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佐藤新平少尉の御霊は靖国神社に今も居られます

 皆様、ゴールデンウィークいかがお過ごしですか?
 旅先からご覧になっている方も多いかもしれませんね。

 何やかんや言っても、GWだ、旅行だ、駅も空港も行楽地も大変な人出だ、等々、そういうニュースが大きく伝えられる日本は、やはりまだまだ平和なんだろうと思います。

 さて、拙ブログでは以前、このようなエントリーをUPしました。
12/12/8付:真珠湾攻撃の日に特別攻撃隊について改めて考えてみる

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 この時、『知覧特別攻撃隊』という本を取り上げました。
 今日はこの本から、佐藤新平少尉の日記(留魂録)の一部を紹介します。
 
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 佐藤新平少尉は岩手県出身で、特別攻撃隊の第79振武隊所属。
 昭和20年4月16日に出撃、戦死。享年23歳でした。


三月三十一日

 出撃までに、も一度兄の墓参りと思いしも時間なし。

 お父さん、お母さん、新平何一つとして思い残す事とてありません。唯御国の為に立派に死ねる喜びで一杯なのです。

 唯一つ心配なのは、半年の間に二人の子供を失うお父さん、お母さんの事です。

 苦労ばかしおかけしたお父さんお母さんに、これからはうんと親孝行しよう……何時も兄さんと言った言葉でした。

 実はこの間かえった時も、ほゞ今度の事は解って居りましたが、遂に言い出せませんでした。

 だが、お父さんお母さん、新平は死んだとて魂はいつまでもいつまでも生きて居ります。

 兄さんと新平の魂は何時でもお父さんお母さんを見守って居りますよ。

 二人とも子供を失ったと言って悲観したりしてはいけません。兄さんだって随分と増産には働かれてのだし、新平だって今までに相当に空中戦士を養成しましたし、今度は軍人の最高名誉たる特別攻撃隊の一員として悠久の大義に生きるのです。

 *

 こんな目出度い事はありませんよ。新平、米英艦船に命中の報が有りましたら、お父さん新平の陰膳相手でお酒でも飲んで下さい。

 そして余生を文夫や洋治相手に楽しく送って下さい。洋治と言えば名前も本当に小生とゆかりの深いものとなりました。


四月一日

 お母さん江

 思えば幼い頃から随分と心配ばかしおかけしましたね。腕白をしたり、又何時も不平ばかし言ったり。

 眼を閉じると子供の頃のことが、不思議な位ありありと頭に浮かんで参ります。

 悪いことなどすると神様に謝らせられたり、又幼い頃「今日の良き日をお守り下さい」「今日の良き日を有難うございました」と毎日拝神のことをやかましく言われたお母さんでした。

 今日になり本当にあの頃からのお母さんの教育がどんなにか新平の為になった事でしょう。病気で心配をかけたり、又苦学の時も随分と心配をおかけしたり。

 苦学と言えば、家を出発する時、台所でお母さんが涙を流されたのが、東京にいる間中頭に焼きついて、あの頃どんなにかかえりたかった事かしれませんでした。

 お母さんの本当の有難味が解ったのは東京へ出てからでした。あれから余り家に居る事もなく、ゆっくりお母さんに親孝行をする機会のなかった事だけ残念です。

 軍隊に入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。一度は去年の休暇、二度目は去年の暮近く館林まで来ていただいた時、あの時は新平嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。

 態々(わざわざ)長い旅をリュックサックを背負って会いに来て下さったお母さんを見、何か言うと涙が出そうで、遂、わざわざ来なくても良かったのに等と口では反対の事を言って了ったりして申し訳ありませんでした。

 あの時お母さんと東京を歩いた思い出は、極楽へ行ってからも、楽しいなつかしい思い出となる事でしょう。

 あの大きな鳥居のあった靖国神社へ今度新平が奉られるのですよ……。手をつないでお参りしましたね。今度休暇でかえった時も、お母さんは飛んで迎えに出て下さいましたね。

 去年の時もそうでした。


四月四日

 父上様へ

 お父さん、新平、日露戦争へ行かれたお父さんの子供として恥ずかしくない死場所を得ました。お喜び下さい。

 我が侭者の新平、子供の頃から何時も心配ばかりおかけし申し訳ございませんでした。

 御恩返しに、うんと親孝行しようと思っていましたが、結局何も出来ずにしまいました事をお許し下さい。

 随分大きくなるまでお父さんと一緒に寝た新平は、幼い頃お母さんに、お前はお父さんの子、文吾は俺の子等と言われたものでした。

 厳格な半面、子供の時から人一倍可愛がって頂いた新平は本当に幸福でした。

 酒に酔われて義太夫や踊をやられたお父さんの昔の姿がなつかしく思い出されます。

 どうぞお父さん何時までも御壮健で文夫や洋治を可愛がって下さい。

 書きたい事はいくらもありますが、今日はこれで止めます。

 *

 日本一のお母さんを持った新平は常に幸福でした。

 小雨の降る夕方、お母さんと一緒にかこちゃんのお母さんのお墓参りをした事、愛国婦人会の事で在郷を一緒に歩いた事、天神様へ成績の御知らせに行った事等楽しい想い出は次々とつきません。

 特攻隊の事も早く知らせて呉れゞば、手紙でも出して激励してやったのに、とお母さんは残念がるかも知れませんが、お母さんの気持ちは新平解り過ぎる位解って何時も感謝して居りますから、余計な事を心配しないで下さい。私としてはどうせ直ぐ解る事ですから、早く知らせて心配かけてはと思って知らせなかったのですから、悪く思わないで下さい。

 リウマチや、神経痛に充分注意して、天から与えられた寿命だけは絶対に生き延びなければいけません。

 文夫、洋治もお母さんがよく見守って立派な子供になる様鍛えて下さい。

 決して気を落としたりして、体をそこねられない様御注意下さい。

 *

 お父さんの方が後になり変になりました。

 *

 一足御先に失礼します。

 *

 今晩、隊の壮行式があり、一寸酔って居りますので字も乱れて居ります。

 河野、小林先生にも宜敷くお願いいたします。

 小生必ずや大きな戦果を上げて見せます。

 沖縄沖の戦果に御期待下さい!!


四月五日 朝

 出陣ニフサワシク快晴デス
 愈々本日十二時出発デス
 必ズ轟沈シマス
 御両親様ノ多幸ヲ祈リマス
          出陣ノ朝  新平
 御両親様

 遺書ハトランクノ中ニ有リマス


 遺書

 天皇陛下万歳
 大命ヲ拝シ、新平只今特別攻撃隊ノ一員トシテ醜敵艦船撃滅ノ途ニ就キマス
 日本男子トシテノ本懐コレニ過グルモノハゴザイマセン
 必中必沈以テ皇恩ニ報イ奉リマス
  新平本日ノ栄誉アルハ二十有余年ニワタル間ノ父上様、母上様ノ御薫陶ノ賜ト深ク感謝致シテ居リマス
  新平肉体ハ死ストモ魂ハ常ニ父上母上様ノオ側ニ健在デス
 父上様モ母上様モ御老体故呉々モ御体ヲ大切ニ御暮シ下サイ
 決シテ無理ヲナサラヌ様
 デハ
 日本一ノ幸福者、新平最後ノ親孝行ニ何時モノ笑顔デ元気デ出発致シマス
 親類ノ皆様方近所ノ人達ニ宜敷ク
                     新平拝
 御両親様      


 辞世

 身はたとへ敵艦船と砕くとも
    七度生きむあかきこころは
 ありがたき御代にうまれてやくだてる
    そのよろこびにわれはゆくなり

  御両親様へ
 うみやまにまさるめぐみにむくひなむ
    道をゆくなりいさみいさんで

  亡き兄さん江
 極楽の
  兄弟酒を
   偲びつゝ】



 最初にこれを読んだ時に涙が止まらなくなり、以後も、何度読み返しても涙が出てしまいます。
 こうして文字に起こしながら、また涙です……(T_T)

 人が人である限り、いつの時代も、どこの国でも、父母が子を思う気持ち、子が父母を思う気持ちに変わりはありません。

 戦争について知っているとか知らないとか、あるいは思想的に右だとか左だとか、そんなことも全く関係ありません。

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 佐藤新平少尉の御霊は靖国神社に今も居られます。

 もちろん佐藤少尉だけではありません。

 お父さんを、お母さんを、家族を、愛する人たちを思いながら、日本の未来を開くために御身を捧げた方々が、靖国神社に今も居られるのです。

 私たち日本国民にとって、それは永遠の真理です。


 ↓画像をクリックすると新規画面で拡大されます。

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[「知覧鎮魂の賦」=6人の飛天(飛ぶ天女)が、紅蓮の炎をあげている隼の機体から特攻隊員の魂魄を昇天させようとしている図で、知覧特攻平和会館のロビー正面に飾られている。宮崎市の画家、仲矢勝好氏の作である。]



※拙ブログ関連エントリー(戦争について考える)
06/8/26付:首相の靖国参拝反対派への反論
 ちょっと古いですが、靖国問題のまとめ。
06/12/8付:【過去】開戦の日:小野田寛郎さん語録
 「日本人は亡くなった人に対してそれ以上の罪を憎まないという習慣がある。しかし、中国では死んだあとでも罪人のまま。その価値観をわれわれが受け入れなければならないのでしょうか。一度黙って静かにお参りしてみたらどうですか」
07/3/6付:「南京大虐殺」入門の入門
 渡部昇一さんの講演起こしより。
08/8/16付:【終戦の日】外国人から見た日本と日本人(7)
 外国人から見た大東亜戦争。
08/11/3付:「雷」工藤艦長の武士道精神とサー・フォールの報恩
 昭和17年3月、駆逐艦「雷」工藤艦長による英海軍将兵救出劇。
09/8/23付:GHQ焚書「敗走千里」より支那軍の実態
 支那軍に拉致され兵隊にされ、やがて便衣兵となった支那の青年の体験談。
09/12/8付:【記憶せよ12月8日】外国人から見た日本と日本人(16)
 外国人から見た大東亜戦争。
10/2/6付:北方領土の日によせて【将兵万葉集】(1)シベリア抑留者
 シベリア抑留者は国際ルールを無視したソ連及びスターリンによる残虐な行為の犠牲者であることを、決して忘れてはいけません。
10/3/8付:中共が靖国を否定する理由【将兵万葉集】(2)特別攻撃隊・神風-1
 靖国は日本人の精神の根源。それゆえ中国は潰しにかかっている!?
10/3/20付:「たかじん委員会」SP 英霊に捧げられた花嫁人形
 三宅久之さんが遊就館の花嫁人形への思いを語る!
10/5/7付:民族の誇りに…【将兵万葉集】(3)特別攻撃隊・神風-2
 特攻死を「犬死に」だと切って捨てる人たちは、特攻隊員にもそれぞれ「意思」があったことを無視しているのです。逆に人間扱いしていないのです。
10/7/20付:勝者に裁かれ【将兵万葉集】(4)戦争裁判の犠牲者-1
 今の日本は彼らの「死体」を礎石として成り立っているのです。
10/8/14付:国の行く末を案じ…【将兵万葉集】(5)戦争裁判の犠牲者-2
 「死ねば心はすぐ 日本へかえる。…我は祖国の礎となる。大好きな日本、私は空とぶ姿でかへる」…酒井中将の言葉。
11/8/14付:昭和天皇の涙…二つの位牌を手にした少女
 昭和天皇の戦後の御巡幸で見られた感動の光景。
11/8/16付:【終戦の日2011】外国人から見た日本と日本人(30)
 終戦の日にふさわしいと思うものを集めました。
11/9/12付:護憲派共感?!「サイボーグ009」第16話“太平洋の亡霊”
 日本が守るべきは「憲法9条」ではなく、「平和(平和を維持するための秩序)」ではないでしょうか。
11/12/17付:鈴木史朗さんが「南京大虐殺」は真実ではないと思う理由
 「私にとって、中国は『第二の故郷』なのです。その中国の方々が、このような『嘘』を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです」
12/1/3付:新日本建設に関する詔書
 いわゆる「人間宣言」における昭和天皇の目的は神格化否定ではなく、「日本の誇りを忘れず、米国その他諸外国に圧倒されず、新しい国づくりに頑張ろう」という国民への呼び掛け、励ましでした。
12/2/13付:子供たちに教えたい柴五郎
 柴五郎の義和団の乱における見事な統率・指揮ぶり、くわえてその人格に各国の洋人らは信頼と感謝を寄せました。
12/2/27付:河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱
 事あるごとに中国共産党は「南京大虐殺は日本軍による残虐行為であり、動かぬ証拠がある」と言いますが、「動かぬ証拠」を見せてくれたためしがありません。
12/7/7付:昭和21年7月南京・元日本兵の証言&米国高校副読本「虐殺40万人」
 「私達の経験したこれらの事柄は、南京事件の最も悲惨な現場の南京埠頭近くで、しかも終戦後一年足らずの時の事です」
12/7/16付:映画「凛として愛」と東京裁判史観ムラ
 「あなたがもし日本人ならば、そして正義を愛するならば、かつての日本人も同じ日本人です。あなた方が誇れる、先人の方々です。あなたが自分を信じるならば、日本を護った先人を信じて下さい。英霊を、先人の愛を見つめて下さい」
12/8/14付:【終戦の日2012】外国人から見た日本と日本人(35)
 終戦の日にふさわしいと思うものを集めました。
12/11/5付:長崎事件をご存知ですか?支那を憂う明治天皇と沿岸防備に寄附した国民
 明治中期、日本は支那(清国)に対して軍事的に劣っていました。清国水兵の乱暴狼藉(長崎事件)に遭っても不平等な形で決着させられ、政府の不甲斐ない態度に当時の国民は切歯扼腕するしかありませんでした。
12/12/8付:真珠湾攻撃の日に特別攻撃隊について改めて考えてみる
 村永薫さん編『知覧特別攻撃隊』と、松本零士先生の『銀河鉄道999』より。
13/3/8付:中山成彬議員が衆院予算委で日本の真の朝鮮統治(インフラ整備、創氏改名、慰安婦など)を語ってくれました
 朝日新聞が決して報道できない、中山成彬さんの質疑。
13/3/25付:捕虜も婦女子も皆殺し!支那の非公開アンケート
 「中国人は中国人自身にも残酷で、情け容赦ない攻撃を加える。ましてや外国人に対しては説明するまでもないだろう」
13/3/30付:支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺
 郭沫若曰く「抗戦八年の間に、踏みにじられた同胞の数は、戦死したり日本の侵略者に虐殺されたりしたものの少なくとも百倍以上はあった」。
13/4/10付:西川京子さんが衆院予算委で「従軍慰安婦」「南京大虐殺」の虚構と自虐史観に侵された入試問題について語ってくれました(中山成彬さん質疑まとめ付き)
 朝日新聞が決して報道できない、西川京子さんの質疑。
13/4/16付:西村眞悟さんが靖国参拝、アルジェリア事件、拉致問題、国防について語ってくれました
 西村眞悟さんの質疑。「靖国神社のことを忘れて、日本は取り戻せないんです」。






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「お気楽くっくり」更新済
 連載再開も戸惑い3割。

※拉致被害者奪還 日本列島縦断デモ行進はじめ、各種デモ・集会のまとめ
 http://ameblo.jp/hosyuyamato/

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 NY州議員宛にメールを出して下さった方々のもとに、Mark Butler下院議員から「いただいた情報に基づいて、私は決議案に署名しない決定をなしました」という返信が届いています。米国の議員さんは韓国側の情報しか知らないor問題自体をよく知らないので、まずは知ってもらうことが大切です。効果はあります。まだの方はぜひメールを送って下さい(上院採択済・下院はまだ)。

 以下も慰安婦関係のお知らせです。よろしくお願いします。
デトロイト 慰安婦少女像建立 絶対阻止!メッセージを送ろう!
ニュージャージ州議会 慰安婦決議に反対のメッセージを送ろう!
(下院採択済・上院はまだ)

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 英語・中国語・韓国語版もあります。ダウンロードはこちらから。コピーフリーです。世界に広めましょう!

「島根県の竹島英文ページを検索に引っ掛かり易くする作戦」もよろしく。
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Comments

ほんと、涙モノです。。。(T_T)
若いのに既に死の覚悟が出来てるなんて私には考えられません。
そして彼らだってもっと生きたかったでしょうに。と悲しまずにはいられません。
戦争で亡くなられた方々の死を冒涜した朝日や日教組などの罪は重い!!(激怒)
そんな人たちに天罰が下ってほしいものです。
にも | 2013/04/29 04:34 PM
素晴らしい記事、本当にありがとうございました。
参拝する側の視点だけではなく、祀られることになった方々からの視点にも思いを馳せることが大事なんですね。
これから特攻へ赴く方達にとって靖国神社がどういう存在であったのか、日本のために戦った方達にとってどういう場所であったのかということを下の世代に伝えてゆくことが、今の私にできる先人への御恩返しなのかなと思います。
とぼそ | 2013/04/30 08:09 AM
貴重な命を捧げてくださった方々に対して不謹慎ですが、わたしはこの特別攻撃隊の方々のまっすぐな生き方を、
時に自分の情けない生き方への戒めとさせて頂いています。

こころより感謝です。
sss | 2013/04/30 11:44 AM
靖国神社の遊就館でも先の大戦でお亡くなりになった方達からのご家族へのお手紙やお写真、日記などが飾ってある展示室がありますよね。
私はそのお部屋ではとにかく涙を堪えるのに必死でかなり変な顔になってしまいました。
他の方達も目がウルウルしてるし、やんちゃそうな男の子達もかなり神妙な顔で見入ってました。
日本人ならどんな人でも「ありがとうございました」って気持ちになるんじゃないかと思いました。
皆さん本当に日本の事を大事に思っていらして、遠くに派兵された方も「日本は本当にいい国ですね。」と書かれていたりして胸にグーっときました。
そのお気持ちを大事に繋げて行かないといけないなぁ〜と思ったものです。
しかし今回の記事もやっぱり涙でモニターがぼやけてしまいました…
abby | 2013/04/30 02:10 PM
いつも見られない番組の書き下ろしをしていただき感謝しています。
4月29日(月)、偶然にこのアーティクルの知覧を訪れました。目的は薩摩の武家屋敷街並みもさることながら特攻平和記念館訪問です。錦江湾を挟み、東は海軍の鹿屋基地、西は陸軍の知覧基地から多くの特攻隊機が出撃していきました。当日の空は晴れ上がり、68年前にもこのような空に多くの若者が南へ向かって行ったかのようでした。
記念館の館内は撮影禁止ですので写真は撮れませんでしたが、三式戦闘機「飛燕」の周りの壁一面に隊員の写真と遺書が展示されていました。その多くは20台前半で、最年少は17歳、年長でも27歳です。時間がなく全ての直筆分を読むことは出来ませんでしたが、読み進むうちに目頭が熱くなるのを禁ずることは出来ず、出生地に故郷の地名を見たときには思わず涙が溢れました。
しかし、冷静にこの作戦を分析すると成功率は11%に過ぎず、大破までは出来ても沈没させることは出来なかったことを考えると、実質の効果より精神面での効果を狙ったのかもしれません。また、出撃した機種の中には速度の遅い大戦初期の旧型機が多く含まれ、これらの機体では「敵艦影見ユ」までが精一杯で、待ち受ける敵新鋭戦闘機、対空射撃をかわせず、敵船まで到達することは到底敵わなかったことと思います。もちろん、このことは散っていった若者たちの死を決して貶めるものではありません。遺書の内容との乖離に、ただただ悔しさが残るばかりでした。
風 | 2013/05/09 01:52 PM

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