防人の万葉集
今日は万葉集から防人(さきもり)の歌を集めてみました。
防人については皆さん学校で歴史の時間に習われたと思いますが、うろ覚えという方もいらっしゃるでしょう。
Wikipediaからの引用になりますが、いちおう簡単に前説を。
※画像はSo-net Photoからダウンロードさせていただきました。
※よみ・意味その他、「たのしい万葉集」さん及び「やまとうた」さんから適宜引用させていただきました。
※例によって、歌と写真のイメージがいまいち一致しないものもありますが、あまり気なさらないで下さいね(^^ゞ
防人については皆さん学校で歴史の時間に習われたと思いますが、うろ覚えという方もいらっしゃるでしょう。
Wikipediaからの引用になりますが、いちおう簡単に前説を。
■防人とは?
663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。大宰府がその指揮に当たった。遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。757年以降は九州からの徴用となる。
■防人歌が読まれた状況
防人は厳しい任務であり、遠い東国から九州までを自力で移動せねばならず、さらにその任務期間中の兵は食糧も武器も各自で調達しなければならない。また、税の免除も行われなかったため極限の状態であった。その様な状況で作られた歌が防人歌である。
※画像はSo-net Photoからダウンロードさせていただきました。
※よみ・意味その他、「たのしい万葉集」さん及び「やまとうた」さんから適宜引用させていただきました。
※例によって、歌と写真のイメージがいまいち一致しないものもありますが、あまり気なさらないで下さいね(^^ゞ
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藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君
(第3巻・330)
作者:大伴四綱(おほとものよつな)
よみ:藤波の花は、盛りになりにけり、平城(なら)の京(みやこ)を、思ほすや君
意味:(大宰府では)藤の花が盛りになりました。奈良の都を懐かしく思い出されますか、あなた様も。
備考:大伴四綱は天平初年頃、防人司佑として大宰府に仕えていた人。原文では「奈良の都」は「平城京」となっているそうです。「君」とは大伴旅人(おおとものたびと)をさします。旅人はこの歌に次の331番で「我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ」(私が若かった盛りの時に戻ることはほとんどないだろうし、奈良の都も見ないままに終わってしまいそうだな)と応じています。
なお「太宰府」と「大宰府」の違いですが、太宰府市のHPによれば、地名には「太宰府」、歴史的なものには「大宰府」と使い分けているようです。
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我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず
(第20巻・4322)
作者:若倭部身麻呂(わかやまとべのみまろ)
よみ:我が妻(つま)は、いたく恋(こ)ひらし、飲(の)む水に、影(かご)さへ見えて、よに忘(わす)られず
意味:私の妻は、とても私のことを恋しがっているようです。飲む水に妻の影さえ映って、忘れられないのです。
備考:この歌の題詞には、「天平勝宝7年(755年)2月6日、交替で筑紫に遣わされる諸國の防人らの歌」とあります。若倭部身麻呂は、麁玉郡(あらたまのこほり=今の静岡県浜北市と浜松市の一部)の人。
「恋ひらし」「かご」はそれぞれ「恋ふらし」「かげ」の訛りです。
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時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ
(第20巻・4323)
作者:丈部真麻呂(はせべのままろ)
よみ:時々(ときどき)の、花は咲(さ)けども、何(なに)すれぞ、母とふ花の、咲(さ)き出(で)来(こ)ずけむ
意味:季節ごとに花は咲くのに、どうして「母」という花は咲かないのだろうか(咲くのだったら手折っていっしょに行くのに)。
備考:天平勝宝7年(755年)2月6日に交替要員として筑紫に派遣された防人たちが詠んだ歌のひとつ。丈部真麻呂は遠江国山名(やまな)郡の人。丈部(はせつかべ、はせべ)は「杖」に由来する軍事的部民だそうです。
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水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき
(第20巻・4337)
作者:有度部牛麻呂(うとべのうしまろ)
よみ:水鳥(みづとり)の、立ちの急ぎに、父母(ちちはは)に、物言(もの)はず来(け)にて、今ぞ悔(くや)しき
意味:水鳥が飛びたつように慌(あわただ)しく支度をして、父母にちゃんと別れを言わずに来てしまって、今はそれが悔やまれます。
備考:天平勝宝7年(755年)2月9日、駿河國(するがのくに)の防人部領使守(さきもりぶりょうしかみ)従五位下の布勢朝臣人主(ふせのあそんひとぬし)が提出した20首の防人の歌のひとつです。有度部牛麻呂は上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子で、名の「牛」が干支に由るのであれば、神亀2年(725年)乙丑(きのとうし)の生まれと推測されます。
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真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず
(第20巻・4342)
作者:坂田部首麻呂(さかたべのおびとまろ)
よみ:真木柱(まけばしら)、ほめて造れる、殿(との)のごと、いませ母刀自(ははとじ)、面(おめ)変(か)はりせず
意味:真木柱(まきばしら)をほめ称えて造った御殿のように、母様はいつまでもお変わりなくいらしてください。
備考:駿河国の人。天平勝宝7年(755年)2月、防人として筑紫に派遣されました。「首」は名の一部か姓(かばね)か不明。防人として出発する時の母への思いが詠まれています。
真木柱は、柱を尊んで呼んだ言葉で、杉檜などで作った立派な柱の意味。達者でいてほしいとの願いを、立派な御殿に喩えています。「まけ」は「まき」の訛り。
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忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも
(第20巻・4344)
作者:商長首麻呂(あきのをさのおびとまろ)
よみ:忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも
意味:忘れようとして、野を山を行き、私はやってきましたが、父母のことは忘れられません。
備考:平勝宝7年(西暦755)2月に、筑紫に派遣された防人の歌のひとつ。万葉集の注に、「駿河国(するがのくに=現在の静岡県の大井川より東)の防人部領使守(さきもりぶりょうし)の布勢朝臣人(ふせのあそんひとぬし)が、2月7日(実際は2月9日)に20首を提出しましたが、(万葉集には)つたない歌は載せませんでした」とあります。商長氏は交易に携わった氏族らしいです。
「忘らむて」=「忘れてしまおうと」。「忘ら」は四段活用動詞「忘る」の未然形。「忘らむ」はそれに意志をあらわす助動詞「む」がついたもので、「意識的に忘れよう」の意(ちなみに「忘れむ」は「自然と忘れてしまうだろう」の意になる)。助詞「て」は「と」の訛り。「忘れせのかも」は「忘れせぬかも」の訛り。
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道の辺の茨のうれに延ほ豆のからまる君をはかれか行かむ
(第20巻・4352)
作者:丈部鳥(はせつかべのとり)
よみ:道の辺(へ)の、茨(うまら)のうれに、延(は)ほ豆の、からまる君(きみ)を、はかれか行かむ
意味:道端のうまら(野茨(ノイバラ))の先に絡みつく豆のように、私に絡みつく君をおいて私は旅立っていくのだろうか。
備考:天平勝宝7年(755年)2月9日に、上総國(かずさのくに)の防人を引率する役人である茨田連沙弥麻呂(まむたのむらじさみまろ)が進上したとされる歌のひとつです。丈部鳥は上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子で、奥さんとの別れを惜しんで詠んだ歌です。
「うまら」は「うばら」の訛りです。
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我が面の忘れもしだは筑波嶺を振り放け見つつ妹は偲はね
(第20巻・4367)
作者:占部子龍(うらべのをたつ)
よみ:我(あ)が面(もて)の、忘(わす)れもしだは、筑波嶺(つくはね)を、振(ふ)り放(さ)け見つつ、妹(いも)は偲(しぬ)はね
意味:私の顔を忘れてしまったら、筑波(つくば)の山を仰ぎ見ながら偲んで下さい、(私の)君。
備考:天平勝宝7年(755年)2月14日に、常陸國(ひたちのくに)の防人使(さつきもりのつかい)の上息長真人國嶋(おきながのまひとくにしま)という人が提出したとされる歌のひとつ。
筑波嶺は茨城県の筑波山。占部は卜占を業とした部民。名の「子龍」は「小龍」とも。
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白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度袖振る
(第20巻・4379)
作者:大舎人部祢麻呂(おおとねりべのねまろ)
よみ:白波の、寄そる浜辺に、別れなば、いともすべなみ、八度(やたび)袖(そで)振る
意味:白い波が寄せ来る浜辺で別れてしまったら、もうどうしようもない。だから、何度も何度も袖を振るのです。
備考:大舎人部祢麻呂(おおとねりべのねまろ)は足利(あしかが)郡(今の埼玉県の足利市周辺)の人で、上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子。天平勝宝7年(755年)2月、防人として筑紫に派遣された、その旅に向かう途中で詠んだ歌です。
「寄そる」は「寄する」の訛りです。
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千葉の野の児手柏のほほまれどあやに愛しみ置きて誰が来ぬ
(第20巻・4387)
作者:大田部足人(おおたべのたるひと)
よみ:千葉の野の、児手柏(このてかしは)の、ほほまれど、あやに愛(かな)しみ、置きて誰(た)が来ぬ
意味:千葉の野の、児手柏(このてかしは)の(花のつぼみの)ように、初々しくってかわいいけれど、とてもいとおしいので、何もせずに(遠く)ここまでやってきました。
備考:この歌は、下総国千葉郡(ちばのこほり。今の千葉県千葉市あたり)の大田部足人(おおたべのたるひと)という人が詠んだ歌。天平勝宝7年(755年)2月、防人として筑紫に派遣されました。好きだった女性に手も触れずに旅立ったようです。
「ほほまれど」は「ふふまれど」の東国訛り。蕾のままであるが、の意。「誰(た)が来ぬ」の原文は「他加枳奴」、訓義は諸説あり、「高来(たかき)ぬ」や「発ち来ぬ」と訓む本などもあるそうです。
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わが門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな土に落ちもかも
(第20巻・4418)
作者:物部廣足(もののべのひろたり)
よみ:わが門(かど)の片山椿まこと汝(なれ)、わが手触れなな土に落ちもかも
意味:私の家の門に咲く椿よ、おまえは本当に私が触れないのに土に落ちてしまうのか。
備考:物部廣足は武蔵国荏原郡の人で、上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子でした。天平勝宝7年(755年)2月、防人として筑紫に派遣されました。「片山椿」とは恋人、または新妻の暗喩と思われます。「片山」は半端な山。山並をなさず、野中にぽつんと立っている小山などを言います。防人として家を留守にしている間、恋人(または妻)が他の男の手に落ちることを憂えている歌と思われます。
「触れなな」の「なな」は「打消の助動詞ズの古い未然形ナに、助詞ニの転ナのついた語」(岩波古語辞典)で、「触れないで」「触れずに」の意。
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足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも
(第20巻・4423)
作者:藤原部等母麻呂(ふじわらべのともまろ)
よみ:足柄(あしがら)の、御坂(みさか)に立(た)して、袖振らば、家なる妹は、さやに見もかも
意味:足柄の坂に立って、袖を振ったなら、家に居る私の妻は、はっきりと(私のことを)見てくれるでしょうか。
備考:「足柄の御坂」は足柄峠。相模国の西境であり、狹い意味での東国への出入口でした。藤原部等母麻呂は埼玉(さきたま)郡(今の埼玉県の熊谷・行田・羽生周辺)の人で、天平勝宝7年(755年)2月、防人として筑紫に派遣される時に詠んだ歌です。この人も上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子でした。
なお、この直後の4424番は、彼の妻である物部刀自売(もののべのとじめ)が詠んだ歌です。「色深(ぶか)く夫汝(せな)が衣は染めましを御坂たばらばまさやかに見む」(あなたが御坂を越えながら袖を振る時、鮮やかに見えるように、衣を深く染めるのだったのに)。
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防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず
(第20巻・4425)
作者:不明
よみ:防人(さきもり)に、行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と、問(と)ふ人を、見るが羨(とも)しさ、物(もの)思(も)ひもせず
意味:「防人(さきもり)に行くのはどなたのだんな様?」と何の悩みも無く聞く人を見るとうらやましい。
備考:防人(さきもり)として旅立つだんなさんを見送る奥さんが詠んだ歌。自分は旦那様を防人に送り出すという非常に辛い状況にあるのに、ご近所の奥さん方が「今度防人に行くのはどこのご主人?」と無邪気に問うているのを聞き、羨ましく感じている様子が大変よく表れています。
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いかがでしたか?
私は終わりから二番目の、この夫婦のやりとりが特に心に残りました。
藤原部等母麻呂
「足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも」
(足柄の坂に立って、袖を振ったなら、家に居る私の妻は、はっきりと(私のことを)見てくれるでしょうか)
物部刀自売
「色深く夫汝が衣は染めましを御坂たばらばまさやかに見む」
(あなたが御坂を越えながら袖を振る時、鮮やかに見えるように、衣を深く染めるのだったのに)
二人は無事に再会することができたんでしょうか?
ちなみに、埼玉県行田市の八幡山古墳公園には、二人の歌を刻んだ碑があるそうです(堂平閑人さんのブログ他を参照)。
ところで、防人の歌は何で第20巻に集中してるんでしょう?
「たのしい万葉集」さんによれば、こういうことだそうです。
ほんとだ、それ以前の歌はどうなっちゃったんでしょう?気になりますね。埋もれた大傑作があったかもしれませんよね。
拙エントリー10/11付:秋の万葉集と兵隊さんの思いでも紹介しましたが、日本文学研究家のドナルド・キーンさんによれば、大東亜戦争時に日本人捕虜や兵士が残した本の中で、一番多かったのは万葉集だったそうです。
また作家の辺見じゅんさんによれば、学徒出陣の人は1冊だけ本を持っていっていいと言われたそうですが、一番多かったのがやはり万葉集。
愛する女性に手紙を送る際、「あなたが好きだ」といったストレートな言葉は検閲に引っかかるため、「僕の思いは何番のようです」というふうに万葉集の番号を書き、女性の側も察して万葉集のその番号の歌を見て、想いを受け取ったのだとか。
その中には、今回紹介したような防人歌もきっとたくさんあったのでしょうね。
さて、今回この記事を書くにあたってネットを検索していましたところ、ある本の存在に気づきました。「太平洋戦争 将兵万葉集」という本です。
昭和に生きて、戦い、多くは亡くなって行った兵士・軍人の和歌がまとめられています。
大変興味を引かれたので、さっそく古書店で購入しました。
今後、拙ブログでこれら和歌を、鎮魂と平和への願いを込めつつ、少しずつ紹介していきたいと考えています。
※拙ブログ関連エントリー
・09/4/7付:さくらさくら今咲きほこる(写真と和歌)
・09/10/11付:秋の万葉集と兵隊さんの思い
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■「お気楽くっくり」更新済
夫が鳩山首相を題材に歌を作ってくれました(笑)
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藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君
(第3巻・330)
作者:大伴四綱(おほとものよつな)
よみ:藤波の花は、盛りになりにけり、平城(なら)の京(みやこ)を、思ほすや君
意味:(大宰府では)藤の花が盛りになりました。奈良の都を懐かしく思い出されますか、あなた様も。
備考:大伴四綱は天平初年頃、防人司佑として大宰府に仕えていた人。原文では「奈良の都」は「平城京」となっているそうです。「君」とは大伴旅人(おおとものたびと)をさします。旅人はこの歌に次の331番で「我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ」(私が若かった盛りの時に戻ることはほとんどないだろうし、奈良の都も見ないままに終わってしまいそうだな)と応じています。
なお「太宰府」と「大宰府」の違いですが、太宰府市のHPによれば、地名には「太宰府」、歴史的なものには「大宰府」と使い分けているようです。
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我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず
(第20巻・4322)
作者:若倭部身麻呂(わかやまとべのみまろ)
よみ:我が妻(つま)は、いたく恋(こ)ひらし、飲(の)む水に、影(かご)さへ見えて、よに忘(わす)られず
意味:私の妻は、とても私のことを恋しがっているようです。飲む水に妻の影さえ映って、忘れられないのです。
備考:この歌の題詞には、「天平勝宝7年(755年)2月6日、交替で筑紫に遣わされる諸國の防人らの歌」とあります。若倭部身麻呂は、麁玉郡(あらたまのこほり=今の静岡県浜北市と浜松市の一部)の人。
「恋ひらし」「かご」はそれぞれ「恋ふらし」「かげ」の訛りです。
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時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ
(第20巻・4323)
作者:丈部真麻呂(はせべのままろ)
よみ:時々(ときどき)の、花は咲(さ)けども、何(なに)すれぞ、母とふ花の、咲(さ)き出(で)来(こ)ずけむ
意味:季節ごとに花は咲くのに、どうして「母」という花は咲かないのだろうか(咲くのだったら手折っていっしょに行くのに)。
備考:天平勝宝7年(755年)2月6日に交替要員として筑紫に派遣された防人たちが詠んだ歌のひとつ。丈部真麻呂は遠江国山名(やまな)郡の人。丈部(はせつかべ、はせべ)は「杖」に由来する軍事的部民だそうです。
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水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき
(第20巻・4337)
作者:有度部牛麻呂(うとべのうしまろ)
よみ:水鳥(みづとり)の、立ちの急ぎに、父母(ちちはは)に、物言(もの)はず来(け)にて、今ぞ悔(くや)しき
意味:水鳥が飛びたつように慌(あわただ)しく支度をして、父母にちゃんと別れを言わずに来てしまって、今はそれが悔やまれます。
備考:天平勝宝7年(755年)2月9日、駿河國(するがのくに)の防人部領使守(さきもりぶりょうしかみ)従五位下の布勢朝臣人主(ふせのあそんひとぬし)が提出した20首の防人の歌のひとつです。有度部牛麻呂は上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子で、名の「牛」が干支に由るのであれば、神亀2年(725年)乙丑(きのとうし)の生まれと推測されます。
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真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず
(第20巻・4342)
作者:坂田部首麻呂(さかたべのおびとまろ)
よみ:真木柱(まけばしら)、ほめて造れる、殿(との)のごと、いませ母刀自(ははとじ)、面(おめ)変(か)はりせず
意味:真木柱(まきばしら)をほめ称えて造った御殿のように、母様はいつまでもお変わりなくいらしてください。
備考:駿河国の人。天平勝宝7年(755年)2月、防人として筑紫に派遣されました。「首」は名の一部か姓(かばね)か不明。防人として出発する時の母への思いが詠まれています。
真木柱は、柱を尊んで呼んだ言葉で、杉檜などで作った立派な柱の意味。達者でいてほしいとの願いを、立派な御殿に喩えています。「まけ」は「まき」の訛り。
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忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも
(第20巻・4344)
作者:商長首麻呂(あきのをさのおびとまろ)
よみ:忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも
意味:忘れようとして、野を山を行き、私はやってきましたが、父母のことは忘れられません。
備考:平勝宝7年(西暦755)2月に、筑紫に派遣された防人の歌のひとつ。万葉集の注に、「駿河国(するがのくに=現在の静岡県の大井川より東)の防人部領使守(さきもりぶりょうし)の布勢朝臣人(ふせのあそんひとぬし)が、2月7日(実際は2月9日)に20首を提出しましたが、(万葉集には)つたない歌は載せませんでした」とあります。商長氏は交易に携わった氏族らしいです。
「忘らむて」=「忘れてしまおうと」。「忘ら」は四段活用動詞「忘る」の未然形。「忘らむ」はそれに意志をあらわす助動詞「む」がついたもので、「意識的に忘れよう」の意(ちなみに「忘れむ」は「自然と忘れてしまうだろう」の意になる)。助詞「て」は「と」の訛り。「忘れせのかも」は「忘れせぬかも」の訛り。
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道の辺の茨のうれに延ほ豆のからまる君をはかれか行かむ
(第20巻・4352)
作者:丈部鳥(はせつかべのとり)
よみ:道の辺(へ)の、茨(うまら)のうれに、延(は)ほ豆の、からまる君(きみ)を、はかれか行かむ
意味:道端のうまら(野茨(ノイバラ))の先に絡みつく豆のように、私に絡みつく君をおいて私は旅立っていくのだろうか。
備考:天平勝宝7年(755年)2月9日に、上総國(かずさのくに)の防人を引率する役人である茨田連沙弥麻呂(まむたのむらじさみまろ)が進上したとされる歌のひとつです。丈部鳥は上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子で、奥さんとの別れを惜しんで詠んだ歌です。
「うまら」は「うばら」の訛りです。
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我が面の忘れもしだは筑波嶺を振り放け見つつ妹は偲はね
(第20巻・4367)
作者:占部子龍(うらべのをたつ)
よみ:我(あ)が面(もて)の、忘(わす)れもしだは、筑波嶺(つくはね)を、振(ふ)り放(さ)け見つつ、妹(いも)は偲(しぬ)はね
意味:私の顔を忘れてしまったら、筑波(つくば)の山を仰ぎ見ながら偲んで下さい、(私の)君。
備考:天平勝宝7年(755年)2月14日に、常陸國(ひたちのくに)の防人使(さつきもりのつかい)の上息長真人國嶋(おきながのまひとくにしま)という人が提出したとされる歌のひとつ。
筑波嶺は茨城県の筑波山。占部は卜占を業とした部民。名の「子龍」は「小龍」とも。
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白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度袖振る
(第20巻・4379)
作者:大舎人部祢麻呂(おおとねりべのねまろ)
よみ:白波の、寄そる浜辺に、別れなば、いともすべなみ、八度(やたび)袖(そで)振る
意味:白い波が寄せ来る浜辺で別れてしまったら、もうどうしようもない。だから、何度も何度も袖を振るのです。
備考:大舎人部祢麻呂(おおとねりべのねまろ)は足利(あしかが)郡(今の埼玉県の足利市周辺)の人で、上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子。天平勝宝7年(755年)2月、防人として筑紫に派遣された、その旅に向かう途中で詠んだ歌です。
「寄そる」は「寄する」の訛りです。
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千葉の野の児手柏のほほまれどあやに愛しみ置きて誰が来ぬ
(第20巻・4387)
作者:大田部足人(おおたべのたるひと)
よみ:千葉の野の、児手柏(このてかしは)の、ほほまれど、あやに愛(かな)しみ、置きて誰(た)が来ぬ
意味:千葉の野の、児手柏(このてかしは)の(花のつぼみの)ように、初々しくってかわいいけれど、とてもいとおしいので、何もせずに(遠く)ここまでやってきました。
備考:この歌は、下総国千葉郡(ちばのこほり。今の千葉県千葉市あたり)の大田部足人(おおたべのたるひと)という人が詠んだ歌。天平勝宝7年(755年)2月、防人として筑紫に派遣されました。好きだった女性に手も触れずに旅立ったようです。
「ほほまれど」は「ふふまれど」の東国訛り。蕾のままであるが、の意。「誰(た)が来ぬ」の原文は「他加枳奴」、訓義は諸説あり、「高来(たかき)ぬ」や「発ち来ぬ」と訓む本などもあるそうです。
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わが門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな土に落ちもかも
(第20巻・4418)
作者:物部廣足(もののべのひろたり)
よみ:わが門(かど)の片山椿まこと汝(なれ)、わが手触れなな土に落ちもかも
意味:私の家の門に咲く椿よ、おまえは本当に私が触れないのに土に落ちてしまうのか。
備考:物部廣足は武蔵国荏原郡の人で、上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子でした。天平勝宝7年(755年)2月、防人として筑紫に派遣されました。「片山椿」とは恋人、または新妻の暗喩と思われます。「片山」は半端な山。山並をなさず、野中にぽつんと立っている小山などを言います。防人として家を留守にしている間、恋人(または妻)が他の男の手に落ちることを憂えている歌と思われます。
「触れなな」の「なな」は「打消の助動詞ズの古い未然形ナに、助詞ニの転ナのついた語」(岩波古語辞典)で、「触れないで」「触れずに」の意。
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足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも
(第20巻・4423)
作者:藤原部等母麻呂(ふじわらべのともまろ)
よみ:足柄(あしがら)の、御坂(みさか)に立(た)して、袖振らば、家なる妹は、さやに見もかも
意味:足柄の坂に立って、袖を振ったなら、家に居る私の妻は、はっきりと(私のことを)見てくれるでしょうか。
備考:「足柄の御坂」は足柄峠。相模国の西境であり、狹い意味での東国への出入口でした。藤原部等母麻呂は埼玉(さきたま)郡(今の埼玉県の熊谷・行田・羽生周辺)の人で、天平勝宝7年(755年)2月、防人として筑紫に派遣される時に詠んだ歌です。この人も上丁(かみつよほろ)と呼ばれる課役を負った成年男子でした。
なお、この直後の4424番は、彼の妻である物部刀自売(もののべのとじめ)が詠んだ歌です。「色深(ぶか)く夫汝(せな)が衣は染めましを御坂たばらばまさやかに見む」(あなたが御坂を越えながら袖を振る時、鮮やかに見えるように、衣を深く染めるのだったのに)。
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防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず
(第20巻・4425)
作者:不明
よみ:防人(さきもり)に、行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と、問(と)ふ人を、見るが羨(とも)しさ、物(もの)思(も)ひもせず
意味:「防人(さきもり)に行くのはどなたのだんな様?」と何の悩みも無く聞く人を見るとうらやましい。
備考:防人(さきもり)として旅立つだんなさんを見送る奥さんが詠んだ歌。自分は旦那様を防人に送り出すという非常に辛い状況にあるのに、ご近所の奥さん方が「今度防人に行くのはどこのご主人?」と無邪気に問うているのを聞き、羨ましく感じている様子が大変よく表れています。
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いかがでしたか?
私は終わりから二番目の、この夫婦のやりとりが特に心に残りました。
藤原部等母麻呂
「足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも」
(足柄の坂に立って、袖を振ったなら、家に居る私の妻は、はっきりと(私のことを)見てくれるでしょうか)
物部刀自売
「色深く夫汝が衣は染めましを御坂たばらばまさやかに見む」
(あなたが御坂を越えながら袖を振る時、鮮やかに見えるように、衣を深く染めるのだったのに)
二人は無事に再会することができたんでしょうか?
ちなみに、埼玉県行田市の八幡山古墳公園には、二人の歌を刻んだ碑があるそうです(堂平閑人さんのブログ他を参照)。
ところで、防人の歌は何で第20巻に集中してるんでしょう?
「たのしい万葉集」さんによれば、こういうことだそうです。
万葉集の中で、防人の歌が最も整理されているのが、二十巻です。大伴家持(おおとものやかもち)が、防人関係の仕事をする兵部省(ひょうぶしょう)のお役人だったとき天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(755)に、東国の国々から防人の歌を集めさせたものです。集まった歌は166首でしたが、家持が選んで84首を万葉集に残しました。このときは、すでに防人の制度が始まってから、100年近くが経過しています。それ以前の歌はどうしたのでしょうか。。。
ほんとだ、それ以前の歌はどうなっちゃったんでしょう?気になりますね。埋もれた大傑作があったかもしれませんよね。
拙エントリー10/11付:秋の万葉集と兵隊さんの思いでも紹介しましたが、日本文学研究家のドナルド・キーンさんによれば、大東亜戦争時に日本人捕虜や兵士が残した本の中で、一番多かったのは万葉集だったそうです。
また作家の辺見じゅんさんによれば、学徒出陣の人は1冊だけ本を持っていっていいと言われたそうですが、一番多かったのがやはり万葉集。
愛する女性に手紙を送る際、「あなたが好きだ」といったストレートな言葉は検閲に引っかかるため、「僕の思いは何番のようです」というふうに万葉集の番号を書き、女性の側も察して万葉集のその番号の歌を見て、想いを受け取ったのだとか。
その中には、今回紹介したような防人歌もきっとたくさんあったのでしょうね。
さて、今回この記事を書くにあたってネットを検索していましたところ、ある本の存在に気づきました。「太平洋戦争 将兵万葉集」という本です。
昭和に生きて、戦い、多くは亡くなって行った兵士・軍人の和歌がまとめられています。
大変興味を引かれたので、さっそく古書店で購入しました。
今後、拙ブログでこれら和歌を、鎮魂と平和への願いを込めつつ、少しずつ紹介していきたいと考えています。
※拙ブログ関連エントリー
・09/4/7付:さくらさくら今咲きほこる(写真と和歌)
・09/10/11付:秋の万葉集と兵隊さんの思い
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■「お気楽くっくり」更新済
夫が鳩山首相を題材に歌を作ってくれました(笑)
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・外国人参政権に反対する会・全国協議会 公式サイト
署名用紙(国会への請願署名) *平成22年(2010年)1月7日必着!*
http://www.geocities.jp/sanseiken_hantai/
「たかしズム」では、ネトウヨさんを募集いたします。条件は以下の通りです。
・当ブログの掲示板に継続的に書き込みをしていただける方
・小学校終了程度の学力を有される方
・少なくとも10行程度の日本語が書ける方
給与は、経験・実績を見て決めさせていただきます(高給優遇)。
http://takashichan.seesaa.net/
万葉集はあまり知らないのですが、声に出して読んでみると日本語の響きの美しさに改めて感動しますね。
ところで「太平洋戦争 将兵万葉集」という本ですが、私の記憶に間違いがなければ多分この本だったと思うんですが、10年ぐらい前に図書館で借りて読んだことがあります。けっこうなボリュームで、ひとつひとつに兵士の方の思いが刻まれていて、何度も涙が出ました。今後ブログで紹介してくださるそうで、今から楽しみにしています。
独島:北海道教職員組合「韓国の主張が正しい」
昨年、組合員らに資料を配布
北海道の教職員団体「北海道教職員組合」が昨年11月、独島(日本名:竹島)の領有権問題に関し、「韓国側の主張が事実に基づいている」という資料を作成し、組合員らに配布していたことが、27日明らかになった。
資料が配布されたのは、日本政府が中学校社会科の新学習指導要領の解説書で、独島に関する記述を盛り込んでから4カ月後のことだ。解説書に従って教科書の内容が変わっても、教育現場では「韓国の主張が正しい」と生徒たちに教えるよう指示するものだった。
北海道教職員組合によると、昨年11月28日に配布した同組合の機関紙兼学習資料「北教」で、「歴史的な事実を冷静に読み解けば、韓国の主張が事実に基づいていることが明らかだ。島根県などが竹島の領有権を主張する行為は、日本の侵略や植民地支配を正当化する、極めて不当な行為だ」という内容が盛り込まれている。
同組合は組合員数については公開していないが、北海道の教職員の組合加入率は約30%に達するとされている。
東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員
http://www.chosunonline.com/news/20091228000006
防人達は食料・武器は自弁、
任務先に到着しても、開墾しながら食料調達して任務をこなす。
任務を終え、故郷を目指す帰路も自弁ですから
遠い遠い東国まで到着する前に餓死する人や
奴隷として売られてしまうケースも多かったようです。
「防人帰国者を捕まえて奴隷にしてはならない」という通告が、
しばしば出されていることからも、彼らが故郷に戻るのは困難だったでしょうね。
白村江の戦い後、記録に残る交戦は1度だけですが
大宰府が朝廷に報告した記録によると
新羅や高句麗の海賊が、やってきて食料を強奪し、村民を奴隷にして連れて行ったり
政府軍同士の戦いの他に、こうした海賊の襲撃も多かったようです。
また大陸や半島から亡命してくる人を収容する仕事もあり
離島の治安維持は、大変だったようですね。
大伴家持が防人の歌を集めた頃は、防人制度の必要性が薄れてきた頃であり
彼は何度も防人制度廃止の建言を出している事から
それ以前から詠まれて来たというよりも
大伴家持が制度廃止を訴える為に
彼らの悲痛な嘆きや過酷な現状を歌に詠ませ
万葉集に乗せたのではないでしょうか?
【外国人参政権】・【人権侵害救済法案】に断固反対します
の署名が再開しました。
皆様できたら署名・拡散お願いします。
http://www.shomei.tv/project-1300.html
話題に関係ないことですみません。
毎日目にするTVをはじめとするメディアは、商業主義的なものを含んだ瞬間的、刺激的な言葉の連続です。
幼い頃からメディアの洪水を頭から被ってしまうとよっぽど家庭で気を付けていないと、思考や言動に悪影響が出てしまいます。
その様な中で万葉集のような古典を音読で楽しむのは意義深いことだと思いますよ。是非みなさんも音読して味わってみて下さい。そうすると不思議と現代訳は必要ないことが分かると思います。
それは日本語が一音一音に意味があり、それが言霊として日本人の身体にダイレクトに共振するからです。
一音一音区切って音読をすることで普段の国語力の向上が期待できます。
子供には小さい頃からやらせるのがいいですよ。