日本とトルコ 友好の歴史

何か前スレがまたえらいことに。
えーい、もう「起こし」なんてやめてやるぅぅぅ!
……なんてね、ウソウソ(^_^;
何週間もずっとこんな状態ですからもう慣れました。もはやなーんも気にしてません。
って、私がそうでも、読者様はそうもいかないですか。
すみません、何か雰囲気悪くなっちゃって。謝るしかないです。
あと、私のことを気にかけて下さっている皆様、交通整理を試みて下さっている皆様、ありがとうございます。
私としても自分なりに交通整理はしてきたつもりなんですが、かえって悪化したような気も……?(T^T)
前にも言いましたが、「中傷」と「批判」の境界線が曖昧で、私には判断が難しいのです。またこんなふうに荒れてしまう場合、誰か特定の1人だけが悪いというものでもないと思いますし。
とにかく、このことが原因で私が『アンカー』の起こし作業をやめるということはありません。その点はどうかご安心下さい。
むしろワタシ的に気になるのは、スレッド(エントリー)がどんどん伸びちゃって重たくなることです。
こうなったら「アンカー」専用の掲示板でも作りましょうかね。いや、2ちゃんねるに青山さん用の板もあるようだし、そっちでやってもらった方が手っ取り早い?
ま、この件はまたおいおい考えるとしまして、では本題、行きますよー。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■「串本を忘れない」 トルコ大使館武官、エ号慰霊碑に献花(紀伊民報5/22)
駐日トルコ大使館武官のエイユップ・ギュルレル陸軍大佐が21日、和歌山県串本町を訪れ、119年前に同町樫野沖で遭難したトルコ軍艦エルトゥールル号の慰霊碑に献花し、「トルコ政府とトルコ国民は串本町と串本町民をずっと忘れることはない」と感謝の言葉を述べたそうです。
ギュルレル大佐は「自分の子どもたちにも串本の地を体験させてやりたかった」と話し、奥さんと小学生の息子さん2人と一緒に訪れたとのこと。
そしてギュルレル大佐は串本町長に対し、「トルコは、献身的行為を決して忘れることはない」と述べたそうです。
ところが、このニュース、全くと言っていいほど報道されてませんね。
私はわりとテレビのニュース番組は見てる方なんですが、関西ローカルですら見かけませんでした(タイミングが悪かっただけかもしれませんが)。
エルトゥールル号事件で助けられたトルコ人。
そしてイラン・イラク戦争で助けられた日本人。
日本とトルコの100年越しの友好については、拙ブログの読者皆様はよくご存知でしょうが、この際ですから改めてまとめてみようと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

——明治23年(1890年)6月5日、650人の親善使節団を乗せたオスマン・トルコ帝国の軍艦エルトゥールル号が、横浜港に到着しました。
当時国内の改革を進め近代国家を目指していたトルコは、明治維新に成功した日本との友好を強く望んでいました。
1年余りの苦難の航海の末やってきた使節団は、各界の熱烈な歓迎を受け、明治天皇にも拝謁しました。
同年9月15日、任務を果たした使節団は帰国の途につきます。
この時、日本側は「この時期は日本の台風シーズンにあたっているから、出発を遅らせてはどうか」と勧めましたが、団長のオスマン・パシャ提督は帰途が遅れないようにということで、予定通りに出発しました。
そして不運にも、エルトゥールル号は神戸に向かう途中台風に遭遇、和歌山県串本本町大島の樫野崎沖で難破・沈没してしまったのです。
乗組員587人が犠牲となる大惨事となりました。

9月16日深夜、灯台守が海岸で遭難者の一人を見つけました。服はぼろぼろで全身傷だらけのその男性は言葉も通じません。
灯台守は「万国信号書」を見せて、三日月と星の国旗を決め手にトルコ人であること、多くの乗組員が海に投げ出されたことを知ります。
灯台守は村人に知らせ、救出活動が始まりました。
おびただしい船の破片、遺体。そこからまだ息のある人たちを抱き起こし、自分の体温で冷え切った遭難者の体を温め、命の灯を甦らせました。
この時代、村には電気も水道もガスも電話もありません。井戸水もなく、雨水を利用していました。米もとれないところで、村人の生活は貧しかったのです。
しかし、大島の400戸の島民は遭難者を救助しようと献身的に働き、負傷者の介抱や食事の世話に不眠不休で奔走しました。非常食用の鶏など、持てるもの全てを提供したのです。
こうして69人の乗組員の命が救われました。
また、亡くなった人たちは丁重に葬られました。

更なる治療を受けるため69人は神戸に移送されました。
明治天皇は彼らのために侍医を派遣、皇后陛下は看護婦13名を神戸に遣わされ、彼らに白衣を賜いました。
また、事件が新聞で報じられると日本中から2500万円に相当する義援金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられました。
明治天皇は島民の立派な行いを賞賛し、費用を申し出ることを求めましたが、島民は「当たり前のことをしただけ」と言って、これをきっぱりと断りました。
69人の生存者は、元気を回復して日本の軍艦「金剛」「比叡」に乗せられて帰国。
翌明治24年1月2日に無事イスタンブールに入港、トルコ国民の心からの感謝に迎えられました。
——時は流れ、エルトゥールル号の遭難から95年後。
昭和60年(1985年)3月18日。
イラン・イラク戦争の最中、イラクのフセイン大統領は、3月20日午前2時をもってイラン領空を戦闘域に設定すると宣言。
イラン上空を通る全ての飛行機を撃墜すると警告したのです。

イランの首都テヘランに在留していた各国の人々は、それぞれ自国の政府が用意した特別機で次々と脱出していきました。
しかし、日本政府は自衛隊機を憲法上の理由で派遣できず、民間に要請。
チャーター機が手配されている頃、こともあろうにイランがイラクの首都バグダッドへのミサイル爆撃を始めてしまいます。この時、日本人2名が負傷しました。
このように事態はますます悪化、テヘラン在留日本人はパニック状態に。
日本政府から要請を受けた日本航空は、チャーター機を成田空港に準備しましたが、外務省とイランの日本大使館や在留邦人会との打合せが遅れ、タイムリミット前に救出する時刻に間に合わない事態となりました。
日本航空は「帰る際の安全が保証されない」と、テヘランへ飛ぶのをあきらめました。
外務省やイランの日本大使館は各国に日本人救出を依頼したものの、どの国も自国民優先で、危険を冒してまでも他国民を救う国はありません。
日本人だけがテヘランのメヘラバード空港に取り残される中、フセイン大統領の通告した猶予時間は刻々と過ぎていきました。
そんな絶望的な状況の中で、日本人救出に立ち上がった国がありました。
それがトルコです。

望みを失い空港で途方に暮れていた日本人の前に、トルコ航空機2機が降り立ちました。このトルコ航空機によって215人もの日本人が無事に脱出することができたのです。
航空機が離陸したのは、攻撃開始時刻のわずか1時間20分前のことでした。

なぜトルコ航空機は撃墜される危険を冒してまで、日本人救出に動いてくれたのでしょうか。
当時は日本政府もマスコミもわかりませんでした。
その理由を、 当時の駐日トルコ大使ヤマン・バシュクット氏はこのように述べています。
「特別機を派遣した理由の一つがトルコ人の親日感情でした。その原点となったのは、1890年のエルトゥールル号の海難事件です」(平成13年5月6日付産経新聞)
また、元駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏は次のように語っています。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人達や日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子供達でさえエルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」(濱野晃吉「エルトゥールル号が結んだ日本とトルコの友情」新しい歴史教科書をつくる会会報『史』平成20年5月号)
エルトゥールル号遭難から95年も経っていたのに、トルコの人々は明治の日本人が示した真心と献身への感謝を忘れていなかったのです。

ちなみにこちらは、日本との修好100年を記念してトルコが発行した切手だそうです。微笑むトルコ女性と日本女性、その後ろにはエルトゥールル号が描かれています。
かつての人気テレビ番組「兼高かおるの世界の旅」で有名な兼高かおるさんは、世界で最も親日的な国はトルコだと述べています。
トルコ人に「どの国に行ってみたいか」と聞くと、9割もの人が「日本へ行きたい」と答えるそうです。
その背景には、もちろんエルトゥールル号の遭難者救助のエピソードをトルコ人がよく知っているということもあるのでしょうが、しかし、日本とトルコのつながりにはもっと大きな歴史的な背景があります。
というのは、かつて両国とも帝政ロシアの南下政策に直面しており、地政学的に見て似たような立場に置かれていたのです。
ロシアの南下を地中海の出口でおさえていたのがトルコ。他方、東アジアでおさえていたのが日本でした。
ロシアは満州から朝鮮半島に進出してきましたが、これと日本が対決したのが日露戦争です。

トルコは日露戦争で日本に対する最大限の支援を行いました。
海上交通の要所であるボスポラス海峡を通り過ぎようとするロシアの黒海艦隊の一部や国境近くのロシア軍の動きをつかんで、トルコは逐一日本に通報していました。
そして日本がロシアに勝った時の、トルコの人々の喜びようは大変なものでした。
アジアで唯一、白人の国家と戦って勝った国が日本だったのです。
乃木希典や東郷平八郎が英雄としてトルコの教科書に載りました。
トルコの道路には「トウゴウ通り」の名が付けられ、子供の名前にすら、ノギ、トウゴウの名が好んで付けられたそうです。——
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
残念なことに日本では、まだまだこういった両国の友好の歴史を知らない人が多いようです。
こういう話こそ教科書に載せて子供たちに学ばせるべきではないでしょうか。
が、実際のところ、エルトゥールル号遭難事件をコラムとして扱っているのは、今年採択にかけられる全9社の中学歴史教科書のうち、大阪書籍と自由社と扶桑社のみです(撃論ムック【世界を愛した日本】「中学歴史教科書2009年度版 徹底比較」)。
日本とトルコの友好を絶やさないためにも、私たちはこの100年以上に渡る両国の絆の歴史を、次世代に語り継いでいかねばならないと思います。
……っていうか、まずはこの問題から何とかしなければ!(T^T)
■トルコから寄贈され、野ざらしになっていた『友好の銅像』をなんとかしたい! まとめ
皆様、どうか署名活動にご協力下さい。
※参考文献&リンク:
・激論ムック「世界に愛された日本」【日本・トルコの絆は百年の時を超える/エルトゥールル号遭難とイラン・イラク戦争】藤岡信勝
・串本町HP>トルコとの交流 〜エルトゥールル号の遭難〜
・荒川区立図書館>大人の時間(日本を考える)>95年後の日本人を救うー1890年の日本人
・松江市のHP>子どもたちに伝えたい ジーンとするはなし
・小林義典氏のHP>エルトゥールル号事件
・〈YouTube〉知られざる日本トルコ交流史(出典:占部賢志 歴史探訪シリーズ 語り伝えたい日本人の物語 第二巻)
※拙ブログ関連エントリー
・08/11/33付:「雷」工藤艦長の武士道精神とサー・フォールの報恩
こちらは日英友好秘話です。
・・・・・・・・・・話は変わりますが・・・・・・・・・・
■在日韓国人ら新証明書携帯不要に 与党、民主が修正で一致(共同5/21)
不法滞在者と特別永住者を見分けるのが難しくなるってこと?
いちおう抗議先のテンプレ貼っておきますね。
・自民党
・内閣府
・首相官邸
・民主党
(前スレで情報下さった「なまえ」さん、「unknown_protcol」さん、ありがとうございました)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■「お気楽くっくり」更新済
人間いろいろ、会社もいろいろですが……
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takeshima dokdo dokto tokdo tokto
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ギュルレル大佐は「自分の子どもたちにも串本の地を体験させてやりたかった」と話し、奥さんと小学生の息子さん2人と一緒に訪れたとのこと。
そしてギュルレル大佐は串本町長に対し、「トルコは、献身的行為を決して忘れることはない」と述べたそうです。
ところが、このニュース、全くと言っていいほど報道されてませんね。
私はわりとテレビのニュース番組は見てる方なんですが、関西ローカルですら見かけませんでした(タイミングが悪かっただけかもしれませんが)。
エルトゥールル号事件で助けられたトルコ人。
そしてイラン・イラク戦争で助けられた日本人。
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——明治23年(1890年)6月5日、650人の親善使節団を乗せたオスマン・トルコ帝国の軍艦エルトゥールル号が、横浜港に到着しました。
当時国内の改革を進め近代国家を目指していたトルコは、明治維新に成功した日本との友好を強く望んでいました。
1年余りの苦難の航海の末やってきた使節団は、各界の熱烈な歓迎を受け、明治天皇にも拝謁しました。
同年9月15日、任務を果たした使節団は帰国の途につきます。
この時、日本側は「この時期は日本の台風シーズンにあたっているから、出発を遅らせてはどうか」と勧めましたが、団長のオスマン・パシャ提督は帰途が遅れないようにということで、予定通りに出発しました。
そして不運にも、エルトゥールル号は神戸に向かう途中台風に遭遇、和歌山県串本本町大島の樫野崎沖で難破・沈没してしまったのです。
乗組員587人が犠牲となる大惨事となりました。

9月16日深夜、灯台守が海岸で遭難者の一人を見つけました。服はぼろぼろで全身傷だらけのその男性は言葉も通じません。
灯台守は「万国信号書」を見せて、三日月と星の国旗を決め手にトルコ人であること、多くの乗組員が海に投げ出されたことを知ります。
灯台守は村人に知らせ、救出活動が始まりました。
おびただしい船の破片、遺体。そこからまだ息のある人たちを抱き起こし、自分の体温で冷え切った遭難者の体を温め、命の灯を甦らせました。
この時代、村には電気も水道もガスも電話もありません。井戸水もなく、雨水を利用していました。米もとれないところで、村人の生活は貧しかったのです。
しかし、大島の400戸の島民は遭難者を救助しようと献身的に働き、負傷者の介抱や食事の世話に不眠不休で奔走しました。非常食用の鶏など、持てるもの全てを提供したのです。
こうして69人の乗組員の命が救われました。
また、亡くなった人たちは丁重に葬られました。

更なる治療を受けるため69人は神戸に移送されました。
明治天皇は彼らのために侍医を派遣、皇后陛下は看護婦13名を神戸に遣わされ、彼らに白衣を賜いました。
また、事件が新聞で報じられると日本中から2500万円に相当する義援金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられました。
明治天皇は島民の立派な行いを賞賛し、費用を申し出ることを求めましたが、島民は「当たり前のことをしただけ」と言って、これをきっぱりと断りました。
69人の生存者は、元気を回復して日本の軍艦「金剛」「比叡」に乗せられて帰国。
翌明治24年1月2日に無事イスタンブールに入港、トルコ国民の心からの感謝に迎えられました。
——時は流れ、エルトゥールル号の遭難から95年後。
昭和60年(1985年)3月18日。
イラン・イラク戦争の最中、イラクのフセイン大統領は、3月20日午前2時をもってイラン領空を戦闘域に設定すると宣言。
イラン上空を通る全ての飛行機を撃墜すると警告したのです。

イランの首都テヘランに在留していた各国の人々は、それぞれ自国の政府が用意した特別機で次々と脱出していきました。
しかし、日本政府は自衛隊機を憲法上の理由で派遣できず、民間に要請。
チャーター機が手配されている頃、こともあろうにイランがイラクの首都バグダッドへのミサイル爆撃を始めてしまいます。この時、日本人2名が負傷しました。
このように事態はますます悪化、テヘラン在留日本人はパニック状態に。
日本政府から要請を受けた日本航空は、チャーター機を成田空港に準備しましたが、外務省とイランの日本大使館や在留邦人会との打合せが遅れ、タイムリミット前に救出する時刻に間に合わない事態となりました。
日本航空は「帰る際の安全が保証されない」と、テヘランへ飛ぶのをあきらめました。
外務省やイランの日本大使館は各国に日本人救出を依頼したものの、どの国も自国民優先で、危険を冒してまでも他国民を救う国はありません。
日本人だけがテヘランのメヘラバード空港に取り残される中、フセイン大統領の通告した猶予時間は刻々と過ぎていきました。
そんな絶望的な状況の中で、日本人救出に立ち上がった国がありました。
それがトルコです。

望みを失い空港で途方に暮れていた日本人の前に、トルコ航空機2機が降り立ちました。このトルコ航空機によって215人もの日本人が無事に脱出することができたのです。
航空機が離陸したのは、攻撃開始時刻のわずか1時間20分前のことでした。

なぜトルコ航空機は撃墜される危険を冒してまで、日本人救出に動いてくれたのでしょうか。
当時は日本政府もマスコミもわかりませんでした。
その理由を、 当時の駐日トルコ大使ヤマン・バシュクット氏はこのように述べています。
「特別機を派遣した理由の一つがトルコ人の親日感情でした。その原点となったのは、1890年のエルトゥールル号の海難事件です」(平成13年5月6日付産経新聞)
また、元駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏は次のように語っています。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人達や日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子供達でさえエルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」(濱野晃吉「エルトゥールル号が結んだ日本とトルコの友情」新しい歴史教科書をつくる会会報『史』平成20年5月号)
エルトゥールル号遭難から95年も経っていたのに、トルコの人々は明治の日本人が示した真心と献身への感謝を忘れていなかったのです。

ちなみにこちらは、日本との修好100年を記念してトルコが発行した切手だそうです。微笑むトルコ女性と日本女性、その後ろにはエルトゥールル号が描かれています。
かつての人気テレビ番組「兼高かおるの世界の旅」で有名な兼高かおるさんは、世界で最も親日的な国はトルコだと述べています。
トルコ人に「どの国に行ってみたいか」と聞くと、9割もの人が「日本へ行きたい」と答えるそうです。
その背景には、もちろんエルトゥールル号の遭難者救助のエピソードをトルコ人がよく知っているということもあるのでしょうが、しかし、日本とトルコのつながりにはもっと大きな歴史的な背景があります。
というのは、かつて両国とも帝政ロシアの南下政策に直面しており、地政学的に見て似たような立場に置かれていたのです。
ロシアの南下を地中海の出口でおさえていたのがトルコ。他方、東アジアでおさえていたのが日本でした。
ロシアは満州から朝鮮半島に進出してきましたが、これと日本が対決したのが日露戦争です。

トルコは日露戦争で日本に対する最大限の支援を行いました。
海上交通の要所であるボスポラス海峡を通り過ぎようとするロシアの黒海艦隊の一部や国境近くのロシア軍の動きをつかんで、トルコは逐一日本に通報していました。
そして日本がロシアに勝った時の、トルコの人々の喜びようは大変なものでした。
アジアで唯一、白人の国家と戦って勝った国が日本だったのです。
乃木希典や東郷平八郎が英雄としてトルコの教科書に載りました。
トルコの道路には「トウゴウ通り」の名が付けられ、子供の名前にすら、ノギ、トウゴウの名が好んで付けられたそうです。——
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
残念なことに日本では、まだまだこういった両国の友好の歴史を知らない人が多いようです。
こういう話こそ教科書に載せて子供たちに学ばせるべきではないでしょうか。
が、実際のところ、エルトゥールル号遭難事件をコラムとして扱っているのは、今年採択にかけられる全9社の中学歴史教科書のうち、大阪書籍と自由社と扶桑社のみです(撃論ムック【世界を愛した日本】「中学歴史教科書2009年度版 徹底比較」)。
日本とトルコの友好を絶やさないためにも、私たちはこの100年以上に渡る両国の絆の歴史を、次世代に語り継いでいかねばならないと思います。
……っていうか、まずはこの問題から何とかしなければ!(T^T)
■トルコから寄贈され、野ざらしになっていた『友好の銅像』をなんとかしたい! まとめ
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・串本町HP>トルコとの交流 〜エルトゥールル号の遭難〜
・荒川区立図書館>大人の時間(日本を考える)>95年後の日本人を救うー1890年の日本人
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NHKスペシャル「アジアの“一等国”」偏向報道問題
国民の受信料で作られた反日洗脳番組に抗議を!
東京5・30 NHK「JAPANデビュー」に抗議する国民大行動・第2弾
【街宣活動】
日 時:平成21年5月30日(土)11時00分
場 所:渋谷ハチ公前
【デモ行進】
日 時:平成21年5月30日(土)
14時00分 集合 代々木公園けやき並木中央
14時30分 出発
到着場所:代々木小公園
■この問題の詳細は以下のサイトを。デモ・集会の情報もあります。
・台湾は日本の生命線!
・NHKスペシャル 「アジアの“一等国”」偏向報道問題まとめWiki
・NHKを正す会 署名サイトもよろしく。
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Comments
☆トルコと日本(AA劇場)☆
ttp://iroiro.alualu.jp/syosetu/torukoaa.html
特に「テシェキュウ」の下りはジーンと来る。
(ありがちな、外国に対する勘違いも含めたトルコでの反応が)
“アタテュルク銅像事件”はトルコに反日感情をもたらしたのか?(1) - 歐亞茶房http://blog.goo.ne.jp/karategin/e/a6b99c52b63e6d015c1cf302fe236f21
(2)
http://blog.goo.ne.jp/karategin/e/c87a29d6462ffe86ba0f81bb5ecbbd58
(3)
http://blog.goo.ne.jp/karategin/e/1f205c1f813c48f979dda928a1621eb0
少しでも多くの方に広めていきたいですね。
TBさせていただきます。
いつも勉強になってます!
私は和歌山県南部の出身ですがこのトルコ軍艦の遭難事件は子供の頃は知りませんでした。約20年前に慰霊碑の近くの記念館に行った時初めて知りました。くっくりさんが冒頭に紹介されていますが、地元の「紀伊民報」という地方紙にはお偉いさん(?)が来た時など掲載されます。今はどうか知りませんが20数年前はあまり訪れる人もいない様子でした。くっくりさんの紹介で大勢の人に、串本の大島の人達の事や日本とトルコとの関係を知ってもらえて良かったと思います。
ナンバーが、うまく書けません。
「眞悟の時事通信」の
バックナンバーは 366番です。
いつも個別にレスを差し上げられず申し訳ありません。
身に覚えありさん:
本文では引用しませんでしたが、藤岡信勝さんによれば——、ドイツ在住のクライン孝子さんがエルトゥールル号の話を知った時、「ドイツに働きにきてるトルコ人が、日本人を見かけると、とても親密な態度をとる理由がやっとわかった」と語ったそうです。
ワシさん:
これは知りませんでした。そんなに慌てる必要もないってことですかね。
taasaさん:
私のパソコンから見ると、文字化けせずに見えています。但し同じパソコンでもブラウザを別の物に変えて見ると、文字化けして見えます(^_^;。これは機種依存文字というもので、環境によってちゃんと見える人、見えない人の差が出てしまうのです。
http://apex.wind.co.jp/tetsuro/izonmoji/2.html
なので、こういう場合は面倒だけども手打ちで「No.」とか「NO.」とかいうふうに入力してから投稿していただければ解決します。
あと、以前からtaasaさんに投稿いただく時、emailのところ(あるいはurlのところ)にうちのTrackback URLが入力されてるようですが、これは何か意味が??(すみません、ちょっと気になったので)
串本の皆さんも、明治天皇皇后陛下はじめ日本の皆さんもホントに立派です。トルコは日露戦争でも日本を支援してくださったのですね。日本は日露戦争の捕虜にも手厚い待遇をしたという記述がロシア貴族によって残されていますね。
しっかし何でこういう素晴らしい話を教科書に載せんのか!(怒)。
小泉前首相がトルコ航空の関係者全員を表彰したのはGJでした。
全然関係ないのですが…
先程ノムヒョン大統領が自殺したとの報を聞き驚きました。謹んでご冥福をお祈りします。
いまは、特定の国や人以外を称えてはいけない風土が出来ました。
左翼や在日や創価学会は恐ろしいモンスターに成長しています。
それとurlについてですが、特に意味はありません。すみません私初心者でして最初よくわからず入力し、以後pcに記憶されて、そのまま何も考えず投稿していました。お恥ずかしいです。
くっくりさん、ずうっと、はあ????だったんですね。すみませんでした。
いえ、私の方こそ大変に失礼なことを。前回お名前を間違えて入力してしまいました。ごめんなさい。
それと、文字化けについてえらそーに書いておいて、自分が文字化けしちゃってます(^^ゞ
身に覚えありさんにあてて書いたレスの「藤岡信勝さんによれば」の後ろの「——」は、線を2本入れたんです。「……」でもよかったんですが。「——」はエントリーの本文では化けずに、なぜかコメント欄では化けてしまうんですわ。自分でそのことすっかり忘れてました(T^T)
先の証明書携帯に関して水間氏の方からもお願いがありましたのでその記事へのリンクを張らせていただきます。
http://www.freejapan.info/?News%2F2009-05-23
先の国籍法改悪のときと同じ事態になりそうなのでぜひご参加を。自分も昼飯返上して送付しました。
トルコとの友好を堅持しなければなりませんよねぇ。
無論、自分も産経新聞でかの署名を知ったのでその日のうちに署名いたしました。
日本人ならしっかり知る必要があるのにな…。
柏崎市の対応は「民・民の問題だから…」と言う事で逃げ回っているような報道をしていました。
柏崎市民の議員と思しき人が「串本町で引き取ってもらえないか?」と意見していました。その後、串本町まで取材に行ってコメントも放送されていました。串本町の記念館らしき人の話では、「エルトゥールル号遭難の事は町民みんなが知っている事で、毎年慰霊祭も行われている、来年はエルトゥールル号遭難から120年になるので、日本とトルコの有効のために是非受け入れたいと考えているし、反対する町民はいないのではないか?」と放送されていました。
何とか実現すると良いですね…。
×串本町の記念館らしき人
○串本町の記念館長らしき人
×有効
○友好
蛇足ですが、イラン・イラク戦争の事は取り上げられていませんでした。
また、トルコ人のインタビューもありましたが、「トルコの父」と言う事で知らない人はいないそうなので、柏崎市は「民・民の問題」と逃げ回っていないで、しっかりとした対応を取って欲しいと思いました。トルコが善意で寄贈された像なのですし。
なんかビデオにも録画してないしうろ覚えな事しか書けなくてすみません、なんですけれど…。
記念行事も串本町−トルコ間で行なわれているシーンもありました。