産経新聞的ちょっといい話(読者投稿欄より)
★「人気blogRanking」クリックお願いします→
★ご面倒でなければ「にほんブログ村」もお願いします→
新聞の読者投稿欄というのは、その社の思想がよく表れるものです。
朝日新聞の読者投稿はネットに転載のうえ揶揄されている光景をよく見かけますが(朝日の社としての主張がいかに世間の常識からかけ離れているかの証左でしょう)、それに比べると他紙は格段に少ないと思います。
私は産経新聞の購読者ですが、読者投稿(オピニオン面「談話室」)は毎日漏れなくチェックしており、ここ数年は「良いなぁ」と思ったものを手元に保存しています。
今日はその中から、特に産経らしさが表れた投稿を紹介させていただきます。
おそらくほとんどが朝日新聞では採用されない内容だと思います。
※画像はイメージとしてこちらで付けさせていただいたもので本文とは直接関係ありません。
★ご面倒でなければ「にほんブログ村」もお願いします→
新聞の読者投稿欄というのは、その社の思想がよく表れるものです。
朝日新聞の読者投稿はネットに転載のうえ揶揄されている光景をよく見かけますが(朝日の社としての主張がいかに世間の常識からかけ離れているかの証左でしょう)、それに比べると他紙は格段に少ないと思います。
私は産経新聞の購読者ですが、読者投稿(オピニオン面「談話室」)は毎日漏れなくチェックしており、ここ数年は「良いなぁ」と思ったものを手元に保存しています。
今日はその中から、特に産経らしさが表れた投稿を紹介させていただきます。
おそらくほとんどが朝日新聞では採用されない内容だと思います。
※画像はイメージとしてこちらで付けさせていただいたもので本文とは直接関係ありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【忘れていた五穀豊穣の願い】
2012.6.7
会社員 眞鍋信二(48)愛媛県新居浜市
二十数年前、地元の祭り「太鼓祭り」の日のことだった。太鼓台と呼ばれる山車が何十台も繰り出すにぎやかな祭りだが、あいにくの雨。太鼓台はシートで覆われて、見栄えがしない。私も全身びしょぬれになり、地下足袋を履いた足が重かった。
「今日は雨でつまらんの」「運が悪いの」などと友人と愚痴をこぼしていると、地区の長老に声をかけられた。
「祭りは五穀豊穣(ほうじょう)を願って行うもの。雨も降らなければ育つものも育たん。雨が良いとか悪いとかいうのは、人間の一方的な思いで、恵みの雨と考えれば、苦にならんじゃろが。雨も晴れも天に任せとったらええ」
確かに、私には豊作を祈るという思いが抜け落ちていた。それ以降、雨の日も自然への気持ちを持ち、祭りを楽しめるようになった。
【祭りは神様が与えた交流の場】
2011.10.10
中学生 萩原大晴(12)東京都立川市
今年もわが家の近くの神社で、年1回の秋祭りが行われました。
秋祭りにはさまざまな屋台も出て、にぎやかですが、一番の楽しみは、地元の人たちとの交流です。
普段、われわれは近所の人しか声かけや挨拶などはせず、それ以外の人とは、お互い顔は見て知ってはいても、会釈すらしないことが多いと思います。
でもそんな人でも祭りで出会うと、笑顔や声をかけることができ、初対面の人でも、仲良くなれる場合があります。
僕は祭りというのは、神様への五穀豊穣(ほうじょう)の感謝や、家内安全などをお願いするためだけの行事ではなく、神様が地域の人たちが豊かな気持ちで仲良くなれるようにと用意してくれた触れ合いの場ではないか、と思っています。
だから人々は昔からお祭りを守り、楽しみにしてきたのではないでしょうか。
そんな気がしてなりません。
【「英雄」の願いをかなえたい】
2011.12.28
公務員 田村誠一(52)広島県東広島市
7日付「談話室」で「北方領土に国旗を掲げたい」との投稿を拝見した。
投稿者は占守島でソ連軍と戦ったという。占守島といえば、千島列島最北端で対岸はカムチャツカ半島。同島の守備隊は第5方面軍第91師団である。
今の政府の閣僚はご存じないかもしれないが、投稿された方は同守備隊の生き残りで、北海道を守るために戦った英雄である。そして、不法に侵攻してきたソ連軍を海岸に釘付けにし、島の缶詰工場で働く若い女性ら約400人を含む民間人2500人を守り、北海道に生還させている。
ソ連は不法にも千島列島を奪い取り、この英雄たちをシベリアに抑留し、多くを死に追いやった。
私たちは、太平洋の北方から南方に至るまで、国のために尽くしてくれた英雄たちがいたことを決して忘れてはならない。
そして「北方領土に国旗を掲げる」という英雄の願いをかなえたい。
※12月7日付の投稿が手元に残っていないのが残念です(T_T)
【父の戦友だった厳しい先生】
2012.3.22
無職 野間孝造(65)兵庫県たつの市
小学5年、6年のときの担任は、くだけたところがなく、近寄りがたい威厳のある男の先生だった。卒業式の前日、その先生から「帰りに文房具店に立ち寄るように」と言われた。
指定された文房具店に行くと、「先生からです」と手提げ袋を渡された。中には中学校で使うノートや鉛筆などがつまっていた。「なぜ?」「成績がよかった褒美だろうか?」などと考えたが、理由がさっぱりわからない。
しかしその夜、父から意外な話を聞き、疑問が氷解した。「先生は戦友。ともに外地を転戦した仲で、お父さんの部下だった。同郷のよしみで、先生の面倒をよくみた」。父と先生は2人の間柄を、私には秘密にしていたのだ。
先生は戦地で受けた恩を、2年間、息子の私に返した。厳しかった指導に感謝している。
【先生からもらった白菜1玉】
2012.3.22
主婦 木村陽子(69)堺市美原区
小学校の頃、夕暮れになると、2、3人の友達と大好きな先生の帰りを待った。大きな荷台のついた古い自転車で先生は通勤していた。
私たちはてんでに先生に話しかけ、はしゃいだ。丸い太縁メガネ、厚い唇に大きな口の優しい先生。昭和25年ごろのことだ。
ある日、先生を待っていたのは私だけだった。すると、先生は自転車をとめ、荷台にくくりつけていた白菜を取り上げ、私に手渡した。そして「よく、ご父兄にもらうけん。今日は陽子ちゃんとこにあげる」と笑いながら言い、「じゃあ」と自転車で駆けていった。
当時、満州からの引き揚げ者である私たち家族7人は、ようやくまともな暮らしができるようになったばかりだった。
今、夫として私の横にいる人は、先生にそっくりな小学校の教員だった。
【忘れられぬカンボジアの少年】
2012.10.19
主婦 勝田ひさ子(61)京都府久御山町
カンボジアのシアヌーク前国王の死去を知り、奨学金を受けて日本の高校に留学していたカンボジアの少年のことを思い出した。帰国前の3カ月間、わが家にホームステイしていた。
同国は、インテリ層の大半がポル・ポト政権下で虐殺されるという悲劇を経験した。彼は、虐殺された世代の孫の世代にあたる。
数学が得意な彼は、学校で数学辞典を借り、徹夜でノートに書き写した。「コピーすれば」と声をかけると、彼は「その費用がない」と笑い、私は不用意な言葉を心から恥じた。そして、車に乗ると、彼は「こんな道路や橋を、国にたくさんつくりたい」と食い入るように見つめていた。
日本でつらいこともあったようだが、「いつも平常心でいるって大事だね」と静かにほほ笑み、自国の悠久の歴史を誇らしく語ってくれた。
あれから4年。こんな若者がいる国を頼もしく思い、彼の幸せを心から祈っている。
【助け合う被災者の姿を見て】
2013.1.18
無職 宮本規子(65)米・ニューヨーク在住
18年前の阪神大震災の後、私は海外メディアの通訳ボランティアとして、神戸に向かいました。まだ電車は一部区間しか走っていない状況でした。
翌日の朝、ニューヨークから来た新聞記者と被災地をまわることになり、被災者の体験を取材しました。その中で、神戸市長田区の避難所を訪れたときのことが忘れられません。
1人の高齢男性に声をかけると、その方は在日韓国人で、震災で息子と孫を亡くしていました。そんな悲しみの中、その方は「私は戦後からずっと日本人のことを斜めから眺めていたが、今回の震災では本当に心から日本人に深く感謝している」と語ったのです。
被災地で互いに助け合う日本人の姿が、その方の見方を変えたのでしょう。記者にとって思いも寄らぬ答えだったようです。
その横で、私は「日本は何て素晴らしい国なのだろう」と、心から日本を誇らしく思いました。
【国歌教えてくれた先生に感謝】
2013.3.25
高校生 竹内愛実(17)千葉県いすみ市
私が国歌を歌えるのは、小学校のときに習った音楽の女性教諭のおかげです。
先生は「卒業式や入学式では必ず歌うものだから、歌えないのは恥ずかしいでしょう」と国歌と校歌は、児童全員が歌えるまで指導してくれました。
3学期に入ると、先生のピアノ伴奏で国歌と校歌を歌ってから音楽の授業に入り、歌が苦手な私も国歌と小学校の校歌だけは今でも自信があります。
でも引っ越して入った中学では、入学式などの国歌斉唱のときに、席を外してしまう先生などもいて、伴奏だけが流れる異様な雰囲気でした。
「国歌を堂々と歌い、自分の国に誇りを持とう」という投稿を18日付「10代の声」で読みましたが、同感です。私の5歳上の姉も国歌は歌えません。
今考えると、あの先生にはいろいろご苦労があったのではないでしょうか。国歌を教えていただき、とても感謝しています。
※画像は、第82回選抜高校野球大会/広島音楽高校3年(当時)野々村彩乃さんの国歌斉唱(YouTube)。私が今までで一番感動した国歌斉唱です。
※私は小・中・高と和歌山市内の公立学校に通いましたが、国歌を一切習ったことがなく、行事でも斉唱はおろか国歌が流されたことすら一度もなく、そのため大人になって自発的に覚えるまで全く歌えませんでした。初めて公の場で国歌を歌ったのは20代半ば、プロ野球観戦の時でした。素晴らしい先生に出会えた投稿者の方がうらやましいです。
【特攻隊に命の重さを考える】
2013.4.8
高校生 田中将貴(17)熊本市北区
昨年暮れ、曽祖母が亡くなった。元気だった頃は、第二次世界大戦中のさまざまな体験を聞かせてくれ、なかでも、特攻隊員として命をささげた曽祖父のことをよく話していた。
曽祖母は、曽祖父の写真を大切にしていた。写真の中の曽祖父からは悲壮な決意が感じられる。とても勇ましい人だったそうだ。その写真は、特攻隊員として飛び立つ前に撮られたものだという。
特攻隊員はどのような思いで出撃したのだろう。それを考えると胸が痛む。特攻隊員は20歳前後の人が多かったと聞いた。現代なら、学生が社会に出て働き始める頃の年齢だ。そのような若さで人生を終えなければならなかった人たちに比べれば、今の日本の若者は恵まれている。
殺人や自殺などのニュースが連日のように報じられるが、決して命を軽く扱ってはならない。そんなことをしては、国のために命を投げ出した方たちに申し訳ない。
【満州特急に元上司を思う】
2013.4.16
自営業 中村昭一(86)新潟県妙高市
8日付オピニオン面「満鉄特急『あじあ』の悲鳴」を感慨深く読みました。
私は昭和19年、満州国政府の軍事部に勤めていました。あるとき、上司である満州人将校(大佐)が、錦州(現在の遼寧省など)の部隊を視察することになり、私も同行したのですが、そのとき乗ったのが南満州鉄道(満鉄)の特急「あじあ」の特別個室でした。
当時、「あじあ」は満州帝国のシンボルの一つであり、国民の誇りでもありました。現地の閲兵も無事終わり、上司には後日、自宅に招待され、奥さまの手料理で慰労されたことを覚えています。
その上司はその後、少将に昇格しましたが、戦後の消息はわかりません。
敗軍の将として、日本人将校以上に立派な態度で、武装解除などにあたっていたという話を仲間から聞きましたが、その後、過酷な運命が待ち受けていたことでしょう。そのことを思うと、今でも胸が痛みます。
※4月8日付の投稿が手元に残っていないのが残念です(T_T)
【子供の間で広がる国防意識】
2013.5.10
無職 山田治男(87)千葉県市原市
私は戦後、3年半のシベリア抑留生活を送りました。その経験をいかし、10年ほど前から地元の小、中、高校の社会科の授業で、戦争の悲惨さや平和の大切さについて講演しています。
その中で、理想の国家の例として永世中立国のスイスを紹介しています。強国のはざまにありながら、積極的に国際機関の設置や国際会議の開催を進めることで、平和を維持しています。そして、兵役が義務化され、国家を敬うなど国を愛し、守るのは当然という意識が国民の間に浸透しています。
講演では、生徒らに「もし外国が攻めてきたら皆さんはどうしますか」と質問します。
10年前には「逃げます」という答えが多く、「どこへ逃げるの」と聞くと答えに窮していました。しかし、最近は感想文などで「国を守るのは国民」という声が増えてきました。国防意識は子供たちにも芽生えてきているように感じます。
※今も売れ続けているスイス政府編「民間防衛」。私は2006年に購入しました。
【外国人にも参拝のマナーを】
2013.5.30
農業 吉井義孝(61)熊本県八代市
昨年、一昨年と観光で東京を訪れました。皇居周辺や東京タワー、国会議事堂、靖国神社などを回りましたが、どこもきれいに整備され、さすが日本の首都だと誇らしくなりました。
しかし、神社で残念な光景を見ました。
明治神宮を参拝したときのことです。大声がして騒がしいなと思い、見ると団体旅行らしい外国人が柱に落書きをしたり、柱を削ったりしていました。
また、靖国神社では、身を乗り出して拝殿の中を撮影している外国人がいました。いずれも中国人が韓国人のようでした。
神社は本来、宗教施設であり、ただの観光地ではありません。外国人にもわかるように敷地内での振る舞いやマナーについて説明し、ひどい場合は立ち去るよう求めることも必要ではないでしょうか。
せっかく、上京し英霊に感謝の念を伝えようと思っていたのに、残念でなりませんでした。
【不発弾の処理隊員に感謝を】
2013.6.11
元海上自衛官 関口鉄也(61)東京都中野区
先日、東京都北区のJR沿線で陸上自衛隊による不発弾の処理作業が行われ、新幹線や在来線の列車が約3時間にわたってストップした。
約9万人の足に影響が出たというが、テレビの街頭インタビューを見ていたら、「えっ、困りましたね」「もっと影響の少ない時間帯にできないのですか?」などと好き勝手なことばかり言っていて、一抹の寂しさを感じた。
自衛官は入隊の際、「事に臨んでは危険を顧みず」と宣誓しているとはいえ、自分に何かあったら残された家族はどうなるか、不安に思わないわけがない。またそのような危険な任務に送り出す家族の気持ちはいかばかりだろう。
これまで不発弾の処理では無事故を誇っているが、いつ何が起こるかわからない。自分の都合ばかりでなく、国民が安心して生活できるよう命がけで作業に取り組む処理隊員に、「ご苦労さま」と感謝の気持ちをささげてほしいものだ。
※画像出典:東部方面隊のHPの「写真で見る東部方面隊」より、2013年6月4日【第102不発弾処理隊不発弾処理】−東京都北区−
※素朴な疑問ですが、朝日に元自衛官の方の読者投稿が載ることはあるのでしょうか?…というより、朝日を購読する元自衛官の方自体が存在しない?
【アッツ島玉砕で戦死した兄】
2013.6.6
主婦 竹口シゲ子(86)東京都江東区
今年も5月29日が巡ってきた。昭和18年のこの日、兄がアッツ島の玉砕で戦死しており、今年で70年の歳月が流れたことになる。
少女雑誌を買ってきてくれたりして、8歳違いの兄には何かとかわいがってもらった。戦死の公報が届いた日、私は蔵の中に入って大声で泣いた。遺骨箱の中には頭髪と爪だけが入っていた。25歳だった。
後で送られてきた遺品の記憶はおぼろだが、軍隊手牒(てちょう)と若い女性の写真があったことは忘れられない。看護婦の制服を着た女性で、恐らく結婚を約束した人ではなかったかと思う。軍隊手牒の最後には、「5月29日、早暁突撃す」とあったように記憶している。
戦地で、あるいは本土空襲、沖縄戦、原爆投下と、多くの尊い命が犠牲となった。銃後の私たちは、勝つまでは、とあらゆる苦難に耐えた。戦争ほど悲惨で残酷なものはない。永久に平和が続くよう、祈らずにはいられない。
【玉砕の島に思う戦争の無残】
2013.6.12
主婦 唯根幸子(ゆいね・ゆきこ)(84)東京都北区
6日付「談話室」に掲載された「アッツ島玉砕で戦死した兄」を拝読し、胸がいっぱいになりました。私の子供の頃の家庭医だった先生も軍医としてアッツ島に派遣され、命を落としました。
葬儀で4歳くらいの男の子がお母さんに手を引かれてたたずんでいた光景が今も目に浮かびます。
先年、主人と世界一周クルーズに出かけた折、アラスカからアッツ島沖を通ることを知り、この島で多くの日本人が亡くなったことを船長に伝えました。船長は船内放送でアッツ島玉砕の事実を乗客に知らせ、私たち夫婦をブリッジに招いて、海上に献花、献酒させてくださいました。
海は一面の霧で、島影は全く見えませんでした。この霧があったから、近くのキスカ島では守備隊が全員無事に撤退できたのだと思うと、対照的に玉砕せざるをえなかったアッツ島の方々の無念さをひしひしと感じました。戦争は無残なものだとつくづく思います。
【命をささげた兵士に感謝を】
2013.6.26
船員 渡辺伸吾(58)愛媛県今治市
23日は「沖縄慰霊の日」だった。私はかつて自衛隊にいて、沖縄で勤務していたこともある。
昭和52年6月23日、陸自隊員が那覇駐屯地と知念分屯地から、糸満市にある戦没者慰霊碑に向け夜間行軍を実施した。沖縄戦没者への慰霊行軍である。持ち物は水筒だけだった。
夜中に出発し、明け方に到着。全隊員が指揮官の号令のもと、黙祷をささげた。しかし、翌日の地元新聞は「軍靴で聖地を汚し冒涜した」と大きく報道した。
隊員は祖国のために命を落とした軍官民に対し、心から哀悼の意を表しただけである。本来なら戦死者に対する最高の敬礼である「着剣捧げ銃(つつ)」の敬礼、弔銃発射を行うべきだが、それは沖縄では許されない。
地上戦で多くの住民が犠牲となった沖縄には、複雑な感情があるのだろう。しかし、沖縄を守るために命をささげた多くの兵士への感謝は、忘れてはならないのではないか。
【両陛下ご訪問で農家励みに】
2013.7.30
無職 石田次男(67)福島市
天皇、皇后両陛下が22、23日の両日、福島県を訪問された。東日本大震災後、福島県のご訪問は、一昨年5月と昨年10月に続いて3回目だが、福島県をずっと気にかけてくださっていることに感激している。
特に今回、両陛下が楽しみにされていたのが、風評被害にあえぐ桑折(こおり)町の桃農家を訪れることだったようだ。豪雨被害のために農園をご覧になれなかったのは残念だったが、生産者とは懇談され、桃作りの苦労話などを聞かれたという。
福島県は献上桃の産地でもある。皇室に届けられるほどおいしい桃が福島県で生産されているのは県民の誇りだが、震災後は先方の気持ちを考慮して、県外の知人に贈るのは自粛していた。両陛下の思いを考えると申し訳ない限りだ。
今年の献上桃は区切りの20回目を迎える。桃農家だけでなく、風評被害に苦しむ福島県の多くの農業従業者にとって、両陛下のご訪問が何よりの励みになったのは間違いない。
↓最後にご紹介する投稿は、ややオマケ。
【菅官房長官は目線を上に】
2013.10.1
開業医 稲山貴子(57)神奈川県藤沢市
菅義偉官房長官の記者会見をテレビで見ていて、常々気になっていることがある。長官の目線が下を向きっぱなしなのだ。
原稿を読んでいるわけではなく、質問した記者に向かって丁寧に説明しているためで、謙虚な人柄の表れなのだろうと思う。ただ、諸外国、特に近隣諸国の報道官がほとんど水平に前方をにらむように話しているのと比べると、少々寂しいものがある。水平目線の方が気迫があって、説得力も増すような気がするのだ。
解決法として、記者がもっと高い位置にいればいいのではないか。会見場を階段状にするか、もっと簡単には、長官のお立ち台を撤去し、記者が起立して質問すればいいのである。そうすれば記者の顔を見て話すだけで、目線はぐっと上を向く。会見に注目しているのは決して記者だけではない。その先には国民や世界中の人がいるということを忘れないでほしい。
※この投稿をきっかけに菅官房長官は首相官邸の記者会見場のレイアウトを変更しました。
関連記事1:菅長官、会見場レイアウト変更 きっかけは本紙読者の投書 下向き目線を上向きに(産経2013.10.2 19:19)
関連記事2:菅官房長官、「ほほえましいと思ったこと」聞かれ面食らう レイアウト変更「あれだけ報道されるとは」(J-CAST 2013/10/ 4 17:56)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
産経新聞のWEB版はどこかの新聞とは違って無料で読めますが、一部の特集記事やコラム、そして読者投稿など、購読しないと読めないものもたくさん存在します。
産経は経営的にいろいろ大変らしくて(今は新聞社全般がそうですが)、ここ何年か某宗教系の出版物など変な広告が入っていることも多々あります。
宗教系以外にも、たとえば今夏の「東方神起」の包み込み広告には私はたいそう驚いたものです。
これについては産経の東京本社販売局の方がこう釈明されていました。
産経新聞がベストだとは私も思わないけど(たとえば親米すぎる嫌いがあったり…)、先日の「元慰安婦調査 ずさん記載/河野談話 根拠崩れる」の歴史的スクープにもみられるように、保守ならではの立場で頑張っておられますから、今後もできる限り購読していきたいと考えています。
少なくとも妙な広告掲載に関しては、経営上の負担が軽減されることで解消に向かっていくと思いますので、皆様もよろしかったら協力してさしあげて下さい。
※産経新聞 ご購読・試読お申し込み受付TOP<公式>
西日本地区、九州・山口地区の方は上記HPの画面右上からどうぞ。
ツイート
@boyakuriさんをフォロー
★人気blogRanking、クリックお願いします→
★ご面倒でなければにほんブログ村もお願いします→
★ご面倒でなければFC BlogRankingもお願いします→
★拙ブログのミラー(FC2)にfacebookのボタンがあります。
※拉致被害者奪還 日本列島縦断デモ行進はじめ、各種デモ・集会のまとめ
http://ameblo.jp/hosyuyamato/
アニメ「めぐみ」配信中。
英語・中国語・韓国語版もあります。ダウンロードはこちらから。コピーフリーです。世界に広めましょう!
「島根県の竹島英文ページを検索に引っ掛かり易くする作戦」もよろしく。
takeshima dokdo dokto tokdo tokto
________________________________________________
★コメント・トラックバックを下さる方へ
お手数ですが規約(13.5.9改訂)に一度目を通された上でお願いいたします。
【忘れていた五穀豊穣の願い】
2012.6.7
会社員 眞鍋信二(48)愛媛県新居浜市
二十数年前、地元の祭り「太鼓祭り」の日のことだった。太鼓台と呼ばれる山車が何十台も繰り出すにぎやかな祭りだが、あいにくの雨。太鼓台はシートで覆われて、見栄えがしない。私も全身びしょぬれになり、地下足袋を履いた足が重かった。
「今日は雨でつまらんの」「運が悪いの」などと友人と愚痴をこぼしていると、地区の長老に声をかけられた。
「祭りは五穀豊穣(ほうじょう)を願って行うもの。雨も降らなければ育つものも育たん。雨が良いとか悪いとかいうのは、人間の一方的な思いで、恵みの雨と考えれば、苦にならんじゃろが。雨も晴れも天に任せとったらええ」
確かに、私には豊作を祈るという思いが抜け落ちていた。それ以降、雨の日も自然への気持ちを持ち、祭りを楽しめるようになった。
【祭りは神様が与えた交流の場】
2011.10.10
中学生 萩原大晴(12)東京都立川市
今年もわが家の近くの神社で、年1回の秋祭りが行われました。
秋祭りにはさまざまな屋台も出て、にぎやかですが、一番の楽しみは、地元の人たちとの交流です。
普段、われわれは近所の人しか声かけや挨拶などはせず、それ以外の人とは、お互い顔は見て知ってはいても、会釈すらしないことが多いと思います。
でもそんな人でも祭りで出会うと、笑顔や声をかけることができ、初対面の人でも、仲良くなれる場合があります。
僕は祭りというのは、神様への五穀豊穣(ほうじょう)の感謝や、家内安全などをお願いするためだけの行事ではなく、神様が地域の人たちが豊かな気持ちで仲良くなれるようにと用意してくれた触れ合いの場ではないか、と思っています。
だから人々は昔からお祭りを守り、楽しみにしてきたのではないでしょうか。
そんな気がしてなりません。
【「英雄」の願いをかなえたい】
2011.12.28
公務員 田村誠一(52)広島県東広島市
7日付「談話室」で「北方領土に国旗を掲げたい」との投稿を拝見した。
投稿者は占守島でソ連軍と戦ったという。占守島といえば、千島列島最北端で対岸はカムチャツカ半島。同島の守備隊は第5方面軍第91師団である。
今の政府の閣僚はご存じないかもしれないが、投稿された方は同守備隊の生き残りで、北海道を守るために戦った英雄である。そして、不法に侵攻してきたソ連軍を海岸に釘付けにし、島の缶詰工場で働く若い女性ら約400人を含む民間人2500人を守り、北海道に生還させている。
ソ連は不法にも千島列島を奪い取り、この英雄たちをシベリアに抑留し、多くを死に追いやった。
私たちは、太平洋の北方から南方に至るまで、国のために尽くしてくれた英雄たちがいたことを決して忘れてはならない。
そして「北方領土に国旗を掲げる」という英雄の願いをかなえたい。
※12月7日付の投稿が手元に残っていないのが残念です(T_T)
【父の戦友だった厳しい先生】
2012.3.22
無職 野間孝造(65)兵庫県たつの市
小学5年、6年のときの担任は、くだけたところがなく、近寄りがたい威厳のある男の先生だった。卒業式の前日、その先生から「帰りに文房具店に立ち寄るように」と言われた。
指定された文房具店に行くと、「先生からです」と手提げ袋を渡された。中には中学校で使うノートや鉛筆などがつまっていた。「なぜ?」「成績がよかった褒美だろうか?」などと考えたが、理由がさっぱりわからない。
しかしその夜、父から意外な話を聞き、疑問が氷解した。「先生は戦友。ともに外地を転戦した仲で、お父さんの部下だった。同郷のよしみで、先生の面倒をよくみた」。父と先生は2人の間柄を、私には秘密にしていたのだ。
先生は戦地で受けた恩を、2年間、息子の私に返した。厳しかった指導に感謝している。
【先生からもらった白菜1玉】
2012.3.22
主婦 木村陽子(69)堺市美原区
小学校の頃、夕暮れになると、2、3人の友達と大好きな先生の帰りを待った。大きな荷台のついた古い自転車で先生は通勤していた。
私たちはてんでに先生に話しかけ、はしゃいだ。丸い太縁メガネ、厚い唇に大きな口の優しい先生。昭和25年ごろのことだ。
ある日、先生を待っていたのは私だけだった。すると、先生は自転車をとめ、荷台にくくりつけていた白菜を取り上げ、私に手渡した。そして「よく、ご父兄にもらうけん。今日は陽子ちゃんとこにあげる」と笑いながら言い、「じゃあ」と自転車で駆けていった。
当時、満州からの引き揚げ者である私たち家族7人は、ようやくまともな暮らしができるようになったばかりだった。
今、夫として私の横にいる人は、先生にそっくりな小学校の教員だった。
【忘れられぬカンボジアの少年】
2012.10.19
主婦 勝田ひさ子(61)京都府久御山町
カンボジアのシアヌーク前国王の死去を知り、奨学金を受けて日本の高校に留学していたカンボジアの少年のことを思い出した。帰国前の3カ月間、わが家にホームステイしていた。
同国は、インテリ層の大半がポル・ポト政権下で虐殺されるという悲劇を経験した。彼は、虐殺された世代の孫の世代にあたる。
数学が得意な彼は、学校で数学辞典を借り、徹夜でノートに書き写した。「コピーすれば」と声をかけると、彼は「その費用がない」と笑い、私は不用意な言葉を心から恥じた。そして、車に乗ると、彼は「こんな道路や橋を、国にたくさんつくりたい」と食い入るように見つめていた。
日本でつらいこともあったようだが、「いつも平常心でいるって大事だね」と静かにほほ笑み、自国の悠久の歴史を誇らしく語ってくれた。
あれから4年。こんな若者がいる国を頼もしく思い、彼の幸せを心から祈っている。
【助け合う被災者の姿を見て】
2013.1.18
無職 宮本規子(65)米・ニューヨーク在住
18年前の阪神大震災の後、私は海外メディアの通訳ボランティアとして、神戸に向かいました。まだ電車は一部区間しか走っていない状況でした。
翌日の朝、ニューヨークから来た新聞記者と被災地をまわることになり、被災者の体験を取材しました。その中で、神戸市長田区の避難所を訪れたときのことが忘れられません。
1人の高齢男性に声をかけると、その方は在日韓国人で、震災で息子と孫を亡くしていました。そんな悲しみの中、その方は「私は戦後からずっと日本人のことを斜めから眺めていたが、今回の震災では本当に心から日本人に深く感謝している」と語ったのです。
被災地で互いに助け合う日本人の姿が、その方の見方を変えたのでしょう。記者にとって思いも寄らぬ答えだったようです。
その横で、私は「日本は何て素晴らしい国なのだろう」と、心から日本を誇らしく思いました。
【国歌教えてくれた先生に感謝】
2013.3.25
高校生 竹内愛実(17)千葉県いすみ市
私が国歌を歌えるのは、小学校のときに習った音楽の女性教諭のおかげです。
先生は「卒業式や入学式では必ず歌うものだから、歌えないのは恥ずかしいでしょう」と国歌と校歌は、児童全員が歌えるまで指導してくれました。
3学期に入ると、先生のピアノ伴奏で国歌と校歌を歌ってから音楽の授業に入り、歌が苦手な私も国歌と小学校の校歌だけは今でも自信があります。
でも引っ越して入った中学では、入学式などの国歌斉唱のときに、席を外してしまう先生などもいて、伴奏だけが流れる異様な雰囲気でした。
「国歌を堂々と歌い、自分の国に誇りを持とう」という投稿を18日付「10代の声」で読みましたが、同感です。私の5歳上の姉も国歌は歌えません。
今考えると、あの先生にはいろいろご苦労があったのではないでしょうか。国歌を教えていただき、とても感謝しています。
※画像は、第82回選抜高校野球大会/広島音楽高校3年(当時)野々村彩乃さんの国歌斉唱(YouTube)。私が今までで一番感動した国歌斉唱です。
※私は小・中・高と和歌山市内の公立学校に通いましたが、国歌を一切習ったことがなく、行事でも斉唱はおろか国歌が流されたことすら一度もなく、そのため大人になって自発的に覚えるまで全く歌えませんでした。初めて公の場で国歌を歌ったのは20代半ば、プロ野球観戦の時でした。素晴らしい先生に出会えた投稿者の方がうらやましいです。
【特攻隊に命の重さを考える】
2013.4.8
高校生 田中将貴(17)熊本市北区
昨年暮れ、曽祖母が亡くなった。元気だった頃は、第二次世界大戦中のさまざまな体験を聞かせてくれ、なかでも、特攻隊員として命をささげた曽祖父のことをよく話していた。
曽祖母は、曽祖父の写真を大切にしていた。写真の中の曽祖父からは悲壮な決意が感じられる。とても勇ましい人だったそうだ。その写真は、特攻隊員として飛び立つ前に撮られたものだという。
特攻隊員はどのような思いで出撃したのだろう。それを考えると胸が痛む。特攻隊員は20歳前後の人が多かったと聞いた。現代なら、学生が社会に出て働き始める頃の年齢だ。そのような若さで人生を終えなければならなかった人たちに比べれば、今の日本の若者は恵まれている。
殺人や自殺などのニュースが連日のように報じられるが、決して命を軽く扱ってはならない。そんなことをしては、国のために命を投げ出した方たちに申し訳ない。
【満州特急に元上司を思う】
2013.4.16
自営業 中村昭一(86)新潟県妙高市
8日付オピニオン面「満鉄特急『あじあ』の悲鳴」を感慨深く読みました。
私は昭和19年、満州国政府の軍事部に勤めていました。あるとき、上司である満州人将校(大佐)が、錦州(現在の遼寧省など)の部隊を視察することになり、私も同行したのですが、そのとき乗ったのが南満州鉄道(満鉄)の特急「あじあ」の特別個室でした。
当時、「あじあ」は満州帝国のシンボルの一つであり、国民の誇りでもありました。現地の閲兵も無事終わり、上司には後日、自宅に招待され、奥さまの手料理で慰労されたことを覚えています。
その上司はその後、少将に昇格しましたが、戦後の消息はわかりません。
敗軍の将として、日本人将校以上に立派な態度で、武装解除などにあたっていたという話を仲間から聞きましたが、その後、過酷な運命が待ち受けていたことでしょう。そのことを思うと、今でも胸が痛みます。
※4月8日付の投稿が手元に残っていないのが残念です(T_T)
【子供の間で広がる国防意識】
2013.5.10
無職 山田治男(87)千葉県市原市
私は戦後、3年半のシベリア抑留生活を送りました。その経験をいかし、10年ほど前から地元の小、中、高校の社会科の授業で、戦争の悲惨さや平和の大切さについて講演しています。
その中で、理想の国家の例として永世中立国のスイスを紹介しています。強国のはざまにありながら、積極的に国際機関の設置や国際会議の開催を進めることで、平和を維持しています。そして、兵役が義務化され、国家を敬うなど国を愛し、守るのは当然という意識が国民の間に浸透しています。
講演では、生徒らに「もし外国が攻めてきたら皆さんはどうしますか」と質問します。
10年前には「逃げます」という答えが多く、「どこへ逃げるの」と聞くと答えに窮していました。しかし、最近は感想文などで「国を守るのは国民」という声が増えてきました。国防意識は子供たちにも芽生えてきているように感じます。
※今も売れ続けているスイス政府編「民間防衛」。私は2006年に購入しました。
【外国人にも参拝のマナーを】
2013.5.30
農業 吉井義孝(61)熊本県八代市
昨年、一昨年と観光で東京を訪れました。皇居周辺や東京タワー、国会議事堂、靖国神社などを回りましたが、どこもきれいに整備され、さすが日本の首都だと誇らしくなりました。
しかし、神社で残念な光景を見ました。
明治神宮を参拝したときのことです。大声がして騒がしいなと思い、見ると団体旅行らしい外国人が柱に落書きをしたり、柱を削ったりしていました。
また、靖国神社では、身を乗り出して拝殿の中を撮影している外国人がいました。いずれも中国人が韓国人のようでした。
神社は本来、宗教施設であり、ただの観光地ではありません。外国人にもわかるように敷地内での振る舞いやマナーについて説明し、ひどい場合は立ち去るよう求めることも必要ではないでしょうか。
せっかく、上京し英霊に感謝の念を伝えようと思っていたのに、残念でなりませんでした。
【不発弾の処理隊員に感謝を】
2013.6.11
元海上自衛官 関口鉄也(61)東京都中野区
先日、東京都北区のJR沿線で陸上自衛隊による不発弾の処理作業が行われ、新幹線や在来線の列車が約3時間にわたってストップした。
約9万人の足に影響が出たというが、テレビの街頭インタビューを見ていたら、「えっ、困りましたね」「もっと影響の少ない時間帯にできないのですか?」などと好き勝手なことばかり言っていて、一抹の寂しさを感じた。
自衛官は入隊の際、「事に臨んでは危険を顧みず」と宣誓しているとはいえ、自分に何かあったら残された家族はどうなるか、不安に思わないわけがない。またそのような危険な任務に送り出す家族の気持ちはいかばかりだろう。
これまで不発弾の処理では無事故を誇っているが、いつ何が起こるかわからない。自分の都合ばかりでなく、国民が安心して生活できるよう命がけで作業に取り組む処理隊員に、「ご苦労さま」と感謝の気持ちをささげてほしいものだ。
※画像出典:東部方面隊のHPの「写真で見る東部方面隊」より、2013年6月4日【第102不発弾処理隊不発弾処理】−東京都北区−
※素朴な疑問ですが、朝日に元自衛官の方の読者投稿が載ることはあるのでしょうか?…というより、朝日を購読する元自衛官の方自体が存在しない?
【アッツ島玉砕で戦死した兄】
2013.6.6
主婦 竹口シゲ子(86)東京都江東区
今年も5月29日が巡ってきた。昭和18年のこの日、兄がアッツ島の玉砕で戦死しており、今年で70年の歳月が流れたことになる。
少女雑誌を買ってきてくれたりして、8歳違いの兄には何かとかわいがってもらった。戦死の公報が届いた日、私は蔵の中に入って大声で泣いた。遺骨箱の中には頭髪と爪だけが入っていた。25歳だった。
後で送られてきた遺品の記憶はおぼろだが、軍隊手牒(てちょう)と若い女性の写真があったことは忘れられない。看護婦の制服を着た女性で、恐らく結婚を約束した人ではなかったかと思う。軍隊手牒の最後には、「5月29日、早暁突撃す」とあったように記憶している。
戦地で、あるいは本土空襲、沖縄戦、原爆投下と、多くの尊い命が犠牲となった。銃後の私たちは、勝つまでは、とあらゆる苦難に耐えた。戦争ほど悲惨で残酷なものはない。永久に平和が続くよう、祈らずにはいられない。
【玉砕の島に思う戦争の無残】
2013.6.12
主婦 唯根幸子(ゆいね・ゆきこ)(84)東京都北区
6日付「談話室」に掲載された「アッツ島玉砕で戦死した兄」を拝読し、胸がいっぱいになりました。私の子供の頃の家庭医だった先生も軍医としてアッツ島に派遣され、命を落としました。
葬儀で4歳くらいの男の子がお母さんに手を引かれてたたずんでいた光景が今も目に浮かびます。
先年、主人と世界一周クルーズに出かけた折、アラスカからアッツ島沖を通ることを知り、この島で多くの日本人が亡くなったことを船長に伝えました。船長は船内放送でアッツ島玉砕の事実を乗客に知らせ、私たち夫婦をブリッジに招いて、海上に献花、献酒させてくださいました。
海は一面の霧で、島影は全く見えませんでした。この霧があったから、近くのキスカ島では守備隊が全員無事に撤退できたのだと思うと、対照的に玉砕せざるをえなかったアッツ島の方々の無念さをひしひしと感じました。戦争は無残なものだとつくづく思います。
【命をささげた兵士に感謝を】
2013.6.26
船員 渡辺伸吾(58)愛媛県今治市
23日は「沖縄慰霊の日」だった。私はかつて自衛隊にいて、沖縄で勤務していたこともある。
昭和52年6月23日、陸自隊員が那覇駐屯地と知念分屯地から、糸満市にある戦没者慰霊碑に向け夜間行軍を実施した。沖縄戦没者への慰霊行軍である。持ち物は水筒だけだった。
夜中に出発し、明け方に到着。全隊員が指揮官の号令のもと、黙祷をささげた。しかし、翌日の地元新聞は「軍靴で聖地を汚し冒涜した」と大きく報道した。
隊員は祖国のために命を落とした軍官民に対し、心から哀悼の意を表しただけである。本来なら戦死者に対する最高の敬礼である「着剣捧げ銃(つつ)」の敬礼、弔銃発射を行うべきだが、それは沖縄では許されない。
地上戦で多くの住民が犠牲となった沖縄には、複雑な感情があるのだろう。しかし、沖縄を守るために命をささげた多くの兵士への感謝は、忘れてはならないのではないか。
【両陛下ご訪問で農家励みに】
2013.7.30
無職 石田次男(67)福島市
天皇、皇后両陛下が22、23日の両日、福島県を訪問された。東日本大震災後、福島県のご訪問は、一昨年5月と昨年10月に続いて3回目だが、福島県をずっと気にかけてくださっていることに感激している。
特に今回、両陛下が楽しみにされていたのが、風評被害にあえぐ桑折(こおり)町の桃農家を訪れることだったようだ。豪雨被害のために農園をご覧になれなかったのは残念だったが、生産者とは懇談され、桃作りの苦労話などを聞かれたという。
福島県は献上桃の産地でもある。皇室に届けられるほどおいしい桃が福島県で生産されているのは県民の誇りだが、震災後は先方の気持ちを考慮して、県外の知人に贈るのは自粛していた。両陛下の思いを考えると申し訳ない限りだ。
今年の献上桃は区切りの20回目を迎える。桃農家だけでなく、風評被害に苦しむ福島県の多くの農業従業者にとって、両陛下のご訪問が何よりの励みになったのは間違いない。
↓最後にご紹介する投稿は、ややオマケ。
【菅官房長官は目線を上に】
2013.10.1
開業医 稲山貴子(57)神奈川県藤沢市
菅義偉官房長官の記者会見をテレビで見ていて、常々気になっていることがある。長官の目線が下を向きっぱなしなのだ。
原稿を読んでいるわけではなく、質問した記者に向かって丁寧に説明しているためで、謙虚な人柄の表れなのだろうと思う。ただ、諸外国、特に近隣諸国の報道官がほとんど水平に前方をにらむように話しているのと比べると、少々寂しいものがある。水平目線の方が気迫があって、説得力も増すような気がするのだ。
解決法として、記者がもっと高い位置にいればいいのではないか。会見場を階段状にするか、もっと簡単には、長官のお立ち台を撤去し、記者が起立して質問すればいいのである。そうすれば記者の顔を見て話すだけで、目線はぐっと上を向く。会見に注目しているのは決して記者だけではない。その先には国民や世界中の人がいるということを忘れないでほしい。
※この投稿をきっかけに菅官房長官は首相官邸の記者会見場のレイアウトを変更しました。
関連記事1:菅長官、会見場レイアウト変更 きっかけは本紙読者の投書 下向き目線を上向きに(産経2013.10.2 19:19)
関連記事2:菅官房長官、「ほほえましいと思ったこと」聞かれ面食らう レイアウト変更「あれだけ報道されるとは」(J-CAST 2013/10/ 4 17:56)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
産経新聞のWEB版はどこかの新聞とは違って無料で読めますが、一部の特集記事やコラム、そして読者投稿など、購読しないと読めないものもたくさん存在します。
産経は経営的にいろいろ大変らしくて(今は新聞社全般がそうですが)、ここ何年か某宗教系の出版物など変な広告が入っていることも多々あります。
宗教系以外にも、たとえば今夏の「東方神起」の包み込み広告には私はたいそう驚いたものです。
これについては産経の東京本社販売局の方がこう釈明されていました。
本日付、広告企画の特別紙面につきましては、特に定期講読でのご愛読者様からは色々なご意見をいただくことになるかもしれません。ただ、産経新聞が言論機関として、他紙とは異なった視点で国益重視の報道を今後も継続するためには、広告収入も大きな柱であることをご理解賜れれば幸いです。
— 砂山 綱彦【産経新聞東京本社販売局】 (@sankei_sunayama) August 9, 2013
産経新聞がベストだとは私も思わないけど(たとえば親米すぎる嫌いがあったり…)、先日の「元慰安婦調査 ずさん記載/河野談話 根拠崩れる」の歴史的スクープにもみられるように、保守ならではの立場で頑張っておられますから、今後もできる限り購読していきたいと考えています。
少なくとも妙な広告掲載に関しては、経営上の負担が軽減されることで解消に向かっていくと思いますので、皆様もよろしかったら協力してさしあげて下さい。
※産経新聞 ご購読・試読お申し込み受付TOP<公式>
西日本地区、九州・山口地区の方は上記HPの画面右上からどうぞ。
ツイート
@boyakuriさんをフォロー
★人気blogRanking、クリックお願いします→
★ご面倒でなければにほんブログ村もお願いします→
★ご面倒でなければFC BlogRankingもお願いします→
★拙ブログのミラー(FC2)にfacebookのボタンがあります。
※拉致被害者奪還 日本列島縦断デモ行進はじめ、各種デモ・集会のまとめ
http://ameblo.jp/hosyuyamato/
アニメ「めぐみ」配信中。
英語・中国語・韓国語版もあります。ダウンロードはこちらから。コピーフリーです。世界に広めましょう!
「島根県の竹島英文ページを検索に引っ掛かり易くする作戦」もよろしく。
takeshima dokdo dokto tokdo tokto
________________________________________________
★コメント・トラックバックを下さる方へ
お手数ですが規約(13.5.9改訂)に一度目を通された上でお願いいたします。
Comments
画像をぱっと見て、新しい本でも出たのかと思いましたw。
戦死についてですが、無残と言うのは、戦死した方々にしてみれば死んだ甲斐がないと思います。命を捧げてくださった我らの誇りです。
戦争が破壊と死を齎すというのは、有史以来の定理です。
では、その愚行を繰り返さぬために何が必要かを提案するんが、知恵を持つ者の務めではないのでしょうか。
この時代に戦争が起きるとすれば、それは間違いなく『今の大人の責任』です。
昔朝日新聞を読んでいたのですが
読者欄に76歳なる老女が引き揚げした父から聞いた話として満州での千人切りの自慢話を投稿していました。
76歳とは思えないしっかりした文章、数十年前に聞いたとは思えないほど年、場所が克明に描かれていました。
止めは話の内容がネットで検索した内容と全く同じでした。
やらせ投稿なのか朝日の読者の質なのかわかりませんがこんなものです。
そう思う留学生は多いことでしょう。だがしかし、そのためにどうす
るか?という点で国による違いがあると思います。
「自分の国にもこれを」→「そのためにしっかり勉強しよう」
という考えを持つ留学生は歓迎です。
「自分の国にもこれを」→「そのためには何を盗めばよいか」
という考えで行動している国もある。
これは断固お断りだ。そんな国の留学生を優遇し授業料免除、返還不
要の奨学金授与なんていうのは税金の無駄遣い以外の何物でもない。
みなさんは産経新聞に「産経Net View」というweb版があるのをご存知ですか? 検索すれば出てきます。
料金が安いからか産経さんも積極的には宣伝していませんが、月420円で、過去1ヵ月分の紙面(東京版の朝刊)をいつでも読めるのです。記事は好きな範囲を指定してプリントアウトできます。
私は5年前に宅配を読売から産経に変えようかと迷った際に、比較のためにこれを利用したのがきっかけでしたが、産経に乗り換えてからも便利なのでそのまま併用しています。
面積の広い連載記事をA4印刷に揃えて保管したり、大阪版と扱いの違う記事を探すときも重宝しますよ。
1人の高齢男性に声をかけると、その方は在日韓国人で、震災で息子と孫を亡くしていました。そんな悲しみの中、その方は「私は戦後からずっと日本人のことを斜めから眺めていたが、今回の震災では本当に心から日本人に深く感謝している」と語ったのです。
→そもそも仕事目当てで日本にやってきて、帰化もせず上から目線でいつづけることが異常という事が分からないんでしょうかね。
ドナルドキーン先生の自叙伝によると、終戦直後の青島にいた朝鮮人も反日で、日本人が人肉を食べていたなどと言う嘘を言っていたそうです。昔から本当に変わりませんね。日本に居続けながら反日というあり得ない存在ですわ。
靖国神社の中韓人の横暴も腹立たしいです。私だったら絶対注意するし、アメリカだったら殺されてもおかしくないのでは(汗)。写真の鳥居の下部が白くなっているのはそのせい?
それはともかく産経の声欄は胸が熱くなるようなお話ばかりで良いですね!途中にあった満州人将校さんは、中国人として満人であることを隠し通せていれば身を守れたかもしれませんが、対ソ戦では日本兵と一緒に戦ったとの記録もありますし、どうなったのでしょう。共産党政権下で多くの満人が殺されているそうなので心が痛みます。
素晴らしい記事ありがとうございます。応援クリック。
読売テレビ(大阪市)が今月20日に放送した番組「たかじんのそこまで言って委員会」で、出演者が在日コリアンに対する差別を助長する発言をしたとして、在日外国人の人権保障に取り組む大阪市のNPO法人「コリアNGOセンター」が22日、同社に対し、抗議した。放送倫理・番組向上機構(BPO)にも、審理を申し立てた。
番組では、「在日特権を許さない市民の会(在特会)」によるヘイトスピーチ(憎悪表現)の問題が取り上げられた。
パネリストで出演した作家の竹田恒泰氏が「在特会が活動したおかげで在日の特権の問題が明らかになった」とし、「例えば、通名というのがあって、日本人の名前に変えることによって、犯罪歴や金融関係の経歴を全部消すことができ、また新たな犯罪ができる」と話した。
「コリアNGOセンター」は抗議文で「発言は明らかに事実に反し、偏見を助長する」と指摘。
読売テレビに対し、「放送は事前収録だったのに、虚偽の内容に基づく番組を放映した責任は重い」とし、放送内容の訂正を求めた。
読売テレビは「抗議を受けたことに対して、現在詳細に検討しています」とコメントしている。
http://mainichi.jp/select/news/20131022k0000e040213000c.html
変更して良かったと思います。
朝日は総理や閣僚の靖国参拝に社説で明確に反対しています。
このような状況の中で 安倍総理が靖国参拝の志を実行するのは 大変です。
総理の靖国参拝を受け入れる世論形成のため、ブログでの啓蒙をどうぞよろしくお願いします。
通名の件は本当で、昔は分かりやすく「安・松・金・木下」の混じった名前が多かったのに、ネットが普及してそれらが知れ渡り国籍の指摘を受け始めると、最近では佐藤や田中など日本人に多くいる名前に変えてきている。
でも、国籍は変えない!!
何のために??と、疑われても仕方ないこと。
韓国人には分らないんでしょうけど。
マスコミでは一切スルーの「レイシストしばき隊」の話をされた井上先生にも拍手です。
在日犯罪者を通名でニュース放映し、日本人の犯罪のような印象操作をしているマスコミの実態!
あと一言!!言って欲しかった(笑
もう、委員会でも無理かな〜。
幾つか読んだことのある投稿もありましたが、読み逃がしていたものもあり、胸が熱くなりました。
まとめていただき、ありがとうございます。
「韓国は戦争状態」「反日心配」滋賀県立高の韓国修学旅行に保護者「反対」、実施方針の学校側と対立
2013.10.23 07:00 (1/3ページ)[westピックアップ]
滋賀県立国際情報高校(同県栗東市)が11月に予定する韓国への修学旅行をめぐり、保護者の一部から反対の声が上がっている。韓国での反日感情の高まりや南北関係の情勢悪化による安全面への懸念などを理由に上げるが、学校側は「問題ない」として予定通り実施する方針で、説明会を開くなどして理解を求めている。しかし保護者側は「修学旅行は保護者の十分な理解を得ること」とする文科省の通知にも違反するとして計画変更を迫っており、学校側と対立を深めている。
「恒例の韓国修学旅行」に突如、反対の声
昭和62(1987)年度に創立された国際情報高は、平成元(1989)年度から韓国への修学旅行を実施しており、米同時多発テロのあった13年度と新型肺炎が流行した15年度以外は毎年訪れている。
今年度は、11月12日から3泊4日の日程で修学旅行を計画。2年生がソウル市内を訪れ、伝統舞踊やキムチ作りなどを体験するほか、姉妹校提携しているソウルの文一高校の生徒らと交流する。
学校側は今年5月、保護者を対象に修学旅行の説明会を開催。その際、数人から韓国行きを反対したり、不安視したりする意見が出たという。現地で反日感情が高まっていることや、南北関係が悪化の兆しを見せていることなどから安全面を懸念する声があったほか、衛生面での不安を口にする保護者もいたという。
これらに対し、学校側は「外務省が『今すぐに危険はない』と説明している」「食事は衛生管理されたホテルやレストランでとり、生ものは食べない」などと説明し、理解を求めた。
< 前のページ 1 2 3 次のページ >
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131023/wlf13102307000001-n1.htm