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北方領土の日によせて【将兵万葉集】(1)シベリア抑留者

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1001shoheiman.jpg 昨年12月、防人の万葉集という記事をUPする少し前に、ネットである古書を購入しました。

 「太平洋戦争 将兵万葉集」山口志郎 編・東京堂出版(1995年初版)です。

 昭和に生きて、戦い、多くは亡くなって行った兵士・軍人の和歌がまとめられています。

 鎮魂と平和への願いを込めつつ、今後、複数回に渡ってこの本から和歌を紹介していこうと思います。
 第1回は2月7日の北方領土の日にちなみ、【シベリア抑留者】の項から引用いたします。

※和歌の下の( )は出典です。

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 シベリアから西へ……

■オーロラの輝く丘に土掘りて足萎(な)えはてし若人あわれ
■あの声は戸外に人の誰か呼ぶ響き嬉しき日本の言葉

 (朔北の道草)

 浅田三郎
  満州在勤の陸軍軍人。
  シベリアに抑留され、遠くウラルまで送られ後帰国。
 
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■シベリヤの地の涯に我生きてありと告げむすべなしあわれ妻子や
 (シベリヤの歌)

 いまいげんじ
  大阪府出身、昭和十八年応召渡満。
  シベリア抑留、収容所生活、二十三年九月に帰国。
  抑留体験記「シベリヤの歌」。

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 昭和二十九年一月……

■十歳の日は短かからずとふ言の葉はさすらふ身には尊かりけり
 (朔北の道草)

 後宮 淳
  京都府出身、陸軍大将、中部軍司令官、
  軍事参議官を経て第三方面軍司令官。
  シベリアに抑留され昭和三十一年十二月に帰国。

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■シベリア鉄道を北に進みて行きし夜の碧き月夜を今も忘れず
■わが運命行方も知らずアムールは夕日に映えて横たはりゐつ

 (巣鴨)

 大島紀正
  新潟県出身、シベリア抑留後戦犯として巣鴨に入所。
  (横浜米軍軍事法廷で重労働四十六年の刑)

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■三人の子に妻に待たれる吾は石にかじりつきても生きねばならぬ
■幾重なす山の峡におらびたる我が号泣のとどけ故国に
■故国の土踏む日はいつと言ひ暮らせし友の幾たりここに埋むる

 (氷雪)

 大屋正吉
  補充兵として満州に渡り同地で終戦を迎える。
  シベリアのコムソモリスク地区に抑留され、一年後に帰国。
  帰国後歌集「氷雪」。

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■兄も征で弟召され故郷に老いし父母如何在(います)らむ
 (大東亜戦争殉難遺詠集)

 加賀和元
  宮城県、陸軍少尉、士官学校卒。
  昭和二十二年四月ウズベクの収容所で作業中に重傷、
  戦友の無事帰還を祈念して絶命。二十六歳。

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■大君に捧げし命永らえて祖国の春をシベリアに待つ
 (朔北の道草)

 木村孝三郎
  山形県出身、憲兵大尉。
  満州吉林省敦化の第一軍司令部に勤務、シベリアに抑留され、
  十年間の強制労働の後帰国。

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 収容抑留間に父・妻等の家族の死を知り……

■妻や児の逝きし便りにぬばたまの夜庭にひとり天地も哭け
■わが帰り待ちわびつつも老ゆ父は遂に逝きしか雁鳴き渡る

 (地獄遍路)

 草地貞吾
  大分県、陸軍大佐、陸大卒、陸軍省軍務局等を経て関東軍作戦班長。
  シベリアから昭和三十一年に帰国。
  抑留体験記「地獄遍路」。

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■久びさに味あふ味噌の美味さへも捕虜と言ふ身のはかなきものを
 (捕虜体験記)

 草薙泰治
  昭和十七年応召、満州野戦自動車廠勤務、吉林省敦化で国境警備。
  シベリア・タイシュト地区に抑留、二十二年十月舞鶴に帰国。

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 母の死を知らされて……

■母恋いてわが泣く声は三歳の童のごとくことわりもなし
 (続朔北の道草)

 国永 薫
  兵庫県出身、陸軍中尉、大阪外語大卒。
  公主嶺の機動第三聯隊中隊長として終戦を迎え、
  シベリアに抑留され後帰国。

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■食絶えて四日の夜の寒天下並びて受けし屑芋二つ
■素裸の凍れる屍丸太並み納屋も狭しと積重ねあり

 (続朔北の道草)

 佐藤健雄
  福島県出身、東京外語大卒。南満州鉄道調査部に勤務。
  多くの軍人と共にシベリアに抑留され後帰国。
  
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■天地の広きを見ても母国は日出る国のただ一つなり
■日の本の不滅を信じ千尺の地下にもぐりて今日も炭掘る
■妻の文苦しきことも会へる日を生きる望みとしたためてあり
■地獄とはあの世にあると思いしも虜舎の生活のまさにそれなり
■幾度か船出の春を待ちわびてその甲斐もなく友は逝きしか
■はらからのみ霊のいまも野ざらしに何時かへるそのすべもなきまま

 (朔北の道草)

 千葉栄亀
  岩手県出身、憲兵曹長、終戦時朝鮮羅南憲兵隊所属。
  戦後シベリアに抑留され、昭和三十二年に帰国。

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■ふるさとはまぶた閉づれば浮かびくる利根の河原に遠き筑波嶺
■命あらば国を見る日もあらむかと痩せし手足をじっと見つめる
■ふるさとを見るまで死なぬと語りいし友も眠れりナホトカの丘
■病める者癒して国に帰さんと我も病めども今日もメスとる

 (シベリア捕われの歌)

 中村泰助
  群馬県、東京医専。
  昭和十二年から二年間北支に、
  十七年から五年間北支・北朝鮮に軍医勤務。
  シベリアに抑留、二十二年に帰国。

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■倒木の下敷きとなり死にたりき同胞哀れ雪降りしきる
■シベリアの二重の窓に氷張る寒き夕べは日本し思ほゆ
■青き眼の下に過ごせしこの十年虐待されしこと幾そ度
■来む年の春には船が着くならむ後半年を死なれじと思ふ

 (朔北の道草)

 野口哲夫
  熊本県出身、陸軍軍属、台南師範卒、関東軍情報部勤務。
  シベリアに抑留され、悲惨な生活の為発病、抑留十年後に帰国。

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■囚れのかなしき身ゆえ星のごと流れて燃えて消えなむものを
■母恋ふる心のもだしがたき日よつもるともなき粉雪の降る
■日の丸の扇ひらかむ時のため益良武夫は堪ふべかりけり
■十年の苦闘の末に残れるはただ一片の誠なりけり

 (朔北の道草)

 前田忠雄
  陸軍中佐、関東軍第五軍の情報参謀。
  シベリアに抑留され、中央アジアまで送られ、
  サマルカンドの獄にも入れられた。

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■枯れ落ちて旅立ちし戦友寒々と衣類まとわずシベリアの果て
■亡骸を収めんとして運びしが枯木のごとく軽きかなしさ

 (捕虜体験記)

 真弓一郎
  終戦時関東軍野戦造兵廠。
  戦後シベリア・タイシェトに抑留され、四年後に帰国。

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■妻子らは我が帰りを待兼ねて夜毎迎えに枕辺に来ぬ
■如何ほどに蒙古嵐はすさぶとも砕けて散るな大和男子よ
■あと十日あと一カ月とだまされて堪え忍び来し一年の間
■東の空に瑞雲横たわる祖国に栄あれとおろがみ祈る

 (虜囚日記)

 山宮正敬
  神奈川県出身、陸軍二等兵、昭和二十年三月応召。
  北支那派遣軍勤務、モンゴル共和国に抑留、二十二年に帰国。
  著作「虜囚日記」。

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 同僚の句会に出席出来ず病床にて……

■空前のシベリア句集編むべきは春の大和に編むべかりけり
 (収容所(ラーゲリ)から来た遺書)

 山本幡男
  島根県出身、満州鉄道から応召、シベリアに抑留。
  収容所で同僚のため萬葉集を講じ句会を作り文化活動に尽力。
  抑留中に病死。
  その遺書は数人の同僚が暗記し、又は肌につけて帰国し、
  遺族に届けられた。その経緯は辺見じゅん氏著の
  「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」に詳述。

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100206sibe.jpg

 【写真=シベリア上空】写真共有サイトSo-netフォトより「せとっこ」様 撮影。

 昭和20年8月9日、満州にあった日本軍は突如強大なソ連軍の侵攻を受けました。

 その前日、8日午後5時(日本時間午後11時)にソ連は日本に対し宣戦布告を行いました。モスクワでソ連のモロトフ外相が佐藤尚武駐ソ大使に布告を伝達したのです。
 事態を知った佐藤大使は日本政府へ連絡しようとしましたが、ソ連側が電信を遮断、東京の政府に奇襲を伝える手段は残されていませんでした。
 日本政府がソ連の対日参戦について知る前に、ソ連軍は満州に攻め込んだのです。
 しかもこの時、日ソ中立条約が有効でした。ソ連政府は意図的に中立協定を侵犯したのです。

 北海道北部までの獲得をもくろんだスターリンの命令により、ソ連軍は終戦後も侵攻を続けました。

 日本軍は果敢にソ連軍と戦いました。たとえば千島列島北端の占守島では日本軍がソ連軍を大いに苦しめました(こちらのサイトをぜひご覧下さい)。
 戦ったのは将兵だけではありません。通信維持の使命に殉じた真岡電話局の9人の乙女のような民間人の方々もいました。
 このような日本側の奮闘により、ソ連は最終目標であった北海道の占領はあきらめましたが、千島列島(国後島、択捉島、得撫島、幌筵島、占守島などの島々)と南樺太および歯舞諸島、色丹島は占領されてしまいました。

 さらに新たな悲劇が起こります。
 ソ連軍は満州・樺太・千島などの日本人(当時日本国籍だった朝鮮人なども含む)約60万人をシベリアを始めとするソ連領内に抑留し、1年から11年にわたる強制労働に従事させたのです。
 抑留者は将兵だけではなく、民間人、満蒙開拓義勇団の若者、ソ連大使館の日本語教師など女性も含まれていました『雪原にひとり囚われて—シベリア抑留10年の記録』を出版された坂間文子さんによれば、女性は全部で30数名だったとのことです)。
 極寒の異郷で飢えと重労働に耐えながら、望郷の念を抱き無念にも果てた人々の数は6万人とも7万人とも言われています。

 シベリア抑留は人道上問題であるのみならず、「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ」とするポツダム宣言第9項に明確に違反しています。

 佐藤優氏が現役外交官のころ親しくしていたというロシアの政治家、ゲンナジー・ブルブリス氏(エリツィンの初期のブレーンでソ連解体のシナリオを描いた人物)は、佐藤氏にいつもこう言っていたそうです。

 「北方領土問題もシベリア抑留問題も根源は一緒だ。スターリンの全体主義によって行われたものである。ロシアが自発的にスターリンの負の遺産と決別することで、ロシアの国際的評価が向上する。ロシアの国益を増進する観点から、われわれはシベリア抑留に関して日本に謝罪し、北方四島を返還すべきだ」(【佐藤優の地球を斬る】北方領土と同根のシベリア抑留 09/7/26配信

 もっとも、現在のロシアでこのように考える政治家はおそらく全くと言っていいほどいないでしょうが……。

 私たち日本国民は、シベリア抑留者が国際ルールを無視したソ連及びスターリンによる残虐な行為の犠牲者であることを、決して忘れてはいけません。
 北方領土とともに、後世に伝えていかねばならない大切な歴史の真実です。



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日本と日本人 | comments (9) | trackbacks (0)

Comments

いつも愛読させていただいています。今回の掲載、特にありがとうございます。

父もシベリアから昭和31年に帰国しました。ロシア語ができたため、通詞として便利であり、遅い帰国となったようです。

満州で結婚し、昭和20年7月末に娘が生まれたばかりで、父はシベリアに連れ去られました。
妻と生まれたばかりの娘は、引揚げに3年かかったそうです。
そして父がようやく帰国したとき、舞鶴に来たのは姉と弟だけでした。妻は、別の男のところに身をよせていたわけです。
父は、世捨て人になろうと思ったそうですが、まあ、捨てずに済み、縁合って再婚し、私が生まれました。

父が亡くなり、父の前妻も亡くなり、母も先年亡くなって、私は腹違いの姉とようやく会えるようになりました。

シベリア抑留のことを、いまの若い人たちはどれだけ知っているでしょうか。国民の記憶として、こんなについ最近起きたことを、忘れてはならないと思うのですが。
がる | 2010/02/06 06:08 AM
くっくりさん、ありがとうございました。

私の祖母の弟もシベリア抑留者でしたので、子どもの頃からぼんやりと意識していましたが、決定的に興味を持ったのは、劇団四季のミュージカル『異国の丘』でした。それから関連する本を読むようになりました。

青山さんが語られた硫黄島のことと同様に忘れてはいけないことだと感じています。

北方領土の日にふさわしいエントリーをありがとうございました。
こがらし | 2010/02/06 07:00 AM
くっくりさん、貴重なご本の紹介有難うございます。

がるさんのお話も胸に迫りました。

こがらしさん、「異国の丘」と聞くと、あの有名なメロディがよみがえります。思えば私の子供の頃(昭和40年代)までは戦争を体験された方も多く、軍歌や戦前戦中の歌謡曲などもよく町に流れていたように思います。

戦争体験者の方々が一線を退かれるにつれ、戦争の記憶も忘れ去られていったように思います。とても悲しい気持ちです。
おれんじ | 2010/02/06 11:34 PM
私の父は戦争で満州(詳しい場所は記憶が確かではありませんが)に行っていました。日本に戻ってから母と結婚し、私達子供が産まれました。父が病で亡くなってから、戦友仲間の方のお世話で、ビデオに編集された若き日の父の軍隊生活を見ることがありました。何処かの前線基地の風景の中に、20代の独身の父が映っていて、不思議な感動を覚えたものです。父の軍人恩給は、年老いた母を支えていますが、私たち子供に話してくれた軍隊時代の話は和やかなものばかりでした。本当は辛くて話せないこともあったはずですが……。
樹姫 | 2010/02/07 12:19 AM
連投失礼します

佐藤優さんは一見保守?のようなのですが、どうも私にはロシアと共産主義にシンパシーを感じる方のように思えてなりません。何か「ロシアは政府関係者も良い人だ」と宣伝を受けているような気がするのです。ロシアの文化は私も好きですが、あの国は本当に恐ろしい、他国に何をするか分からないと最近の出来事を見ても思います。先人の方々が必死で北海道を守った事、シベリア抑留の事は絶対に忘れてはならないと思います。

占守島で戦われた方の画像がニコ動にありました。よろしかったら。

証言シリーズ:元陸軍戦車第十一連隊 陸軍伍長 神谷幾郎

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8920414

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8920800
おれんじ | 2010/02/07 02:16 AM
皆さん、コメントありがとうございます。
いつも個別にレスを差し上げられず申し訳ありません。
シベリア抑留、また戦争にまつわるお話をお寄せいただきありがとうございます。私の親戚には戦場体験者が全くと言ってよいほどいないので、大変参考になりますし、また、心に響きます。
若い皆さんが、本文だけでなく、コメント欄にも目を通して下さっていることを願います。

おれんじさん:
佐藤優氏の文章を引用する際はかなり迷いました。おれんじさんのようなご意見が必ず来ると思いましたから(^_^;。私もこの方についてはどうなんだろう?と思うことがよくあります。保守、左翼、どちらにも執筆してたりしてて、そもそも立ち位置がよく分からない面もありますしね。鈴木宗男同様、ロシアに持ち上げられて取り込まれてる(利用されてる)んじゃないの?という感じも前からずっとあります。そこは全くおれんじさんと同感です。ただ、個別に見ていくと「この点はこの人の言う通りかも」と感じることもあったりしますので、今後も引用は是々非々でさせていただくことになると思います。
くっくり | 2010/02/07 02:59 AM
おれんじさん、私も佐藤優氏については少し警戒感をもっています。くっくりさんのように、鵜呑みにしてはいけないが、無視するにはもったいない、という感じでしょうか。

今日は北方領土の日ですね。以前はテレビで政府公報が流れていたように思うのですが、いつから無くなったのでしょう。

シベリア抑留と、ちょっとずれますが、以前、日テレ系列で『霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち』が放映されました。真岡郵便局の話を沢山の人が知ってくれるのではと、少し期待したのですが、やっぱり、戦争の悲惨さに焦点をあてて、フィクション部分も多く本質を歪めていると感じ、がっかりした覚えがあります。これが平成20年度の文化庁芸術祭賞(テレビ部門・ドラマの部)優秀賞受賞を受賞しているのですから、やれやれ…です。
こがらし | 2010/02/07 07:29 AM
くっくりさん、

いえいえ、私こそ何度も書き散らしてしまいまして失礼いたしました(汗)。私はただ正直な気持ちをお伝えしただけなのですが、皆さんのおっしゃるように、佐藤さんの知性や洞察力には驚嘆させられる事も度々あり、こがらしさん同様、「鵜呑みは禁物だが無視するには惜しい」方だと思っております。

ただ佐藤さんの講演(お話も上手)や投稿を拝見・拝読してますと、アホな私はいつのまにか洗脳されているようで怖い(汗)。情報は多面的に収集しないといけないということでしょうね。自分がしっかりしていないと一番ダメですが。

度々失礼しました。
おれんじ | 2010/02/07 08:37 PM
くっくりさん、
以前読んだ従軍看護婦さんたちの記録を綴った本では
赤十字の看護婦として働いていた若い看護婦さんの多くが、ソ連兵に拉致されて、そのまま行方不明なのだそうです。赤十字看護婦の制服を着ていた彼女達は、当時国際法で守られていたはず・・・。しかしソ連兵達は彼女達を強奪していった。
民主党の岡崎議員が、わざわざ韓国まで行って元慰安婦という女性達とともに日本を批難するのであれば、女性団体が日本を批難するのであれば、歴史に埋もれたまま戦地で行方不明になっている日本の赤十字看護婦達も平等に抗議すべきです。
因みに、中国軍の看護も頼まれて向かったそうですが、彼らはちゃんと赤十字看護婦を返してくれたそうです。
あや | 2010/02/08 05:24 PM

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