仰されていた。その中には最強の戦士インドラという神や、ブラフマンという宇宙を作った創造神など多彩な神様がいた。インドラは帝釈天、ブラフマンは梵天として仏教に取り入れられていった。
元々いたインドの神様たちを、仏教を守るガードマンとして取り入れたのが天。いわば正規軍ではないが、外から助けてくれる助っ人外国人のようなもの。
天はインドの神話に出てくるということで様々な姿をしている。菩薩や如来より、より身近なものがあった。
たとえば、天の最高位の四天王と呼ばれる多聞天、広目天、増長天、持国天は東西南北に分かれ、如来・菩薩を守ると言われる。足の速さを形容する韋駄天、地獄の王の閻魔様も天の一員。
そして天はしばしば、御利益によりユニットのように複数で組む。例えば、多聞天が武将の間で人気があるとなると、多聞天はソロデビュー。
多聞天は戦国時代に名前を変えて活躍した。それが上杉謙信の守り神で有名な毘沙門天。毘沙門天はさらに弁財天、大黒天とともに日本の神様ともユニットを組み、七福神として日本にすっかり定着した。
以上4グループ以外に、空海、鑑真などの高僧も仏像となっている。
その年、その時代に合わせ、救いの形を進化させ、日本の民衆に愛されてきた仏像。願いの数だけいろんな仏像がほしい、そんな人間の御利益主義が多種多様な仏像を生んだのかもしれない。
◆日本語の中に隠れた仏教
・玄関
もともと「玄妙な道に入る関門」という意味で、仏門に入るいとぐちを指していた。それが寺の門、特に禅寺の入口に使われるようになり、やがて一般の家の入口もそう呼ぶように。
・ガタピシ
擬声語ではなく、漢字では「我他彼此」。ものが対立してうまく行かないことを表す言葉だったが、やがて建て付けを表す言葉に。
・ずぼら
「坊主」の逆さ言葉。江戸時代、戦乱が治まり世の中が安定すると、戒律を守らずお酒を飲んだり女性に手を出すだらしないお坊さんが現れるように。そんな坊主らを人々は「ずぼう等(ずぼうら)」と呼ぶようになり、やがてそれが短く「ずぼら」に変化。
・ごたごた
あるお坊さんの名前に由来。町民らがややこしい話の代名詞に使った「ごったん和尚」。鎌倉時代に実在した「兀庵普寧(ごったんふねい)」という建長寺の住職。その説教は難解でややこしかった。それでややこしい話を「ごったんごったんしている」と言うようになり、それがやがて「ごたごた」に。
・もっけの幸い
思いもよらない幸いという意味だが、この「もっけ」とは「もののけ」。古代より日本人は怨霊・もののけを恐れてきた。これらの退治に有効と言われたのが外国から渡ってきた仏教。だから人々は仏教をありがたがった。つまり仏教側からすれば、日本に怨霊やもののけがあったことが幸いして全国に教えを広めることができた、「もののけも幸いだった」ということ。
・果報は寝て待て
良いことは自然にやってくるという意味でよく使われている。「果報」は仏教用語で、過去の行いの善悪に対して、必ずそれに応じた結果があるという意味の言葉だった。つまり因果応報。だから過去に良いことをすれば良い結果に、悪いことをすれば悪い結果に。本来は「果報は練って待て」ということで、努力なくして良い結果は得られないという意味の言葉。
・挨拶
師匠と弟子の問答を禅宗では「挨拶」という。挨=押す、拶=迫るという意味がある。挨拶とは本来、押したり迫ったりしながら互いの悟りが深いか浅いかを試すという意味。それが今では日常的に礼を交わす言葉として使われるようになった。
・ごちそう
漢字で書くと「ご馳走」。走るという意味の言葉が使われている。韋駄天のようなスピードで料理人が新鮮な食料をあちこちから集め、走り回って準備してくれた大変ありがたいものという深い教えが込められている。
・ぜんざい
名付け親は一休さん。ある日、1番目の弟子が小豆を甘く炊いた物を出すと、一休さんは喜んで食べた。2番目の弟子が焼いた餅を出したところ、これも一休さんは喜んで食べた。そこで3番目の弟子が小豆を甘く炊いた物に焼いた餅を入れて出したところ、一休さんは大絶賛、「善き哉」と叫んだ。この「善き哉」は仏が弟子を賞賛する時に使われる仏教用語。それを一休さんが使ったことで、「善哉(ぜんざい)」という言葉になって食べ物の名前になったとか。
・カルピス
乳酸菌飲料。1919年発売。カルピスの創業者の三島海雲がその名前を仏教にちなんでつけた。古代インドのサンスクリット語で「最上の味」を意味する「サルピス」という言葉を選び、そこに当時流行していた栄養素の「カルシウム」という言葉を合わせてできた。
・スジャータ
コーヒーフレッシュクリーム。釈迦が悟りを開く前の修業時代、ミルク粥を差し出したのがスジャータという娘だった。
・Canon(キヤノン)
社名の由来が仏教に関係。1934年、前身の精機光学研究所は初号機とも言える試作機を完成。この時、観音様のご慈悲にあやかり、世界で最高のカメラを創りたいと、試作機には「観音」という名前が付けられた。その時のマークには千手観音が描かれている。1935年、本格的なカメラの販売を開始。世界で通用するブランドにしようと、英語で聖典・規範・標準という意味を持ち、なおかつ発音が観音に似ているキヤノンに変更された。
・天才バカボンのキャラクター
「バカボン」の由来は、連載第1回の表紙で「バカなボンボン」のことだと書かれているが、他の説も存在する。1つめの説は英語のバガボンド(Vagabond=放浪者)、もう1つの説はお釈迦様。その説によれば、バカボンを漢字で書くと「薄伽梵」で、お釈迦様の尊称。
さらに「これでいいのだ」という決まり台詞は釈迦の悟りの境地を示している?
赤塚不二夫氏の事務所に聞くと、「そういった説があるのは知っているが、公式にそういった設定があるということはありません。赤塚がそういった考えの上でタイトルを決めたりキャラクターを描いたということも聞いていません」。
ところが、バカボン=お釈迦様説を裏付ける新たな材料が。それはレレレのおじさん。モデルとなった仏像があると。それは周利槃特尊者(しゅりはんどくそんじゃ)。お釈迦様の弟子の一人で、自分の名前が覚えられないほど頭の良くなかった人で、お釈迦様からほうきを渡されて、一生懸命掃除しなさいと言われたと。
レレレのおじさんは連載当初はほうきを持ってなかった。何がきっかけで赤塚氏はほうきを持たせたのか?
周利槃特尊者はある時、ついに仏様の教えが分かった。掃除をしているのは実は自分の心の塵を払っているのだと。掃除によって悟りの境地に至った。レレレのおじさんのモデルなのか?その写真がこれ。
島根県の一畑寺にある周利槃特尊者の像。が、手には「ほうき」ではなく「はたき」!?
赤塚事務所のコメントは「読んでいただいた方に好きなように解釈をしていただくのもひとつの楽しみ方」。
・他に「ふとん」「楊枝」「帽子」「知事」「大袈裟」「しゃかりき」「上品・下品」「ウロウロする」なども仏教由来。ウロウロの漢字は「有漏有漏」。「漏」は煩悩のこと。
◆仏教の宗派
真言宗、浄土宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗などなど……。
日本の伝統的な仏教には10以上の宗派がある。それらの宗派がさらにいくつも枝分かれしており、派閥は160に及ぶという。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば浄土宗か浄土真宗か時宗。座禅を組めば臨済宗か曹洞宗。「南無妙法蓮華経」と唱えれば日蓮宗。
が、なぜ同じ仏教なのに宗派がたくさんあるのか?
そもそも宗派とは、お釈迦様の教えに対する学説の違いから生まれた。
2000年以上前のインドのお釈迦様が起源の仏教。修行をすることで悟りを開き、人々を苦しみから救うというもの。
それが中国に伝わってきた時、お釈迦様の教えをどう解釈するか研究が頻繁に行われ、見解が分かれていた。
失礼ながらラーメンに喩えると、麺をどう作るかにこだわる一派、スープにこだわる一派、バランスにこだわる一派というように、目標は同じだが取り組み方が違う。
仏教でも目標は同じだが、教えの解釈をめぐる学説の違いから、色々な学説が生まれることに。それは経典におけるお釈迦様の教えが多岐に渡っており、色々な解釈が可能だったから。
最先端の宗教として仏教が公式に日本に渡ってきたのは538年と言われている。その時、朝廷に金の仏像が上程された。30センチにも満たない小さな仏像だったが、仏像というフィギュアが良かった。
もともと日本の神様は自然に宿ると考えられていて、埴輪や土偶はあったが、神そのものを形にしたものはなかった。山や森などの自然そのものが神で、神様に形はなかった。それがピカピカの仏像といういわばフィギュアに形を変えて目の前に現れた。これは分かりやすく、衝撃だった。
それまで日本の神々は姿形をはっきり持っていなかった。そういう神々よりもずっと力があるパワフルな神々として仏たちを受け入れた。木や岩に宿るほのかに見えていたものがバーンと出てきたから、その威力は凄まじかっただろう。
しかも仏像には「国家の平安に効きます」という効能書も付いていた。大和政権はこれを利用しようと考えた。
そして聖徳太子が政治の実権を握ると、仏教を国の政治に大々的に取り入れた。法隆寺、四天王寺もそのために建てられた。
日本の神々の世界は哲学や体系を持たなかった。しかし仏教は高度な体系を持っている。そのシステムを使うという考え方は国を造っていく上で大変有効だった。
たとえば真ん中に大きな仏様がいらして、これが世界の中心を司る、世界を支えているという考え方は、天皇を中心とした国を造ろうとしていた日本にはとても向いていた。
仏を祀るから国を守ってほしいという考えのもと、聖武天皇と光明皇后は全国に国分寺、国分尼寺を建立。さらに東大寺や法華寺が建てられた。そして東大寺は仏教の総本山として経典を研究する場所になった。
僧侶は政府のブレーンとして、お寺の中でいくつもの宗派を分析し、国の政治に役立てていた。今で言う国立研究所、東京大学などの国立大学を全部合わせたようなもの。だからこの時代、僧侶は民間に布教はしなかった。仏教は国のものだった。
しかし奈良時代末期、力をつけた寺の内部が腐敗。堕落した僧侶が現れるようになった。
これはいかんということで平安京遷都。お寺を一回チャラにした。
この混乱期に登場したスーパースターが空海と最澄。天台宗と真言宗の誕生だ。
彼らが唱えた仏教は「仏が国を守ってくれる」+「信仰によって民衆の救済も目指す」という実践的なもの。普通の人の魂を救う仏教へと変わっていった。
空海と最澄によって日本の仏教の基礎が築かれた。この二人については後ほど。
最澄の時代から約300年経った平安末期、天台宗や真言宗はまだエリート学問で難しかった。
そこに現れたのが法然。
「南無阿弥陀仏」さえ唱えれば、厳しい修行なくして極楽浄土に行ける。ハウツー本のような仏教だった。これが浄土宗。「南無阿弥陀仏」=「阿弥陀様、どうか私を極楽浄土にお導き下さい」の意。
それまでの仏教は、病気になったら薬師様というように、時と場合によって拝む対象を変えていたが、南無阿弥陀仏は阿弥陀様だけ。たった一人の神。それ以外はダメという考え方だから一神教的。
貴族の力が衰え、武士が台頭しつつある動乱期には、釈迦の教えも届かなくなったという末法思想が広まっていた。死後の世界に救いを求めた。
念仏だけを唱えれば救われるという法然の教えは民衆の心に響いた。
さらにそれを進めたのが親鸞の浄土真宗。
親鸞は自ら妻帯し、悪人でも救われると説いた。いわゆる悪人正機説。
但し、ここで言う悪人とは、犯罪者という意味ではなく、私たちはみな悪人という認識に基づいて、その認識を持った者こそが救われるという意味。
このように、念仏さえ唱えれば誰でも極楽浄土に行けるというので、それまでエリート層のものだった仏教がどんどん民衆に広まった。
鎌倉時代、仏教にさらに大きな変化が。禅宗が広まったのだ。
そのキーマンは栄西と道元。
宋に渡って仏教を学んだ彼らは、当然、日本にない物を持ち帰ろうと考えた。それが禅。最澄らの時代にはなかったニューウェーブ。仏教の常識を打ち破ったのである。ちなみに栄西は臨済宗。道元は曹洞宗。
栄西は京に入って布教しようしたが、彼は京都にとっては抵抗勢力だった。それで栄西は京の影響の弱い鎌倉に。すると、鎌倉で政権を握る武士の倫理観に栄西の禅宗は大きく受け入れられた。
当時流行していた阿弥陀信仰はいわゆる他力信仰。それに対して禅宗は、自分の心身を鍛え上げることで自らの力で悟ろうというもの。
当時の武士に禅宗は合致した。武士はいつ有事があるか分からない。その時に混乱してはいけないので、そういう心と身体を作るために禅が役に立つと考えられた。
鎌倉幕府にも、ニューウェーブの宗教を使って京都に対抗していこうという意志があったに違いない。武士を束ねるのに良い宗教になるということで、臨済宗の寺が建てられ、武士に広まっていくことに。
かつて天台宗が国のエリート宗教であったように、鎌倉武士らにとって禅宗がエリート宗教になっていった。
武田信玄、上杉謙信、織田信長も禅宗。武士らにとって禅宗は圧倒的な思想だった。金閣寺、銀閣寺、龍安寺なども禅宗。能や華道、茶道といった文化も禅宗から生まれた。
来世で人を救おうという禅宗に対し、現世で人を救うべきと説いたのが日蓮。
日蓮は法華経という経典の中にこそ最高の真理があるとした。経典を信じることで救われると説いた。そして強烈な個性で教えを広めていった。
ところが、経済力が増えた寺は権力に対抗する武力を持つようになり、大名たちも手を焼くようになった。これでは大変ということで、寺を武装解除したのが豊臣秀吉。
全国みな仏教徒になったのが江戸時代。
徳川幕府は宗教反乱を恐れた。特にキリシタンを排除しなければならない。そこで寺請制度を作った。
これは国民は身分・職業に関係なく近くの寺に住民登録をするというもの。
寺請制度は幕府にもお寺にもメリットがあった。幕府は役人を使わずに手間が省けるし、お寺は確実に信者を得ることができる。
住民票はお寺が発行。出生届、住所変更、結婚、出稼ぎや旅行の際にも必ずお寺から証文をもらわなければならない。
こうすることで全国民を仏教という網で囲い込み、キリシタン信者や反乱分子を抑え込んだ。
今や葬式といえばお寺だが、江戸時代にはこれが大きな意味を持っていた。
誰かが死ぬとキリシタンではないか確認するのも寺の役目。今で言う役所の仕事をお寺がやっていたのだ。お寺は葬式と墓地を管理し、国民を把握しておく役目を担っていた。
だから、ある地域に曹洞宗のお寺があれば、そこの住民はみんな曹洞宗。引っ越したら、そこの宗派に問答無用で全員登録制。
寺子屋もできた。
お寺がこういう存在になったので、宗派同士の争いもなくなった。
その制度が大きく崩れたのが明治時代。新たな制度で戸籍を登録するようになり、お寺はお役ご免となったが、それでも墓の管理をごっそり変えるわけにはいかない。
今、お寺にお葬式とお墓が残っているのは、このような江戸時代の思惑があったから。たくさんの宗派が日本に残っているのはこのような歴史があったからなのだ。
◆最澄と空海
彼らがいなければ、日本仏教というのはかなり変わった形になっていたかもしれない。日本仏教のいちばん元になったような非常に大きなスケールのものを、平安時代の初めに広めた。
教科書の記述では、「最澄は天台宗を開き、空海は真言宗を開いた。ともに遣唐使として唐に渡り、日本で仏教を広めた」とある。
しかし、その性格は全く対照的。秀才肌で真面目な最澄、天才肌で外交的な空海。喩えるなら往年時代の王と長嶋、漫才界のやすしきよしのような存在?
(謎1)二人は元祖・尾崎豊だった?
767年に近江の国に生まれた最澄は、19歳で年間10人しか認められない朝廷の正式な僧侶に。仏教界の若きスーパースターだった。
7歳下の空海も18歳で奈良に行き、キャリア官僚になるため猛勉強の日々。だが、この時は全くの無名。
奇しくもこのあと二人はドロップアウト。
最澄は僧侶になって間もなく、法華経などの研究のため比叡山に籠もってしまう。空海も奈良を離れ山に入った。
いったい二人に何があったのか?
当時の仏教は「位」とか「お寺を建てる」ための仏教だったので、嫌気が差し、自分の好きなことができる仏教を求めたのではないかとみられる。
奈良時代後期、僧侶として出世することが社会的ステータスになったが、僧侶が政治に介入することが増え、世の中は混乱。貴族たちの脱税のために寺院が利用されるなど堕落の一途を辿っていた。
社会に反発する二人の姿は、まさに反逆のカリスマ尾崎豊!?
そんな中、京都に都を移した桓武天皇は、新しい宗教とスターが必要だと考えた。そこで、比叡山にいた最澄を朝廷の重要な役職に任命し、天台宗を開くことを認めた。再び主流に戻ってきた最澄。
そして二人はやがて再び共通の思いを抱く。「唐に行こう」。当時の唐は最先端国家。日本は遣唐使を通じて新しい仏教を学んでいた。
日本だけで仏教を極めるのに限界を感じた二人は唐を目指したのだ。
804年、最澄38歳、空海31歳の時、これまで接点のなかった二人は、奇しくも同じ遣唐使の一員として唐に向かうことに。
桓武天皇に認められていた最澄は旅費も無料、通訳付きの特別待遇。しかし空海は長期滞在が義務づけられた、その他大勢の留学僧だった。
実は空海は正式な僧侶の手続きをしていなかった。慌てて手続きをして遣唐使船に飛び乗った。旅費をどうやって稼いだかは未だに謎。
(謎2)二人が持ち帰った密教とは?
空海は2年余りの期間で驚異的な活躍を見せた。彼が目に付けたのが当時最先端と言われていた密教。難解なサンスクリット語をすぐマスター。密教の経典や曼陀羅もゲット。わずか2カ月で密教の全てを受け継いだ。日本で埋もれていた天才は世界に旅立つことで花開いた。
一方、最澄は視察目的の短期留学ということで、世界的に主流だった天台宗の奥義をマスターしたものの、1年足らずで帰国。それゆえ密教に関しては不完全なままだった。もっと学びたかったのだが。
密教というものが大きな力を持っているという情報が日本にも入ってきて、しかも日本では桓武天皇から嵯峨天皇に変わっていた。「天台宗もいいが今の流行は密教だ」と。
嵯峨天皇は、密教をマスターした空海に仏教で国家を守る役割を任せることにした。エリート最澄についに並んだのである。
最澄はプライドを捨て、7歳下、しかも格下の空海に弟子入り。
元来努力型の秀才の最澄は真摯に学び、空海もそんな姿に感銘して、お互い尊敬し合う仲になった。
そもそも、密教とはどんな教え?
大日如来と一体化することを目指したものだが、それまでの仏教が経典によって広く教えを伝えようとしたのに対し、密教は師匠から弟子へ口伝えで奥義を教える。
そんな密教は最近の仏像ブームに一役買っている。貢献したのは曼陀羅の存在。言葉で表すのが難しい密教の世界観を見た目で示すもの。
曼陀羅は何を表しているのか?
もともと原点は、見えない世界の仏を見えるようにして我々に教えてくれるという発想。仏のグループ分けは曼陀羅によって初めて日本人にもたらされた考え方。
喩えるなら、たけし軍団の相関図のようなもの?人間関係が一目瞭然となる。
曼陀羅は、見た目で表すことで誰にでも分かりやすく密教の世界観を教えた。こうして庶民の拝む対象が明確になり、仏像は平安時代に一大ブームになった。
日本に多くの仏像が残っているのは、空海と最澄が伝えた曼陀羅が大きく影響。
(謎3)仲の良かった二人が決別した理由とは?
些細なことがきっかけ。密教の経典の貸し借りで仲違いしたのだ。密教の秘法を学んでいない最澄の申し出を空海が拒絶したためだった。
さらにその後、空海のカリスマに魅せられた最澄の弟子が空海に弟子入りしてしまった。
これらを機に二人の関係は断絶したと言われている。
密教というのは経典を写すとか聞くだけとか頭の中で考えるだけでなく、自分でやってみるもの。最澄は忙しくてそれをやる時間がなかった。だから最澄はその時点で天台宗に密教的な要素を含めるのはやめようと。
密教に対する考え方が違っていて、それぞれ自分の信じる別の道を歩いた。
(謎4)二人が今の日本人にもたらしたものは?
最澄が開いた比叡山延暦寺は仏教の総合大学といわれ、その後のスーパースターを数多く輩出。浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗などは、もともと天台宗から派生したもの。
一方、空海はそのカリスマ性ゆえに自らが信仰の対象になった。川崎大師や西新井大師などの「大師」とは弘法大師、つまり空海のこと。また「弘法も筆の誤り」という諺を残すほど書の達人。さらに漢詩の文集や解説書を記すなどマルチな才能を発揮した。
そして空海は布教とともに全国を行脚し、社会貢献を行った。
空海が見つけたといわれる温泉は全国各地に存在している。さらに治水事業として行った「讃岐の水瓶」満濃池は今も利用されている。
また、四国八十八か所巡りは、修行中の空海が八十八の寺院を遍路したことから生まれたという。
努力を重ね多くの弟子を育てた最澄、天才的な才能で自らがカリスマとなった空海。
二人はそれまで高貴な人間の専有物だった仏教を広く民衆に広めることに成功。それこそが、彼らの最大の功績。仏教の日本化である。
日本人の仏教にまつわる考え方や生活習慣は、この二人がいなかったら全く違ったものになっていたかもしれない。
ビートたけし曰く、「空海はロケットに乗る宇宙飛行士、最澄はロケットの設計図を書いた人」。
◆仏教の拡大と怨霊の存在
奈良の東大寺の大仏は作られた当時、世界一だった。
ここでひとつの疑問が。当時の日本は仏教が伝来して間もないアジアの小国。なぜ世界一の大仏を作ろうとしたのか。
そして現在、コンビニより多い寺の数。なぜ仏教はここまで受け入れられたのか。
日本でこれほど仏教が広まったのは、天皇が仏教を取り入れようと言ったからに他ならない。日本が仏教の力を借りて国をまとめようというふうに移行していったのは、怨霊に対する畏れがあったから。
日本最初の怨霊、長屋王(684-729)。
天武天皇の王子と天智天皇の王女の間に生まれた。いずれ天皇になってもおかしくない生まれ。事実、重要ポストを歴任していた。
が、当時、朝廷では藤原氏が台頭。藤原氏の四兄弟は天皇と姻戚関係を結ぶべく、妹で光明子を聖武天皇の皇后にしようと働きかけていた。長屋王はこれに強く反対し、藤原氏と対立。
長屋王はサラブレッドで重要な政治的地位にいたため、藤原氏から恨みを買って蹴落とされたと思われる。
729年、長屋王が政府転覆しようとしているという密告があった。藤原四兄弟らが率いる軍勢は、これ幸いにと長屋王の邸宅を包囲。長屋王は弁明する余地も与えられぬまま自害。妻や子も後を追った。
しかし長屋王の死後、異変が相次ぐ。
「日本霊異記」によれば、長屋王の遺骨を土佐の国に移して葬ったところ、農民たちの変死が相次ぐようになり、このままでは国中の農民が死んでしまうので、埋葬場所を変えてほしいという嘆願書が役所に出された。これが日本最古の説話集に記された怨霊の記録。
さらに都では疫病が大流行。藤原四兄弟もわずか4カ月の間に次々と命を落とした。
この祟りに対し、聖武天皇が神道以上に頼ったのが仏教。
疫病の流行が止むことを祈願して各国に釈迦像を造り、大般若経を写すことを命じた。741年には全ての国に巨大な寺院を二つずつ造る国分寺創建を宣言。743年には大仏建立を発表。
よく教科書で、大仏は疫病が流行ったから造られたと書いてあるが、その疫病自体が長屋王の怨霊だと恐れられていた。
聖武天皇は大仏を建立して出家している。現職の天皇が出家するというのは大変な事件だった。国民は天皇は神だと思ってる。その神が出家して仏にぬかずいてしまう。これを見た国民は、仏というのはそういう存在なのかという風に見ただろう。
聖武天皇の孫の時代の桓武天皇の時代にも怨霊は生まれた。それは桓武天皇の兄弟である早良親王。
桓武天皇はある決意をする。当時、都は怨霊の跋扈する非常に危険な状態と考えられていた。その怨霊から逃れるために、794年、建設途中の長岡京を放棄し、平安京への遷都を発表。
このことが、最澄、空海の運命を変えていった。
実は、平安京の、魔が入ってくるといわれる「鬼門」の方角で修行をしていたのが最澄だったのだ。
802年、国費留学生として最澄の唐への派遣を決定。最新の仏教を学んで怨霊から親族や民を守ってもらうためだった。
最澄が唐から戻ってまずしたことは、病床の桓武天皇の祈祷だったが、その甲斐なく桓武天皇は亡くなった。
その後を継いだ息子の平城天皇も、弟の伊予親王を謀叛の疑いで服毒自殺に追い込み怨霊化させてしまうなどし、桓武天皇亡き後も、平安京は怨霊に悩まされ続ける。
次の嵯峨天皇は空海が唐から持ち帰った密教に興味を持ち、今までにない特別な霊力ということで盛んに取り込んでいこうとした。
嵯峨天皇は日本中に疫病が流行った際、空海に祈祷を命じた。すると疫病はたちまち治まった。嵯峨天皇は空海への信頼度を深め、823年には京都の東寺を空海に与えるなどし、次の淳和天皇も空海を重用した。
密教は仏にすがるだけでなく、自分たちも修行して高めることによって、自然のいろいろな物までも動かしていく可能性がある。このような密教に人気が集まった。貴族、天皇も密教を取り入れていく。
◆天皇の即位儀礼に密教儀式
神道の中心である天皇が密教を儀式に取り入れていた。それは即位儀礼。従来は神道の儀式だけだったが、ある時そこに仏教の儀式も行われるようになった。
それを竹田恒泰氏の監修のもと再現。
天皇の即位式の際の最も重要な儀式「紫宸殿(ししんでん)の儀」は御所の紫宸殿で行われる。
板敷きの空間の中央に高御座(たかみくら)が置かれている。その内部には椅子が置かれている。
ここに座ることで、天皇の即位が象徴的に示される。この高御座に着席された後、天皇の密教儀式が行われていたというのだ。
天皇が女官の差し出した「さしば」で覆われている時にしていること。
密教で仏を表すポーズである印相を組み、仏を意味する言葉、真言を唱える。どちらも大日如来を示すものだったと考えられている。
なぜ重要な儀式に仏教が取り入れられたかというと、神仏習合が進んでいたから。神道の最高神は天照大御神だが、仏教ではこれは大日如来に相当するんだという考え方。
天皇は即位の儀礼の時に、神道儀式で天照大御神の霊力を受け、仏教儀式で大日如来の霊力を受ける、これによって天皇は完成すると。
この即位勧請は平安時代に始まって、幕末の孝明天皇まで続けられた。
そして明治維新。廃仏毀釈で仏教を叩いた新政府。
日本に仏教の霊力は必要とされなくなったのか?
実は明治天皇は即位の前日、ある人物の怨霊の鎮魂を丁重に行っていた。その人物こそ史上最大の怨霊と呼ばれた崇徳天皇(昨年紹介済。「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(2)終参照)。
この時、神道・仏教の両方でお祀りがなされた。
このように、日本人は神様・仏様、両方を平安時代から現在まで大切にしてきた。
私たちが神社・寺を区別せず、神様・仏様に同じようにお祈りしてきた理由は、このような歴史に隠されていたのだ。
◆ビートたけし、人生初の高野山参り
空海が「東西に龍の臥せるが如く」と表した高野山。密教の聖地。
悟りの世界を具現化したというその地を、ビートたけしが訪ねた。
まず壇上伽藍(だんじょうがらん)。
伽藍とは僧侶が住んで仏道を修行する所。
朱に塗られた根本大塔は建物自身が、太陽の化身とも言われる大日如来を象徴している。
ご本尊は胎蔵界大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)。脇には、金剛界四仏が鎮座し、さらに周りの十六本の柱には菩薩が描かれ、全体で悟りの世界を象徴する金剛界、胎蔵界、二つの曼陀羅を立体的に表現している。
胎蔵界の曼陀羅は現実の世界をそのまま表したような世界で、大日如来が中心にいて、人間が修行によって仏に近づく事を表現。
金剛界は悟りの世界で、仏の方から我々に救いの手を差し延べるもの。
テレビも映画も何もない時代の人にとっては、曼陀羅は別世界。今よりももっと感動し、曼陀羅の世界に入ったであろうと思われる。
立体曼陀羅の前に立つ時、人は仏教を体感するのかもしれない。
今からおよそ1200年も前に山の上に築き上げられた聖地・高野山。
どれほどの労力と思いが注ぎ込まれたのだろうか。
当時ほとんど知る人のいなかった真言密教をひとり学び、日本に根付かせた空海とは一体どんな人物だったのか。
空海直筆の国宝「聾瞽指帰(ろうごしいき)」。24歳の時の作品。
戯曲風に、儒教、道教、仏教を論じ、自らが仏教を選び出家する決意を示している。
空海は中国語で書いている。中国の古典の知識をふんだんに使っている。
唐に渡って密教を修め、高野山を開いた空海。
持ち帰った真言密教は、その後、天皇から庶民まで多くの人を惹きつけた。
高野山真言宗総本山金剛峯寺。ご本尊は弘法大師、空海。
歴代天皇の位牌が今も安置されている金剛峯寺内には特別の部屋がある。上段の間。天皇や将軍の参拝時の応接間。総金箔張り。高野山がいかに信仰を集めていたかを物語る。
比叡山を焼いて高野山にも攻撃を仕掛けた織田信長も、本能寺に倒れたあと、高野山に墓が作られた。
高野山には、空海が今なお人々を救うためにこの地で行を続けている入定信仰がある。
午前6時。毎日、僧侶たちによって弘法大師(空海)に食事が届けられる。
食事を届ける御廟(ごびょう)。
奥の院に向かう道には20万基もの墓が並ぶ。
別宗派である浄土宗の開祖・法然。川中島を戦った上杉謙信と武田信玄。さらに豊臣秀吉……。
身分などで区別しない。この地では空海のもと、天皇から庶民まで同じ場所で眠っている。
同じ場所で未来永劫眠る。その元となるのは、空海が未来永劫にわたって祈り続けているという信仰。
空海の御廟に向かう最後の橋、御廟橋。ここから先は聖域中の聖域。
通常ではこの橋から先の撮影は認められていないが、今回は特別に御廟の拝殿である燈籠堂で行われる勤行を撮影させていただけることに。
1200年もの間、弘法大師が人々のために祈り続けてくれているという信仰。
弘法大師に対し、毎日食事を備え、祈りを捧げてきた何世代もの人々。
その思い全てが、毎日の勤行の中に息づいている。
たけしの感想。
「空海って人は、現代で言えば非常に科学的だなと。今だと、物(の原理)がいろいろ、原子とか分子の振動とか、そこの世界まで行くんだけど、意外と空海の頭の中にはそういう宇宙観とか、生命とか仏とかをかなりよく理解しようとしていて、人間の修行でも、なぜその修行をするのか科学的に考えたのでは。その科学的な中にもちゃんと日本独自の信仰とか、当時の日本の神道とかいろんな宗教の基盤に立って、それを融合させて、新しい宗教というのを作ったように感じる。装飾なんかを見ると、なぜそういう装飾が必要なのか、芸術的にも分かってるんじゃないかと。一種の天才ですね」
_________________________大ざっぱな内容紹介ここまで
私は高野山のある和歌山県に4歳から21歳まで住んでたんですが、実は高野山には一度も行ったことがないんです。
住んでたのが和歌山市内で、これが高野山から微妙に遠くて、学校の遠足や林間学校のコースには組み込まれなかったのが大きな理由かも。
むしろ大阪在住の人の方が行く機会があったんじゃないかという気が。
実際、生まれてからずっと大阪市内在住の夫に聞いたところ、「高野山は林間学校で行った」とのことです。
※拙ブログ関連エントリー
・09/1/3放送「たけしの“教科書に載らない”日本人の謎」良かったです
・10/1/2放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(1)
・10/1/2放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(2)
・12/1/9放送「たけしの教科書に載らない日本人の謎2012」(日本語特集)
★このブログが面白かったらクリックして下さい→
★ご面倒でなければこちらも→
________________________________________________
★トラックバックを下さる方へ
お手数ですがこちらに一度目を通されてから宜しくお願いします。
★コメント(投稿)を下さる方へ
初めてコメント下さる方は、お手数ですがこちらに一度目を通されてから宜しくお願いします。
Comments
日本人の精神に大きな影響を与えたのは平安時代以降の思想であることは間違いないので、このように特集されるのは当然ですし、教科書も政教分離との批判を恐れず、もう少し詳しく解説して欲しいものです。
一方、私は日本では奈良時代に栄えた法相宗に昔から関心があり、いろいろな研究書や解説書が蔵書となっていますが、残念ながら「理解した」とは言えないです。
一生かけて勉強したい問題の一つではあります。
いつも拝見させていただいていますが、コメントは初めてです。
仏教派生の言葉は特に興味深く拝見させていただきました。
ただ、ちょっとだけツッコミを。
canonはカタカナ表記はキヤノンです。発音するときは拗音ですが、表記するときは「ヤ」と書くようです。サイトでも「キヤノン」表記で統一されていますよ。
理由はそのほうがきれいに見えるとか、そんな理由だったと記憶しています。
私もこの番組楽しみにしていてみておりました。もっと深く知りたい、検索しましたらくっくりさんの素早いブログがあり、朝からパワーをもらった気分です。これからも読ませてくださいね。
ありがとうございました。
今年の番組もとても興味深い内容でしたね。
ただ、最初の一時間を見損ねていたので、まとめてもらってありがたいです。
校正ひととおり終わりました。rikkyさん、ご指摘ありがとうございました。この機会にちょっと調べてみました。読みは「キャノン」だけども表記を「キヤノン」とした理由など、大変興味深かったです。
聖武天皇の皇后は光明(こうみょう)皇后ですよ。
今年こそ良き年になりますように(  ̄ー ̄)人⌒☆
「あんた何様?日記」さんのリンクからやってまいりました。
この番組、後半の一部しか見ずじまいで何気に気になっていまして。
分かりやすいまとめを見られたのは思わぬ幸運、本当に有り難うございます。
ところで、菩薩様の解説の項の第5段落の冒頭ですが、
正しくは「如来は」ではなく「菩薩は」ではないでしょうか。
私の勘違いでしたら、大変失礼を……。
何かケアレスミスが多いですね。もういっぺんぐらい校正した方がいいかな…(¨;)
新年は、厳かな話題からスタートですね。
> 仏教が広まる前のインドでは、ヒンドゥー教という多神教が信仰されていた。
これは「バラモン教」ではないかと思います。ヒンドゥー教のスタートをバラモン教に数える人もいるので、完全な間違いではないのですが、普通は仏教の脅威を受けて民間信仰を取り入れた後の形をヒンドゥー教と言ったような。いかがでしょうか。
今年こそは明王の法力で、難解の衆生=民主党支持者を無間地獄から救い、破邪顕正=政権交代のご利益あらたかでありますように。
ご本尊のお不動様はピラミッドでは3段目の明王ですが、お寺のプロデュースが昔から上手くて、今年もすごい人出でした。
平和大塔で「成田屋・江戸人と成田不動展」(入場無料)をやっていて(海老蔵さんの写真もあった)、成田山が如何にして庶民のハートを掴んでいったかわかる展示で面白く見れました。
一方、近隣には将門信仰も根強く残っていて、絶対に参拝しない人達もいたりします。
番組はリアルタイムで見てましたが、バカボンの所はちょっと強引だった気がしました。
普賢さん、ご指摘ありがとうございます。うーん…、少し考えたのですが、番組ではヒンドゥー教となっていますので、今回はこのままにしておこうと思います。
【公務員のストライキ容認のための「パブリック・コメント募集」始まる】
■民主党「国家公務員制度改革」の正体は「公務員ストライキ権」
国家公務員制度改革推進本部事務局 12/24
自律的労使関係制度の措置に向けての意見募集
「国民に開かれた制度に向けて皆様の御意見を募集します」
平成22年12月24日(金)〜平成23年1月14日(金)正午(必着)
民主党の掲げた公約は「公務員給与の削減」であって
公務員にストライキ権を与えることではなかったはずです。
つまるところ、民主党政府=自治労ということです。
「民間がどうなろうと役所はつぶれません。自治労の権益が第一の民主党」
このパブリック・コメントに、この冬、自治労関係者は
「公務員にもストライキをする権利はある」「認めるべき」という意見を寄せるでしょう。
公務員の数は、国家公務員が約「64万人」、地方公務員が約「286万人」
「皆様」=「自治労の皆様」。
何も知らされない普通の国民(民間人)が、正月に屠蘇気分で家族そろって、のんびりしている間に、自治労組合員の皆様は「公務員にスト権を与えるべき」という趣旨の意見・コメントをせっせせっせと応募ということになりかねません。
募集期間が終わって、発表される結果は、
「大多数の国民の意見は、公務員にも労働争議権を認めるべきだと言う意見が多数を占めています。国民の皆様の意見を尊重し改革を進めて参ります」となるやもしれません。
一番重要なポイントは、現状では、「政治活動・組合活動にうつつを抜かす不良公務員、反日公務員」が手厚く保護されていて、罷免することができない点にあると思われます。国が罷免権を持つことが必要なのです。そのことを要求するコメントが寄せられることが望ましいと思われます。
しかしこの公務員の罷免権は諸刃の剣で、民主党政権下では、「国益に沿った行動する愛国公務員」が罷免対象になりかねません。要注意です。
内容を吟味して、おかしいと思われる点についてご意見をお寄せいただければと存じます。以下、概要をご案内申し上げます。
■■■■■ ◆ ハブコメ要領 ◆ ■■■■■
「自律的労使関係制度の措置に向けての意見募集」
ttp://www.gyoukaku.go.jp/koumuin/iken/index.html
これは告知に限らず皆様全体への個人的なお願いですが、投稿内容は簡潔にしていただけるとありがたいです(ブログ記事の内容に関係のない物は特に)。
曾爺ちゃんが晩年、高野山で山伏(引率)やってったんです。
たぶん、生活の中に自然と気付いてない事いっぱいあるんでしょうね。いろんな事想い出しました。
なにげに東大寺の四天王とか神道&仏像むっちゃ好きなんです(●´ω`●)ゞ日々是好日!
「アンカー」の青山さんのコーナーも生で見たので、こちらもありがたいものでした。
テキスト起こしはたいへんかと思いますが、これからもがんばってください。
2011年1月7日(金)
平城京の成り立ち、遷都の謎、日本国建立の時代に「歴史を裏から作り上げた男」藤原不比等の野望の全貌、そして彼が作り上げた「日本書紀」と「聖徳太子」の謎に迫る!
ttp://www.tv-tokyo.co.jp/program/detail/18426_201101072100.html
同じたけしの番組でも、これは酷かったですよ。
「聖徳太子は実在しない」説を唱えている大山誠一という学者の言い分をそのまま取り上げて、「聖徳太子は実在しない、日本書紀は捏造だ」と断定して終了。ミステリーなどタイトル得お付けながら、大山の主張のあいまいさや矛盾点などを無視してさも確定した歴史かの様に放送、かなりタチの悪い番組でした。
ただし、大山の様なサヨクの日本史否定論者達が幅を利かせているのも事実。マスゴミもコイツらばかりを取り上げるから始末が悪い。
ありがとうございます。
二年前から
「伊勢白山道」というブログにアクセスして今は本物だと実感しています♪
是非、ご参考までに