イザベラ・バード著
「朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けするシリーズ、第4弾。最終回です。
※過去記事
8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)
9/13付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)
9/28付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(3)
閔妃殺害事件の記述が終わり、日清戦争の記述が再開します。その後は「断髪令」「露館播遷(ろかんはせん)」へと展開します。
こちらは「第三十六章 一八九七年のソウル」(p.544)に登場する南大門の写真です。
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後で引用しますが、
1897年のソウルは、バードが最初に足を踏み入れた1894年と比べ、ずいぶんマシになっていたんだそうです。
以下、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」の引用です。
〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
フリガナについては固有名詞以外の判りやすいものは省略しました。
「朝鮮紀行」引用ここから_________________________
●正午にわたしたちは高陽〈コヤン〉に着いた。戸数三〇〇の貧しい町で、かつては立派であったと思われるかなり大きな郡庁もくずれかけている。ここをはじめ平壌〈ピヨンヤン〉までのどの郡庁所在地でも、二〇人から三〇人の日本兵が庁舎に寝起きしていた。
住民たちは三世紀前の遺産である憎しみから(引用者注:秀吉の朝鮮出兵のこと)日本兵を嫌っているが、彼らに対してはなにも言えないでいる。日本兵がきちんと金を払ってものを買い、だれにも危害を加えず、庁舎の門外にはめったに出てこないことを知っているからである。(p.371)
●(松都〈ソンド〉にて。朝鮮第二の都市で開城〈ケソン〉ともいう)広い通りが一本あって、その広さは両側にならんだわらぶき小屋で狭められてはいるものの、この通りでは街は分かたれている。ここには定期市に似たざわめきと活気と小商いの光景があった。((中略))わらぶき小屋では低い台や地面に敷いたむしろの上に、ありとあらゆる朝鮮の必需品と贅沢品がならんでいる。そのなかにはイギリス製の雑貨もあれば、血を大量に含んだ牛の干し肉もある。
朝鮮で屠殺した肉を見れば、だれだって菜食主義者にならざるをえない。ヤギの屠殺方法は小さな川で引っ張りまわるというもので、この方法だと癖のあるにおいが消えるといわれている。犬は首になわをかけて振りまわし、そのあとで血を抜く。朝鮮人の手にかかった仔牛の運命については前に述べた(引用者注:
第2弾のp.223参照)。暑い日ざしの下ではせわしなくて汚く、哀れで不愉快な光景だった。(p.381-382)
●松都の宿屋はどこもひどく、親切にも李氏(引用者注:イ・ハギン氏。旅に同行した通訳)の友人がわたしに家を一軒貸してくれた。一部くずれてはいるものの、ふた部屋あってイム(引用者注:駐朝イギリス総領事ヒリアー氏の紹介で同行した英公使館の衛兵)とわたしが泊まれる。そこに滞在し、わたしは快晴の気候に恵まれた二日間をすごした。李氏が友人の家を訪ねがてら、松都の名所に案内してくれた。名所は半日でめぐることができ、上流階級の屋敷も何軒か訪問した。わたしの宿泊先はそれに比べてとても快適ではあったけれども、イギリス本国ならば上流階級の牛小屋にも劣りそうである! とはいえ、朝鮮は一年の大半がすばらしい気候に恵まれている。またわたしの宿泊先にかぎらず、
どこもかしこもみすぼらしくてほこりとごみだらけというのは信じがたいほどではあっても、この町はかなり「裕福」なほうである。給水のひどさは話にならず、あらゆる種類のごみと汚物が井戸の口まで堆積している。治安に関しては、大都市のまん中にあるさびしい横町で、外国人女性が英語のひと言も話せない朝鮮人兵士ひとり以外従者がまったくいなくても、無事暮らしていけるという事実は多くを物語る。朝鮮人兵士はそうしようと思えば、わたしの喉をかき切り金を奪って逃げることもできるのである。金のありかも簡単にわかるにちがいない。なにしろわたしの家には鍵というものがないのであるから!(p.382-383)
●
朝鮮の官僚は大衆の生き血をすする吸血鬼である。わたしたちはすでに京畿道〈キヨンギド〉との境である塔●(引用者注:山ヘンに晃)〈タプコゲ〉を越え、黄海道〈フアンヘド〉に入っていた。政府官僚の大半は、どんな地位にいようが、ソウルで社交と遊興の生活を送り、地元での仕事は部下にまかせている。しかも在任期間がとても短いので、
任地の住民を搾取の対象としてとらえ、住民の生活向上については考えようとしない。(p.392)
●四〇人の日本兵が荒れはてた庁舎を風通しのよい宿舎として使っていた。通りを歩いていたとき、そのうちのひとりが私の肩に手をかけ、国籍と、いつこの地に着いてどこへ行くのかをたずねた。礼儀にやや欠けるとわたしは思った。部屋にもどると一〇人ばかりの日本兵がやってきて徐々に戸口をふさぎ、戸を閉められないようにしていまにも部屋のなかへ入りそうになった。きちんとした身なりの警察官がわたしに帽子を掲げて会釈し、李氏の部屋に行ってわたしがどこから来てどこへ行くのかを尋ねた。そして李氏の返事を聞いて「わかりました」と答え、ふたたびわたしに帽子を掲げた会釈をして部下もろとも引き上げた。このような家宅訪問は何度か受けた。
たいがいとても丁重だったとはいえ、質問のしかたは、こちらには当然その権利がある、この国の支配権はいったいだれにあると思っているのだといわんばかりだった。この町でも、またほかのどこでも、人々は日本人に対して激しい嫌悪感をいだきながらも、日本人が騒ぎを起こさず、なにを手に入れるにもきちんと金を支払っていることを認めざるをえない。日本兵の来ているのが洋服でなかったなら、部屋を取り囲んだ彼らをわたしは無礼だとは考えなかったことだろう。(p.392-393)
●平壌は猛襲を受けたわけではない。市内では実際の戦闘はなく、敗退した清国軍も占領した日本軍も朝鮮を友邦として扱っていた。
この荒廃のすべてをもたらしたのは、敵ではなく、朝鮮を独立させ改革しようと戦った人々なのである。「倭人〈ウオジエン〉(矮人〈こびと〉)(引用者注:日本人のこと)は朝鮮人を殺さない」ことが徐々に知られるようになり、おおくの住民はもどってきた。(p.403)
●
日本軍が入ってきて、住民の大部分が逃げだしたのを知ると、兵士は家屋の木造部をひきはがした。往々にして屋根も燃料やあかりに使った。そして床で燃やした火を消さずに去るので、家屋は焼失した。彼らは避難民が置いていった物品を戦闘後三週間で略奪し、モフェット氏宅ですら七〇〇ドルに相当するものが盗まれた。氏の使用人が書面で抗議したが、
略奪は将校も現場にいて容認されていた。このようにして朝鮮で最も栄えた都の富は消えてしまったのである。(p.403-404)
●
そのあとの占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物資に対してはすべて順当な代金が支払われた。日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるをえず、また、日本軍が引き上げれば、訓練隊*1がのさばることもよくわかっていた。訓練隊は日本人から教練と武器を受けた朝鮮人の連隊で、すでに人々に暴力をふるったり物を盗んだりしはじめており、行政当局に公然と反抗していた。(p.404)
*1 引用者注:1895年10月の閔妃殺害事件により日本の影響力が薄れた後、ロシアの将校がこの朝鮮人部隊に軍事教育を施すこととなる。ちなみに、日本の前はアメリカの軍事顧問がこの任に当たっていた。
●一八九四年九月一五日の午後、
左将軍(清国軍の将軍)は奉天出発時の五〇〇〇人から脱走したり死んだりで隊員の大幅に少なくなった軍を率いて最後の出撃を行った。七星門をくぐり、急勾配の坂を平野に向かってジグザグにくだり、そして門からおそらく三〇〇ヤードと離れていないところで斃〈たお〉れたのである。朝鮮人の話によれば、部下が将軍の遺体を運びだそうとしたが、その途中で銃撃に遭い、あとにつづいた修羅場で遺体はどうなったかわからないという。
将軍が斃れたと思われる地点にはまわりに柵をめぐらした端正な碑が日本人の手で立てられており、その一面にはこう記してある。
<奉天師団総司令官左宝貴ここに死す。>
またべつの面にはこうも記してある。
<平壌にて日本軍と戦うも、戦死。>
敵軍の名将に捧げた品位ある賛辞である。
●城内の小高い丘の上に、日本人は戦没者一六八名の慰霊塔を建てた。《軍神堂》を病院に変え、日本人負傷兵はいうまでもなく手厚く看護されたし、
また清国軍負傷兵も、当然その多くが負傷がもとで死んでしまったあとであるとはいえ、べつの建物できめ細かな看護を受けた。清国軍兵士の死体を放置した報いはいまわしい形で起こり、発疹チフスが突如流行した。この病気が日本軍に対していかに猛威をふるったかは、済物浦〈チエムルポ〉の日本軍墓地にある墓碑の長い列からある程度推測できる。(p.409)
●わたしが徳川〈トクチヨン〉にいるときに郡守が任地にもどってきて、人々はこのできごとにある程度関心を示した。雑卒が船着場付近の土手にならんで警笛を鳴らし、白服に黒い紗の上着をまとった四〇人の部下と二、三人の歌姫が輿〈こし〉に乗った郡守を出迎え、官庁まで輿といっしょに走る。数人の男たちが冷ややかに見物していた。
これほどさもしい随行団は考えられないほどだった。
地方行政官のなかにはこういった従者を何百人も持つ者があり、その費用は疲弊したこの国が払うのである。当時はひとつの道〈ド〉に四四人の地方行政長官がおり、そのそれぞれに平均四〇〇人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、その食事代だけをとてみても、ひとり月に二ドル、年に総額で三九万二四〇〇ドルかかる。
総勢一万七六〇〇人のこの大集団は「生活給」をもらわず、究極的に食いものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に「搾取」するのである。その方法をわかりやすく説明するために、南部のある村を例にとってみる。電信柱を立てねばならなくなり、道知事は各戸に穴あき銭一〇〇枚を要求した。郡守はそれを二〇〇枚に、また郡守の雑卒が二五〇枚に増やす。そして各戸が払った穴あき銭二五〇枚のうち五〇枚を雑卒が、一〇〇枚を郡守が受け取り、知事は残りの一〇〇枚を本来この金を徴収した目的のために使うのである。
こういった役得料を廃止し郡守を減給する勅令が最近発布された。徳川の庁舎の荒廃ぶりと一般民の住まいの不潔さとみすぼらしさは、まさしくここにきわまれりといったところだった。(p.423-424)
●出発前、ほこりとごみと汚物にまみれた宿の庭にすわり、うつろに口をぽかんと開けた、無表情で汚くてどこをとっても貧しい人々に囲まれると、わたしは
羽根つきの羽根のように列強にもてあそばれる朝鮮が、なんの望みもなんの救いもない哀れで痛ましい存在に思われ、ロシアの保護下に入らないかぎり一二〇〇万とも一四〇〇万ともいわれる朝鮮国民にはなんの前途もないという気がした。ロシアの統制を受ければ、働いただけの収入と税の軽減が確保される。何百人もの朝鮮人が精力的に働く裕福な農夫に変身しているのをわたしはシベリア東部で見ているのである。(p.425)
●(徳川から平壌への道中、戛日嶺〈アルリヨン〉にて)気候はすばらしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱と盗賊団は少ないとくれば、朝鮮人はかなり裕福でしあわせな国民であってもおかしくない。
もしも「搾取」が、役所の雑卒による強制取り立てと官僚の悪弊が強力な手で阻止されたなら、そしてもしも地租が公正に課されて徴収され、法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民はまちがいなく日本の農民に負けず劣らず勤勉でしあわせになれるはずなのである。しかしこの「もしも」はあまりにも大きい! どんな産業分野にせよ、勤勉に働けば利益の得られることが保証されれば、無気力無関心な人々も変身するはずである。そのための改革は日本によって行われてきたが、日本も自由裁量権があたえられているわけではなく、また改革に着手した(とわたしは心から信じる)ものの、役割を果たし調和のとれた改革案を立てるには未経験すぎた。それに改革案が成立したにせよ、それを実行すべき官僚たちがほとんど例外なく因習と慣例の両方から堕落してしまっている。
改革は断続的断片的で、日本は枝葉末節にこだわって人々をいらだたせ、自国の慣習による干渉をほのめかしたので、朝鮮を日本の属国にするのが目的だという印象を、わたしの見るかぎり朝鮮全土にあたえてしまった。(p.432)
●(前項のつづき)旅行者は朝鮮人が怠惰であるのに驚くが、わたしはロシア領満州にいる朝鮮人のエネルギーと勤勉さ、堅実さ、そして快適な家具や設備をそろえた彼らの住まいを見て以来、朝鮮人のなまけ癖を気質と見なすのは大いに疑問だと考えている。朝鮮じゅうのだれもが貧しさは自分の最良の防衛手段であり、自分とその家族の衣食をまかなう以上のものを持てば、貪欲で腐敗した官僚に奪われてしまうことを知っているのである。官僚による搾取が生活の必要物資を購〈あがな〉う分にまでも不当におよび、
どうにも耐えられなくなってはじめて、朝鮮人は自力で不正をただす唯一の手段に訴えるのであり、これは清国の場合と似ている。その手段とは許さざるべき醜悪なその郡守を追い払ったり、場合によっては殺してしまうことで、最近評判になった事件では、郡守の側近をまきを積んだ上に乗せて焼き殺すというのがあった。庶民の暴動はへんに挑発されると遺憾な暴力行為に発展することがなきにしもあらずとはいえ、一般的には正義に基づいており、また抗議としては効果的である。(p.432-433)
●(前項のつづき)搾取の手段には強制労働、法廷税額の水増し、訴訟の際の賄賂要求、強制貸し付けなどがある。
小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎり笞〈むち〉で打たれる。こういった要求が日常茶飯に行われるため、冬のかなり厳しい朝鮮北部の農民は収穫が終わって二、三千枚の穴あき銭が手元に残ると、地面に穴を掘ってそれを埋め、水をそそいで凍らせた上に土をかける。そうして官僚と盗賊から守るのである。(p.433)
●(順川〈スンチヨン〉の郡庁内の部屋で)兵士、書士、庁舎の雑卒、両班と文人階級の男たちにそこら辺のひま人が集まり、大声を張り上げるわ戸の紙を破るわであるから、わたしはうんざりする二時間を味わった。
清国と同じようにおよそ野卑で不作法な文人階級の男たちを先導とする朝鮮人の野次馬は、ただただ耐えがたい。しまいにわたしは女たちの住まいのほうへこっそり引っ張っていかれたが、そこではまたべつの飽くことを知らぬ好奇心のえじきになった。
朝鮮の下層階級の女性は粗野で礼儀を知らず、日本のおなじ階層の女性のしとやかさや清国の農婦の節度や親切心からはおよそほど遠い。(p.435)
●女性の蟄居は五〇〇年前、社会腐敗がひどかった時代に家族を保護するために現王朝が導入した。それがおそらく今日までずっとつづいてきたのは、ある朝鮮人がヒーバー・ジョーンズ氏に率直に語っているように、男が自分の妻を信頼しないからではなく、
都市社会と上流階級の風紀が想像を絶するほどに乱れ、男どうしが信頼し合えなくなったからである。かくして下層階級をのぞき、女性は老いも若きもすべてが法よりもつよい力を持つしきたりにより、家の奥に隠されている。(p.437)
●ダレ神父[『朝鮮教会史序論』の著者]によれば、故意と偶然のいかんによらず、
よその男と手が触れ合っただけでも、娘は父親に、妻は夫に殺され、自害する女性すらいたという。またごく最近の例では、ある下女が女主人が火事に遭ったのに助けだそうとはしなかった。その理由は、
どさくさのなかでどこかの男性が女主人にさわった、そんな女性は助けるに値しないというのである!
法律も女性の住まいまではおよばない。自分の妻の部屋に隠れている貴人は謀叛罪の場合をのぞき捕えることができない。また
家の屋根を直す際は、隣家の女性が目に触れないともかぎらないので、あらかじめ近所に修理する旨を知らせなければならない。七歳で男女はべつべつになり、女の子は厳しく奥にこもらされて結婚前は父親と兄弟以外、また結婚後は実家と嫁ぎ先の親族以外、男性にはまったく会えなくなる。女の子は極貧層でもみごとに隠れており、
朝鮮をある程度広く旅行したわたしでも、六歳以上とおぼしき少女には、女性の住まいでものうげにうろうろしている少女たちをのぞき、ひとりも出会ったことがない。したがって若い女性の存在が社会にあたえる華やぎはこの国にはないのである。(p.438-439)
●郡庁所在地の慈山〈チヤサン〉でわたしたちは徳川〈トクチヨン〉へ北上したときの分岐点にもどった。((中略))
町の人々からは、清国兵は情け容赦なくものを盗む、ほしいものは金も払わずに奪い、女性に乱暴を働く*2という悲痛な被害の話をきいた。前にわたしたちは慈山の隣村ウチンガンの渡し場で大同江〈テドンガン〉を渡ったが、この村は朝鮮人が恐怖に駆られて逃げだしてしまい、五三人の清国人が占拠して重要な駐屯地となっていた。日本の偵察兵ふたりが対岸にあらわれて発砲すると、清国軍派遣隊はばらばらに逃げだしたものである! 慈山でもほかと同様、
人々は日本人に対してひとり残らず殺してしまいたいというほど激しい反感を示していたが、やはりほかのどこでもそうであるように、日本兵の品行のよさと兵站〈へいたん〉部に物資をおさめればきちんと支払いがあることについてはしぶしぶながらも認めていた。(p.441)
*2 引用者注:1937年(昭和12年)に始まった支那事変においても、支那軍は掠奪・暴行・強姦などやりたい放題だった(しかも自国民に対して)。このあたりは、「強制徴募」により支那軍の兵隊にさせられた陳登元氏の著作「敗走千里」に詳しい。「敗走千里」の内容は拙エントリー8/23付:GHQ焚書「敗走千里」支那軍の実態を参照。
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キリスト教伝道団は平壌でははかばかしい成果を得ていなかった。平壌はきわめてゆたかできわめて不道徳な都市だった。宣教師が追いだされたことは一度ではきかず、キリスト教はかなりな敵意をもって排斥されている。つよい反対傾向がはびこり、
市街には高級売春婦の妓生〈キーセン〉や呪術師があふれ、富と醜行の都という悪名が高かった。メソジスト派伝道団は活動を一時中断し、長老派は六年かけて二八名の改宗者を数えるのみだった。それから日清戦争が起きて平壌は破壊を受け、住民は流出、商業は壊滅、六万とも七万ともいわれた人口が一万五〇〇〇に減り、わずかなキリスト教徒も逃げだしてしまった。
戦争以降はとても大きな変化があった。二八名が洗礼を受け、中流階級の最も悪名高い放蕩者、あまりに不道徳でだれにも相手にされなかった男たちが清く正しい生活を送りはじめたのである。教えを受けている洗礼志願者が一四〇人おり、受洗に先立つ長期修練の対象となっていた。(p.444)
●庶民は通りや家の前や宿屋で人と会う。そしてお互いの商売、仕事、ふところ具合など、かなりぶしつけと思われることについてえんえんと尋ね合ったり最新のニュースを仕入れ合ったりするのである。
どんな男もできるかぎりニュースを集め、あるいはつくる。耳に入れたことをうそと誇張で潤色する。朝鮮は流言蜚語〈ひご〉の国なのである。朝鮮人は知っていること、というより耳にしたことを人に話す。ダレ神父によれば、朝鮮人は節度の意味を知らず、それでいながら率直さにはなはだしく欠ける。男たちは仲間とお互いの家を行き来して毎日を暮らす。家庭生活はない。奥の住まいにいる女たちは同性の客を迎え、また娘たちもそこにいる。男の子は幼いころから男の住まいに移され、そこで耳に入る会話から、自尊心ある男は女を蔑視せねばならないと学ぶのである。(p.453)