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朝日新聞“南京大虐殺”虚報と東史郎のニセ証言

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[この画像については、14/9/22付を参照]

 「南京大虐殺」虚報といえば、朝日新聞。
 真っ先に浮かぶのは、昭和46年11月4日から連載された、本多勝一の『中国の旅』ですよね。

 『中国の旅』には厳しい批判が起きましたが、朝日新聞は取り消すどころか、虚報を支えるためさらに虚報を作っていきました。
 
 「正論」2016年6月号で、阿羅健一さんが、その中から3つをピックアップして解説されていたので、紹介します(敬称略)。
 
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 1つめは、『中国の旅』連載から1年経った昭和47年11月6日・7日に掲載された記事。

 野戦郵便長を務めていた佐々木元勝が陥落3日後の南京に入り、そのときの日記をもとに4年後『野戦郵便旗』を上梓するが、そこに「南京事件」が詳しく記述されていた、というもの。

 6日の記事は『野戦郵便旗』の紹介。
 7日の記事は佐々木元勝へのインタビュー。

 この記事が掲載された頃、『中国の旅』は激しい批判にさらされ、本多勝一は何も反論できずにいたから、朝日にとってはこのうえない援護の記事。

 しかし8日の記事をよく読むと、佐々木は自分で見た南京をこう証言しています。

「死体はすでに片づけられた後だったのか、ほとんど見ませんでした。おばあさんの死んでいるのを一度見かけただけです」
「どこかに連れられて行く捕虜の大群に出会いました」
「その夜、バリバリという機銃掃射の音を聞いた。翌朝、局舎のすぐ近くの嗎頭の水打ちぎわに、中国人の死体が累々と倒れているのを見た」

 つまり市民の死体は見なかったが、処断された捕虜の死体は見たという証言。

 どういうことかというと、『野戦郵便旗』の出版にあたり佐々木は参謀本部通信参謀の検閲を受け、新聞にも広告を出していたと言っており、佐々木の見た死体は掃討戦によるもので、問題となるものではないということ。

 当時から敗残兵の処断は知られ、戦闘の一環と見なされていたことを示すもので、この記事は、市民の大量殺害で反論に事欠いた朝日新聞が、敗残兵の処断を虐殺だと主張し出したことを意味しています。

「虐殺ということばは、どうも私にはぴったり来ない。戦闘行為の行きすぎ……せん滅戦、全滅戦といったほうが私にはぴったりします」

 と佐々木自身は証言をこう締めくくり、虐殺を否定していますが、朝日新聞は見出しに【「南京大虐殺」私が書いた】と掲げていました。

 見出しでミスリードし、ないものをあると読者に誤解させる。
 朝日のいつものやり口ですね。

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 2つめは、昭和59年8月4日の記事。

【日記と写真もあった南京大虐殺 悲惨さ写した三枚 宮崎の元兵士 後悔の念をつづる】という見出し。

 昭和49年に腎臓病で亡くなった北郷村の上等兵(宇和田弥市)が日記に虐殺を記述しており、写真もあったと、12個の首の写真が添えられていました。

 都城23連隊戦友会(南京攻略戦に参加した宮崎県都城市の連隊)が調査したところ、事実無根と判明します。

 生首写真についても、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真で、場所も南京とは無関係だったことが判明(同じ写真の持ち主が現れ、写真上部に「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」とキャプションがあった)。

 戦友会は朝日に日記を見せるよう求めましたが、朝日は応じませんでした。

 日記が紛失したと逃げられては困るので、小倉簡易裁判所に日記保全を申し立てしたところ、裁判所側は連隊会の訴えを全面的に認め、公開せよとの判決が下りました。

 ところが朝日はただちに不服申し立てをし、公開は延期に。

 連隊会は「連隊は南京事件と無関係」との記事を全国版に掲載することを条件に、朝日側と和解する道を選ぶこととなりました。

 朝日側の引き延ばし戦術に付き合い、裁判ともなるとお金もかかるし、年月もかかるし、その間に関係者が亡くなっていくことが懸念されたからです。

 昭和62年1月21日、連隊会は保全申し立て取り下げ書を提出。

 23日、朝日は「取り下げに当たり連隊は南京虐殺とは無関係と表明した」「連隊会側が連隊として虐殺に関係したような印象を与えたとして反発していた」という小さな記事を全国版に掲載。

 連隊会の朝日との約2年半にわたった戦いは終結しました。

 一連の経緯については、以下のサイト様が詳しいです。

脱 ・ 洗脳史講座(現代史家・田辺敏雄さんのサイト)
正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現(coffeeさんのブログ)

 ちなみに、この昭和59年8月4日記事からわずか3カ月後の昭和59年10月31日、朝日は「毒ガス写真事件」を起こしています。

 「日本軍の悪行」をアピールできるなら、裏もとらずに載せる。
 嘘を報じて「事実」にしていく。
 それが今も変わらぬ朝日のスタンスです。

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 3つめは、「23連隊戦友会vs朝日」がいちおうの決着を見てから半年後の、昭和62年7月7日から始まる一連の記事。

 東史郎に関する記事です。
 これが一番深刻です。

 東史郎のニセ証言は中国を中心とした反日勢力のプロパガンダに利用され、その悪影響は現在も続いています。
 慰安婦問題における吉田清治のニセ証言のように。

 阿羅健一さんの解説から、要点を抜き出し、時系列に再構成してみます(一部こちらで加筆)。

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昭和62年7月6日
「平和のための京都の戦争展」実行委員会が、東史郎ほか2人を記者会見させた。
実行委員会は、この年が盧溝橋事件から50年目に当たり、新聞社が事件の起きた7月7日に載せる記事を探していたのを知っていた。
この3年前にも同様なことを行い、新聞に報じられていた。

昭和62年7月7日
東史郎らの会見をほとんどの新聞が報道。
朝日新聞は、【「南京虐殺」を見た 元兵士3人 陣中日誌など公表】の見出しを掲げ、7段で紹介。
日記にはこう記述されていたという。
「日本兵が郵便袋に中国人を入れ、火をつけたら飛び上がった。冷たくしてやろうと手りゅう弾をつけて沼にほうり込むと水中でさく裂した」
世間は驚いたが、地元の戦友たちは「またこんなものを」という冷めた見方だった。
この5年前、東が所属していた第三中隊は『第三中隊史』を作ったが、そこで東は戦友を悪しざまに記述するとともに、第三中隊は路王墳で20人の中国人を殺し自分も1人を斬り殺した、と書いていた。しかし、それまで戦友を貶める記述が中隊史に載ることはなく、路王墳で20人を殺したことについても知っている戦友はおらず、東はまるで小説を書くように書くと呆れられていたからである。
ちなみに『第三中隊史』が作成される時、50人が寄稿するので50分の1でよいのに、東は1人で4分の1も書いた。生来の作家志望が何十年かして頭をもたげだしたのだが、それだけでなく肥大化したと戦友は受け止めていた。

昭和62年7月8日
朝日新聞が、【「虐殺」証言に脅迫電話 旧日本兵3人が訴え】と報じた。
証言した東に脅迫電話があったという記事。
日記に事実が書かれているのならそのようなことも言えようが、手榴弾をつけて放るなど自殺行為で、ありえない。朝日のなすべきことは日記の記述が事実かどうか明らかにすることであり、問題のすり替えだと戦友たちは感じた。

昭和62年8月5日
朝日新聞が、「テーマ談話室 戦争」で東の投書を取り上げた。
「朝から晩まで電話の連続攻撃、非難、ば声の怒声に妻はおののいた。私はひるまず、いちいち応答した。私の説明を聞いてくれた人々のほとんどは納得してくれた」
「われわれはこそくで卑きょうであってはならない」
東はこう書き、ここでも証言は正しいものとされ、読者は南京事件を隠そうとする勢力と戦っている兵士がいると受け取ることになった。

昭和62年10月16日
朝日新聞が「風車」欄で、また東史郎を取り上げた。
東が「テーマ談話室」に投書したことにより「脅迫より激励の手紙が上回るようになった」と紹介し、東は南京事件50年目の12月に「南京事件調査研究会」と南京を訪れて犠牲者への弔意を尽くす予定であるとも報じた。
「南京事件調査研究会」とは、本多勝一たちが昭和59年3月に発足させ、その年の12月に南京を訪れ、この年には2度目の訪中を予定していた。

昭和62年12月8日
朝日新聞が、【近く中国へ謝罪の旅】という見出しで、東の顔写真を掲載、東は刷り上がったばかりの『わが南京プラトーン』を携えて南京に行く、と報じた。
『わが南京プラトーン』とは東が陣中メモをもとに書いたものと言われ、これが刊行されたことを宣伝する記事だったが、『わが南京プラトーン』の内容は東のでたらめさをはっきりさせるばかりだった。
『第三中隊史』では東は路王墳で1人の中国人を斬ったことになっていたが、ここでは2人に変わっていた。
また、手榴弾をつけて放り込んだのは「西本」であると明らかにされたが、「西本」という兵隊は中隊にはいなかった。

そもそも東は手榴弾での殺害を見ていたと言うが、そのようなことを黙って見ている日本兵がいるとは考えられず、作り事だからこう書かざるをえないのだと戦友たちは批判した。
新たな疑惑も起きた。第三中隊は南京郊外で捕虜を護送し、捕虜は上海捕虜収容所などに入れられるが、『わが南京プラトーン』には、ほかの中隊へ2〜300人ずつ割りあてられ殺された、と記述されていた。また、第三中隊は難民区を掃蕩したとも記述された。
誰もそんな記憶はなかった。難民区の担当は第三十三連隊で、記憶にないのは当然。
こういった記述はまだ反論できるからよかったが、故人となった戦友が殺人鬼や強姦魔と記述されている箇所は直接に反論できない。このため公然と批判する戦友が現れた。

昭和62年12月14日
朝日新聞が、【「深く反省」と元兵士の東さん 南京で大虐殺50周年追悼式】の見出しのもと、南京に赴いた東が報じられた。記事を書いたのは同行した本多勝一。
東は「五十年前のけさ七時に南京に入城した。そこで大虐殺が行われた」と語り、中国側は「東さんが自らの体験によって日本軍国主義を告発する勇気に心から尊敬する」と応じたという。

※このように昭和62年7月〜12月のわずか半年の間で朝日新聞は6度も報じました。「『南京大虐殺』を証言した兵士が初めて現れ、南京まで行って謝罪した」というストーリーができ、「南京事件」は事実のようにされてしまったのです。

平成元年
『南京事件 京都師団関係資料集』が刊行され、『東日記』が収められた。『東日記』は『わが南京プラトーン』より詳しく記述されていたが、それがあだとなって、東は後に訴えられることになる。
中国人を殺した「西本」が、『東日記』では「橋本」と変わっていた。橋本という人物なら実在する。東の所属する分隊の橋本光治分隊長である。
橋本光治は、敗戦の年に京都を離れ、中隊会が初めて開かれたとき出席したものの、それ以降出席することはなかった。東は『第三中隊史』で橋本を悪しざまに書いたが、抗議はなく、亡くなったものと思って殺人犯と書いたのだろう。
しかし橋本は東京で健在で、知って驚いた。そんな覚えは全くない。そもそもやや小柄で、人間の入った袋を放り投げる力はない。橋本にとって東は部下の一人で、京都を離れて数十年ぶりに訪れたとき住所を頼りに東の家を訪ねたほどであったが、凶悪な殺人犯とされては名誉毀損で訴えざるをえなかった。

平成5年4月
橋本光治が、東史郎と下里正樹(「東日記」等を土台にしてを『京都師団関係資料集』などを執筆。共産党機関紙「赤旗」の元編集員)と青木書店の三者を名誉毀損で東京地裁に提訴。
東は反論するが、そこでもでたらめさが浮き彫りになった。
東は路王墳を持ち出し、「私の日記には、他の人のことだけでなく、自分の悪いことも全て書いてあり、真実なんです」と述べたが、『第三中隊史』で1人を殺したことが『わが南京プラトーン』では2人に変わり、東京地裁での証言では3人に変わった。のちの高裁の証言では4人に増えた。

※橋本光治分隊長が東史郎を名誉毀損で訴えた裁判については、Wikipedia>東史郎>名誉毀損裁判のほか、脱・洗脳史講座>日本兵の凄さまじい残虐 その2の【7 南京攻略戦に参戦した兵士の「日記」より】もご参照。

平成6年12月
東が訪中。

平成7年
アメリカのABCが東を取材。

平成8年4月
東京地裁で名誉毀損訴訟の判決が下り、手榴弾での殺害は到底実行可能性があるとは認めることはできないと判定された。また、それをもとに書いたという陣中メモは存在しない、日記は帰国後大幅に手を加えるなどをして作成されたもの、と判定された。
東は敗訴し、そのことは朝日も報道したが、その紙面はそれまでの5分の1だった。

平成9年
アイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』が東を「南京における彼の罪を公に認めた最初の旧軍人」と紹介し、「強姦の最中は女性とみるが、殺すときは豚かなにかのようだった」といった証言も取り上げられた。

平成10年
中国系アメリカ人が南京事件のシンポジウムを企画したとき、ゲストに東を呼ぼうとしたが、「3人を殺した戦争犯罪者」として東はアメリカから入国を拒否された。

平成10年秋
東が訪中。

平成10年12月
東京高裁判決。中国のメディアが大挙して押し寄せる。霞ヶ関の記者会見場を占拠するほどだった。

以降、東に関する著作も『東史郎訴訟案と南京大虐殺の真相』『東史郎日記』『東史郎日記図証』『訴訟記録』と次々刊行される。
恣意的に書かれた『東史郎日記』は「貴重な記録」としてベストセラーとなった。

平成11年2月
東が訪中。
国営の中央テレビの人気番組「実話実説」に出演。18日と25日の2回にわけて放映された。
東の写真は南京虐殺紀念館に飾られ、日記は南京虐殺の証拠として展示されるようになった。東を知らない中国人がいないほど中国では話題の人物となった。

平成11年〜
全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」(全15回)のビデオのうち1本で、東史郎が旧日本軍の「残虐行為」を証言。このビデオが、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で教材として使用されていることが分かったと、平成27年6月に産経新聞が報道。
このビデオで、東は「隠れている女の子を見つけると、100%犯した。1人ではなく5人で犯した。その後は殺し、火をつけて燃やした。罪悪感はなかった」などと述べていた。

平成12年1月
最高裁が東の上告を棄却。東の敗訴が確定したが、朝日新聞は報道しなかった。

平成12年2月
東が訪中。

平成12年4月
東が訪中。

平成18年1月3日
東が死去。93歳。中華人民共和国政府および「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」から哀悼の意が示された。

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 東史郎に関しては、朝日新聞だけでなく、日本の「大虐殺あった派」全体が非常に持ち上げていましたが、最高裁で負けた後は基本的に無視しているようです。

 「東史郎」でざっとググってみたところ、「あった派」のサイトは(少なくとも日本語では)ほとんど挙がってきませんし、挙がってきたものを見ても、「デタラメな判決」「裁判所の判断が間違っている」と負け惜しみのように書かれてあるだけでした。

 東史郎の敗訴確定を報道しなかった朝日新聞。
 都合が悪くなったらフェードアウト。
 吉田清治の時もそうでしたね。

 ところで、朝日は昔は「従軍慰安婦」と表記していたのを、2000年代半ば頃までに「慰安婦」と言い換えるようになりましたが、「南京大虐殺」に関しても似たようなことを始めてますね。

 朝日新聞DIGITALを検索していて気づいたのですが、近年は、「南京事件(南京大虐殺)」あるいは「南京大虐殺(南京事件)」と併記したり、「南京事件」と単独表記することもあるようです。

 慰安婦問題の時と同様、責任逃れのための準備に入っているのでしょうか?

※以下3枚の画像はいずれもクリック→新規画面で拡大表示
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 「正論」2016年8月号で、渡部昇一さん曰く…
 (有名な話ではありますがいちおう)

 南京が攻略された後、当時の蒋介石は外国人の記者を集めての記者会見を200回以上開催しています。しかし、その間、南京で虐殺があった、などとは一言も言及していないのです。毛沢東にしても同じです。のちに中華民国は南京事件を国際連盟に持ち込み、代表の顧維釣(こいきん)が演説しましたが、結局、取り上げられませんでした。日本は当時、国際連盟を脱退した立場ですから、日本をやり込めようと思えば、これほど利用しやすい状況はありません。が、当時、南京虐殺など相手にされませんでした。
 南京に限らず歴史をみると、支那人は支那人同士で大虐殺を引き起こしています。支那人の殺し方というのは実に日本人が想像もつかないような残忍なやり方であることが記録として残っていますが、今回の南京攻略戦の前後も、敗残兵が地元の民間人を襲って、略奪や殺人、放火などが頻発していました。支那人にとって一番怖いのは支那の敗残兵なのです。そうした残虐な行為が戦後、日本軍に濡れ衣のごとく着せられてしまっているのです。

 支那人が支那人(同胞)を大量虐殺してきた歴史を、日本人は知らなさすぎですよね。

 国際連盟における顧維釣の演説については、2007年に議事録が出てきました。
 2013年4月10日の衆議院予算委員会で、自民党の西川京子議員が取り上げています。

 国際連盟の時に、中国の顧維鈞外相が、これは、その当時2万人ということも、あの、数を出してきましたが、2万人の南京市民と婦女子を虐殺、暴行したという演説をしたんですね。日本非難決議をしてくれと。その時に、実は欧米列強、日本に大変厳しい目を持ってる欧米列強が、その意見陳述を一切無視しました。取り上げませんでした。
 そのことに対する、国際連盟の議事録が、2007年、私たちの努力で出てまいりました。外務省、なかなか出さなかったんですが、内閣府のほうから出てきました。これは戸井田・元衆議院議員の、ご努力があった結果なんですが、そういう中で、この問題は完全に決着が付いてるんですね。私たちはこの議連(註:日本の前途と歴史教育を考える会)で、この南京の問題は通常の戦闘行為でも戦闘以下でもなかったと。
 これは、憲政記念館で20社以上の外信の記者、いわばニューヨーク・タイムズ、その他、ま、香港フェニックス、中国のメディアも来てました。日本ももちろん朝日、読売ら大手新聞来てましたが、記者会見しました。その時に、一切反論はありませんでした。この南京の問題は、1980年代、朝日新聞が、大キャンペーンを張った中で大きな政治問題として、中国、韓国がこれを利用するようになった。これが実態です。

 あと、「歴史通」2016年9月号で、楊海英さん(南モンゴル出身で日本名は大野旭)がされていた話も興味深かったので、ご紹介。

 先の戦争でも、日本兵は村に入ってきたら、疲れ果てて、路上に寝てしまうんです。ところが、中国兵が入ってきたら、もう略奪、レイプ、放火、なんでもやり放題。日本人はそんな元気も勇気もなく、上官が休めと言ったら、みんなバタッと、整然と寝るんだそうです。これは、私が北京郊外の村で調査したときの中国人の話です。当時、北京の大学生に「日本人がこのあたりを占領していたはずだけど、殺しつくす、焼きつくす、奪いつくすという、いわゆる三光(さんこう)作戦をしたのか」と聞いたら、「してない。あいつらは疲れているから、村に入ったらバタッと道路で寝る」と言っていました。「寒いから家に入りなさい」と言っても「家屋に入ったら上官にやられる」と、上官が怖いから入らないのだそうです。しかし、中国兵が来たら、それこそ三光になると言うんです。
 だから、南京事件が作り話だ、と実際に国民党軍の高級将校だった人の息子さんが台湾で私にそう語っていました。あんなこと、日本人がするわけがない。そんなことは明白なのに、南京事件に呼応する日本人が、なぜこんなにいるのか信じられません。やっぱり、日本人の敵は反日の日本人ですよ。

 最後に石平さんの証言。


 今年も南京陥落の日(12月13日)が近づいてきましたが、中共はまた大々的に捏造プロパガンダを発信するのでしょうね。

 たとえば、今年10月下旬〜12月15日までの日程で、フランス北西部のカーン市という所では、「南京大虐殺展」が開催されているそうです(NewSphere 2016年11月29日)。

 2015年10月、「南京大虐殺」関連文書がユネスコ世界記憶遺産(その後「世界の記憶」に改称)として登録されてしまいましたが、中国メディアなどによれば、この展示会は、世界記憶遺産に登録後、欧州での初めての開催とのことです。







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※拙ブログ関連エントリー(南京事件)
07/3/6付:「南京大虐殺」入門の入門
 超初心者の友人のためにUPしました。
07/12/15付:新「南京大虐殺記念館」まだ30万人て言うとんのか!
 中共は「30万人という数字について、当然、根拠はある」と言いながら根拠を示さない。挙げ句に「数の問題じゃない」「30万人という数字は政治的な数字である」。
09/1/10付:日本の昔のお正月について調べてたはずが大脱線(笑)
 「大虐殺」進行中に支那の人々はこんなふうに笑えるものでしょうか?
09/4/14付:ある老兵士の孤独と嘘(細切れぼやきも)
 「朝まで生テレビ」で「南京大虐殺」体験者として出演した老兵士Aさんは、南京攻略戦のあった昭和12年12月13日には軍隊にまだ入っていませんでした。
11/12/17付:鈴木史朗さんが「南京大虐殺」は真実ではないと思う理由
 「私にとって、中国は『第二の故郷』なのです。その中国の方々が、このような『嘘』を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです」
12/2/27付:河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱
 「南京大虐殺には動かぬ証拠がある」というのは中共の決まり文句。「動かぬ証拠」があるなら見せて下さいよと思うんですが、見せてくれたためしがありません。
12/3/5付:河村市長断固支持!青山さんの正論&「南京虐殺」反論英文資料
 アメリカ人の「南京虐殺目撃証人」は一人もいなかった。
13/3/30付:支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺
 周恩来首相の下で副首相を務めた郭沫若曰く、「抗戦八年の間に、踏みにじられた同胞の数は、戦死したり日本の侵略者に虐殺されたりしたものの少なくとも百倍以上はあっただろう」。
13/4/10付:西川京子さんが衆院予算委で「従軍慰安婦」「南京大虐殺」の虚構と自虐史観に侵された入試問題について語ってくれました(中山成彬さん質疑まとめ付き)
 「南京の問題は、1980年代、朝日新聞が、大キャンペーンを張った中で大きな政治問題として、中国、韓国がこれを利用するようになった。これが実態です」
14/9/22付:本多勝一が“誤用”を認めた南京事件捏造写真&「中国の旅」と支那人体験記の残虐記述がそっくりな件
 日本軍が南京で行ったと語られた蛮行は、支那人が歴史的に繰り返して行ってきたことであり、日本人も同じことを行ったに違いないと彼らが思い込んだ可能性は高い。
15/2/12付:田辺誠が南京大虐殺紀念館建立を後押しした!?
 中国側曰く「虐殺紀念館の建設は日本から言い出したことだ」「日本社会党の田辺誠委員長から言ってきている」。
15/10/10付:“南京大虐殺”が世界記憶遺産に登録 「断固たる措置取る」と日本政府は言うが…
 国連やユネスコは「公正中立」と思い込んできた日本人にとって大きな衝撃。

※拙ブログ関連エントリー(支那の民族性)
09/9/27付:GHQ焚書「敗走千里」より支那軍の実態
 1937年(昭和12年)、支那事変に強制徴用で駆り出された支那人青年の体験記。支那兵が自国人に掠奪や暴行を繰り返したり、便衣兵になって逃亡したりと、とにかく野蛮だったのが分かります。「督戦隊」も登場。
10/9/27付:9月24日は国恥記念日 船長釈放でますます嵩にかかる中国
 元バレーボール日本代表の川合俊一さん曰く、「昨日まで普通だった中国の選手が、もう上から来るわけ。もう嵩(かさ)にかかってくるの。あ、こいつらには絶対負けちゃいけない、負けたらこんな目に遭うんだ。試合でも、えっ?そんなインチキまで勝ちたいの?っていうぐらいのインチキしたりするんですよ」
10/11/16付:尖閣問題を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ
 ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」より、尖閣問題をはじめとする対中問題を考える上で役立ちそうな箇所を引用しています。
10/12/7付:支那人の民族性を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ
 ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」より、支那人の民族性そのものを理解するために役立ちそうな箇所を引用しています。
10/12/20付:支那人にまつわる坂東忠信さんのインタビュー「正論」11月号より
 北京語の通訳捜査官として、中国人被疑者の逮捕現場や取り調べに立ち会ってきた坂東さん。「中国人の供述は嘘が多いので、3回程度の取り調べでは終わりません」「中国人に対するに当たっての日本側の問題点は、日本人の歴史認識の不足です」「彼らは共存よりも勝ち残ることを優先し、そのためには手段を選ばない」。
11/2/5付:支那五千年の殺戮の歴史の集大成「三十六計」
 支那では陰謀詭計は日常茶飯事であり、伝統的な闘争文化なのです。
11/7/25付:中国高速鉄道事故 車両隠蔽に朝日記者も驚愕!?
 中共には常識は通用しない。それを世界中に非常に分かりやすい形で教えてくれました。
12/6/11付:旧日本軍軍装品から尖閣地図まで!歴史改竄のため史料を買い漁る支那人
 歴史は日本では「ヒストリー」ですが、支那では「プロパガンダ」。自国発行の古地図や日本の軍装品をなりふり構わず買い漁り、歴史を改竄することとも厭わないのです。
12/7/23付:旧日本兵らが支那に寄贈した小学校が一般企業に払い下げられていた
 「遺骨詐欺」に遭った旧日本兵たち。「それでも支那の子供たちが喜んでくれるのなら…」。その思いすら裏切るのが支那なのです。
12/11/5付:長崎事件をご存知ですか?支那を憂う明治天皇と沿岸防備に寄附した国民
 現在、尖閣そして沖縄に侵略の魔の手を伸ばす支那は日本にとって大きな脅威となっていますが、これと似たような状況が明治時代にもありました。
13/2/9付:沖縄は支那の属国か?いわゆる朝貢体制の本質(付:レーダー照射問題)
 いわゆる朝貢制度とは、自国を世界の中心と仮想する支那人たちの哀れな自己満足のための妄想でしかなかったのです。
13/3/25付:捕虜も婦女子も皆殺し!支那の非公開アンケート
 「あなたは婦女子や捕虜を射殺できますか?」…戦慄のアンケート結果です。
16/5/23付:文革で食べられた人の家族と食べた隣人が今も同じ町に…福島香織さんの解説
 報告書が文革中に周恩来のところに上がって、党中央も驚愕。文革が終わった後、80年代前半には調査団も派遣。




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竹島に関する動画:英語版(Takeshima - Seeking a Solution based on Law and Dialogue

尖閣諸島に関する動画もあります。いずれも12カ国語公開されています。世界に広めましょう!
「島根県の竹島英文ページを検索に引っ掛かり易くする作戦」もよろしく。

megumi080328-4.jpegアニメ「めぐみ」配信中。
日本語版のほか外国語版もあります。ダウンロードはこちらから。コピーフリーです。世界に広めましょう!

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Comments

朝日に限らず、反日サヨクの面々は、
「邪悪な日本人vs善良で無力な中国人」という構図に
すべてを当てはめて物事を見ているのでしょう。
困ったものです。

困ったのは、こういう連中が今もマスコミ業界に少なくないことです。

南京事件とは関係ありませんが、
昨日、たまたまネットで発見した漫画で、
「邪悪な日本人vs善良な中国人」の図式そのままの作品がありました。
コミック小学館ブックスの「星間ブリッジ」という作品です。
ちょっと辿り着くのが難しいかもしれませんが、
一応ご紹介しておきますね。(※12/15までの期間限定です)
http://csbs.shogakukan.co.jp/male
からアクセスして→ゲッサンの画像をクリックして→「三」みたいなマウスポインタのアイコンをクリックして680ページのところにあります。
kurenai | 2016/12/03 08:50 AM
私は、南京事件について、ひととおりのり知識しかないのですが、井沢元彦氏の死臭処理の御意見に有効な反論はあるのですか。また、死臭について、当時の新聞記事はあるのですか。ざっとネット検索しても発見できません。この反論がない限り、私には南京大虐殺があったとは思えないのですが。
井沢氏の御意見は、下記HPの引用をお借りします。


http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-81.html
kennel | 2016/12/03 08:58 AM
全く関係ありませんが、青山さんのブログでも告知のあった今夜(3日)の深夜の北海道テレビの討論番組、ニコニコ生放送でも同時間に配信されるそうですよ。
http://news.mynavi.jp/news/2016/12/03/149
すぷー | 2016/12/03 08:38 PM
取り急ぎ、
すぷーさん、情報ありがとうございました。大急ぎでツイッターにUPしました(^_^;
くっくり@管理人 | 2016/12/03 09:12 PM
大学の図書館に「中国の旅」があります。
日中戦争に関する書籍は、左翼学者、左翼作家と朝日新聞関係のものしかないので、正しく歴史を学ぶことはできません。
それに、全学共通科目の日本史を教える教授は、中国人ですし・・・。
まる | 2016/12/04 11:45 PM

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