民族の誇りに…【将兵万葉集】(3)特別攻撃隊・神風-2
【お知らせ】5月5日放送「アンカー」青山繁晴さんコーナーはお休みでした。来週をお楽しみに!
今日は久々に「細切れぼやき」もあります。ぜひ最後までお付き合い下さい<(_ _)>
写真共有サイトSo-netフォトより「mippimama」様 撮影。
「太平洋戦争 将兵万葉集」山口志郎 編・東京堂出版(1995年初版)という本があります。
昭和に生きて、戦い、多くは亡くなって行った兵士・軍人の和歌がまとめられた本です。
鎮魂と平和への願いを込めつつ、拙ブログではこの本から少しずつ和歌を紹介しています。
今回は【特別攻撃隊・神風】の項からの引用、その2回目(後編)になります。
※過去記事
・2/6付:北方領土の日によせて【将兵万葉集】(1)シベリア抑留者
・3/8付:中共が靖国を否定する理由【将兵万葉集】(2)特別攻撃隊・神風-1
今日は久々に「細切れぼやき」もあります。ぜひ最後までお付き合い下さい<(_ _)>
写真共有サイトSo-netフォトより「mippimama」様 撮影。
「太平洋戦争 将兵万葉集」山口志郎 編・東京堂出版(1995年初版)という本があります。
昭和に生きて、戦い、多くは亡くなって行った兵士・軍人の和歌がまとめられた本です。
鎮魂と平和への願いを込めつつ、拙ブログではこの本から少しずつ和歌を紹介しています。
今回は【特別攻撃隊・神風】の項からの引用、その2回目(後編)になります。
※過去記事
・2/6付:北方領土の日によせて【将兵万葉集】(1)シベリア抑留者
・3/8付:中共が靖国を否定する理由【将兵万葉集】(2)特別攻撃隊・神風-1
※和歌の下の( )は出典です。
※階級は出撃時のものです。
※出身の略語は次の通りです。
陸士=陸軍士官学校、少飛=少年飛行兵、特操=特別操縦見習士官、
幹候=幹部候補生、下士=下士官操縦者、
予下=民間操縦士志望者からの採用予備役士官、
特幹=旧制中学から試験で採用した下士官、海兵=海軍兵学校、
海機=海軍機関学校、予学=予備学生、予生=予備生徒、
甲飛行=甲種飛行予科練習生、乙飛=乙種飛行予科練習生、
特乙飛=乙種(特)飛行予科練習生、丙飛=丙種飛行予科練習生、
操練=操縦練習生、予備練=航空局委託練習生。
また、これらに付いている数字は期別。
………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………
■この土のつらなる果てに母ありて明日の壮挙の成るを祈らん
(雲流るる果てに)
西田高光
大分県、海軍中尉、大分師範、予学13。
第五筑波隊員。
二十年五月十一日山岡荘八氏に見送られ沖縄に特攻戦死。二十三歳。
※西田中尉については後ほど詳述します。
………………………………………………………………………………
■いさみ来て今に思へばかなしけりなが年月の父の恩愛
(いざさらば我はみくにの山桜)
根尾久男
富山県、海軍中尉、早稲田大学、予学13。
菊水部隊梓特別攻撃隊員。
二十年三月十一日ウルシー環礁で特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
両親へ……
■平常と何ら変わらぬこの気持国を思ふと同じなるらん
(海軍特別攻撃隊の遺書)
野元 純
長崎県、少尉候補生、東京商大専、予生1。
神風特別攻撃隊第二護皇白鷲隊員。
二十年四月十二日沖縄で特攻戦死。二十二歳。
………………………………………………………………………………
■白妙の不二のたかねの見ゆるかな昔かはらぬ大和魂
(大東亜戦争殉難遺詠集)
長谷川喜市
群馬県、二等飛行兵曹、乙飛18。
神風特別攻撃隊第一草薙隊員。
二十年四月六日沖縄周辺で輸送船団に特攻戦死。二十歳。
………………………………………………………………………………
■大丈夫のみちに迷ひはなかりけり死して生ある命なりせば
(大東亜戦争殉難遺詠集)
原田愛文
山口県、海軍少尉、明治大学、予学14。
神風特別攻撃隊第二七生隊員。
二十年四月十二日与論島東方で特攻戦死。二十六歳。
………………………………………………………………………………
■大君の御楯とたちて今日よりは空征く屍かへりみはせじ
(ああ予科練)
稗田一幸
高知県、一等飛行兵曹、丙飛13。
神風特別攻撃隊第二御楯隊員。
二十年二月二十一日硫黄島で特攻戦死。二十一歳。
………………………………………………………………………………
■皇国に春を誘ふ沖縄に雲染む屍と散らん此の時
(大東亜戦争殉難遺詠集)
平林勇作
樺太、海軍少尉、法政大学、予学14。
神風特別攻撃隊第一昭和隊員。
二十年四月十四日徳之島東方で特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
■国の為征く身なりとは知りながら故郷にて祈る父母ぞ恋しき
(大東亜戦争殉難遺詠集)
広田幸宣
新潟県、一等飛行兵曹、甲飛10。
神風特別攻撃隊葉桜隊員。
十九年十月三十日比島スルアン島沖で特攻戦死。二十一歳。
………………………………………………………………………………
■たらちねの父母迎へん靖国に明日はゆくなり南溟の空
(遺稿集)
福山正通
奈良県、海軍中尉、海兵72。
神風特別攻撃隊第十九金剛隊員。
二十年一月六日比島リンガエン湾の艦に特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
■七度を生れ変りて大君に尽くさざらめや今ぞ出で立つ
(大東亜戦争殉難遺詠集)
藤田卓郎
愛媛県、海軍中尉、拓殖大学、予学13。
神風特別攻撃隊第八七生隊員。
二十年五月十四日種子島東方で特攻戦死。二十五歳。
………………………………………………………………………………
遺書なしと記して……
■咲く桜風にまかせて散りゆくも己の道ぞ顧みはせじ
(海軍特別攻撃隊の遺書)
藤村 勉
広島県、二等飛行兵曹、乙飛18。
神風特別攻撃隊第一護皇白鷺隊員。
二十年四月六日沖縄周辺にて艦船に特攻戦死。十九歳。
………………………………………………………………………………
出撃を前にして……
■特攻を待ちつつ日々の雨なれば生きる事にも飽きたる心地
■二十四の我が命絶つ日なり雨あがりつつ青空の見ゆ
■あと三時間のわが命なり只一人歌を作りて心を静む
■ふるさとの母の便りに強きこと言ひてはをれど老ひし母はも
■死といふは怖しごとと思へども命のまにまに安んじてゆく
■人はつひに死ぬものなれば二十四の我が命のありがたきかな
■花一つ手折らむこともなきままに桜は春の風に散るなり
(雲ながるる果てに)
古川正崇
奈良県、海軍中尉、大阪外語、予学13。
神風特別攻撃隊振天隊員。
二十年五月二十九日沖縄周辺艦船に特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
父上へ……
■我は今尊き大き使命もち桜花と共に散りて撃ちなん
(海軍特別攻撃隊の遺書)
本田耕一
兵庫県、海軍少尉、法政大学、予学14。
神風特別攻撃隊第六筑波隊員。
二十年五月十四日種子島東方で特攻戦死。二十二歳。
………………………………………………………………………………
■沖縄の戦友を偲べば胸は裂く今散る吾は心楽し
(予科練記念館資料・土浦)
前野博之
兵庫県、二等飛行兵曹、特乙飛行4。
神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊員。
二十年五月二十七日沖縄周辺艦艇に特攻戦死。十九歳。
………………………………………………………………………………
家族への最後の手紙に(攻撃前夜)……
■いざ征かん明日は御空の特攻隊結ぶ今宵の夢は故郷
(海軍特別攻撃隊の遺書)
牧 光廣
鹿児島県、上等飛行兵曹、乙飛16。
神風特別攻撃隊第二御盾隊員。
二十年二月二十一日硫黄島周辺艦船に特攻戦死。二十歳。
………………………………………………………………………………
遺書の中の一首
■誰の手に手折られけんか桜花ただ知るのみは醜の御楯と
松本 学
愛媛県、一等飛行兵曹、甲飛12。
神風特別攻撃隊第九銀河隊員。
二十年五月十一日沖縄方面で艦船に特攻戦死。二十歳。
※二十年五月十日愛媛県宇摩郡の山村に突然一機の海軍機が飛来し、
マフラーにつつんだ物を投下した。
松本少尉(戦死後特進して少尉)の母親の松本トキさんが
警察官立会いの上で開けると中から少尉の遺書が出てきた。
少尉はその翌日沖縄で散華した。
………………………………………………………………………………
辞世……
■君が代を千代に護れと祈るなり行きて帰らぬ身は梓弓
(大東亜戦争殉難遺詠集)
松村嘉吉
鹿児島県、一等飛行兵曹、丙飛11。
神風特別攻撃隊第一八幡護皇隊員。
二十年四月六日沖縄方面艦船に特攻戦死。二十五歳。
………………………………………………………………………………
■出で征きて還らざるとは知りながら已むに止まれぬ大和魂
(大東亜戦争殉難遺詠集)
南 義美
香川県、海軍少尉、操練30。
神風特別攻撃隊笠置隊員。
十九年十一月二十五日比島クラーク沖の艦艇に特攻戦死。三十歳。
………………………………………………………………………………
■天照す神の光を仰ぎつつ神つ学徒と我は出で立つ
(ああ神風特攻隊)
宮内 栄
茨城県、少尉候補生、中央大学専、予生1。
神風特別攻撃隊第三草薙隊員。
二十年四月二十八日沖縄で特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
■大君に尽くすに道は数あれど何にたとへん今日の嬉しさ
(大東亜戦争殉難遺詠集)
三井傅昌
山梨県、二等飛行兵曹、甲飛12。
神風特別攻撃隊第一護皇白鷺隊員。
二十年四月六日沖縄方面で艦船に特攻戦死。二十一歳。
………………………………………………………………………………
■いにしへの防人たちの行きしてふ道を尋ねて我は征でゆく
(海軍特別攻撃隊の遺書)
村川 弘
新潟県、海軍大尉、海兵70。
神風特別攻撃隊第二御盾隊員。
二十年二月二十一日硫黄島周辺艦艇に特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
辞世……
■はらからが五人そろって旗のもと一足先に四男坊征く
(いざさらば我はみくにの山桜)
安則盛三
兵庫県、海軍中尉、旅順師範、予学13。
神風特別攻撃隊第七昭和隊員。
二十年五月十一日沖縄周辺に特攻戦死。二十一歳。
※兄弟六人の中で五人が出征し、只一人の戦死者となった。
………………………………………………………………………………
■若桜美しく散りて国の為錦をば着て故郷へ帰る
(大東亜戦争殉難遺詠集)
山内文夫
静岡県、二等飛行兵曹、甲飛12。
神風特別攻撃隊第一正統隊員。
二十年四月六日沖縄周辺の艦船に特攻戦死。十八歳。
………………………………………………………………………………
■神風や嵐を越えて靖国の神苑に咲く白菊の花
(大東亜戦争殉難遺詠集)
山口清三郎
新潟県、二等飛行兵曹、丙飛17。
神風特別攻撃隊第五白菊隊員。
二十年六月二十五日沖縄周辺で特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
■吹雪吹く北の守りをになふわれ散りて咲かさん山桜花
(大東亜戦争殉難遺詠集)
山口歳郎
京都府、上等飛行兵曹、乙飛16。
神風特別攻撃隊八幡隊員。
二十年一月八日比島リンガエン湾の艦艇に特攻戦死。二十一歳。
………………………………………………………………………………
■積乱の雲のかなたに飛び行ける十九の命けふは還らず
■火花して押迫り来る敵空母わが機つぎつぎ自爆して行きぬ
■天つみそら散華(ざんげ)の屍のり越えて今日も行くなり益良武雄は
■五尺の身ありとあらゆる力もて尽くし奉らん醜の御楯は
■八百萬神きこしめせ我の身は大君のため死すべかりけり
(無名戦士遺詠抄)
矢野徹郎
愛媛県、海軍中尉、神宮皇学館、予学11。
神風特別攻撃隊第五桜井隊。
十九年十二月比島オルモックで特攻戦死。二十五歳。
………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………
〜この土のつらなる果てに母ありて明日の壮挙の成るを祈らん〜
この冒頭に紹介した歌を遺された西田高光中尉は、作家の山岡荘八氏(民主党国対委員長の山岡賢次氏は荘八氏の娘の夫)とのエピソードもあり、けっこう有名な方だと思います。
西田中尉をご存知ない方のために、「神風KAMIKAZE」より引用させていただきます。
●民族の誇り
戦争当時、海軍報道班員であった山岡荘八氏は海軍の鹿屋基地に配属された。そこで山岡氏は特攻隊員の「闊達さと自由さに時に傍若無人にさえ見えて、その実、接近するほど離れがたい別の美しさ」を感じていた。この底抜けの明るさがなぜ隊員達にあるのかという疑問をいつか解きたいと考えていた。
彼はこの質問をすることの出来そうな相手を見つけた。それが西田高光中尉であった。西田中尉は入隊以前、昭和17年4月4日から18年9月まで、19歳の若い教師として郷里の国民学校に奉職。68名の教え子に兄と慕われた。そして、その師弟間の文通は飛行科予備学生として海軍入隊後も続いた。20年5月、古畳の上で胡座して、教え子に最後の返事を書いていた西田中尉に、「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのか?負けても悔いはないのか?今日の心境になるまでにどのような心理の波があったかなど・・・・・」と質問した。
西田中尉は、重い口調で、現在ここに来る人々は皆自分から進んで志願した者であることと、もはや動揺期は克服していることを話した。そして最後に
「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・・・・・おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・・・・・」
と言われたそうである。
※西田中尉については「敷島の道」さんでも詳しく紹介されています。
※「学鷲」=大学、高等専門学校から入隊した海軍飛行予備学生・生徒、陸軍特別操縦見習士官。
この頃にはもう、西田中尉だけでなく多くの隊員の方が日本の敗戦を覚悟されていたと思います。
その上で皆さん、講和の条件が少しでも日本に有利となるように、日本人の運命が少しでも良きものとなるように、民族の誇りが保てるように……、そのために自分たちの「命」が役立つのであれば……という思いでおられたことが、西田中尉の言葉で分かります。
ご自分たちの「死」が、日本国と日本人の未来につながると信じて逝かれたのです。
実際、特攻隊が米軍に与えた打撃は、物理的には微々たるものだったでしょうが、心理的な面では決して小さくはなかったはずです。
アメリカ人は「日本人とは国と天皇のためなら死をも恐れない民族だ」と感じたことでしょうし、あるいはそれが天皇存続への要因のひとつになったのではないかと私は考えています(天皇を廃することで日本人がどんな行動をとるか予測できない、統治しにくくなる、という意味で)。
ところが、今の日本では、特攻で亡くなられた方を「犬死に」「無駄死に」と酷評する人たちが時々います。私(昭和39年生まれ)も学校で一部教師からそのように教わりました。
戦後、教育現場では子供たちに命の大切さを教えてきましたが、特攻死を犬死にだと教える教師はいったいどんな了見でそんなふうに教えるのでしょうか。
たとえば、駅で線路に転落した人を救助しようとしたものの自分も命を落としてしまった人、この種の悲しい事故が過去に何度かあったと記憶しますが、そうやって亡くなられた人のことを、サヨク教師も決して犬死にとは教えないはずです。
むしろ、美談として教えるのではないですか?
亡くなられた人の「意思」を忖度しつつ、「我が身を犠牲にしてでも他人を救おうとする行為は尊いものだ」と教えるのではないですか?
そういった無私の行為の延長線上にあって、もっとスケールの大きなものが特攻隊であり、また、あの戦争を戦った全ての日本の軍人・兵士であると私は思うのです。
要するに、 特攻死を「犬死に」だと切って捨てる人たちは、特攻隊員にもそれぞれ「意思」があったことを無視しているのです。逆に人間扱いしていないのです。
彼らはまさに平和ボケで、平時における人の命の「価値」には思いが及んでも、有事における人の命の「価値」まで突き詰めて考えたことはないのでしょう。
確かに特攻隊は悲劇でした。二度と繰り返してはならないことですし、私もことさら美化するつもりはありません。
ただ、戦後65年にもなるというのに、未だに彼らを「時代の犠牲者」という一面からしか語らないマスコミや評論家が大手を振って歩いていることに、苛立ちを覚えずにはいられないのです。
ここで、3/8付:中共が靖国を否定する理由【将兵万葉集】(2)特別攻撃隊・神風-1 宛てにいただいたコメントの中から、私が大変胸を打たれたメッセージをご紹介したいと思います。
皆様、文中のリンクからぜひ「えいと@」さんのブログをご訪問下さい!
※拙ブログ関連エントリー
・2/6付:北方領土の日によせて【将兵万葉集】(1)シベリア抑留者
・3/8付:中共が靖国を否定する理由【将兵万葉集】(2)特別攻撃隊・神風-1
・・・・・・・・・・・細切れぼやき・・・・・・・・・・・
■【政治】 福島みずほ大臣 「米海兵隊は、海外の日本人救出後回し!」→石破氏「自衛隊に救出させる法、あなた方が反対したんでしょ」★3
5月6日放送「朝ズバッ!」のこの討論、私も偶然見ていたのですが、福島大臣は本当にひどいものでした。石破さんは隣でずっと苦笑い状態でした。
先の戦争に関して、時々こんなことが言われますよね。
「満州の日本人を軍や国家は見捨てた!ひどい!!」
サヨクの皆さんは特に声高にそう言われます。
満州については、敗戦時ですから、助けたくても「物理的に助けられない」状況であったと私は理解しています。
翻って、今の日本はどうでしょうか。
福島大臣自身が「朝ズバッ!」で指摘したように、有事の際、アメリカ(海兵隊)が必ず在外日本人を助けてくれるという保証はないのです。
このままでは、日本(自衛隊)が「物理的に助けられる」状況にあるにもかかわらず、法が足かせとなり、結果的に見捨てるような事態に陥ったりしないのでしょうか。
(時の最高指揮官=総理大臣が政治的決断を下せばよいのでしょうが、少なくとも今の鳩山総理には無理でしょう)
同じ5月6日の、民主党・山岡国対委員長による「普天間問題は雲の上の話」発言もひどかったですね。前から失言の多い人ではあったけれど、この発言には本当に驚いたというか、耳を疑いました。
現政権にとっては、在外日本人や沖縄県民の安全や暮らしというのはまさに「雲の上の話」で、自分たちにはあまり関係ないと思ってるんじゃないだろうか。そんなことすら考えてしまいます。
……先の戦争で、身を挺して日本の未来を護って下さった兵士・軍人の皆さんは、今のこんな日本を、現政権の体たらくを、「雲の上」からどんなふうに見ていらっしゃるのでしょう?
■「お気楽くっくり」更新済
GWは歩いて、歩いて……。
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※階級は出撃時のものです。
※出身の略語は次の通りです。
陸士=陸軍士官学校、少飛=少年飛行兵、特操=特別操縦見習士官、
幹候=幹部候補生、下士=下士官操縦者、
予下=民間操縦士志望者からの採用予備役士官、
特幹=旧制中学から試験で採用した下士官、海兵=海軍兵学校、
海機=海軍機関学校、予学=予備学生、予生=予備生徒、
甲飛行=甲種飛行予科練習生、乙飛=乙種飛行予科練習生、
特乙飛=乙種(特)飛行予科練習生、丙飛=丙種飛行予科練習生、
操練=操縦練習生、予備練=航空局委託練習生。
また、これらに付いている数字は期別。
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■この土のつらなる果てに母ありて明日の壮挙の成るを祈らん
(雲流るる果てに)
西田高光
大分県、海軍中尉、大分師範、予学13。
第五筑波隊員。
二十年五月十一日山岡荘八氏に見送られ沖縄に特攻戦死。二十三歳。
※西田中尉については後ほど詳述します。
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■いさみ来て今に思へばかなしけりなが年月の父の恩愛
(いざさらば我はみくにの山桜)
根尾久男
富山県、海軍中尉、早稲田大学、予学13。
菊水部隊梓特別攻撃隊員。
二十年三月十一日ウルシー環礁で特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
両親へ……
■平常と何ら変わらぬこの気持国を思ふと同じなるらん
(海軍特別攻撃隊の遺書)
野元 純
長崎県、少尉候補生、東京商大専、予生1。
神風特別攻撃隊第二護皇白鷲隊員。
二十年四月十二日沖縄で特攻戦死。二十二歳。
………………………………………………………………………………
■白妙の不二のたかねの見ゆるかな昔かはらぬ大和魂
(大東亜戦争殉難遺詠集)
長谷川喜市
群馬県、二等飛行兵曹、乙飛18。
神風特別攻撃隊第一草薙隊員。
二十年四月六日沖縄周辺で輸送船団に特攻戦死。二十歳。
………………………………………………………………………………
■大丈夫のみちに迷ひはなかりけり死して生ある命なりせば
(大東亜戦争殉難遺詠集)
原田愛文
山口県、海軍少尉、明治大学、予学14。
神風特別攻撃隊第二七生隊員。
二十年四月十二日与論島東方で特攻戦死。二十六歳。
………………………………………………………………………………
■大君の御楯とたちて今日よりは空征く屍かへりみはせじ
(ああ予科練)
稗田一幸
高知県、一等飛行兵曹、丙飛13。
神風特別攻撃隊第二御楯隊員。
二十年二月二十一日硫黄島で特攻戦死。二十一歳。
………………………………………………………………………………
■皇国に春を誘ふ沖縄に雲染む屍と散らん此の時
(大東亜戦争殉難遺詠集)
平林勇作
樺太、海軍少尉、法政大学、予学14。
神風特別攻撃隊第一昭和隊員。
二十年四月十四日徳之島東方で特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
■国の為征く身なりとは知りながら故郷にて祈る父母ぞ恋しき
(大東亜戦争殉難遺詠集)
広田幸宣
新潟県、一等飛行兵曹、甲飛10。
神風特別攻撃隊葉桜隊員。
十九年十月三十日比島スルアン島沖で特攻戦死。二十一歳。
………………………………………………………………………………
■たらちねの父母迎へん靖国に明日はゆくなり南溟の空
(遺稿集)
福山正通
奈良県、海軍中尉、海兵72。
神風特別攻撃隊第十九金剛隊員。
二十年一月六日比島リンガエン湾の艦に特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
■七度を生れ変りて大君に尽くさざらめや今ぞ出で立つ
(大東亜戦争殉難遺詠集)
藤田卓郎
愛媛県、海軍中尉、拓殖大学、予学13。
神風特別攻撃隊第八七生隊員。
二十年五月十四日種子島東方で特攻戦死。二十五歳。
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遺書なしと記して……
■咲く桜風にまかせて散りゆくも己の道ぞ顧みはせじ
(海軍特別攻撃隊の遺書)
藤村 勉
広島県、二等飛行兵曹、乙飛18。
神風特別攻撃隊第一護皇白鷺隊員。
二十年四月六日沖縄周辺にて艦船に特攻戦死。十九歳。
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出撃を前にして……
■特攻を待ちつつ日々の雨なれば生きる事にも飽きたる心地
■二十四の我が命絶つ日なり雨あがりつつ青空の見ゆ
■あと三時間のわが命なり只一人歌を作りて心を静む
■ふるさとの母の便りに強きこと言ひてはをれど老ひし母はも
■死といふは怖しごとと思へども命のまにまに安んじてゆく
■人はつひに死ぬものなれば二十四の我が命のありがたきかな
■花一つ手折らむこともなきままに桜は春の風に散るなり
(雲ながるる果てに)
古川正崇
奈良県、海軍中尉、大阪外語、予学13。
神風特別攻撃隊振天隊員。
二十年五月二十九日沖縄周辺艦船に特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
父上へ……
■我は今尊き大き使命もち桜花と共に散りて撃ちなん
(海軍特別攻撃隊の遺書)
本田耕一
兵庫県、海軍少尉、法政大学、予学14。
神風特別攻撃隊第六筑波隊員。
二十年五月十四日種子島東方で特攻戦死。二十二歳。
………………………………………………………………………………
■沖縄の戦友を偲べば胸は裂く今散る吾は心楽し
(予科練記念館資料・土浦)
前野博之
兵庫県、二等飛行兵曹、特乙飛行4。
神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊員。
二十年五月二十七日沖縄周辺艦艇に特攻戦死。十九歳。
………………………………………………………………………………
家族への最後の手紙に(攻撃前夜)……
■いざ征かん明日は御空の特攻隊結ぶ今宵の夢は故郷
(海軍特別攻撃隊の遺書)
牧 光廣
鹿児島県、上等飛行兵曹、乙飛16。
神風特別攻撃隊第二御盾隊員。
二十年二月二十一日硫黄島周辺艦船に特攻戦死。二十歳。
………………………………………………………………………………
遺書の中の一首
■誰の手に手折られけんか桜花ただ知るのみは醜の御楯と
松本 学
愛媛県、一等飛行兵曹、甲飛12。
神風特別攻撃隊第九銀河隊員。
二十年五月十一日沖縄方面で艦船に特攻戦死。二十歳。
※二十年五月十日愛媛県宇摩郡の山村に突然一機の海軍機が飛来し、
マフラーにつつんだ物を投下した。
松本少尉(戦死後特進して少尉)の母親の松本トキさんが
警察官立会いの上で開けると中から少尉の遺書が出てきた。
少尉はその翌日沖縄で散華した。
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辞世……
■君が代を千代に護れと祈るなり行きて帰らぬ身は梓弓
(大東亜戦争殉難遺詠集)
松村嘉吉
鹿児島県、一等飛行兵曹、丙飛11。
神風特別攻撃隊第一八幡護皇隊員。
二十年四月六日沖縄方面艦船に特攻戦死。二十五歳。
………………………………………………………………………………
■出で征きて還らざるとは知りながら已むに止まれぬ大和魂
(大東亜戦争殉難遺詠集)
南 義美
香川県、海軍少尉、操練30。
神風特別攻撃隊笠置隊員。
十九年十一月二十五日比島クラーク沖の艦艇に特攻戦死。三十歳。
………………………………………………………………………………
■天照す神の光を仰ぎつつ神つ学徒と我は出で立つ
(ああ神風特攻隊)
宮内 栄
茨城県、少尉候補生、中央大学専、予生1。
神風特別攻撃隊第三草薙隊員。
二十年四月二十八日沖縄で特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
■大君に尽くすに道は数あれど何にたとへん今日の嬉しさ
(大東亜戦争殉難遺詠集)
三井傅昌
山梨県、二等飛行兵曹、甲飛12。
神風特別攻撃隊第一護皇白鷺隊員。
二十年四月六日沖縄方面で艦船に特攻戦死。二十一歳。
………………………………………………………………………………
■いにしへの防人たちの行きしてふ道を尋ねて我は征でゆく
(海軍特別攻撃隊の遺書)
村川 弘
新潟県、海軍大尉、海兵70。
神風特別攻撃隊第二御盾隊員。
二十年二月二十一日硫黄島周辺艦艇に特攻戦死。二十四歳。
………………………………………………………………………………
辞世……
■はらからが五人そろって旗のもと一足先に四男坊征く
(いざさらば我はみくにの山桜)
安則盛三
兵庫県、海軍中尉、旅順師範、予学13。
神風特別攻撃隊第七昭和隊員。
二十年五月十一日沖縄周辺に特攻戦死。二十一歳。
※兄弟六人の中で五人が出征し、只一人の戦死者となった。
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■若桜美しく散りて国の為錦をば着て故郷へ帰る
(大東亜戦争殉難遺詠集)
山内文夫
静岡県、二等飛行兵曹、甲飛12。
神風特別攻撃隊第一正統隊員。
二十年四月六日沖縄周辺の艦船に特攻戦死。十八歳。
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■神風や嵐を越えて靖国の神苑に咲く白菊の花
(大東亜戦争殉難遺詠集)
山口清三郎
新潟県、二等飛行兵曹、丙飛17。
神風特別攻撃隊第五白菊隊員。
二十年六月二十五日沖縄周辺で特攻戦死。二十四歳。
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■吹雪吹く北の守りをになふわれ散りて咲かさん山桜花
(大東亜戦争殉難遺詠集)
山口歳郎
京都府、上等飛行兵曹、乙飛16。
神風特別攻撃隊八幡隊員。
二十年一月八日比島リンガエン湾の艦艇に特攻戦死。二十一歳。
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■積乱の雲のかなたに飛び行ける十九の命けふは還らず
■火花して押迫り来る敵空母わが機つぎつぎ自爆して行きぬ
■天つみそら散華(ざんげ)の屍のり越えて今日も行くなり益良武雄は
■五尺の身ありとあらゆる力もて尽くし奉らん醜の御楯は
■八百萬神きこしめせ我の身は大君のため死すべかりけり
(無名戦士遺詠抄)
矢野徹郎
愛媛県、海軍中尉、神宮皇学館、予学11。
神風特別攻撃隊第五桜井隊。
十九年十二月比島オルモックで特攻戦死。二十五歳。
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〜この土のつらなる果てに母ありて明日の壮挙の成るを祈らん〜
この冒頭に紹介した歌を遺された西田高光中尉は、作家の山岡荘八氏(民主党国対委員長の山岡賢次氏は荘八氏の娘の夫)とのエピソードもあり、けっこう有名な方だと思います。
西田中尉をご存知ない方のために、「神風KAMIKAZE」より引用させていただきます。
●民族の誇り
戦争当時、海軍報道班員であった山岡荘八氏は海軍の鹿屋基地に配属された。そこで山岡氏は特攻隊員の「闊達さと自由さに時に傍若無人にさえ見えて、その実、接近するほど離れがたい別の美しさ」を感じていた。この底抜けの明るさがなぜ隊員達にあるのかという疑問をいつか解きたいと考えていた。
彼はこの質問をすることの出来そうな相手を見つけた。それが西田高光中尉であった。西田中尉は入隊以前、昭和17年4月4日から18年9月まで、19歳の若い教師として郷里の国民学校に奉職。68名の教え子に兄と慕われた。そして、その師弟間の文通は飛行科予備学生として海軍入隊後も続いた。20年5月、古畳の上で胡座して、教え子に最後の返事を書いていた西田中尉に、「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのか?負けても悔いはないのか?今日の心境になるまでにどのような心理の波があったかなど・・・・・」と質問した。
西田中尉は、重い口調で、現在ここに来る人々は皆自分から進んで志願した者であることと、もはや動揺期は克服していることを話した。そして最後に
「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・・・・・おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・・・・・」
と言われたそうである。
※西田中尉については「敷島の道」さんでも詳しく紹介されています。
※「学鷲」=大学、高等専門学校から入隊した海軍飛行予備学生・生徒、陸軍特別操縦見習士官。
この頃にはもう、西田中尉だけでなく多くの隊員の方が日本の敗戦を覚悟されていたと思います。
その上で皆さん、講和の条件が少しでも日本に有利となるように、日本人の運命が少しでも良きものとなるように、民族の誇りが保てるように……、そのために自分たちの「命」が役立つのであれば……という思いでおられたことが、西田中尉の言葉で分かります。
ご自分たちの「死」が、日本国と日本人の未来につながると信じて逝かれたのです。
実際、特攻隊が米軍に与えた打撃は、物理的には微々たるものだったでしょうが、心理的な面では決して小さくはなかったはずです。
アメリカ人は「日本人とは国と天皇のためなら死をも恐れない民族だ」と感じたことでしょうし、あるいはそれが天皇存続への要因のひとつになったのではないかと私は考えています(天皇を廃することで日本人がどんな行動をとるか予測できない、統治しにくくなる、という意味で)。
ところが、今の日本では、特攻で亡くなられた方を「犬死に」「無駄死に」と酷評する人たちが時々います。私(昭和39年生まれ)も学校で一部教師からそのように教わりました。
戦後、教育現場では子供たちに命の大切さを教えてきましたが、特攻死を犬死にだと教える教師はいったいどんな了見でそんなふうに教えるのでしょうか。
たとえば、駅で線路に転落した人を救助しようとしたものの自分も命を落としてしまった人、この種の悲しい事故が過去に何度かあったと記憶しますが、そうやって亡くなられた人のことを、サヨク教師も決して犬死にとは教えないはずです。
むしろ、美談として教えるのではないですか?
亡くなられた人の「意思」を忖度しつつ、「我が身を犠牲にしてでも他人を救おうとする行為は尊いものだ」と教えるのではないですか?
そういった無私の行為の延長線上にあって、もっとスケールの大きなものが特攻隊であり、また、あの戦争を戦った全ての日本の軍人・兵士であると私は思うのです。
要するに、 特攻死を「犬死に」だと切って捨てる人たちは、特攻隊員にもそれぞれ「意思」があったことを無視しているのです。逆に人間扱いしていないのです。
彼らはまさに平和ボケで、平時における人の命の「価値」には思いが及んでも、有事における人の命の「価値」まで突き詰めて考えたことはないのでしょう。
確かに特攻隊は悲劇でした。二度と繰り返してはならないことですし、私もことさら美化するつもりはありません。
ただ、戦後65年にもなるというのに、未だに彼らを「時代の犠牲者」という一面からしか語らないマスコミや評論家が大手を振って歩いていることに、苛立ちを覚えずにはいられないのです。
ここで、3/8付:中共が靖国を否定する理由【将兵万葉集】(2)特別攻撃隊・神風-1 宛てにいただいたコメントの中から、私が大変胸を打たれたメッセージをご紹介したいと思います。
はじめまして! アメリカ在住の えいと@と申します。
1ヶ月前くらいから貴ブログを拝見するようになりました。
共感しながら読ませていただいています。
ところで、私の夫の叔父が かの戦争の特攻隊で亡くなっております。
戦死したということはわかっておりましたが、近年までどこで戦死したのかがわかりませんでした。
去年、やっと特攻「桜花作戦」で戦死したということが判明したのです。
それまで、夫の夢の中に叔父が何度も出て来たのだそうです。
後ろ向きに落ちていく…そんな姿を何度も夢で見たと言います。
そして去年、夫と二人で「靖国神社」の昇殿参拝をいたしました。
それ以来、叔父が夢に出てくることはないそうです。
きっと、叔父は身内の人間が靖国に来てくれたんだと喜んでくださり、
そして やっと成仏できたのではないかな…と思います。
http://eight-americann.seesaa.net/article/134997504.html
http://eight-americann.seesaa.net/article/135097715.html
あの頃の戦士たちは けして死にたくはなかったはずです。
でも、国のため、愛する家族のために死んでいかれたのです。
遊就館に納められている遺書を見ると、本当に涙が出て来ます。
その英霊がおさめられている靖国神社を否定しようとする中国や韓国…!
怒りで震えます。
もう戦後65年です。
靖国神社に特別な思いを抱いてる人は少なくなってきたでしょう。
でも、今の日本があるのは、かの戦争で賢明に戦ってくださったご先祖さまがおられたからなんだ…ということを忘れないようにしていきたいな…って。
そんな風に思います。
えいと@
えいと@ | 2010/03/09 03:42 AM
皆様、文中のリンクからぜひ「えいと@」さんのブログをご訪問下さい!
※拙ブログ関連エントリー
・2/6付:北方領土の日によせて【将兵万葉集】(1)シベリア抑留者
・3/8付:中共が靖国を否定する理由【将兵万葉集】(2)特別攻撃隊・神風-1
・・・・・・・・・・・細切れぼやき・・・・・・・・・・・
■【政治】 福島みずほ大臣 「米海兵隊は、海外の日本人救出後回し!」→石破氏「自衛隊に救出させる法、あなた方が反対したんでしょ」★3
5月6日放送「朝ズバッ!」のこの討論、私も偶然見ていたのですが、福島大臣は本当にひどいものでした。石破さんは隣でずっと苦笑い状態でした。
先の戦争に関して、時々こんなことが言われますよね。
「満州の日本人を軍や国家は見捨てた!ひどい!!」
サヨクの皆さんは特に声高にそう言われます。
満州については、敗戦時ですから、助けたくても「物理的に助けられない」状況であったと私は理解しています。
翻って、今の日本はどうでしょうか。
福島大臣自身が「朝ズバッ!」で指摘したように、有事の際、アメリカ(海兵隊)が必ず在外日本人を助けてくれるという保証はないのです。
このままでは、日本(自衛隊)が「物理的に助けられる」状況にあるにもかかわらず、法が足かせとなり、結果的に見捨てるような事態に陥ったりしないのでしょうか。
(時の最高指揮官=総理大臣が政治的決断を下せばよいのでしょうが、少なくとも今の鳩山総理には無理でしょう)
同じ5月6日の、民主党・山岡国対委員長による「普天間問題は雲の上の話」発言もひどかったですね。前から失言の多い人ではあったけれど、この発言には本当に驚いたというか、耳を疑いました。
現政権にとっては、在外日本人や沖縄県民の安全や暮らしというのはまさに「雲の上の話」で、自分たちにはあまり関係ないと思ってるんじゃないだろうか。そんなことすら考えてしまいます。
……先の戦争で、身を挺して日本の未来を護って下さった兵士・軍人の皆さんは、今のこんな日本を、現政権の体たらくを、「雲の上」からどんなふうに見ていらっしゃるのでしょう?
■「お気楽くっくり」更新済
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Comments
以前にも書いたかもしれませんが、私の父、祖父母は朝鮮半島から本土に引き上げてきました。
その際にも日本政府、軍の支援は全く無く、危うく一家対馬海峡の藻屑となるところでした。(多くの日本人が犠牲となったそうです。)
先日Youtubeで特攻隊員の遺書を嫁と一緒に見ていましたが、嫁も涙が止まら無いようでした。
私自身は防衛大学志望で、当時の視力検査の制限で受験を断念しましたが、もし私の人生で唯一悔いが残るとするならば、この一事でしょう。
そして、散華された皆様の辞世を読み、今の若い人たちに、辞世を書けと言っても、これだけの辞世が書けるでしょうか?
山本長官は「いまどきの若者は、などと決して申すまじ。」と言われたそうですが、はたして、散華された人たちは、今の日本を見てどのように思われるでしょうか?
このような国家の為に、二十歳すぎの命を御国の為に捧げられたのでしょうか?
私は靖国にお参りをするたびに、自らを含めて、恥ずかしくてなりません。左翼のデモを援護するために機動隊が待機し、愛国勢力のデモは規制される。
心の中では機動隊の2、3人張り倒してやりたいのは山々です。しかし、私にも生活があります。自らの生活と言う私事と、愛国と言う公を天秤に掛けねばならない我が身が恥ずかしくてなりません。
今年の靖国参拝の際は、今年も機動隊に合法的に体当たりを敢行したいと存じます。
こんにちは、えいと@です。
私のつたないコメントを取り上げてくださってありがとうございます。
感激で一杯です。
コメントに「英霊がおさめられている靖国神社を否定しようとする中国や韓国…! 怒りで震えます。」と書いていますが、
一番悲しいのは「日本人自身が英霊に感謝する気持ちを忘れてしまっている」ことですね。。。
「かの戦争は侵略戦争であり、その戦争で他国の人々を苦しめた霊が祭られている靖国神社は悪だ!」と考える日本人が存在することに悲しみを感じます。
アメリカでは一般の市民は戦争反対派の方が多いんです。
でも、軍人に対する考え方は日本と全く異なります。
戦争で亡くなられた方が帰国される際には、町をあげて追悼します。
戦没者の日には国民みんなが英霊のために黙祷するんです。
命をかけて国を守ってくださったんだ…アメリカ国民の軍人に対する感謝の心を感じます。
アメリカの愛国心。
これは本当にすばらしいものです。
国を愛すること、愛国心を持つことは自然なことなのに、
なぜ、日本人にはできないのでしょう…。
社民党などの左派の方々が言われることって ものすごい矛盾を抱えていますね。
なぜそれに気がつかないんでしょう。
「憲法9条があるから65年も平和が続いた」
時代は流れているのに…国防もせずにいつまでも平和が継続すると思っているのでしょうか。
自分の国を自分たちだけで守れないって、こんなに情けないことはありません。
今の中国の動きを見ていると本当に不安です。
日本は真剣に「国防」について考えなければいけない時期に来ているのではないかと思います。
今の日本を 英霊はどんな風に感じておられるでしょうか…。
先の戦争で命をかけて日本を守ってくださった方々に 申し訳ないようなことにはしたくはないですね…。
えいと@
きっと機動隊の皆さんも心の中では「何でこんな連中を守らなければならないのか」と思っていますよ。
小沢一郎邸や国会議事堂前で連日デモをしていた方の話では、警備隊の大半(機動隊含む)が、公には言えないけれど反小沢、反民主のデモ隊に共感してくださっていたそうです。
長野の中国人学生を「守った」警察には警察OBからも強い批判が出ていましたし、実際はご自身の任務と感情との葛藤があると思います。
小泉さんが靖国参拝した際に、革マル派(まだいたか!)がバスで乗り付けて妨害しようとした所を一般参拝者にビニール傘や三角コーンで叩かれて早々に退散したことがありました。
その際も警察は苦笑いしながらある程度はやらせていたそうです(現場にいた方の話)。
警察にも自衛隊にも様々な問題がありますが、どちらにも国を守る熱い気持ちを持って日々骨身を削っていらっしゃる方が沢山いらっしゃると思います。
くっくりさん、素晴らしいエントリー有難うございます。
西田中尉のお話は、岩田温さんの「日本人の歴史哲学」で紹介されており、感動しながら読みました。特攻隊の方々が戦後の日本人のことを考えて散華されたことを知って、自分の意識が大きく変わるきっかけとなりました。
ベルナール・ミローの「カミカゼ」では、特攻は西洋には理解しがたい戦略ではあったが、通常の攻撃と比較して非常に有効であったと分析しているそうです。つまり多くの方がおっしゃっているような「狂信的な攻撃」では決してなかったということです。
改めて先人の方々の尊い命の上に私たちは生かされているのだなと思います。
散り行くも 芽の生え来たる 桜かな
(上は、以前他ブログにて詠んだ一句です)
特攻された方々の命もまた、尊いものであったはずです。
そして、尊い命を捨ててまで、守るべきものがあった。
左翼連中がその行為を非難するなど、全くおかしな話で、彼らは命の重みや尊さが実は分かっていない証左でありましょう。
国おもい 捨つる命や
軽からず
懸けて散り行く 桜めでたり
(おもい=思い・重い)
(めでたり=愛でたり・芽出たり)
先人達の尊い犠牲を、平和な日本に住む我々は決して忘れてはならないですね。
その番組の中でもアメリカは日本と戦争をした事になっているのですが、興味深いのは「アメリカは有色人種である日本人を見くびって、易々と勝てると思っていたが、日本は激しい反撃を見せ、多数のアメリカ人が死傷した」と紹介されている点です。
アメリカ人の心の中には、特攻隊の方々や、硫黄島、ペリリュー、南方の島々、そして沖縄で徹底的に戦った日本人の残像が、今でもしっかりと残っているのだと実感しました。
しかし、現実問題として、この国で大手を振って、「我こそは正論なり。」という顔をしている連中はどの様な連中でしょう?
私に言わせれば、10トントラックの馬糞並みの値打ちのない、糞のような連中が「我こそが正義なり。」というしたり顔で、言いたい放題を言っているのが現実ではないでしょうか。
機動隊も「機動隊の行動に法的根拠はいらない。」と去年はっきり言われました。
繰り言になりますが、英霊の皆さんは何のために散華されたのでしょう????
無駄死にでしょうか?それとも日本民族の意地、誇りの為でしょうか?であったとして、現在の国家の英霊の皆様への扱いは何でしょうか?私は悔しくてなりません。
東京に住んでいるものとしては、知らなかったです。お休みの週があるとは、残念。今週の青山さんの意見が聞きたかったです。
それで、私がネットで楽しんでいる九州の方のラジオ局の ”青山繁晴さんコーナー”です。これも毎週水曜日オンエアーです。
http://rkbr.jp/podcast/audio/st100505-1.mp3
↑RKBラジオ 中西一清スタミナラジオ
無駄死にでは決してありません。
陸海軍は日露戦争の勝利で、世界中が非常に強いと思っていたはずです。第一次大戦では、日英同盟のイギリスから派兵要請が度々来ていたはずです。(海軍大臣はチャーチル卿?)どう言う訳か派兵していません。ただ、東洋人が飛行機を飛ばす事は信じられなかったようです。かのフライングタイガー飛行隊(USポスト)がゼロ戦の登場で落とされるようになると白人の操縦だろうと本気で考えたとか。
靖国神社は奉仕のお掃除ぐらいしかした事がなくていつも申し訳ないと思っております。