自衛隊を鼓舞した被災地の子供たちの手紙
3・11からまもなく半年になります。
被災地の復旧・復興がなかなか進まず、未だ多くの被災者の方が苦しんでおられることに心が痛みます。
政府・与党の対応全般に失望を覚えている方は、それこそ被災地のみならず全国に大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
一方で、被災地において自衛隊、消防、警察、地元行政、ボランティア等々が行ってきた災害支援活動はめざましいものでした。
特に自衛隊は約2万人の人命を救い、約1万体のご遺体を収容し、約3万トンの水と約500万食の食事を支援するなどしました。
が、彼らの奮闘は、こうした数字だけでは推し量ることができません。
1カ月ほど前ですが、「SAPIO」8.17/24号でこんな特集が組まれました。
■【日本人が忘れてはいけない「3・11後」を支えた人々の「奮闘の記録」】震災と闘う自衛官が「背負うもの」〈120人の証言〉
東日本大震災の現場で奮闘された自衛官の方々120人の証言が掲載されています。
匿名の方もおられますが、多くは実名での証言です。
今日はこの特集の中から、私が特に感動を覚え、皆様にぜひお伝えしたいと思ったエピソードを1本紹介します。
被災した子供たちが自衛隊員に送った感謝の手紙がテーマです。
※起こしで引用した画像は、「うみ」ちゃんの手紙を除き全てこちらでセレクトしたイメージ画像です(但し、いずれもその土地の物です)。
起こしここから____________________________
被災地の復旧・復興がなかなか進まず、未だ多くの被災者の方が苦しんでおられることに心が痛みます。
政府・与党の対応全般に失望を覚えている方は、それこそ被災地のみならず全国に大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
一方で、被災地において自衛隊、消防、警察、地元行政、ボランティア等々が行ってきた災害支援活動はめざましいものでした。
特に自衛隊は約2万人の人命を救い、約1万体のご遺体を収容し、約3万トンの水と約500万食の食事を支援するなどしました。
が、彼らの奮闘は、こうした数字だけでは推し量ることができません。
1カ月ほど前ですが、「SAPIO」8.17/24号でこんな特集が組まれました。
■【日本人が忘れてはいけない「3・11後」を支えた人々の「奮闘の記録」】震災と闘う自衛官が「背負うもの」〈120人の証言〉
東日本大震災の現場で奮闘された自衛官の方々120人の証言が掲載されています。
匿名の方もおられますが、多くは実名での証言です。
今日はこの特集の中から、私が特に感動を覚え、皆様にぜひお伝えしたいと思ったエピソードを1本紹介します。
被災した子供たちが自衛隊員に送った感謝の手紙がテーマです。
※起こしで引用した画像は、「うみ」ちゃんの手紙を除き全てこちらでセレクトしたイメージ画像です(但し、いずれもその土地の物です)。
起こしここから____________________________
<触れ合い>
家族を失いつつも、小さな手が綴ったエール
「お母さんを見つけてくれてありがとう」少年が送った感謝の手紙が自衛隊を鼓舞した
石井宣広3曹 陸上自衛隊 第14旅団 第14戦車中隊
末吉洋明1佐 陸上自衛隊 第9師団 第21普通科連隊
石巻を襲った津波による最大の悲劇の一つが大川小学校の壊滅だった。石巻市立大川小学校は、児童108人のうち74人が死亡または行方不明となった。学校周辺や校舎内では、自衛隊による必死の不明者捜索が行なわれ、瓦礫や汚泥が取り除かれた。そして震災から約1か月後−−。
「すいません!」
4月6日、大川小学校近くの追波川河川運動公園に設けられた宿営地内を歩いていた第14戦車中隊(岡山)の石井宣広3曹は、突如、背後から声を掛けられた。
その可愛らしい声の主は、ワンピースを着た小さな女の子だった。少女は、振り向いた石井3曹にこう言った。
「これ、読んでください……」
石井3曹に封筒を渡した少女は、名前も告げずに走り去っていった。少女は、母親と思しき女性の運転する車でやってきて、偶然近くを歩いていた石井3曹に手紙を渡したのである。
そこには、覚えたてのたどたどしい文字でこう綴られていた。
≪じえいたいさんへ。
げん気ですか。
つなみのせいで、大川小学校のわたしの、
おともだちがみんな、しんでしまいました。
でも、じえいたいさんががんばってくれているので、
わたしもがんばります。
日本をたすけてください。
いつもおうえんしています。
うみより≫
石井3曹は込み上げるものを必死で堪えた。
「胸がいっぱいになりました……。あの頃は、発災から1か月が経とうとしており、疲れもたまっていたのですが、あの手紙で、『明日からも頑張るぞ!』と皆、勇気が湧いてきたのです。そして自分たちのやっていることが人々のためになっているんだ、とあらためて認識しました」
その後、この手紙は第14旅団長・井上武陸将補の陣取る女川の指揮所に届けられ、たちまち各派遣部隊に伝わった。
井上旅団長は言う。
「手紙を見た時は、もう体中の血が逆流するほどの思いでした。『よし、どんなことがあっても全員を捜し出すぞ!』という思いが漲(みなぎ)ってきましたよ。うみちゃんは、どんな思いでこの手紙を書いてくれたんだろうと思うと……」
少女が自衛隊に寄せた『日本をたすけてください』という切実な祈りに全員が奮い立った。中には、手紙のコピーを手帳に挟んで災害派遣活動に励む隊員もいた。加瀬沼公園に宿営地を設営した北海道の第1高射特科群のある中隊指揮所にも、この手紙のコピーがボードに貼りつけられた。
東日本大震災から49日目にあたる4月28日、飯野川第二小学校の体育館で、大川小学校の犠牲者の合同慰霊祭が営まれた。祭壇には74の可愛らしい児童の顔写真が並んだ。その中には、いまだに行方不明の6人の児童の写真もあった。
その間も、第14旅団の隊員たちは、うみちゃんの手紙を胸に、行方不明の児童を探し続けていたのである。
毎朝出かけていく自衛隊を児童たちは見ていた
「自衛隊員の皆さんのお母さんやお父さんも被災されたと思いますが、それにもかかわらず、僕たちのために釜石まで来て頂いて、とても嬉しかったです!」
釜石市立甲子(かっし)小学校で児童会長を務める川村直輝君は、第21普通科連隊の隊員に対し、感謝の言葉を述べた。
陸自第9師団隷下の第21普通科連隊は、発災翌日、秋田県秋田市の駐屯地から釜石に駆け付けた。人命救助をはじめ、持てる力を総動員して、あらゆる支援活動を実施した。
その宿営地となっていたのが釜石市立甲子小学校だった。
上野泰宏副校長は言う。
「この学校には、被災した子どもたちや被害の大きかった地区から転校してきた子どもたちがいます。そんな中で、自衛隊が自分たちの街に災害派遣のために毎朝出かけていくことに、頼もしさを感じたのではないでしょうか」
だが、300〜400人の部隊が2か月を超えて小学校のグラウンドに居続けることには、子どもたちの体育授業に影響しかねないと判断した連隊長・末吉洋明1佐は、道路を挟んで向かいの甲子中学校へ宿営地を移動させることにした。
末吉1佐とその幕僚が2か月間、宿営させてもらったお礼のために菊池清太校長を訪ねると、そこには児童を代表して児童会長らが待っており、前述のように感謝の言葉を述べたのだった。さらに菊池校長からは、6年生と5年生の児童全員が書いた、感謝の手紙が手渡された。
末吉1佐は回想する。
「これには驚きました。我々がやってきたことが、こんなにも多くの子どもたちに感謝されていたとは。同時に、子どもたちにそう思わせた隊員たちを心から誇りに思いました」
手紙の一部を紹介しよう。
≪ぼくはさいしょは、もうしぬ。ぜったいしぬと思っていました。でもじえい隊のヘリや車をみるたびになみだがでました。ぼくはそのとき「釜石のためにがんばっているんだな」と思いました。ほんとうにありがとうございます≫(5年男児)
≪わたしたちの住んでいる釜石を助けて下さりありがとうございました。お体に気をつけて下さい。この手紙を読んでいやなことがふっ飛んでくれたらうれしいです≫(6年女児)
≪よくニュースで、自衛隊のみなさんが必死でがれきのてっ去や、い体のそうさくをしているすがたを見ています。今のような生活にもどれたのは、自衛隊のみなさんのおかげだと思っています。釜石のために頑張ってくださって、本当に感謝しています≫(6年男児)
≪ぼくは人を救うことはまだできませんが、おおきくなって、またこのようなことがおきたとしたら、人を助けられる自衛隊になって人を助けて、ぼくも釜石を守りたいです≫(5年男児)
後日、本誌の取材の案内で末吉1佐が小学校を訪れると、子どもたちがワッと駆け寄ってきて、まとわりついて離れなかった。そして一人の男児が、「おんぶ!」と言うなり末吉1佐の背中に飛び乗った。すると、「わぁーずるい!僕も!」と、子どもたちが背中を取り合ったのだった。
第21普通科連隊に寄せられた感謝の手紙は、甲子小学校の児童からだけではない。
釜石市鵜住居(うのすまい)町も津波ですべてが流され、あたり一面、瓦礫の山となったが、その鵜住居地区では、小さな男の子から感謝の手紙が寄せられた。
≪じえいたいのみなさんへ
みゆりちゃんとお母さんを見つけてくれてありがとうございました。これからもおしごとがんばってください。おうえんします≫
家族を失いながらも、その小さな手が、自衛隊に感謝のエールを綴ったのである。
「男の子からの手紙は、我々の行方不明者捜索や被災者支援への決意を新たにしてくれました。我々は、釜石の方々を家族同然と考えております。ですから、避難者の方々への生活支援は、家族にそうするように、行方不明者捜索は、家族を捜す気持ちで取り組んでいるのです」(末吉1佐)
第21普通科連隊もまた、子どもたちの手紙に奮い立ったのである。
____________________________起こしここまで
石巻市の「うみ」ちゃんの手紙は一部メディアでも報道されましたが、私が調べた限り、釜石市立甲子小学校の子供たちの手紙については「チャンネル桜」8/18放送分が取り上げただけで、釜石市鵜住居町の男の子の手紙については「SAPIO」が初出のようです。
↓「チャンネル桜」8/18放送分より。
同号には、他に、例えばこういったエピソードも掲載されています。
■遺体捜索自衛官 遺体女性の身体を男性の目から隠すため服直す
女性隊員ならではの気遣いに、同じ女性として心が震えました。
このような自衛隊の奮闘ぶり、とりわけ被災者の方々との心の触れ合いというものがあまり報道されない日本のメディアにあって、この「SAPIO」8.17/24号はまさに永久保存版です。
古い号なのでもう書店には並んでいないと思いますが、今日現在アマゾンにはまだ在庫があります。
興味を持たれた方は、ぜひお買い求め下さい。
【追記9/11 23:30】アマゾンの在庫は9/10午前中で無くなってしまったようです。版元の小学館には今現在まだ在庫があるようです。こちらから注文できます。(コメント欄で情報下さった皆様ありがとうございました)
それにしても、今回の自衛隊の活躍を見て「大きくなったら自衛隊に入りたい」と思った子供たちは、被災地に大勢いるでしょうね。
↓この男の子もその一人のようです(上記「SAPIO」記事とは無関係です)。
被災したこと、それ自体はもちろん彼らにとって大変不幸な出来事だったと思います。
が、その辛い体験は彼らの今後の人生への大きな糧となるでしょう。
やがて故郷を背負って立つことになるであろう被災地の子供たち。
彼らは日本全体にとっても希望の光であり、宝物なのだと、私は感じずにはおれません。
※拙ブログ関連エントリー(震災関連から抜粋)
・3/15付:【東日本大震災-1】外国人から見た日本と日本人(22)
・3/22付:【東日本大震災-2】外国人から見た日本と日本人(23)
・3/28付:【東日本大震災-3】外国人から見た日本と日本人(24)
・4/2付:天皇皇后両陛下が避難所ご訪問 このような方々を戴けた日本人の幸運
・4/4付:独特の災害史観を持つ日本人は何度も立ち向かい乗り越えてきた
・4/16付:【東日本大震災-4】外国人から見た日本と日本人(25)
・4/23付:画像で見る東日本大震災 - 希望 -
・4/25付:【東日本大震災-5】外国人から見た日本と日本人(26)
・5/2付:3月11日に天皇皇后両陛下がなされた事
・5/21付:-言葉の力 - PRAY FOR JAPAN&朝日新聞縮小版東日本大震災
・6/6付:【東日本大震災-6】外国人から見た日本と日本人(27)
・6/18付:保守系識者諸氏が見た震災(2)
・7/11付:【東日本大震災-7】外国人から見た日本と日本人(28)
・8/6付:【東日本大震災-8】外国人から見た日本と日本人(29)
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takeshima dokdo dokto tokdo tokto
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家族を失いつつも、小さな手が綴ったエール
「お母さんを見つけてくれてありがとう」少年が送った感謝の手紙が自衛隊を鼓舞した
石井宣広3曹 陸上自衛隊 第14旅団 第14戦車中隊
末吉洋明1佐 陸上自衛隊 第9師団 第21普通科連隊
石巻を襲った津波による最大の悲劇の一つが大川小学校の壊滅だった。石巻市立大川小学校は、児童108人のうち74人が死亡または行方不明となった。学校周辺や校舎内では、自衛隊による必死の不明者捜索が行なわれ、瓦礫や汚泥が取り除かれた。そして震災から約1か月後−−。
「すいません!」
4月6日、大川小学校近くの追波川河川運動公園に設けられた宿営地内を歩いていた第14戦車中隊(岡山)の石井宣広3曹は、突如、背後から声を掛けられた。
その可愛らしい声の主は、ワンピースを着た小さな女の子だった。少女は、振り向いた石井3曹にこう言った。
「これ、読んでください……」
石井3曹に封筒を渡した少女は、名前も告げずに走り去っていった。少女は、母親と思しき女性の運転する車でやってきて、偶然近くを歩いていた石井3曹に手紙を渡したのである。
そこには、覚えたてのたどたどしい文字でこう綴られていた。
≪じえいたいさんへ。
げん気ですか。
つなみのせいで、大川小学校のわたしの、
おともだちがみんな、しんでしまいました。
でも、じえいたいさんががんばってくれているので、
わたしもがんばります。
日本をたすけてください。
いつもおうえんしています。
うみより≫
石井3曹は込み上げるものを必死で堪えた。
「胸がいっぱいになりました……。あの頃は、発災から1か月が経とうとしており、疲れもたまっていたのですが、あの手紙で、『明日からも頑張るぞ!』と皆、勇気が湧いてきたのです。そして自分たちのやっていることが人々のためになっているんだ、とあらためて認識しました」
その後、この手紙は第14旅団長・井上武陸将補の陣取る女川の指揮所に届けられ、たちまち各派遣部隊に伝わった。
井上旅団長は言う。
「手紙を見た時は、もう体中の血が逆流するほどの思いでした。『よし、どんなことがあっても全員を捜し出すぞ!』という思いが漲(みなぎ)ってきましたよ。うみちゃんは、どんな思いでこの手紙を書いてくれたんだろうと思うと……」
少女が自衛隊に寄せた『日本をたすけてください』という切実な祈りに全員が奮い立った。中には、手紙のコピーを手帳に挟んで災害派遣活動に励む隊員もいた。加瀬沼公園に宿営地を設営した北海道の第1高射特科群のある中隊指揮所にも、この手紙のコピーがボードに貼りつけられた。
東日本大震災から49日目にあたる4月28日、飯野川第二小学校の体育館で、大川小学校の犠牲者の合同慰霊祭が営まれた。祭壇には74の可愛らしい児童の顔写真が並んだ。その中には、いまだに行方不明の6人の児童の写真もあった。
その間も、第14旅団の隊員たちは、うみちゃんの手紙を胸に、行方不明の児童を探し続けていたのである。
毎朝出かけていく自衛隊を児童たちは見ていた
「自衛隊員の皆さんのお母さんやお父さんも被災されたと思いますが、それにもかかわらず、僕たちのために釜石まで来て頂いて、とても嬉しかったです!」
釜石市立甲子(かっし)小学校で児童会長を務める川村直輝君は、第21普通科連隊の隊員に対し、感謝の言葉を述べた。
陸自第9師団隷下の第21普通科連隊は、発災翌日、秋田県秋田市の駐屯地から釜石に駆け付けた。人命救助をはじめ、持てる力を総動員して、あらゆる支援活動を実施した。
その宿営地となっていたのが釜石市立甲子小学校だった。
上野泰宏副校長は言う。
「この学校には、被災した子どもたちや被害の大きかった地区から転校してきた子どもたちがいます。そんな中で、自衛隊が自分たちの街に災害派遣のために毎朝出かけていくことに、頼もしさを感じたのではないでしょうか」
だが、300〜400人の部隊が2か月を超えて小学校のグラウンドに居続けることには、子どもたちの体育授業に影響しかねないと判断した連隊長・末吉洋明1佐は、道路を挟んで向かいの甲子中学校へ宿営地を移動させることにした。
末吉1佐とその幕僚が2か月間、宿営させてもらったお礼のために菊池清太校長を訪ねると、そこには児童を代表して児童会長らが待っており、前述のように感謝の言葉を述べたのだった。さらに菊池校長からは、6年生と5年生の児童全員が書いた、感謝の手紙が手渡された。
末吉1佐は回想する。
「これには驚きました。我々がやってきたことが、こんなにも多くの子どもたちに感謝されていたとは。同時に、子どもたちにそう思わせた隊員たちを心から誇りに思いました」
手紙の一部を紹介しよう。
≪ぼくはさいしょは、もうしぬ。ぜったいしぬと思っていました。でもじえい隊のヘリや車をみるたびになみだがでました。ぼくはそのとき「釜石のためにがんばっているんだな」と思いました。ほんとうにありがとうございます≫(5年男児)
≪わたしたちの住んでいる釜石を助けて下さりありがとうございました。お体に気をつけて下さい。この手紙を読んでいやなことがふっ飛んでくれたらうれしいです≫(6年女児)
≪よくニュースで、自衛隊のみなさんが必死でがれきのてっ去や、い体のそうさくをしているすがたを見ています。今のような生活にもどれたのは、自衛隊のみなさんのおかげだと思っています。釜石のために頑張ってくださって、本当に感謝しています≫(6年男児)
≪ぼくは人を救うことはまだできませんが、おおきくなって、またこのようなことがおきたとしたら、人を助けられる自衛隊になって人を助けて、ぼくも釜石を守りたいです≫(5年男児)
後日、本誌の取材の案内で末吉1佐が小学校を訪れると、子どもたちがワッと駆け寄ってきて、まとわりついて離れなかった。そして一人の男児が、「おんぶ!」と言うなり末吉1佐の背中に飛び乗った。すると、「わぁーずるい!僕も!」と、子どもたちが背中を取り合ったのだった。
第21普通科連隊に寄せられた感謝の手紙は、甲子小学校の児童からだけではない。
釜石市鵜住居(うのすまい)町も津波ですべてが流され、あたり一面、瓦礫の山となったが、その鵜住居地区では、小さな男の子から感謝の手紙が寄せられた。
≪じえいたいのみなさんへ
みゆりちゃんとお母さんを見つけてくれてありがとうございました。これからもおしごとがんばってください。おうえんします≫
家族を失いながらも、その小さな手が、自衛隊に感謝のエールを綴ったのである。
「男の子からの手紙は、我々の行方不明者捜索や被災者支援への決意を新たにしてくれました。我々は、釜石の方々を家族同然と考えております。ですから、避難者の方々への生活支援は、家族にそうするように、行方不明者捜索は、家族を捜す気持ちで取り組んでいるのです」(末吉1佐)
第21普通科連隊もまた、子どもたちの手紙に奮い立ったのである。
____________________________起こしここまで
石巻市の「うみ」ちゃんの手紙は一部メディアでも報道されましたが、私が調べた限り、釜石市立甲子小学校の子供たちの手紙については「チャンネル桜」8/18放送分が取り上げただけで、釜石市鵜住居町の男の子の手紙については「SAPIO」が初出のようです。
↓「チャンネル桜」8/18放送分より。
同号には、他に、例えばこういったエピソードも掲載されています。
■遺体捜索自衛官 遺体女性の身体を男性の目から隠すため服直す
女性隊員ならではの気遣いに、同じ女性として心が震えました。
このような自衛隊の奮闘ぶり、とりわけ被災者の方々との心の触れ合いというものがあまり報道されない日本のメディアにあって、この「SAPIO」8.17/24号はまさに永久保存版です。
古い号なのでもう書店には並んでいないと思いますが、今日現在アマゾンにはまだ在庫があります。
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【追記9/11 23:30】アマゾンの在庫は9/10午前中で無くなってしまったようです。版元の小学館には今現在まだ在庫があるようです。こちらから注文できます。(コメント欄で情報下さった皆様ありがとうございました)
それにしても、今回の自衛隊の活躍を見て「大きくなったら自衛隊に入りたい」と思った子供たちは、被災地に大勢いるでしょうね。
↓この男の子もその一人のようです(上記「SAPIO」記事とは無関係です)。
被災したこと、それ自体はもちろん彼らにとって大変不幸な出来事だったと思います。
が、その辛い体験は彼らの今後の人生への大きな糧となるでしょう。
やがて故郷を背負って立つことになるであろう被災地の子供たち。
彼らは日本全体にとっても希望の光であり、宝物なのだと、私は感じずにはおれません。
※拙ブログ関連エントリー(震災関連から抜粋)
・3/15付:【東日本大震災-1】外国人から見た日本と日本人(22)
・3/22付:【東日本大震災-2】外国人から見た日本と日本人(23)
・3/28付:【東日本大震災-3】外国人から見た日本と日本人(24)
・4/2付:天皇皇后両陛下が避難所ご訪問 このような方々を戴けた日本人の幸運
・4/4付:独特の災害史観を持つ日本人は何度も立ち向かい乗り越えてきた
・4/16付:【東日本大震災-4】外国人から見た日本と日本人(25)
・4/23付:画像で見る東日本大震災 - 希望 -
・4/25付:【東日本大震災-5】外国人から見た日本と日本人(26)
・5/2付:3月11日に天皇皇后両陛下がなされた事
・5/21付:-言葉の力 - PRAY FOR JAPAN&朝日新聞縮小版東日本大震災
・6/6付:【東日本大震災-6】外国人から見た日本と日本人(27)
・6/18付:保守系識者諸氏が見た震災(2)
・7/11付:【東日本大震災-7】外国人から見た日本と日本人(28)
・8/6付:【東日本大震災-8】外国人から見た日本と日本人(29)
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Comments
これもゆとり教育のせい?
自衛隊が子供達のヒーローになると色々と都合が悪いのでしょう
紹介して頂きありがとうございます。
マスゴミは散々自衛隊を叩いていたせいもあってか、こういった子どもたちの心温まるエピソードを避けているようにも思われます。
被災地の現場で働く自衛隊員の姿を見ていれば、必然的に感謝の心が湧くはずです。子どもたちは極々自然に感謝の気持ちを込めたのだと思います。
子どものピュアな心は、何が一番大切か、大事なものかを見分ける力を持っていますね。
子どもたちは日本再生の大きな力だと感じています。
この子どもたちが成人したあかつきには、きっとよい日本に生まれ変わっていることを信じています。
今日、産経新聞から「日本に自衛隊がいてよかった。自衛隊の東日本大震災」が発売されます。
SAPIOの紹介ありがとうございました。
ちょうどお友達にその号の発売時に「涙なくして読めないから買った方がいい」と教えてもらってて、amazonから注文しようとしたらまだ買えず、忘れたままになってました(^^。
それで今回、amazonから実家と自分の分を購入したのですが、私が購入した時は残り16点だったのですけど、それから数時間後に6点になり、今なくなったみたいですよ〜!
くっくりさんの影響力スゴイです!♪
これからもいろんな紹介お願い致します。
書き起こし、お疲れさまでした。
この記事の中で紹介されていた手紙は、特攻隊員の方々、その他戦陣に命を落とされた、旧帝国陸海軍の方々の遺書と等しく、貴重なもののように思えます。
ただ一点の懸念は、この子供たちが抱いた、郷土を守る、国を守る、自己を犠牲としても人々を助けるという自然な精神や心が、後の偏った教育や、プロパガンダにより、歪められないかということです。
そうさせないことが、きっと私たちの役割なのでしょうね。
この人の顔見る度なんだかゾっとします。他人はキツク攻撃しておきながら自身の不祥事と言い、「パートナー」のいかがわしさと言い、世話になった党からの離党とこの度の案の定の民主入党と言い・・・。
有権者はこの人をまた当選させるのでしょうか。
民主党や政治家達に見習えと言っても、無理な話なので、任期満了まで待つしかないのかなと絶望を含め思っています。
それと、腰抜け外務省さんからの引用ですが、 | 2011/09/10 01:16 PM
ー引用開始ー
ただ一点の懸念は、この子供たちが抱いた、郷土を守る、国を守る、自己を犠牲としても人々を助けるという自然な精神や心が、後の偏った教育や、プロパガンダにより、歪められないかということです。
そうさせないことが、きっと私たちの役割なのでしょうね。
ー引用終わりー
実にその通りと思います。
実際、地域によって様々でしょうが、俺の小さな周辺として感じます処、小6頃迄は、染まってない純粋さが伺えます。
でも、中学から純粋さが徐々に失われ高校での多数の方に、大人の狡賢さが伺えます。
この被災されたお子様たちが、そうなるとは限りませんが、そうならない社会づくりが、自分も含め大人達の命題でしょうね。
もう一つ、自衛隊は災害救助だけが任務では無いですよね。
国防も一つの大事な柱ですよね。今回被災された多くの子供達から自衛隊になりたいと言う声が出ているようです。
しかし、国防や集団的自衛権の行使が現実となれば、任務とは言え殺人と殺害も仕事となり得ます。
その辺の事も、偏見なく伝えなければならないと思っています。
書き起こし乙です! いい話ですね〜。
アマゾンですが現時点だと売り切れています。
メーカーさんもう一回印刷しないかな〜。
わたしなんかこれを書いてる今の時点でさえ涙流れっぱなしです。情け無い...
ところで、雪達磨様、
わたしが他人様の文体をどうこう言う資格は無いんですが、
雪達磨様の全体の文体に「俺」の一人称は合っていない様に思います。
文末がもっとバンカラならば、勿論「俺」で良いと思いますが...
私たちが子供に伝えることの一つには、美しい日本語の継承も含まれると思います。特に不特定多数の方の読んで頂く時は...
如何でしょう?
この号のSAPIOですが、まだ小学館のWebページから注文ができるようです。早速注文しました。
これからもあまり無理なさらないようにしてくださいね。
ー引用開始ー
ところで、雪達磨様、
わたしが他人様の文体をどうこう言う資格は無いんですが、
雪達磨様の全体の文体に「俺」の一人称は合っていない様に思います。
文末がもっとバンカラならば、勿論「俺」で良いと思いますが...
私たちが子供に伝えることの一つには、美しい日本語の継承も含まれると思います。特に不特定多数の方の読んで頂く時は...
如何でしょう?
ー引用終わりー
ご指摘はご尤もです。
しかし、表現の仕方は別として、俺も何度も、私にしようと思いましたが、どうしても殺伐とした時代背景を見ると、私では弱すぎる、俺と言う強い言葉が必要と思い使っております。
他にも、理由はあります。
これは、個人的な思いであって、何かを起こすとか言う事ではありません。
最後にもう一つ、野田政権が発足致しましたね。
でも、菅政権でさんざ苦しめられた筈なのに、民主党自体体たらくなのに支持率が60%を超えるなど、何故ですかね。
弁明するわけではございませんが、子供達からの感謝状(お手紙)は、プライバシー保護を考えてマスコミにたれ流さなかった場合も多分あります。
報道被害の犠牲者を作らないために。
文中にも家族同様という表現があるように、家族からの手紙は公開するものではないとも思われます。
自衛隊の方々の献身ぶりには、本当に頭が下がるばかりです
最近の日本の現状を見ていて悲しくて昔あったことを再度思い出しました。
私が中学二年の頃(今から15年以上前になります)ですが、体育祭で、最初の入場行進中に国旗に向かって、「カシラ右」という掛け声ととも敬礼を行うのが恒例行事でした。生徒達も一糸乱れぬ動作がかっこよくて気に入っていました。しかし私が2年生の時に「軍隊を思い出す」との父兄からのクレームにより、なくなりました。私はすごく切なかったのを覚えています。(ちなみに私たちの親に戦争時代を知っている人はほぼいません)
その時は日帝時代を思い出す人がいるのならその人たちに配慮するのが普通かなとも思いました。
でも今は国旗に対して敬礼することに異議を唱える人たちがいたことの方に悲しく思いますし、それ以上に私たちの体育祭に文句言ってんじゃねーよとも思っております(今更ですが)
自衛隊が活動できなくて文句言われている時代が平和だなんてほんとに皮肉です。
自衛隊の方々平和でも尊敬してます。そんな時代が来るといいと思いました。
ながながと駄文すみません。