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安倍憎し、だけど朝日も生みの親

 細切れぼやきは、東京地裁「国旗掲揚時の起立強制は違憲」、小泉メルマガ最終号。

 まずは安倍新総裁誕生で各紙社説が来てますので、それを。

朝日社説9/21:安倍新総裁 不安いっぱいの船出
読売社説9/21:[安倍新自民総裁]「『圧勝』を政権運営に生かせるか」
毎日社説9/21:安倍新総裁 気負わず柔軟に若さ生かせ
産経社説9/21:安倍新総裁 国民守る国造りが使命 ぶれない政治姿勢を貫け
日経社説9/21:安倍新総裁は首相主導で公約実行を
中日(東京)社説9/21:時計の針をどっちに回す 自民新総裁に安倍氏 

 昨日の拙エントリーにて、北朝鮮金融制裁発動がテーマの各紙社説の読み比べをやりました(細切れぼやき参照)。そこで私は「朝日だけ明らかにトーンが違う」と書きましたが、今日の社説もやはり朝日だけが異質な印象。
 タイトルからいきなり<安倍新総裁 不安いっぱいの船出>ですもん。直球を通り越してビーンボール……(T^T)

 各紙ざっと読んでみたんですが、朝日だけでなく他紙も安倍さんの歴史認識については「注文」をつけてはいます(産経除く)。特に毎日と中日はひどいです。それでもまだ朝日よりもマシに見えるのはなぜだろう?

 それはおそらく、他紙は歴史認識だけではなく党と閣僚の人事、経済や財政などの政策課題、10月の衆院補選や来年の参院選などにも言及してるからでしょう。
 が、朝日にはそれがありません。

 他紙にもツッコミたいんだけど、時間の余裕がないので朝日だけ。
 
朝日社説9/21:安倍新総裁 不安いっぱいの船出
 自民党総裁選は、予想通り安倍晋三氏の圧勝に終わった。今日の誕生日で52歳。戦後最年少、初の戦後生まれの首相が誕生する。
 英国のブレア氏が首相になったのは43歳、クリントン米大統領は46歳だった。それに比べれば、特に若さが際だつわけではない。でも、日本の一般的な企業社会で言えば、若手の部長が社長に抜擢(ばってき)されたような、世代を一気に飛び越えた感があるのは間違いない。
 それなのに、これから新時代の政治が始まるという新鮮さがあまりわきあがってこないのはなぜだろうか。
 安倍氏が前面に掲げたのは「戦後体制からの脱却」であり、祖父である岸信介元首相譲りの憲法改正だった。戦後生まれが戦後の歩みを否定するかのようなレトリックを駆使する。そのちぐはぐさに復古色がにじむからかもしれない。
 「戦後体制からの脱却」と言えば、中曽根康弘元首相の「戦後政治の総決算」を思い起こす。
 ともに熱心な憲法改正論者。保守主義を標榜(ひょうぼう)し、伝統や国家を重んじる。そんなスタンスで安倍氏と中曽根氏は似通うが、大きな違いもある。
 防衛庁長官、党総務会長、幹事長などを歴任した中曽根氏は、初当選から首相になるまで35年。30冊ものノートに政策や心構えを書きためた。政権に就いた時には「頭の中には政策の貯金がいっぱいあった」と回顧録で語っている。
 一方、安倍氏の議員歴はわずか13年。選挙向けの「顔」として幹事長に起用されたが、閣僚経験は官房長官だけだ。

●自民党の人材枯渇
 この1年、小泉氏の退陣は既定路線だったのに、結局、安倍氏を脅かすライバルは現れなかった。それどころか、政策も発表しない段階から党内の大勢は安倍支持へ雪崩を打った。自民党の人材枯渇と活力のなさを思わずにはいられない。
 自民党総裁の選ばれ方がさま変わりしたのだ。政策や経験よりも、次の選挙に勝てる「顔」かどうかが最優先される。昨年の総選挙で見せた小泉人気の破壊力はそれほど大きかった。
 議院内閣制の下での間接的な首相選びは、国民の意思が直接反映されないもどかしさの半面、「人気投票的な要素に流されない」利点があると言われてきた。もはやそれが通用しない時代に入ったということかもしれない。
 人気は安倍氏の最大の強みであると同時に、不安のもとでもある。彼の人気の源泉は靖国や拉致問題で見せた、北朝鮮や中国などに対する強硬な言動だ。それが世の中に広まるナショナリズムの風潮にふわりと乗った。
 その前段には、駆け出し議員のころから歴史教科書や慰安婦、歴史認識問題などで政府や党の姿勢を批判してきた過去がある。
 若い政治家が過激な発言で注目を集めることは珍しくない。だが、経験を重ねる中で、積み上げられた政府見解や外交の重さを学び、修正していく。それが自民党の政治家養成法でもあった。
 あっという間に階段を駆けあがった安倍氏に、そんな時間は乏しかった。若いころの生硬な言動を含めて「毅然(きぜん)とした態度」こそが自らの人気の源と見る限り、首相という大きな衣に体が合わないという違和感は続くだろう。

●地位が人を育てるか
 その表れが、歴史認識などで明確な発言を避ける「あいまい戦略」に違いない。首相になればそんなごまかしが通用するとは思えない。
 人気は民主主義の大事な要素だ。国民に負担を求め、痛みを分かち合う上でリーダーに欠かせぬものだろう。だが、頼みの人気が陰った時、さらにナショナリズムのアクセルを踏み込みはしないか。冷戦後の複雑化する世界を冷静に、したたかに乗り切れるか。不安は募る。
 地位が人を育てるということもある。英知を結集することで、不安を希望に変える。そんな船出であってほしい。

 順不同になりますが、何カ所かツッコミ入れさせてもらいます<(_ _)>

<安倍氏の議員歴はわずか13年。選挙向けの「顔」として幹事長に起用されたが、閣僚経験は官房長官だけだ。 >

 もし朝日新聞がプッシュしてた福田康夫氏があのまま総裁選に出馬、新総裁になったとします。そしたら朝日は福田氏の経歴にもケチつけたんでしょうか?
 というのも、福田氏は議員歴16年。閣僚経験も公式サイトによると官房長官と沖縄開発庁長官だけ(後者は第2次森内閣の2000年10月27日〜12月5日)。
 経験云々を言うんなら、安倍さんとそんなに変わらないと思いますが、朝日は福田氏が総裁になっていたとしても安倍さん同様、福田氏を批判したんでしょうか?

<防衛庁長官、党総務会長、幹事長などを歴任した中曽根氏は、初当選から首相になるまで35年。>

 朝日はこれまで自民党の古い体質を批判してきたし、若い力の台頭は大歓迎のはずなんですが、おかしいですね。首相時代、ボロカス叩いていた中曽根康弘氏を持ち上げてまで、安倍さんを叩くとは。

 ま、答えは簡単ですけどね。昔はともかく現在の中曽根氏は、「A級戦犯が祀られている靖国神社への首相の参拝は反対」してますから。
 つまり若かろうが年食ってようが、経験があろうがなかろうが、朝日の思想に合う人はOKで、そうじゃない人はダメってだけのことですわ。

 麻生太郎さんは1979年初当選で議員歴27年ですが、仮に安倍さんでなく麻生さんが新総裁になったとしても、朝日は絶対叩いたことでしょう。だって麻生さんも安倍さんと外交、安保、歴史認識の面では方向性がかなり似てますから。

<自民党の人材枯渇と活力のなさを思わずにはいられない。 >

 民主党なんかもっと深刻だと思いますけど?(^_^;
 この前も代表選で他に立候補者が立たず、無投票で小沢一郎が再選されたけどそれはスルー?

<戦後生まれが戦後の歩みを否定するかのようなレトリックを駆使する。>

 戦後の日本は、良い面もあれば悪い面もあります。悪い面や時代にそぐわない面は改善が必要でしょう。安倍さんが言っているのはそういうことです。
 それとも朝日は戦後を全肯定するんでしょうか?

 また、世界に存在しているのは日本だけではありません。戦後60年、国際情勢も、日本の置かれている立場もずいぶん変わってきています。

 今日の産経社説がこういう指摘をしています。

 安倍氏が主張する「新たな国づくり」こそ、戦後日本が取り組むべき最大の課題である。その核心は、占領期に策定された憲法と現実との乖離(かいり)をどうとらえるかであろう。ミサイルを発射した北朝鮮や軍事力を強大化する中国などを前に、日本は、自らの生存を「平和を愛する諸国民の公正と信義」(憲法)に委ねるという他人任せの対応をせざるを得ない。
 このままで日本の平和と安全は確保されるのか。改憲を求める人が世論調査で6割を超えていることは、国民がこうした問いを発しているからではなかろうか。国民を守る国づくりが、安倍氏の歴史的な使命といえよう。

 現行憲法のままでは日本の平和と安全の確保に不安があることも、また、日本が世界の中でもはや平和一国主義ではいられないことも、今や多くの国民が自覚しています。
 朝日自身も社説の最後に、「冷戦後の複雑化する世界を冷静に、したたかに乗り切れるか」と書いてますよね。
 日本が冷静に、したたかに乗り切るためには、「戦後体制からの脱却」「憲法改正」を前向きに考える時期に来ているとは思いませんか?

<その前段には、駆け出し議員のころから歴史教科書や慰安婦、歴史認識問題などで政府や党の姿勢を批判してきた過去がある。 >

 何じゃこの書き方は(T^T)。知らない人が見たら、「安倍さんって後ろ暗い過去があるのねぇ……」って思っちゃいますよ。

<その表れが、歴史認識などで明確な発言を避ける「あいまい戦略」に違いない。>

 もし安倍さんが小泉さんのように「8月15日に参拝します」とか明言してたら、もっと叩いてたくせに(-.-#)

 前にも書きましたが、安倍さんを「あいまいな戦略」にさせてるのは朝日新聞はじめとするサヨクメディア。安倍さんが何か言ったら「中国様、韓国様、安倍がまたこんなこと言うてまっせ〜」と放火するのは目に見えてるでしょ。

 安倍さんも個人的には歴史認識について語りたい気持ちはあるでしょう。が、新総理として日中関係、日韓関係を改善しなければいけないという責務を感じている以上、相手を刺激するような発言は極力避けようとする、それが当然でしょう。
 すでに日中間では水面下で首脳会談実現に向けて交渉が進んでいるという話も、あちこちで聞きます。
 朝日は日中首脳会談を切望してきたはずです。なのに何故、自らそれを潰そうとするんでしょうか?

 歴史認識、歴史認識ってほんと、うるさいこと。大多数の国民はそんなことより日々の生活に直結する問題、たとえば景気対策とか年金問題とか、そっちを求めてるんですけども。
 なのに自分の言いたいことだけ書いて……、無責任でいいですね。

 最後の段落なんかもう、やけ酒飲みながら書いてませんか(^_^;?朝日の主観だらけ、愚痴だらけ。
 安倍さんのことを「ナショナリズムのアクセルを踏み込みはしないか」と心配する前に、飲酒してアクセル踏み込んだ自社の社員について、社説を1本書いていただきたいものです。
 ↑「飲酒運転摘発厳しい姿勢で」という記事を書いた朝日新聞記者が一週間後に飲酒運転でつかまる(mumurブルログさん)を参照。

 まあとにかく、安倍さんがほんとに嫌いで、悪口言いたくて仕方がない!ということが、よ〜く伝わってくる社説でありました。今に始まったことじゃないけど。
 でも皮肉なことですが、朝日新聞は『安倍新政権誕生の功労者ベスト5』の中に確実に入ってくると思いますよ(^_^;
 
 以下は昨日、産経に載ったGJな論説。

【湯浅博の世界読解】「安倍現象」生んだ中・韓・北(産経9/20)
 在京の外国人記者から安倍晋三官房長官の「タカ派」「強硬派」ぶりを根掘り葉掘り聞かれることがある。レッテルを張りたがるのは、おおむね中国や韓国、それに欧米のリベラル左派のメディアに多い。
 首相の座に近い安倍長官は靖国に参拝するのかしないのかが気になる。戦術的に行くとも行かないともいわぬ日本の“次期首相”を非難できないもどかしさがあるらしい。
 ともかく、自民党の総裁選挙は世界の注目を集めている。カネが飛び交う金権でも、長老による不透明な裁定でもない。小泉首相自身が早々と、「首相交代あり」を宣言して候補者が走るという自民党には希有な選挙である。安倍長官が常にそのトップに立っていたことは内外の誰もが知っている。
 今ごろ、中国大陸と朝鮮半島の政府や党の要人たちは、「どこで対日戦略を誤ってしまったか」と悔いているに違いない。どう考えてもここ数年の日本非難は、結果的に「安倍優勢」の道筋に手を貸してきたとしか思えないからだ。
 中韓の本当の狙いは、首相の靖国神社参拝の阻止でも歴史認識を改めさせることでもない。ホンネは日本が「普通の国」として主体性をもつことを断固阻むことにある。まして、国連安保理常任理事国入りして一等国の仲間入りするなどとんでもないことなのだ。
 その手段として、国論分裂を誘う「靖国カード」は有用なはずだった。
 最近公刊された日本嫌いの前中国国家主席の言行録『江沢民文選』でも、「日本に対して、歴史問題は永久に追及し続けろ」と加害者意識を利用するよう勧める。日本が何度も半島や大陸での行為に反省を表明しても、「謝り方がまだ足りない」とかさにかかる。
 ところが小泉内閣の5年間は、中韓が靖国を取り上げて騒ぐほど、小泉支持が高まり、憲法改正への支持が増えていくという現象につながった。北朝鮮という無頼国家は、ミサイル乱射によって日本を含む周辺国を脅したつもりだ。
 日本国民は逆に脅威をはね返す「ぶれない指導者」を渇望するようになった。それは多分に、北による拉致という戦後の太平を揺さぶる衝撃が、日本国民を覚醒(かくせい)させたからだ。日本国民は拉致被害者、横田めぐみさんのご両親から、苦難に立ち向かう「凛」とした態度を学んだのではないか。
 ポスト小泉を視野に入れれば、拉致被害者とその家族を徹底支援した安倍長官に支持が集まる流れだ。
 そのことに気づいた中国は、今年に入って靖国参拝阻止の一点突破から、日中の民間交流を重視する対日政策に切り替えた。韓国の盧武鉉大統領も、最近の演説で「靖国」をいわずに憲法改正の反対を強調したところをみると、その意識が強い。
 学習できなかったのは、「安倍憎し」でコリ固まる一部の日本メディアである。それを信じた中韓がうかつともいえる。20日に事実上の安倍政権誕生ということになれば、外交的には中韓のおかげという逆説が成立することになりはしまいか。
 だが、新政権の前途は厳しい現実が待っている。
 北朝鮮はいまだ核実験を強行する振りをみせ、中国は歴史認識で日本を封じ、エネルギー確保のためなら手段を選ばない。北方領土を返さないロシアは、日本企業と約束した石油・天然ガス開発の「サハリン2」事業を簡単に破る国だ。
 11月にハノイで開催されるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で、新首相はさっそく首脳外交の洗礼を受ける。アジア外交はなにも中韓だけに限らず、東南アジアやインドとの協調が重要になる。国益激突の地平で演じる外交のリアリズムが不可欠だ。(東京特派員)

 “靖国カウンター”を回し続け、日本が「普通の国」として主体性をもつことを阻んできた朝日。
 「安倍憎し」でコリ固まり学習できなかったおかげで、中韓を間違った方向に導いてしまった朝日。
 中・韓・北だけでなく、朝日もまた結果的に「安倍優勢」の道筋に手を貸してきたということです。ご苦労さん。


・・・・・・・・・・・細切れぼやき・・・・・・・・・・・


式での起立・斉唱定めた都教委通達は「違法」 東京地裁(朝日)
2006年09月21日15時34分
 卒業式、入学式で教職員に国旗に向かって起立しなかったり国歌斉唱を拒否した東京都立校の教員が大量処分を受けたことをめぐる訴訟で、東京地裁は21日、違反した場合に処分することを定めた03年の都教委の通達は「少数者の思想良心を侵害し、違法」とする判決を出した。難波孝一裁判長は、(1)教員らには起立、斉唱の義務はないことの確認(2)不起立・不斉唱、ピアノ伴奏の拒否によって処分をしてはならない(2)原告401人に対する1人3万円の慰謝料支払い命令――を言い渡した。
 判決はまず、日の丸・君が代の歴史的な位置づけについて「第二次大戦終了まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことは否定しがたい」と指摘。「国旗・国歌法で日の丸・君が代が国旗、国歌と規定された現在でも、なお国民の間で宗教的、政治的にみて価値中立的なものと認められるまでには至っていない」と述べた。
 これを踏まえ、「教職員に一律に起立・斉唱とピアノ伴奏の義務を課すことは、思想・良心の自由に対する制約になる」として都教委の通達と校長の職務命令は違法だと結論づけた。

 「国民の間で宗教的、政治的にみて価値中立的なものと認められるまでには至っていない」?
 そうかなあ。少し前ならともかく、今はサッカーW杯とかオリンピックとか、みんな普通に君が代歌って日の丸振ってるように見えますが。

 地裁で判決が出ただけなのに、朝日新聞とかTBSとかはすでに大はしゃぎ。明日の朝日の社説はこれで決まりでしょうね(-.-#)

 それにしても、単なる「儀礼」が何でこんな騒ぎになるんでしょうか。
 国歌・国旗に敬意を払うのは国民として当たり前のことでしょ。「挨拶をきちんとしましょう」と言うのと同じようなもんですよ。
 それも個人ならともかく、都立校の教職員でしょ。公務員でしょ。職務上の通達は守らないとだめでしょ。
 そもそもこういうバカ教師どもが当たり前のことを当たり前にできないから、都教委が通達まで出す事態になってたんでしょ。
 東京地裁はそのへんの経緯をきちっと吟味したんかね?

 ↓毎日新聞はこう伝えてます。

<国旗国歌>都教委の「強制は違憲」東京地裁が判決(毎日)
「通達や都教委の一連の指導は、教職員に対し、一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しく、教育基本法10条1項で定めた『不当な支配』に該当し違法」と指摘した。

 それを言うなら、国旗・国歌をないがしろにすることも「一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しい」のでは?

 前にも書きましたが、和歌山市で育った私は小・中・高の12年間(いずれも公立)、学校で一度も国歌を習ったこともなければ、歌ったこともありません。
 だから大阪育ちの夫から「俺は学校で国歌を習ったし、行事でも普通に歌ってたよ」と聞かされた時は、ものすごく驚きました。
 今さら言っても仕方ないんでしょうが、教育の権利を奪われたような気がして、腹が立つやら悲しいやらで複雑な気分です。
 
 ところで、30,000円×401名分の慰謝料は東京都民の血税から払われることになるんでしょうか。都民の方はたまりませんね。
 もちろん高裁でひっくり返される可能性は十分あるとは思いますが。


「支えてくれてありがとう」 首相、きょう引っ越し
 小泉純一郎首相は21日付で、退任に当たっての心境をつづったメールマガジン最終号を送信した。在任中の重圧を振り返り、「多くの国民からの声がどんなに励みになったか分からない」と謝意を表明。最後は「ありがとう 支えてくれて ありがとう 激励 協力 只々感謝」と自作の短歌で結んでいる。
 首相は「いつも何かに守られている、運がいいな、と思いながら、何とか頑張ってきた」と心情を吐露。「変人」と呼ばれた首相だが、「自分では気の弱い普通の常識人だと思っている」とも語っている。
 メルマガは首相就任直後の6月にスタート。毎週木曜日に出され、これまで延べ約4億5000万通を配信した。
 また、小泉首相は20日夜、自民党の中川秀直政調会長と官邸で会い、「明日、公邸を引き払う」と述べた。首相は当面、都内のホテルに宿泊し、官邸に通うという。
(産経新聞) - 9月21日8時0分更新

 小泉内閣メールマガジンには私も登録してます。最近はあまりまともに読んでないけど(^_^;
 バックナンバーはこちらから。最新号はまだ掲載されてません。2〜3日後には掲載されると思います。
 06/9/7号なんか面白いですよ。小泉批判が堂々と載ってる(防衛大学校長・五百旗頭真氏)。寄稿する方もすごいけど、掲載する方もすごい?(^_^;


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朝日新聞 | comments (41) | trackbacks (0)

Comments

小泉首相が退任するのは、何だか少しだけ寂しさを感じますね。どうも「風まかせ」的なところが見え隠れしていたような気がしますが、日本をまともな国にしてくれる礎を作ってくれた功績は、後世にはきっと評価されると思います。
ただ、皇室典範改正を急ぎすぎたのはいただけないですが。
トロ | 2006/09/22 01:37 AM
ご無沙汰しております。
ほんと安倍氏に対する攻撃が目に余ります。
産経新聞の阿比留瑠比氏のブログでもとりあげております。ご参考までに。
http://abirur.iza.ne.jp/blog/
おかべっかむでびぃっど | 2006/09/22 01:49 AM
 サヨクメディアって本音は特定アジアと友好関係を築くことに反対なんじゃないのかなぁ?国益の為じゃなく。関係が悪くなればなるほどネタが増えるだろうし、その度に自分たちがすばらしいと自己満足できるだろうし。
 私は田舎の学校でしたが、小・中学校時代は式の前にしつこいぐらい君が代やら蛍の光やら練習させられましたよ。当時はうんざりしてましたよ。先生や来賓の方は壇上に掲揚された日の丸に一礼してましたし。当時は人もいないのに何で?って感じでした。でも今思えばすばらしい環境で育つことができたんだなぁと、当時の環境に感謝しています。思うにたとえ日の丸・君が代が強制されても子供に害があるなんてありえないし、反対している方は自分たちの思想で子供たちを巻き込んでいることをどう思っているのでしょうね?そんな時間があるならもっともっと大切な事に時間をさき、その姿を子供たちに見せるべきではないかと思いますけど。抽象的ではありますが・・・。
けんけん | 2006/09/22 02:16 AM
産経の湯浅さんの記事良かったですね〜〜(笑
朝日も毎日グループも懲りませんね〜〜(爆
国旗が違憲???
思いっきり、公共の福祉に反すると思うが裁判官の良識を疑います!!!!
kmura | 2006/09/22 08:17 AM
>その前段には、駆け出し議員のころから歴史教科書や慰安婦、歴史認識問題などで政府や党の姿勢を批判してきた過去がある。

朝日には、これらの事柄を特定アジアに炊きつけて、炎上させた過去があります。火消しに勤めた安倍さんに文句を言う、逆ギレ放火犯、朝日新聞ってな感じですね。
空 我 | 2006/09/22 08:23 AM
逆ギレ放火犯アカピー炎上…
もう勝手にやってくれと言いたいですね。
我が父が大学卒業後、某新聞社に就職が決まったとき、田舎の祖父が激怒して上京…父に辞表を出させた理由が、最近になってよーくわかった気がします。

国歌斉唱・国旗掲揚を巡る地裁判決も余りにナサケナイ。
判事の軽佻浮薄さを物語っているようです。
私は(前にも書かせて頂きましたが)くっくりさんのご主人と同じ大阪出身…
小中高と国歌斉唱しましたし、国旗掲揚もありました。
小学校の授業で、君が代の歌詞の意味も教わりましたし…
そういった「自分の国」を認識して判断する機会を子供達から奪うかのような判決には、まったく同意できません。
まます | 2006/09/22 09:06 AM
またトンデモ判決が出ましたね。
思想良心の自由の為なら、集団のルールを破り、秩序を乱しても構わないと、裁判所がお墨付きを与えたようなものですね。高裁で逆転する可能性もありますが、この判決を盾に、またバカ教師どもが卒業式をぶち壊しそうで心配です。

それにしても、学校での国歌斉唱は地域によって、対応が随分違うのですね。小〜高までは名古屋でしたが、国歌はしっかり歌わされました。特に小学校の時は、大きな声で歌わないと叱られ、ちょっとウンザリしたこともありましたが、「君が代」を嫌いになったことはないです。
国旗国歌を軽んじ、憎悪する人たちがいる国は、世界中を探しても日本だけではないでしょうか。日本は異常だ・・・
なつなつ | 2006/09/22 09:12 AM
政策として国旗国歌を奨めるのは認めているので、その意味では画期的(笑)。労組や赤PTAは現場で騒いではいけないとの判決です。
要するに、どうしてもイヤな奴は隅っこでひっそり座っていろ、そいつらはそっとしておいてやれ、くらいの意味ですよ。
. | 2006/09/22 10:40 AM
誰に給料もらって養ってもらってるのかって意識が無いんだろうなぁ・・・公務員もそうだけど、教師もこうとは・・・ 公立学校の存在意義を考えて欲しいものです、此の国を支える人材を育てる場所で、其の国を馬鹿にする人材を育成するとはw
通りすがり | 2006/09/22 11:24 AM
アカヒの安部たたきは戦前、戦中に自らがしでかしたことを謝罪しないためのレトリックだと思います。

当時の社会情勢が悪いのであって、朝日新聞は悪くない・・・と思っているのではないでしょうか?

関東大震災の時に大阪から東京へ進出した火事場泥棒新聞が幅をきかすために思いついた報道姿勢は、強大な権力に事大することで、戦前戦中は軍部、戦後は中共なのでしょう。
クマのプータロー | 2006/09/22 01:34 PM
> みんな普通に君が代歌って日の丸振ってるように見えますが。

休みの日の国旗、まったく見かけませんね。交番とバスくらい。

海の日が雨でしたので、今週はほんとに久々に旗日でした(東京)。明日も旗日びよりです。
ちゃた | 2006/09/22 03:57 PM
国旗掲揚、国歌斉唱のときは起立するのが国際的なマナーになっている。それを知らない日本人が、例えば国際的なスポーツ大会のときに他国の国旗掲揚、国歌斉唱のときに座ったままでいる。外国人からは何だこいつらはという目でみられているのを知らない。
おじさん | 2006/09/22 04:30 PM
私は中高が仏教系の私立だったので、国歌斉唱はありませんでした(その代わり仏教歌を歌ったり、お経を唱えたり)が、体育祭や卒業式の時は日の丸が掲げてありましたよ。
だって、ここは日本だし。

まあ教師のとって国旗・国歌の意味なんて本当はどうでもいいのです。その証拠に「それじゃどんな国旗ならいいのか」と聞いても返事はない。
やつらの真の目的は辻元清美と同じ、国家という枠組みの破壊ですから。
モッティ | 2006/09/22 04:35 PM
皆様、コメントをいただきありがとうございます。
いつも個別にお返事差し上げられず申し訳ありません。

国旗・国歌についてのコメント、大変参考になります。
夜にまたこの問題でエントリー起こそうと思ってます。

モッティさん:
私の母(昭和15年生まれ)は高校・短大とキリスト教系の私立だったので、国歌斉唱はなかったそうです。ただ、小学校・中学校は公立だったにもかかわらず、それでも国歌斉唱した記憶がないと言ってました。やはり土地柄のものなのか、それとも戦後間もなくだったので何か事情があったのか、私にはよくわかりませんが……。
くっくり | 2006/09/22 06:52 PM
徳島では君が代普通に歌うし、国旗も卒業式とか普通に飾ってあります。

ただ司法の左翼化は、司法試験予備校の伊藤塾が大きな影響があると思います。
カリスマ伊藤真塾長が憲法を超左翼的な視点から指導してくれ、これを聞くとほとんどの生徒が教徒となります。
宗教的な臭いがぷんぷんしてあまりに気持ち悪い塾だから敬遠する人もいますが、その指導力の高さから合格者の6、7割はこの塾から出ると言われています。

法科大学院はこの司法の左傾化の元凶の伊藤真から生徒を切り離すために作られたという説もありますが、結局は学生はダブルスクールしてこの塾に通っているそうな。
yamabe | 2006/09/22 09:07 PM
バカサヨク教師たちに言いたいですね!
アナタたちの「思想・言論の自由」を保障してくれる所は、どこですかと!! 当然、国家(日本)が、彼らの言論の自由を保障してくれています。
 その国家に対して、国民は、(程度の差こそあれ)国家を尊重すべきだと考えます。
Gくん | 2006/09/22 10:41 PM
Gくんさん
思想良心を保障してくれるのは国家ではありません。それは憲法です。
国家が言論の自由を保障してくれるのではありません。憲法がこれを保障しているのです。
あなたの考え方は間違っています。
shota | 2006/09/22 10:56 PM
国家がまずあって その国の憲法があるんですよ。
国家がなければ憲法もありません

憲法とはその国家の中で生活する人たちの約束事です。生活する人たちの必要によって憲法(約束事
)はかわります。そのたいそうな
憲法が意味をもつのはその国があってのことなんです。
憲法は神があたえたもうたモーゼの十戒などとはちがうのです。
k | 2006/09/23 01:24 AM
Kさんに、賛成ですね! 
 人権とは、紙に書かれた憲法に条文がなくても、国は人権を保障すべきなんですね!
 例えば、北朝鮮の憲法もその条文は人権を保障している(お読みになってください)。しかし、北朝鮮を人権を保障している国と考えている人はいません。やはり日本国という国家(それを構成する国民)が、あって私たちは、人権を”実際に”享受しているのです。
Gくん | 2006/09/23 07:27 AM
Kさん
あなたの理論は「モーセの十戒はこの世に人が存在しなければ意味がない」
というのと同じでそんなの当たり前の話です。
「法の支配」の原則を採用した日本国憲法について全く理解されていないように思います。
shota | 2006/09/23 11:21 AM
割り込んで申し訳ありませんが、shotaさんの書かれている事がよく分かりません。「『日本国』憲法」とあるのに、国家が言論の自由を保障してくれるのではないのですか?

確か、日本国憲法には『憲法は、国の最高法規』との記述があったと思うのですが。
空 我 | 2006/09/23 11:41 AM
空我さんと同意見。ぼくもshotaさんのおっしゃることはよく分かりません。

憲法はそれぞれの国が「自らの手によって」作り上げる「自らのための最高位の行為規範」ではないのですか? 憲法の条文を作り上げるのも、その条文を空文とさせないことも、国家の意思と実行力あってのものだと思います。憲法は国家による国家の自律の決意の表明です。

まさかshotaさんは日本国が存在しなくても「日本国憲法」は存在する、などとお考えなのですか? 「あなたの考えは間違っています」などと不躾な書き込みをする前に、もう少し考えるべきことがあるのでは?
Tdd | 2006/09/23 12:22 PM
空我さん、Tddさん
国家が人権を保障してくれるのではなくて、国家は人権を保障しなければならないのです。(この文の前段と後段とは意味が違います。)
国は言論の自由を保障しなければならないのです。なぜなら、憲法21条があるからです。憲法21条1項には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と書いてあります。
この条文によって国は、国民の表現の自由を侵害することが出来ないのです。

ところで、この憲法を制定したのは誰でしょうか。
この答えは憲法の前文に書いてあります。前文には、
「日本国民は…この憲法を確定する。」とあります。
つまり、憲法の制定主体は国ではなく国民です(これを国民主権といいます)。
言うまでもなく、国家に憲法を制定する権力などありません。
したがって、Tddさんの「憲法は…国が作り上げる」という部分は
日本国憲法の理解としては間違いです。いつから日本は国家主権になったのですか。
また、この国民が制定した憲法をだれが守らなければならないかについては99条に書いてあります。
99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とし、国に対して憲法を守れと命令しています。

日本国憲法が国の最高法規(第10章)であるのは、国が制定する法律等によって、
人権が不当に侵害されないようにするためです。
仮に人権を不当に制限するような法律が制定されても憲法98条によって、
その効力が否定されます。
したがって、憲法があるから我々の自由が保障されることになります。
国家権力は往々にして濫用されがちです。これは過去の歴史をみれば明らかです。
憲法はそのような国家権力の暴走を止めるための道具なんです。
また、国民の権利(人権)は国家によって与えてもらうものではありません。
我々が生まれながらに有するものなのです。
この人権を国家が不当に制限しないようにするために憲法があるのです。
僕は、日本国が存在しなくても「日本国憲法」は存在するとは考えていません。
ただ、憲法がなくても国が人権を保障してくれるという考えは幻想に過ぎないと述べているのです。
最後に、間違っていることを間違っていると指摘するのは不躾でもなんでもありません。間違っていると言うことを不躾ということのほうが余程不躾です。
shota | 2006/09/23 03:27 PM
>shotaさん

>国は言論の自由を保障しなければならないのです。なぜなら、憲法21条があるからです。

何ですかそれ? 憲法に規定されていれば国が自動的にその規定を守るなどとどうして言えるのですか? 憲法は万有引力のような自然法則なのですか?

国が憲法の規定を守らなければならないのは、何よりその憲法が「国家が自分で作り上げたもの」だからです。自分で言った約束は自分で守らねばならない。「表現の自由を守らねばならない」と国は単に命じられるのではなく「守らねばならないと『自分で決めた』」。そういうことです。

もしshotaさんのおっしゃるように、憲法が一方的に国家の行動を規定し規制する「だけ」なのであれば、どうして「自主憲法制定論」などという主張が出てくるのですか? そんな主張はナンセンスだ、ということになるでしょう。

国家と国民を単純に区分するshotaさんのお考えにも到底ぼくは承服できません。「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」これらの人々はどこから選ばれるのですか? 「国民の中から」でしょう。なぜ「国が制定する」と書いただけで「国家主義的」などというレッテルを貼られねばならないのでしょうか。

>国家権力は往々にして濫用されがちです。これは過去の歴史をみれば明らかです。

そしてあなたは国家権力に翻弄されるかよわい「被害者」なのですかそうですか。「主権」を持っているのに? あなたがよくないと思う為政者なら、その主権を行使して為政者を権力の椅子から叩き落とせばよいでしょう? なぜあなたは「憲法に守ってもらう」ことばかりお考えになるのでしょうか。為政者が悪政をはたらくなら、その責任はその為政者のみならずそうした人物を権力の椅子に座らせた有権者たる国民にもあるのですよ。
Tdd | 2006/09/23 04:34 PM
突然の割り込みご無礼をお許し願いたい。

どうもShotaさんのご議論は国民の権利と国家の義務の方向に傾いているような気がします。

確かに憲法は国家から国民の権利を守ることを明記しており、それはまた、御説のとおり憲法による明文化の目的のひとつであります。

では御説にあった憲法21条ですが、

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

とありますが、これはあくまで実際の法の運用上は「公共の福祉に反しない限りにおいて」という制限がつきます。オウム真理教団が制限を受け、猥褻図画が制限を受けるのはそういう理由です。

すなわち、いかなる権利も無制限ではないということです。

さらに申し上げれば、国家と国民の関係について、国家は国民に権利を保障する代わりに、国民は国家に義務を果たさなければならない。これは古代ギリシャ以来、民主主義国家においては国家と国民の間の暗黙の了解事項ではないでしょうか。

ここで言う義務とは、国民は自らの所属する共同体たる国家を愛し、それに忠誠を誓うというものです。国民主権というのはそのような前提に立ったものではないでしょうか。自らの国家を愛さず、忠誠も誓わず、その権利だけを行使する人間を果たして正しい国民のあり方といえるでしょうか。(最近往々にしてそのような輩が目に付きますが。)

国民と国家の関係はあなたのおっしゃるような片務的なものではなく、双務的ものであるというのが
私の認識です。

ホッブスの「リヴァイアサン」にあるとおりの、「万人の万人に対する闘争」を防ぐために国家という権力機関を作り、その権力機関の暴走を防ぐために憲法のような国家と国民の間の契約が結ばれたというのが国家と国民の正しい立ち位置であり、決して国家が一方的に国民の権利を守るだけに憲法は制定されたのではないと私は考えますが。

如何
腰抜け外務省 | 2006/09/23 04:35 PM
Tddさん
>憲法に規定されていれば国が自動的にその規定を守るなどとどうして
言えるのですか?

僕がどこでそのような発言をしたのでしょうか?
僕はそのようなことを述べていませんので答えようがありません。

>国が憲法の規定を守らなければならないのは…

それは、主権者たる国民が制定したからです。

>憲法が一方的に国家の行動を規定し規制する「だけ」なのであれば、どうして「自主憲法制定論」などという主張が出てくるのですか?

「だけ」とは僕の発言のどこに書いてあるのですか。そのようなことは書いてませんのでこれも答えようがありません。
ただ、憲法は、人権保障体系であり、国家に対する制限規範であることは間違いないことです。
「自主憲法制定論」において憲法を制定する主体は国ではなく国民です。
繰り返しになりますが、国に憲法制定権力はないです。

>「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」これらの人々はどこから選ばれるのですか? 「国民の中から」でしょう。なぜ「国が制定する」と書いただけで「国家主義的」などというレッテルを貼られねばならないのでしょうか。

憲法を理解するうえで国家と国民を分けることは基本です。一国民であっても国家権力を行使する国民(公務員)とそうでない国民(私人)は分けて考えるべきです。
憲法を国民が制定するのならば「国民が制定する」と書けばいいのであって、「国が制定する」と書く必要はないです。「国家主義的」というレッテルも貼っていません。

>そしてあなたは国家権力に翻弄されるかよわい「被害者」なのですかそうですか。

何を仰っているのかわかりません。

>あなたがよくないと思う為政者なら、その主権を行使して為政者を権力の椅子から叩き落とせばよいでしょう?

国家によって、選挙権や表現の自由が不当に制限され民主政の過程そのものに瑕疵が生じた場合には「主権を行使して為政者を権力の椅子から叩き落と」すことは出来ません。この場合、どのようにして、為政者を権力の椅子から叩き落すのですか?
国はそのようなことは絶対にしない、などと考えておられるなら楽天的に過ぎます。
万に一つでもそのような事態が生じないようにする必要があるのです。

>なぜあなたは「憲法に守ってもらう」ことばかりお考えになるのでしょうか。

国家権力が濫用されたらどうなってしまうのか、ということについてもう少し考えたほうがよいと思います。

>為政者が悪政をはたらくなら、その責任はその為政者のみならずそうした人物を権力の椅子に座らせた有権者たる国民にもあるのですよ。

それはそのとおりです。が、僕はそのことについてなにも述べていません。


>腰抜け外務省さん

人権は無制限に認められるとは僕は言っていません。
この点は、あなたの仰るとおりです。
だから、「一切制限してはならない」ではなく「不当に制限してはいけない」と書いたのです。僕は、「公共の福祉」による制限を認めています。
ただ、「公共の福祉」を人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理と解しますので、公共の福祉による人権制限が認められるのは基本的に他者の人権と衝突した場合のみです。すなわち、国家の都合によって人権が制限されてはならないということです。

>ここで言う義務とは、国民は自らの所属する共同体たる国家を愛し、それに忠誠を誓うというものです。

国民が国家を愛するために必要な前提があると思います。それは、国家が国民を愛するということです。つまり、国家が不当に人権を侵害しないということです。この前提があってはじめて、国民に国家に対する愛国心が湧くのだと思います。
適当な例えと言えるかわかりませんが、例えば、大事にするから(人権保障します)といったので結婚(社会契約)したとたん暴力を振るわれた(人権を侵害された)ような場合に、暴力を振るわれた妻(国民)が夫(国)を愛することは無理だと思います。
僕は、愛国心を否定しているのではありません。ただ、国が国民に愛国心や、国に対して忠誠を誓わせることを強制する(義務化する)のは問題があると思っています。
もし、あなたが日本国に対する愛国心を持っておられるならば、その愛国心は国から強制されて持つに至ったわけではないと思うのです。国家が国民を大事にしたら強制などしなくとも自然と愛国心は湧くと思います。
僕は、愛国心が「時の政府に対する忠誠」という意味で利用されることを危惧しています。つまり、政府のすることに反対する者は、愛国心のない者だというレッテルを貼られる危険性がないとは思えないのです。
このような意味の愛国心が国家によって強制されるならば、それはまさに戦前、戦中の日本に逆戻りしてしまうことになります。
このようなことが今日では起こりえないとはとても思えません。

>決して国家が一方的に国民の権利を守るだけに憲法は制定されたのではないと私は考えます

僕もそう考えていますが、国家が国民の権利を守ることが原則であるべきで、国民が国家にたいする忠誠を誓うことが原則だとは考えていません。
shota | 2006/09/23 06:55 PM
Shotaさま、

貴殿のご議論はどうも抽象論に走りがちな印象を感じます。もう少し具体的な実例、実体験に基づいて議論をしていただいた方が、私のような凡百には理解しやすいのですが。

「公共の福祉」に関する議論は憲法の教科書の中で山ほど議論がなされていますので、これ以上の論点はないでしょう。

愛国心に関するご議論ですが「国民が国家を愛する」というのは具体的にどのような行為をさすのでしょうか。「国家による不当な人権侵害をしないこと」とおっしゃっておられますが、具体的にどのような実例、事実関係に基づくご発言でしょうか。

「国家が国民を大事にする」ということですが、私は日本国は十分に国民を大事にしていると思いますが。(別に何かの抗議行動をしても中国のように武装警察が潰しにこないでしょ。)

あなたは大事にされていないと感じられますか?ではそれは具体的にどのような実例と、事実関係を持ってそのようにお感じですか?

私は高校の文化祭で安全保障問題を取り上げた企画をやろうとしたら、左巻き教師連中からよってたかって潰しにかかられた以外は、人権の侵害を感じたことはありませんが。(そういえば教師って公務員ですよね)

「国家が国民の権利を守ることが原則であるべきで、国民が国家にたいする忠誠を誓うことが原則だとは考えていません」

なぜでしょうか?私は国民と国家の双務的な契約関係であり、どちらかがどちらかに優先する、劣後するという考えが理解できませんが。ある意味においてこの関係は国家と国民の間の対等な相互防衛関係ではないでしょうか。

最後に質問ですが、あなたは日本を愛していますか?忠誠を誓っていますか?どうも日本国に対する不信や不満をお持ちのように感じますが。(或いは国家と国民の対立関係に関する執着)

私も世界のあちこちに出かけましたが、日本は世界の中では平均よりもはるかによい待遇を提供してくれていると思いますよ。(人権環境も含めて)
腰抜け外務省 | 2006/09/23 08:10 PM
腰抜け外務省さん

>国家による不当な人権侵害をしないこと

現状においては、例えば、議員定数不均衡をいつまでたっても是正しない国は十分選挙権を侵害していると思います(合理的期間はとうに過ぎたと思っています。)。
戸別訪問の一律禁止も違憲だと思います。公務員に労働三権が十分保障されているとも言いがたいと思います。
これらは争いあるところですので、合憲と考える方もおられると思いますが僕は、これらは憲法上問題あると思っています。

確かに、今現在は抗議行動をしても武装警察が潰しにくることはありません。これは憲法が機能しているからでしょう。しかし、この先もこの状態が続くという保障はないと思います。人権、特に精神的自由権や選挙権は、侵害されてからでは遅いのです。なぜなら、民主政の過程で自己回復が困難だからです。
したがって、国民は常に厳格な目をもって国家の行為をチェックする必要があると思います。現在大丈夫だから将来も大丈夫だとはいえないと思います。

>あなたは大事にされていないと感じられますか?ではそれは具体的にどのような実例と、事実関係を持ってそのようにお感じですか?

僕自身が具体的に人権を侵害されている、若しくはされていない、ということが重要なのではありません。憲法を勉強すると過去の色々な憲法訴訟を学びます。そして、訴訟を起こした人がどのような境遇に置かれていたのか、そして国はどのように対応したのかを知ります。そうすると、そう遠くない過去において、国は国民を大事にしなかったことがあった、ということがわかります。(例えば、堀木訴訟、猿払事件訴訟など、もちろん最高裁判決も知ってますが、今のところ僕には納得できないです。)
あなた自身が国に大事にしてもらっていると考えることはよいのですが、そうでない人もいるということを想像して、その人の立場に立って考えることも必要だと思います。

>「国家が国民の権利を守ることが原則であるべきで、国民が国家にたいする忠誠を誓うことが原則だとは考えていません」

それは、あなたはご存知だと思いますが、日本国憲法が「法の支配」の原則を採用しているからです。憲法の目的は人権保障で、統治はそのための手段です。
目的と手段が対等、若しくは手段が目的に優先するというのはおかしいと思います。

>あなたは日本を愛していますか?忠誠を誓っていますか?

「日本」は具体的に何を意味するかによって変わります。
これが世界のなかの日本国を意味するならば、僕は日本に対する愛国心はあります。
日本国籍を離脱しようと思ったこともありませんし、海外に移住しようと考えてもいません。国際試合などがあれば当然日本を応援します。
しかし、これが今の日本国政府を意味するなら愛することも忠誠を誓うこともできません。

>日本は世界の中では平均よりもはるかによい待遇を提供してくれていると思いますよ。(人権環境も含めて)

僕もそう思います。結局、あなたと僕の立場の違いは、この環境を享受できるのは「憲法があるからだ」と考えるのか、「実際に政治を行った国のお陰だ」と考えるのか、どちらを重視するのかというところだと思います。

最後に、あなたが「凡百」とは僕には思えません。かなり優秀な方だと思います。
あなただけに限らず立場が違う人の意見はとても勉強になります。
shota | 2006/09/23 10:24 PM
>shotaさん

あなたの見解に従うと、憲法は一揆を起こした百姓たちが旗竿に挟んで代官屋敷に持ち込む上訴文のように見えてきますね・・・果たして憲法って、そういうものでしょうか。国民と国家をあなたのおっしゃるように分離して考えたとして、「国民が決めたのだ、だから従え」と国家権力に対して要求したとして、国家権力の側が「はいそうですか」と従うという根拠がどこにありますか? ですから「国は言論の自由を保障しなければならないのです。なぜなら、憲法21条があるからです」というあなたの発言は、ぼくには何ら根拠のない確信に基づいているとしか見えません。ですからぼくは「憲法は自然法則なのですか?」とあなたに疑問を呈したわけです。

日本国は「間接民主制」を採用する国家です。選挙を通じて国民の信託を得た、国民の代表者たる代議士が国権の最高機関たる国会で各種の法案を審議し、その可否を判断します。そこでの議決は、代議士が国民の代表である以上、国民の総体的な意思とほぼイコールであると見なされます。

憲法もまた例外ではありません。あなたは「国民が憲法を制定したのだ」というご自分の見解にこだわりを見せておられますが、では実際に憲法が法的拘束力をもつ国家の最高法規として「制定される」には具体的にどういった課程を経るのですか? やはり国会で審議され、各条文についてその可否が判断されなければならないはずです。あなたは国民と国家をしきりに対置させて「憲法は国民が決め、国家に守らせるのだ」と述べておられますが、間接民主制というわが国の政治体制の原則から言って、そのような階級史観的な対立軸を設定することは、わが国の政治体制の現実を正確に反映しているとは言いがたいと思います。憲法をはじめとするいかなる法律も、間接民主制の原則からすれば、それらに関する国会の議決は国民の総体的な意思とほぼイコールであり、換言すれば「国が決めた」と「国民が決めた」はほぼイコールなのです。

そしてこのような等号の関係が成り立つ以上、憲法は国民の側から国家に対して一方的に義務を守らせるためのものではあり得ません。憲法は国家に対して国民の信託に基づいた権力を行使することを保障し、他方国民には基本的な人権を保障する。国家は国民の基本的人権を守る等の義務を負い、同時に国民は納税や子供に教育を受けさせる等の義務を負う。すなわち憲法は国家と国民それぞれに対して権利と義務を規定するものです。それが「腰抜け外務省」さんが書かれている「国民と国家の双務的な契約関係」ということだと思います。

国家権力が憲法をないがしろにするような行動を取ったら? それこそ憲法を盾にして抗議すればよいでしょう。しかしその抗議の正当性は、国家が憲法によって自らに課した「国民と国家の双務的な契約関係」を国家自身が損ねている、つまり「自分で約束したことを守っていない」ということによって得られるものであるとぼくは思います。

>国が憲法の規定を守らなければならないのは、何よりその憲法が「国家が自分で作り上げたもの」だからです。自分で言った約束は自分で守らねばならない。「表現の自由を守らねばならない」と国は単に命じられるのではなく「守らねばならないと『自分で決めた』」。そういうことです。

ぼくのこの見解に対してあなたが無視を決め込んでいるのはなぜですか? あなたはわが国の憲法の性格を考えるにあたって、あなたの奉じる(少なくともぼくにはそう見えます)階級史観的な図式を優先させすぎているようにぼくは思います。「そしてあなたは国家権力に翻弄されるかよわい『被害者』なのですかそうですか」とぼくが多少の皮肉を込めて言ったのはそういう理由からです。
Tdd | 2006/09/24 12:22 AM
やっぱ、Kさん、空我さん、Tddさん、外務省さんに賛成したいです。
最初のKさんの
「国家があって、その国の憲法がある」に集約されると思います。

  日本国がなくなれば、守りたくても日本国憲法を守れません。日本国自体を否定する(ような)ことは禁物です。
  日本国民の集合体である私たちの「日本国」ですから、ほんのちょっとでいいですから好意的であって欲しいです。
  旧ソ連・中国・北朝鮮(それぞれ立派な「憲法」を持っています)のようにならないためにも。

 以上、皆さん共通の認識で異論はないだろう、思います。
Gくん | 2006/09/24 01:46 AM
Tddさん

あなたの仰るとおりわが国は間接民主制を採用していますが、その間接民主制の根拠が法的にはどこにあるのか、一度お調べになられたらいいと思います。また、「法の支配」や、憲法と法律の価値序列についても勉強されたほうがよいでしょう。
失礼ですが、あなたが憲法を勉強したことがあるとはとても思えません。
shota | 2006/09/24 10:08 AM
>shotaさん

勉強した期間が長いからといって、必ずしも妥当でかつ的確な論が構築できるとは限りませんがね。たしかにぼくの語っていることは、中学や高校で学んだ程度のいわば「一般常識的な知識」を基にしているかもしれません。しかしぼくの認識に誤りがあるのなら、それを具体的に指摘してくださればいいのですよ。「勉強しているとは思えない」という主観的な理由だけで門前払いされてはねえ・・・。

国家が国民の人権を侵害するような行動をとった場合、われわれ国民は確かに憲法を盾にして国家に対して抗議の意を表明することができます。この事実だけに限ってみれば、憲法が国家からわれわれ国民の人権を守っていると言うこともできるでしょう。

しかしそれでは憲法に基づいて国家が国民に対して課す「義務」はどうなるのですか? 国家は憲法に基づいてわれわれに納税の義務や子息に義務教育を受けさせる義務を課すでしょう。国家と国民を単純に二分して「憲法は国民が制定し、国家に守らせるものだ。憲法は第一義的には国民の権利の擁護を目的とするものである」というあなたの主張から、このような「憲法が国民に課す義務」をどのように説明できるのか、ぜひお教えいただきたく思います。

また憲法は国家と国民の間だけではなく、民事訴訟や刑事訴訟といった「国民どうしの係争」に際しても適用されるはずです。「国民が国家に守らせるものだ」というあなたの憲法観はこのような事例に対してどのような説明を与えることができるのでしょうか。

「憲法は国民が制定し、国家に守らせるものだ」という抽象的な物言いに固執するあなたに対してぼくは、「憲法といえども国民の代表たる代議士たちが国権の最高機関たる国会で審議し可決しなければ法的拘束力はないでしょう?」と指摘しました。ぼくのこの指摘に対してあなたからは何ら明確な回答をいただいておりません。なぜでしょうか。「国民が制定し」云々というあなたの持論からだけでは、憲法の規定の法的拘束力を説明することはできないとぼくは思います。

国民主権とは単に国民が権利を行使し、利益を享受することができるということのみを意味するものではありません。投票行動などを通じて国政に参画する権利を認められている以上、国政の運営に対する責任の一端を担う義務を有するという意味もあります。憲法をはじめとするあらゆる国家の法律は、間接民主制という政治制度のもと、国民が選出した代議士による審議・採決という手順を経て、間接的にではあるにせよ国民の意思を反映したものとして公布されます。そうである以上少なくとも憲法というものの性格に対しては、「国民が制定し国家に守らせるものだ」という見方よりも、「国家と国民との相互契約という形で、国民が国民自身に課すものだ」という見方のほうがより適切ではなかろうか、とぼくは思います。

アメリカの『サウスパーク』というアニメーションの劇場版に、にこういう台詞があるそうです。「アメリカはクソだけど、俺たちはチーム・アメリカの一員なんだ」あなたにはこの意味がお分かりでしょうか?
Tdd | 2006/09/24 11:54 AM
Tddさん

もちろん、勉強した期間は関係ありません。僕自身が人に自慢できるほど勉強しているとはとても思えません。僕の発言はあなたへのなんらかの人格的な評価を伴うものでありませんので、この点につき誤解を生ぜしめたのならそれは、本意ではありません。申し訳ございません。

>憲法は第一義的には国民の権利の擁護を目的とするものであるというあなたの主張から、このような「憲法が国民に課す義務」をどのように説明できるのか、ぜひお教えいただきたく思います。

30条の納税の義務は、国民主権の下では、国民の納める税金によってのみ国会の財政が維持され国家の存立と国政の運営が可能になると考えられているからです。また、人権保障するためには、現実的にお金は必要です。
26条2項の教育を受けさせる義務は、親にこの義務を課すことにより、子供の学習権を保障するためです。子供はその未成熟性ゆえに自分で学習する術を持ちません(6歳児に自分で本を買ってきて勉強しろ、というのは無理だと思います)。そこで、親は子供に教育を受けさせる義務を負い、学校に通わせることによって子供は学習することが可能になります。つまり、子供の人権保障がその目的です。
27条1項の勤労の義務は、これは国民に勤労の義務を課したものではなく、国民は自分の勤労によって生活すべきであるという建前を宣言したものと解されます。したがって、納税の義務とは異なり、法律によって勤労を強制することは出来ないです。現在そのような法律は存在しません。したがって、働かなくても、刑罰等で罰せられることはありません。ただ、25条の社会権の保障を受けられなくなるという不利益を被ることになります。

>また憲法は国家と国民の間だけではなく、民事訴訟や刑事訴訟といった「国民どうしの係争」に際しても適用されるはずです。

憲法の規定は、例外(秘密投票(15条4項)、奴隷的拘束の禁止(18条)、児童酷使の禁止(27条3項)、労働基本権(28条))を除いて私人間(国民対国民)に直接適用されるとは解されていません。ただ、平等(14条)等の憲法の理念は私人間にも及ぼすべきであるので私法の一般条項(例えば民法90条など)を通じて間接的に私人間に適用されると解されます(これを間接適用説といいます。最高裁もこの考えを採用していますし、学説においても通説といえます)。なぜ、憲法を私人間に直接適用するべきではないのかですが、それは、憲法の人権規定を直接適用すると、国家の過度の介入により市民社会の基本原則である私的自治の原則が害される恐れがあるからです。例えば、僕の表現の自由という21条を根拠に認められる人権規定があなたとの間で直接認められるとすると、あなたに僕の表現の自由を認めるべき義務を課すことになります。もし、そのような義務を認めると、かえってあなたの「お前の話など聞きたくないという自由」(人権)を制限する結果になってしまいます。僕の人権を認めればあなたの人権が、あなたの人権を認めれば僕の人権が制限されてしまうことになるのです。このような不合理を避けるため、私人間に憲法の直接適用は認めるべきではないと考えられています。
(私的自治の原則とは、私人間のことは原則的にその当事者が決めるべきであって、国はなるべく介入すべきではないとする原則です。)

申し訳ございません。ちょっと、出かけなければならなくなりましたので、続きはまたあとで書かせていただきます。
shota | 2006/09/24 02:28 PM
Tddさん

遅くなってしまい申し訳ございません。

>「憲法は国民が制定し、国家に守らせるものだ」という抽象的な物言いに固執するあなたに対してぼくは、「憲法といえども国民の代表たる代議士たちが国権の最高機関たる国会で審議し可決しなければ法的拘束力はないでしょう?」と指摘しました。

これについては憲法改正を例えに考えたらわかりやすいと思います。
現在、憲法改正の議論が活発になされています。国会でも取り上げられています。
では、憲法改正する場合の憲法改正権(最終的な決定権)は、いったい誰にあるのでしょうか。国会(国家)でしょうか?国民でしょうか?その答えは憲法にあります。
96条1項には「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」と書かれています。
これを読めばわかると思いますが、国会には「発議権」しか認められていません。国会は国民に提案される憲法改正案を決定(発議)しますが、憲法改正はそれだけでは成立しません。発議の後に国民の承認が必要なのです。つまり、国会がいくら憲法改正案を発議しても国民の過半数がいやだといえば、憲法改正は絶対に成立しないのです。要するに、憲法改正案の生殺与奪権は国民が持っているのです。
つぎに、96条2項は「憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体と成すものとして、直ちにこれを公布する。」としています。
この条文の「〜の名で」というのは法律用語で、「Aの名で」という場合の法的な行為主体はAです。したがって、「国民の名で」とは法的な行為主体が国民ということです。つまり、法的には国民が憲法を改正したということです。「天皇の名で」とか「日本国の名で」とはなっていません。
このように、96条から憲法改正権は国民にあることがわかります。ではなぜ、国民が憲法改正権をもつのか。それは、憲法を制定した主体が国民だからです(国会が自ら制定した法律を改正できるのと同様に考えればよいと思います。)。ちなみに、憲法改正権のことを制度化された制憲権(憲法制定権)と呼ぶことがあります。
Tddさんが仰るように、もし憲法が国民と国家の双務的契約(双務とは互いに対価関係にある債務を負うということ)だとすれば、国民と国家は、改正権につき対等な権利を持ってなければおかしいことになります。しかしながら、96条は国家(国会)と国民の権利に明確に差を設けています(提案するだけと、決定できるとは大きな差です)。なぜ、対等な立場であるはずの国民と国に条文上このような差がみられるのでしょうか。この理由をあなたの立場からは説明が困難なのではないでしょうか。
憲法改正も憲法制定もすべての国民が膝を突き合わせて話あって決めていけばいいのでしょうが、これは現実的ではありません。1億以上の人が直接話し合うのは無理です。そこで、国民は、憲法に「国民が直接選んだ代表者に改正案を提案するところまでを任せよう」と書いたのです。ただし、代表者といえども決定権までは与えませんでした。

>国民主権とは単に国民が権利を行使し…と思います。

この部分については、「憲法をはじめとする」という部分と「そうである以上…思います」の一文を除けば、そのようにいえると考えます。結論から申し上げると、憲法と法律は同じ「法」といえますが、性質は全く異なるものです。この二つを同列に論じることは出来ません。
Tddさんの主張は法律あれば、そのとおりなんです。法律は、国民が国会を通じて制定したといえますので、「自分で制定した法律は守るべきだ」といえます。このように国民の行動は法律によって規律されることになります。
これに対して国家権力を規律するが憲法なのです。つまり憲法の名宛人は国家です。
国民が法律を守らなければならないように、国家は国民が制定した憲法を守らなければならないのです。
なぜ、国民が国家に優先するのかですが、それは、わが国の憲法がいわゆる(古典的)自由主義に基づいて定められたからです。もちろん、自由主義によるべきだ、というのはひとつの立場に過ぎませんので、これが絶対に正しいというものではありません。ただ、日本国憲法がこの考え(自由主義)を取り入れて制定されたのは事実です。

>アメリカの『サウスパーク』というアニメーションの劇場版に、にこういう台詞があるそうです。「アメリカはクソだけど、俺たちはチーム・アメリカの一員なんだ」あなたにはこの意味がお分かりでしょうか?

「アメリカは駄目な国だけど俺たちはアメリカ人なんだから、アメリカのために〜しよう」と考えました。僕も「アメリカ」を「日本」に置き換えたら同じ気持ちです。
現状の日本を批判することは、日本をよりよい国にしていくためには必要なことだと思います。これと愛国心とは矛盾しません。
ただ、思うのは、このような台詞がいえるのは憲法によって、言論の自由が保障されているからだと思います。中国で反政府の言論を大っぴらにしようものならとたんに官憲が現れるでしょうから。
shota | 2006/09/25 12:14 AM
ホッブス引用してる人、レベル低すぎ。ちゃんと読んだことないでしょ。
ホッブスは、国家と個人の最低限度の権利と衝突したら、個人は逃げていいって書いてるんだよ(抵抗していいとまではいかない)。
社会契約論を引用すると、結局、赤い結論に近づくから(笑)、薮蛇。
偏向プリズム | 2006/09/25 10:16 AM
ええとですね、率直に言わせてもらえば、両者とも話が広がりすぎなんじゃないか、と。
思想対決の様相を呈してますが、右も左も関係なく、基本軸はそれでいいとしても、裁判上の論点に絞って論を争わせた方が生産的ですよ。
カイジ | 2006/09/25 12:31 PM
"右も左も関係なく"ですが編集間違いで関係ない文章に入れ込んでしまいました。

"右も左も関係なく、両者とも話が広がりすぎなんじゃないか、と。"
として読んでください。
カイジ | 2006/09/25 12:34 PM
>shotaさん

お返事遅くなりました。

これまでの議論から、憲法は「国民が制定する」ものだという点に関しては受け入れてもよいと思っています。ですがやはりあなたの「憲法は国民が制定し『国家に守らせる』ものだ」という憲法の性格に関するお考えには違和感を覚えざるを得ません。国家と国民を階級的に区別した上で、国家を「抑制さるべき存在」、国民を「保護されるべき存在」としてのみ規定することは、はたして妥当なことなのか、その点に疑問があるからです。

理由はいくつかあります。まず第一に、わが国にあっては国家権力を行使する側も国民自身が選んだ国民の代表であるということ。
第二に、憲法は国民の名において制定され改正されなければならないとしても、国会という国権の最高機関が採決または発議という形で「関与」しなければ制定や改正の手続きが進められないこと。
第三に、われわれは実際には憲法によって国家権力の専横から国民の権利を擁護することのみを考えているわけではないこと。つまりわれわれは憲法にそのような役割を期待する一方で、国家の政策立案能力および実行能力によって、憲法の条文の空文化が防がれ、また憲法に規定されている国民の権利がより十全に確保されることを「期待している」こと。もし国家にはそのような意思も能力もなく、単にわれわれの権利をおびやかすだけの存在にしか過ぎないとすれば、われわれはいかなる理由をもって国家に憲法の遵守を求めるのでしょうか。
第四に、上述のような「国家」と「国民」の区別を前提として、「国家には憲法を制定する能力も権限もない」とするならば、「国民」が単独で法的拘束力のある憲法を制定することが可能であると証明しなければならないが、それはほとんど不可能ではないかと思われること。あなたが以前言及された「自然法」の概念は、「国民」がそのような概念に基づく権利を憲法に盛り込みたいと考える「動機」の説明にはなり得ても、「国民」がそれ自体で国家権力といささかのかかわりもなく憲法を制定することができる「能力」を持つということを証明することはできないと思われます。

また傍証として日本国憲法の前文からの引用を二つ挙げます。まずその冒頭には、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、・・・」とあり、末尾には、「日本国民は、国家の名誉にかけ、・・・することを誓ふ。」とあります。このふたつの引用だけから推しても、国家と国民をshotaさんのように区別してしまうことは必ずしも適切でないと言えると思いますが、いかがでしょうか。あなたは「憲法を考えるにあたって国家と国民を区別することは基本です」と述べられましたが、その区別を前提とした上で「憲法は国民が制定し『国家に守らせる』ものだ」とするあなたの憲法観は、少なくともぼくには、国民の「権利を行使し利益を享受する主体」としての側面を、そしてほぼそれ「のみ」を強調せんがために設けられた一種の「便法」もしくは「仮定」、もっと直接的な言い方をすれば「神話」でしかないようにぼくには思われます。

憲法に定められた「国民の義務」に関するあなたの解説を読む限り、あなたは憲法上の「義務」を、「権利をより十全に確保し享受するために承認するコスト」のように考えておられるようにぼくは思料します。それはそれでもよいのですが、では逆に憲法に記されている国民の権利は「義務をより効果的に遂行するための権利である」と考えることはできないでしょうか。

たとえばあるプロスポーツの選手が自身の体調管理やトレーニング方法を自身の自由な裁量によって行う権利を与えられたとします。この場合その権利は単に「自由にやっていいよ」ということのみを意味するものではありません。そのような権利を与えることによってこの選手には例えば「チームの勝利に貢献する」等の義務をより効果的に遂行することが期待されています。またそのような権利は、その選手が「自由を与えても決して怠惰に陥らない自己管理能力」を有しているからと認められるからこそ付与され得るものです。憲法第12条後半の「国民は、これ(この憲法が国民に保障する自由及び権利)を濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」という規定を見れば、「義務のための権利」という考え方もあながち的外れなものではないように思われますが、いかがでしょうか。

・・・さて、これでぼくの書きたいことはほぼすべて書いてしまいました。憲法観に関しての歩み寄りはなかなか難しいでしょうし、他人様のブログのコメント欄をこれ以上お借りするのも気が引けますので、この問題に関するぼくのコメントはこれで最後にさせていただきたく思います。憲法の条文等に関する解説はとても参考になりました。その点に関してはshotaさんに純粋に感謝しております。ありがとうございました。そして最後にくっくり様、長々とコメント欄をお借りして申しわけありませんでした。
Tdd | 2006/09/26 03:09 PM
>Tddさん

返信が大変遅くなり申し訳ございません。

>たとえばあるプロスポーツの選手が自身の体調管理やトレーニング方法を自身の自由な裁量によって行う権利を与えられたとします。

この部分に僕とTddさんの考え方に決定的な違いが見出せましたので、これについてまず書かせていただきます。
Tddさんは国民と国家の関係をプロスポーツ選手とチームの関係に例えています。
『プロスポーツの選手が自身の体調管理やトレーニング方法を自身の自由な裁量によって行う権利を(チームから)与えられた』(括弧部分は僕が文脈から補足しました)この文の大事なところだけを取り出して書き直すとこうなります。「選手は、チームから権利を与えられた」さらに、例えに置き換えられた部分を国家と国民に戻して文を書き直すと「国民は、国家から権利を与えられた」となります。
あなたの考え方からすると、国民の権利(人権)は国家から与えられたもの、ということになります。この考えは明治憲法のそれとほぼ同じです。すなわち、明治憲法では国民の権利は「臣民の権利」と呼ばれていました。つまり、国民の権利は、天皇に支配された国民(臣民)が天皇から恩恵として与えられたものだったのです。
ところが、日本国憲法はそのような理解をベースにはしていません。日本国憲法は、人権は誰かから与えられるものではなくて、人が生まれながらにして有するものだと考えているのです。この点で、明治憲法とは全く性質が異なります。国民は人権を持って生まれてくるのです(天賦人権論)。赤ちゃんは国家から「あなたに生きる権利を与えます」と言ってもらって初めて生きる権利を有するのではなく、赤ちゃんは、生まれたときから生きる権利を有すると考えるのです。
あなたの考えのようにもし人権が国家から与えられたものであるなら、その反射として国民は国家に対して義務を有するというようなことも言えないでもないでしょうが、日本国憲法の下、国民は人権を国家から与えられているわけではありません。たとえば、信教の自由は国家から「あなたはどのような信仰を持ってもいいですよ」と与えられた自由ではなく、もともと国民が持ってる自由なんです。したがって、そもそも国民は国家から権利を与えられてない(すでに持っているのでわざわざ与えられる必要がない)ので、権利を与えてもらった代わりに国家に対して義務を負うとはいえません。つまり、国家との関係で人権を「義務のための権利」と考えることはできません。特に自由権についてはこのようにいえると思います。逆に、憲法の人権規定は、国家権力に対して、国民はこのような権利をもっているのだから、それを侵害してはだめ、と命令しているのです。

>憲法第12条後半の「国民は、これ(この憲法が国民に保障する自由及び権利)を濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」という規定を見れば、「義務のための権利」という考え方もあながち的外れなものではないように思われますが、いかがでしょうか。

この規定は、僕が自由であれば、あなたも当然自由なのですから、あなたの自由を侵害しない限度で僕の自由は制限を受けるという意味です。他人の自由を侵害するような自由は認めないという当たり前のことを言っているのです。また法的な義務とは考えられていません。また、「公共の福祉」という文言の解釈論は争いがありますが、現在の通説的見解では、公共の福祉とは人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理をいうと解されています。つまり、人権と人権のぶつかり合いを調整する限度で合理的な人権制限を認めるということです。これは国家の都合で人権制限しても良いという規定ではありません。あなたは国民は国家に対して義務を負うと考えておられるようですが、例えば、表現の自由や信仰の自由などの権利は具体的にどのような国家に対する義務を伴うのか教えていただきたかったです。

>国家と国民を階級的に区別した上で、国家を「抑制さるべき存在」、国民を「保護されるべき存在」としてのみ規定することは、はたして妥当なことなのか、その点に疑問があるからです。

僕は、前に「法の支配」について調べてみてくださいといいましたが、この「法の支配」についてここで少し書きます。「法の支配」とは専断的な国家権力による支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理をいいます。要するに、国家権力が服すべき法の存在を認めるということです。立法権、行政権、司法権という国家権力作用はすべて法(憲法)に拘束されるのです。ここでは国家権力が誰によって行使されているかということは直接問題になりません。つまり、国民が選んだ代表者が立法権を行使するんだから、というのは国家と国民を区別する必要がないという理由にはなりません。国民が選んだ人たちだから国家権力を濫用するおそれはないとはいえないです。また、立法権については国民が選んだんだから大丈夫だとは言えたとしても、司法権の担い手である裁判所の構成員たる裁判官は国民から直接選ばれてはいませんので「国民が選んだから」という理由は使えません。およそ国家権力を行使する者は憲法に拘束されるんです。歴史を見ればわかるように国家権力は度々濫用されてきたんです。このような国家権力の濫用から国民の自由を守るということが憲法の一番大事な役割なんです。憲法なくしてどのようにして国家権力の濫用から国民を守ることが出来るのでしょうか。
ちなみに、日本国憲法がこの「法の支配」の原理を採用しているのは条文を見れば明らかです(このことについて反対説は聞いたことがありません)。
また、僕は「のみ」とは一度もいっていません。ただ、基本であることは間違いないと思っています。

>理由第一、第二について
あなたは、改正には国会が関与するんだから、国民が憲法を単独で制定しうることに疑問を持っておられますがこれは論理的におかしいような気がします。憲法は、国家の機関を定め、それぞれの機関に国家作用を授権します。すなわち憲法に立法権、行政権、司法権や憲法改正の手続きなどについて規定が設けられます。何が言いたいのかというと、国会に立法権があるのは当たり前ではない、ということです。たとえば、明治憲法5条に「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以ッテ立法権ヲ行フ」とあることから明らかなように、明治憲法下では立法権は天皇にありました。国会に立法権があるのは憲法に規定されているからなんです。したがって、憲法が制定される前の段階の議論に、憲法によって規定される国会を持ち出して、それを国家に制憲権があるとすることの根拠にするのはおかしいと思います。

>理由第三について
制憲権が国民にあるということと、国家によって国民の権利が確保されるべきだということはまったく別の次元の問題なので、同列に論じるべきではないと思います。国民は憲法を制定します。この憲法によって国家権力は制限されますが、国家は憲法により制限された国家権力を行使して国民の権利を確保すればよいのです。憲法の枠組みを逸脱した国家権力の行使は人権侵害行為に他ならないので許されないです。国家の政策により国民の権利が確保されることを期待しているというのはそのとおりで僕はそれを否定しているわけではありません。憲法の枠内で国家権力を行使すべきだといっているのです。

>理由第四について
ここであなたが仰っていることは、日本国憲法が採用している国民主権原理(制憲権が国民にあるということと同義です)の否定です。これが現在において通用する議論とはとても思えません。国民主権の現れといえる条文は(前文、1条、96条など)たくさんあります。ところが「国家にも憲法を制定する能力や権限がある」ということを推知させる条文は皆無です。でもそれは当たり前なんです。なぜなら、制憲権が国民に存するという前提で日本国憲法が作られているからです。日本国憲法においてあなたの説を採用することは不可能だと思います。

>傍証について
憲法で、国家と国民を分けるというのは要するに、国家権力を行使する人(公務員)と国家権力に服する人(私人)に分けるということです。憲法学においては一般に、公務員のことを国家といい、私人を国民といいます(公務員の職務行為は国家の行為といえるから)。なぜ、分けるのかといえば両者に決定的な差があるからです。たとえば、国民が広場に1000万人集まろうがそこで法律を制定することはできませんが、国会議員(公務員)は国会で法律を制定することが出来ます(立法権の行使)。また、国民は他人の家に強制的に入ることは出来ませんが、警察官(公務員)は令状があれば強制的に家に入ることができます(行政権の行使)。さらに、国民は殴られても殴った相手に対して刑罰を科すことはできませんが裁判所(裁判官は公務員)は刑罰を科すことができます(司法権の行使)。このように国家と国民の間には大きな差があるんです。したがって、たとえ国会議員が国民から選ばれたとしても、このような差は存するので、やはり国家と国民は分けて考える必要があるのです。
「国家の名誉にかけ…」の「国家」は対外的関係における日本国という意味だと思います。前文のこの部分は世界の人たちに向けて、日本は尊敬される国になるぞ、という決意表明だと思います。つまり、国家権力を行使する人という意味ではないと思います。

>憲法は国民が制定し『国家に守らせる』ものだ」とするあなたの憲法観は…「神話」でしかないようにぼくには思われます。

僕がこれまで述べた憲法観は、憲法学の通説として争いなく承認されているものです。僕もこの憲法観は正しいと思っています。あなたがこれを「神話」と考えるのはもちろんいいんですが、あなたの説を通説に立つ人たちに理解させるのは相当困難だと思います。なぜなら、あなたの説は近代憲法の基礎を根本から引っくり返すくらい大胆なものだからです。憲法は国民が制定しそれを国家に守らせるという憲法観は19世紀ヨーロッパで起こった市民革命を通じて出てきたもので歴史的な背景をもつものです。フランス人権宣言16条には「権利の保障がされず、権力の分立が定められていない社会は、すべて憲法をもつものではない」と書かれています。また、憲法学では憲法とは国家権力を制限して、国民の権利・自由を保障することを目的とする法をいうと定義されています(立憲的意味の憲法)。このように、近代憲法は国家権力に対する制限規範であるというのはほぼ常識といえるでしょう。国家に制憲権があるというのはこれと真っ向から対立するものです。少なくとも僕には理解することができません。

以上、僕が思うところを書かせていただきました。僕に文章力がありませんのでTddさんに僕の言いたいことが伝わるかはわかりません。ただ、真剣に考えて書きました。Tddさんも僕の話に丁寧に対応していただき本当にありがとうございました。色々と考えるきっかけになりました。最後に、人権と国民主権の関係について端的に説明してある本がありましたのでこれを引用したいと思います。芦部信喜著の「憲法」という本からの引用です。
「近代憲法はすべて個人は互いに平等な存在であり、生まれながら自然権を有するものであることを前提として、それを実定化するという形で制定された。それは、すべての価値の根源は個人にあるという思想を基礎においている。したがって、政治権力の究極の根拠も個人(すなわち国民)に存しなくてはならないから、憲法を実定化する主体は国民であり、国民が憲法制定権力の保持者であると考えられた。このように、自然権思想と国民の憲法制定権力の思想とは不可分の関係にあるのである。また、国民の憲法制定権力は、実定憲法においては「国民主権」として制度化されることになるので、人権規範は主権原理とも不可分の関係にあることになる。」
shota | 2006/10/01 11:23 AM
>shotaさん

丁寧なコメントありがとうございます。ですがひとつだけ指摘させてください。

>あなたの考え方からすると、国民の権利(人権)は国家から与えられたもの、ということになります。

ぼくは先のコメントの冒頭に、

「これまでの議論から、憲法は「国民が制定する」ものだという点に関しては受け入れてもよいと思っています。」

と書いているのですが。

スポーツ選手の例でぼくが言いたかったのは「そのような権利を与えることによってこの選手には例えば『チームの勝利に貢献する』等の義務をより効果的に遂行することが期待されています。」のほうです。憲法に定められた国民の義務がつまるところ「権利のための義務」であるならば、逆に権利は(ただそれを個々人が勝手に享受せよというのではなく)より公共の福祉を増大させるために与えられていると考えることはできないか。そう思ったわけです。
Tdd | 2006/10/01 09:28 PM
Tddさん

僕があのように書いたのは「与えられる」という文言に着目したからです。「与えられる」ということは与える人がいることになりますが、じゃあそれは一体誰なんだろうと考えたんです。文脈からして「国家」なのかなぁと思いました。「人権は誰から与えられた権利である」というのと「制憲権が国民にある」ということの関係が僕にはちょっとわかりません。僕が誤解していたならば、申し訳ございません。
shota | 2006/10/02 10:35 PM

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