誰がために散る もう一つの「特攻」(6)〜(8)
6月下旬から、別人を装い多数のHNを使ってコメントされる方が出没しています。皆様方におかれましては、「このコメントは何か変だな」と思ったら相手をせず、スルーして下さい。
誰がために散る もう一つの「特攻」(1)〜(5) の続きです。
※文中の赤字強調は引用者による
誰がために散る もう一つの「特攻」(1)〜(5) の続きです。
※文中の赤字強調は引用者による
産経新聞朝刊大阪版07年6月10日付社会面掲載
誰がために散る もう一つの「特攻」(6)
【突然の悲劇】殉職ショック乗り越え奮起
悲劇は突然だった。
回天搭乗訓練2日目の昭和19年9月6日、大津島地方は午後から急に風が強くなり、海面は大きくうねり出した。午後の訓練に臨む予定だったのは海軍大尉の黒木博司=当時(22)=と樋口孝(同)。天候不良を理由に訓練中止の声も出たが、黒木は「天候が悪いからといって敵は待ってくれない」と譲らない。樋口も「やらせてください」と続いた。
午後5時40分、樋口が操縦する回天は黒木を乗せて発進した。訓練は、大津島から5000メートル離れた浮標までの往復。浮標を回ったところまでは順調だったが、その直後に姿が消えた。
翌7日午前9時、大津島から約4000メートル離れた水深15メートルの海底に泥をかぶり突き刺さっている艇が発見された。死亡推定時間は、事故発生から約12時間後の7日午前6時過ぎだった。
艇内には事故直後からの応急処置、事後の経過など、黒木が息を引き取るまでの状況を記した、2000字にも及ぶ『19-9-6 回天第1号海底突入事故報告』が残されていた。そこには、<国を思ひ死ぬに死なれぬ益良雄が 友々よびつつ死してゆくらん>と辞世の歌もつづられていた。
樋口の手帳にも<犠牲ヲ踏ミ越エテ突進セヨ>と遺文があった。
2人の遺筆は、若い回天搭乗員に大きな影響を与えた。事故から2週間後に赴任した甲飛13期の竹林=旧姓・高橋=博(82)は「黒木少佐の殉職はショックだったが、それ以上に後に続くんだと奮起した」と話す。
■ ■
黒木の葬儀は、終戦から1年以上が過ぎた21年11月7日、郷里で行われた。簡略化され読経もなかった。「下呂楠公祭」事務局長で、大垣市立東中学校長の橋本秀雄(59)が言う。
「ご両親は世間をはばかれ、すぐには葬儀をあげられなかったのです。その後も非難ばかりで、肩身の狭い思いをしていたようです」
母親のわきは戦後、沈黙を保ち続けた。しかし一度だけ、思いを吐露したことがある。戦後25年ほどたったころだ。神経痛で病んでいたわきは、見舞客に次のように話している。
「私は博司のことは何とも思っとりゃしません。ただ、いつも心に思うことは、回天に搭乗し、博司の後に続いていった131人の英霊のこと。そのご遺族が、博司のことを恨んどりゃせんかということが一番気にかかり、夜も眠れないことが幾日とございました」
「大津島で回天の慰霊祭が行われ、徳山湾へ艦で行きました。博司はもちろん、博司とともにされた人たちのご冥福を祈ろうと手に持てるだけの花を持って行ったんでございます。その花を海へ投げようとしましたところ、近くにいましたご遺族の方々が『私にも花を分けてください』といわれ、そしてどの方も皆『息子よ!よくぞお国のために』と言って花束を投げられたのを聞きまして本当にうれしくて、後で一人泣きしたんでございます。ご遺族の人たちは博司を恨んどりゃせん。きっと回天に乗っていった人も博司の心をよく受け継いでいてくれたと思います」
わきは47年1月20日、息子のもとへと旅立った。79歳だった。
■ ■
【写真】徳山湾を望む回天碑はいまも黒木らの思いを伝える=山口県・大津島
黒木の生きざまからは、護国精神だけでなく家族への思いも伝わってくる。海軍機関学校時代、腸閉塞(へいそく)で倒れた母親のわきを見舞った黒木は歌を詠み、そっと布団の下に忍ばせていった。
<大いなる悲願に立てる国の子の 母をばいかで神うばふべき>
<君がため母おきさりて行く我は 尊く悦しくかなしかりけり>
<荒波の世に生く子らの楽しみは 両親ありて嬉び見るとき>
わきが回復すると、<きっと治ると信じていたものの何だか夢のように嬉しい。お母さんの字、一字々々が又楽しく私の心を生々と明るく励まして呉れます>と喜びを伝えている。
橋本は「家族を愛し、国を愛して戦った。そういう人に対する感謝の心を失っていることが今の日本をおかしくしている」と話す。妹の教子もこう嘆いた。
「親兄弟や友達を簡単に殺したり、どこかおかしい。日本人の本当の精神を忘れてしまっているようです。兄たち英霊が期待したのは今のような日本ではないはずです」
=敬称略
(宮本雅史)
産経新聞朝刊大阪版07年6月12日付社会面掲載
誰がために散る もう一つの「特攻」(7)
【回天の母】心に立てた「墓標」100余…
回天基地のあった大津島の丘の中腹には、回天碑と並んで搭乗員の名前を刻んだ石碑がある。戦後、この石碑を慈しむように指でなぞる女性がいた。通称・おしげさん。「回天の母」と呼ばれた。
本名は倉重アサコ。大正15年、19歳で徳山駅近くの高級料亭「松政」に女中奉公に出て、以来45年間、松政で働き続けた。当時、徳山には海軍燃料廠があり、松政は高級士官の定宿としてにぎわっていた。奉公に出て2年目、海軍主計兵曹と結ばれた。しかし8年後、夫は病気で急逝、独身を通した。
男のようにさっぱりとした性格は高級士官にも好かれ、犬養毅首相や南雲忠一海軍大将、山本五十六海軍元帥ら重鎮の接待を担当したという。
■ ■
【写真】「回天の母」とよばれた、おしげさんこと倉重アサコさん
昭和19年11月7日。おしげさんはこの日を生涯忘れなかった。
大津島から突然、板倉光馬少佐が訪ねてきて「今夜60人のすき焼き会を催したいから用意を頼む。物資は全部部隊から持参する」。七輪を近所から借り、テーブルの代わりに雨戸を並べた。
宴会は午後6時から始まり、夜が更けると、大広間に「同期の桜」の大合唱が響いた。壮行会だった。若者たちが翌日に出撃した「回天特別攻撃隊菊水隊」の搭乗員だと知ったのは、翌20年3月末のことだった。彼女はそのときの思いを手記の中で語っている。
<私は隊員さんたちが特攻隊であること、大津島がその基地であることは知っていましたが、それがどういうことをするためであったかは、新聞で初めて知ったようなわけです。新聞には隊員28人の写真も掲載されていました。私は新聞の写真の上に、ボロボロと涙をこぼしました。菊水隊は3カ月前に、金剛隊は2カ月前に「お母ちゃん、行ってきます」。そういって二度とは帰らぬ日ととも見えぬ元気さで、松政の玄関を出ていったのです>
松政では出撃の2日前に壮行会が行われるのが恒例だった。おしげさんは手記で、隊員の誰の目も澄み切り、死にに行くことなどみじんも感じさせぬ立派な態度だが、その胸の内には語れぬものを抱えていたのだろう、と回顧している。
20年7月14日に出撃した竹林(旧姓・高橋)博(82)も2日前の12日夜、壮行会に参加し、初めておしげさんに会った。「おふくろのような感じで、自分の母親の顔と重なった」という。
いつしか、おしげさんと回天搭乗員は、単なる仲居と客の関係ではなくなっていた。おしげさんは回顧録などで搭乗員との思い出を語っている。
<なかには私の肩にすがり、膝(ひざ)にもたれて甘える方もあって、その幼な幼なした童顔に、はっと胸をつかれることもありました。まだ17、8から19歳ぐらいの若い人ばかりで、厳しい訓練の明け暮れのうち、束の間の思いは、やはり国許のお母さんだったのでしょう。「お母さんのような気がする」などと行って、私にもたれかかって来られた、あのあどけなさを思い出しますと、今でも目頭が熱くなるのでございます>
■ ■
おしげさんにとって忘れられないの搭乗員の1人が芝崎昭一だ。北海道の農家出身で18歳の少年だった。
出撃前、「松政」に来た芝崎は「母ちゃん、詩吟を聞いてよ。国を出るとき、母ちゃんにも聞かせたから…」。顔を真っ赤にしながら朗々と吟じる芝崎の顔を見ながら、<芝崎さんは今、母親の前にいるのだ>と目を潤ませたという。
金剛隊の都所静世は<おふくろさんは死んでいないが、最後はお母さんと叫んで死にたいと>と言い残して出撃。轟隊の小林富三雄は<慈悲も及ばぬ御世話心より感謝致しています>と遺書を残した。
おしげさんと回天搭乗員の付き合いは1年に満たない。
<私の生涯の全部を賭けたほどの意味があったように思います。自分の子供を持たない私が、100人に余る若い人たちに「お母ちゃん」と呼ばれてあまえられたことのしあわせ…けれどもその人たちの墓標を、心にいっぱいたてていることを思えば、私は幸福者なのでしょうか。それとも最も不幸な女なのでしょうか>
=敬称略
(宮本雅史)
産経新聞朝刊大阪版07年6月13日付社会面掲載
誰がために散る もう一つの「特攻」(8)
【残されし者】生と死の重さを語り継ぐ
「回天の母」と呼ばれた、おしげさんこと倉重アサコさんは大津島・回天基地の部隊解散の日、生き残った搭乗員と初めて島に渡り、ある約束をした。
「10年後、最初の出撃記念日の11月8日にみんなで松政で会いましょう。それまで私がこの大津島をお守りします」
そして、約束の昭和30年11月8日。早くも午前6時に訪ねてきた男性は玄関に入るなり、「お母ちゃん」と抱きついてきた。連れていた5歳ぐらいの子供が物珍しそうに父親を見つめる。うれし涙が止めどなく流れるうちに、その数は十数人になった。
午前10時、全員で大津島に渡った。その後、毎年11月8日には大津島で慰霊祭が行われるようになった。おしげさんは毎年参列し、息子たちの出撃前の様子を遺族に伝えてきた。
おしげさんは18歳の2人の少年が出撃するのを見て、「どの人も死なせたくはないけど、まだ幼顔の残るこの2人は、ことさら私の胸をえぐるのでした。『これが戦争というものなのだ』。そう自分にいいきかせて、じっと耐えるしかありませんでした」と語っている。
そんな思いを少しでも和らげようとしたのだろうか。松政の2階にある小さな自分の部屋に、夫の位牌(いはい)と『人間魚雷回天将兵の諸英霊』の戒名を施した白木の位牌を置き、朝夕、お経をあげていたという。
■ ■
【写真】回天記念館は、戦後62年たった今も搭乗員らの思いを語り継いでいる=山口県・大津島
回天特攻作戦では、回天の故障などで帰還した搭乗員も多い。甲飛13期出身の吉留文夫(80)は20年5月5日、「振武隊」として出撃。同月27日未明に敵船団と遭遇したが、電動操舵(そうだ)機が故障し発進できなかった。「自分が発進できなかったことに対する自責の念が強くて、頭の中は真っ白だった」
2回目は7月19日。「多聞隊」として出撃し、太平洋で敵艦隊を求めたが、8月9日に急遽(きゅうきょ)、帰投命令が出た。そして15日、洋上で玉音放送を聞いた。
「帰ってきたのは自分の責任で、戦友に合わす顔がないというのが正直な気持ちだった。映画なんかで、生きていてよかったという場面があるが、それはウソだと思う。戦後、大暴れして特攻崩れといわれたが、それはある種、死に場所を探していたんだ。戦友に申し訳ないと」
吉留は戦後、肺がんを患い、医師から余命1年と宣告されたことがある。そのとき、考えたのは親のことでも子供のことでもなかった。亡き戦友に会ったとき、何を話すかだった。
「出撃するときは、お互い『先に逝ったら、靖国神社でおれの席を取っておけよ』が合言葉になっていた。本当におれの席があるのかどうか。いずれ、みんなの待つ靖国神社にいくという気持ちが残っているんですね」
吉留が続ける。
「2回も生きて帰ってきたのが自責の念として強く残っていて、回天のことはあまり話したくなかった。でも、いまの日本人を見ていると、戦友が何のために死んでいったのかを子供や孫に伝えないといけないと思うようになった。海に手をつけると、戦友が水の中から『おい』って声をかけているような気になる」
おしげさんも、こう言い残している。
「戦争の悲しみは、もう再び繰り返してはなりませんし、神風や回天のような、絶対に死ぬとわかった兵器による特攻は、絶対に避けねばなりません。けれどもお国のため、みんなのために死んでいった若い人たちの心は、いまの若い人たちにも伝えておかねばならないと思います」
「徳山湾の海を見ていると、一人ひとりの顔が思いだされてきます。命あるかぎり、忘れることのできないあの顔、この顔…。けれどもそれは、もう二度と『お母ちゃん』とは呼んでくれない顔なのです」
■ ■
昭和46年7月、松政が閉鎖されるに伴い、おしげさんは引退。60年2月22日、ある遺言を残し、この世を去った。78歳だった。
「ええか。私の骨は海にまいて。子供たちが海の中で待っているから。絶対、海に入れてよ。子供たちとお酒を飲むから」
おしげさんの遺骨は、回天を考案した黒木博司が訓練中に殉職した海域にまかれた。
=敬称略、おわり
(宮本雅史)
◇
この連載は「ああ黒木博司少佐」(吉岡勲)、「回天」(編集代表・鳥巣建之助)、「ああ特攻隊」(木村八郎)などを参照した。
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【回天】
《天の運行を変える意》どうしようもないほど衰えた(国の)勢いを、もう一度元に戻すこと。
=三省堂・新明解国語辞典より
「回天」と命名したのが誰なのか私は知らないんですが(*1)、その言葉の意味を初めて知った時、命名者の「回天」にかけた想いがストレートに伝わってきて、胸が痛くなりました。
(*1) ネットで調べたところ、命名者は黒木少佐だとする資料もあれば、「回天」発案者の一人である仁科関夫中尉だとする資料もありました。さらには海軍水雷学校長の大森仙太郎少将だとする資料も。
ちなみに仁科中尉は昭和19年11月20日に出撃、米油漕艦「ミシシネワ」を撃沈、戦没しました。享年21才。仁科中尉のご遺族は黒木少佐のご遺族同様、戦後つらい思いで過ごされたそうです。
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【誰がために散る もう一つの「特攻」】の全記事から心に残った声をピックアップしてみました。
●周南市回天記念館の安達辰幸(74)=当時小学5年生
<現代の感覚でかわいそうという人がいるが、隊員の気持ちを理解するには、当時の時代背景や価値観、当時の目線で見ないと分からないと思う。18歳や19歳の人でも、わずかな犠牲で多くの日本人を救うんだという自負があった>
●竹林(旧姓・高橋)博(82)=回天搭乗員
<命令されたからといって死ねるものではない。国や家族を守ろうという気持ちがあるからこそできるのだ>
<まな板のコイどころではなかった。早く出撃させてくれ。毎日がそんな気持ちだった>
●吉留文夫(80)=回天搭乗員
<本土が戦場になれば大量殺戮、国土崩壊は目に見えている。戦争がいいとか悪いとかではなく、何とか敵の侵攻を食い止められないか。みんながそう考えた。平和を守るということは死ぬ覚悟がなければできない>
<映画なんかで、生きていてよかったという場面があるが、それはウソだと思う。戦後、大暴れして特攻崩れといわれたが、それはある種、死に場所を探していたんだ。戦友に申し訳ないと>
●黒木博司=回天考案者。当時20歳。大東亜戦争勃発直後に両親に出した手紙
<皇国の興廃此の一戦に有之、事容易ならず、神武肇国以来の最大国難にして、長期の困苦に堪ふる忍堪の力こそ最後の決と存じ候。此の長期の忍苦は、一に国民の団結、国民精神の振作一致に他ならず候>
●都所静世=回天搭乗員。享年21歳。出撃前に義姉に残した遺書
<それにつけても、いたいけな子供達を護らねばなりません。自分は国のためというより、むしろこの可憐な子供たちのために死のう>
●森稔=回天搭乗員。当時19歳。出撃前に残した遺書
<まだ吾が国体の尊厳なるを自覚致し候はず、徒に戦局の勝敗に拘泥致し、利欲に走り候輩多数居り候と聞き及び候は残念の極に御座候。一日も早く国の内外を問わず完全一体となり、勝利に只管突進致され候如く、皇国の空より常に御祈り致し居り候>
私は“特攻”について、親や教師からは、「上に命令されて嫌々死んでいった」「犬死にだった」というふうにしか教わりませんでした。
なぜ彼らが「志願」したのか、どのような訓練をしていたのか、何を言い残して出撃していったのかなど、ディテールを聞かされたことは一度もありません。
今、子供たちが、家庭や学校で“特攻”について教わることはあるのでしょうか。
もしあったとしても、私がされたような教え方では、当時の価値観について知ることはもちろん、当時の目線で戦争を考えてみるなどということは、とうてい不可能でしょう。
私は大人になってから、自分で本を読んだりして、当時の国際情勢や日本が置かれていた立場、当時の人々の価値観がどのようなものであったかなどを、少しずつ知るようになりました。
ご遺族の方々、また“特攻”を果たせなかった竹林さんや吉留さんのような方々が、英霊の思い(ある種の重荷)を背負いつつ戦後日本の復興に尽くされたことは、今なら十分理解できます。
また、私は以前は「当時の若者は全体主義の波にのまれていたから、自分の頭で考えて動くということはほとんどなかったんだろうな」というふうに考えていたんですが、これも間違いだとわかりました。
彼らは当時、国内外の状況を冷静に見据えながら(入ってくる情報はそう多くはなかったでしょうが)、ちゃんと自分の頭で考え、決断をし、行動していた。
これから日本はどうなっていくのか、自分たちは国や家族の将来のため何を為すべきなのかを真剣に考え、誇りを持って行動していた。
そのことに気づかされるようになりました。
一例――。
産経新聞では【誰がために散る もう一つの「特攻」】の連載が終了した直後に、【死を考える 第8部・最終章 戦争と平和】という連載がスタートしたのですが、その6回目(大阪版6月18日付掲載)、特攻隊について書かれた中に、このようなくだりがありました。
作家、山岡荘八のルポ「最後の従軍」によれば、山岡は20年4月、戦況が悪化する中、海軍報道班員として鹿児島の鹿屋基地に赴任した。そこには人間爆弾と呼ばれた「桜花」の部隊が出撃を控えていた。彼らは学生や大卒の「学鷲(がくわし)」と呼ばれる志願兵だった。
「この若者たちは数日以内にはことごとく死ぬのだ」。そう思うと、山岡は体が硬直した。ただ、すでに彼らは動揺期を克服しており、無性に明るく、どこにも陰鬱(いんうつ)な死の影はない。その姿は「離れがたい美しさを秘めていた」という。山岡は思いきって、尋ねてみた。「この戦争、勝てると思うのか。負けても悔いはないのか」「どうしたら、そんな心境になれるのか」。その一人、西田高光中尉はこう答えたという。
「学鷲は一応インテリです。簡単に勝てるとは思っていません。しかし負けたとしてもその後はどうなるのです…おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう民族の誇りに…」
そう、彼らは自身の「命の価値」に気づいていたのです。
生き残った方々やご遺族が、「自分や他の人の命を粗末にする今の子供たちはおかしい」と嘆かれるのも、無理はないと思います。
●「下呂楠公祭」事務局長で、大垣市立東中学校長の橋本秀雄(59)
<家族を愛し、国を愛して戦った。そういう人に対する感謝の心を失っていることが今の日本をおかしくしている>
●回天の考案者である黒木博司の妹、教子
<親兄弟や友達を簡単に殺したり、どこかおかしい。日本人の本当の精神を忘れてしまっているようです。兄たち英霊が期待したのは今のような日本ではないはずです>
●竹林(旧姓・高橋)博(82)=回天搭乗員
<今の子供たちの考えが信じられない。価値ある死を選んだ者を見てきた立場では、それは命を軽んじることで理解できない>
●吉留文夫(80)=回天搭乗員
<いまの日本人を見ていると、戦友が何のために死んでいったのかを子供や孫に伝えないといけないと思うようになった>
●「回天の母」と呼ばれた、おしげさんこと倉重アサコ
<神風や回天のような、絶対に死ぬとわかった兵器による特攻は、絶対に避けねばなりません。けれどもお国のため、みんなのために死んでいった若い人たちの心は、いまの若い人たちにも伝えておかねばならないと思います>
僭越ながら、戦争を全く体験していない私でも、時々申し訳なく思うことがあります。こんな日本にするために彼らは命を捧げたのだろうか?と。
私は、“特攻”に対する称賛、非難、そのどちらも行き過ぎてはいけないと思います。
だけど、彼らはあの時代、確かに存在していて、国のため、故郷のため、愛する人や家族のために戦い、亡くなっていった。それは疑いようのない事実です。
彼らの犠牲の上に、今の私たちがある。
彼らへの感謝の気持ちを決して忘れてはならないと思います。
その上で、彼らの思いをしっかりと受け止め、それを次の世代に伝えていく義務が、今を生きる私たちにはあるのではないでしょうか。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました<(_ _)>
以下はリンク集です。
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※「回天」関連リンク
・日本海軍と写真集>日本潜水艦史
・愛国顕彰ホームページ 祖国日本 第一部 殉國之碑>回天特別攻撃隊
※おすすめ論説
・【正論】防衛大学校長・五百旗頭真 栗林中将は「重きつとめ」を果し得た(産経6/10付)
<「重きつとめを果し得で」と栗林は嘆じた。けれどもその悲壮な抗戦が敵の本土侵攻を1日でも遅らせるどころか、本土決戦をなくし、故郷の家族が平和を得て、復興の日を迎える政府決定の基盤を醸成したのである>
※おすすめフラッシュ
・真実はどこに
昭和19年、祖父はフィリピンにいた。特攻隊の真実。
・回天特別攻撃隊
特攻隊は空だけではない。海にも存在していた。
・春よ来い
大東亜戦争末期、硫黄島の戦いにおける日本軍の奮戦と最期。
・かく戦えり近代日本
武士の魂よ、いまいずこ。
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初めてコメント下さる方は、こちらのガイドラインに一度目を通されてから宜しくお願いします。
Comments
胸に迫る記事ですね。こうしてこの記事に接することができたことに感謝いたします。長文アップ本当におつかれさまでした。
私は中学の修学旅行で知覧特攻平和会館へ行ったことがあるのですが、当時、一度特攻しながらも不測の事態で帰還し、二度目の特攻をまつ間に終戦を迎えた、という方がガイドとしてお話をしてくださいました。そのとき、「助かったというより、死に損ねた、戦友に申し訳ないという気持ちの方が強く、せめてという思いで戦友たちの遺品を遺族に届けた」(遺族に届けた…上で、その後遺品を集めて記念館にしたという経緯だったと思うのですが、その辺がうろ覚えです。すみません…)というようなお話をしていただいたことを、もう二十年も経とうかというのに今も思い出します。「助かったとは思えず、むしろ生き恥をさらすようで堪え難かった」というようなニュアンスのことも言われたと思いますが、それは当時中学生だった私にとって、価値観がひっくり返るほどの衝撃でした。
かつてその生の声を聞いた私に、この一連の記事はあのガイドの元特攻隊員を思い出させてくれました。確かに、彼らの思いはこの記事に書かれていることに重なるものだと思います。
現在はもうこのガイドの方はいらっしゃらないのか、公式サイトなどみても彼の存在を思わせる節はありません。今では、この記念館を訪れながらも、「特攻はいわば国民に対するテロ(注:隊員を国が殺したということらしい)。非人間的な所業で、記念館はそれをきれいごとで隠蔽しようとしている」という主旨の感想を自サイトで述べる人さえ見かけます。
そういう発言こそが、彼らの生き様を冒涜するのに…と憤らずにはいられません。
願わくば、思春期のただ中にある若者にこそ、彼らの生き様と本当の思いを知り、そこから思索してほしい。そう思います。
初めてコメントさせていただきました。長文になりましたことどうかご容赦ください。
長文の書き起こし、ありがとうございました。
読んでいて目頭が熱くなり、喉の奥がジーンとなりました。
そして、戦死した祖父の弟の言葉「俺は兄貴みたいに頭はよくないから、兄貴の代わりに戦争に行く。みんなを守るから。」を思い出しました。
※兄である祖父は農作業で親指をなくしていたことから、兵役試験に落ち、勉学に励んでいたそうです。
回天の搭乗員は北海道出身の方が多かったんですよね。以前、悪名高い北海◯新聞にも回天の搭乗員だった方の記事がありましたが…結局、記者の「こんなひどいことがあったのだ、戦争はいけない」思想で締められてて残念に思ったことがあります。
回天搭乗員の家族達も沢山いるはずの北海道でこそ、このような記事が新聞などで多くの人達の目にふれるようになることを望んでいます。
今日も長い長い、そして目頭の熱くなる記事、本当にお疲れ様です。
今日は靖国神社にみたま祭りの献灯をお願いしてきました。もちろん参拝も。
そして帰宅してこのサイトを拝見させていただき、もう、なんと言ったらいいのか胸に詰まる思いです。
ずしりと重く感じますのは「命令されてできることではない」という言葉ですね。家族や愛する者を守ろうという熱い思いは、靖国に収集されている英霊の遺書からも伝わってきます。
当時の若い兵たちが「国を守る」と言ったとき、それは愛する者や将来を担う幼い世代を守ると言うことに他ならないわけですね。
ところが、現代の日本では、現代人の価値観で「国のため」という言葉や当時の人々の行動を評価してしまいます。
この記事のように、少しでも当時の人々の心情が理解できる文章が、数多く残されることを祈ります。
産経新聞には数少ない良心派として頑張ってもらわないと困ると思うのですが、ネット上ですべての記事が読めるようになったら、ただでさえ少ない購読者獲得に重大な影響が出ます。
良心的新聞でも商売は商売。購読者が減れば廃業しかねません。お願いですから、何のためにネット配信しない記事があるのか斟酌してもらって、一部引用にとどめていただいて「後は本紙で」とか御配慮いただけませんか?
特集記事には記者も相当取材に力を入れるものですし、後に単行本化して費用を回収することもあるので。
朝日とか赤旗だったら、全文引用しようが、一部だろうが気にしないんですが、産経ファンゆえ心配です。
こちらのブログは一日何人の方が訪れてるのか存じませんが、くっくりさんには失礼ながら産経の購読者を減らすほどの影響力があるとまでは思えません。
いくらくっくりさんでも産経新聞のネット不掲載の全ての記事を起こせるわけもなし。
しかもこれはリアルではなく半月ほど前の記事です。くっくりさんなりの配慮ではないでしょうか。
引用オンリーではなくくっくりさん個人の感想も添えられていますし。
ま、いいんではないですか。
どこを削るか判断するほうが、全文を写すより難しいとは思いますが、やはり書いた記者への配慮というものはどこかであった方がよいと思います。
ソラゴトさん:
初コメントありがとうございます。修学旅行で知覧特攻平和会館ですか。それは良いですね。そういう学校もあるのですね。あまり聞いたことがないんですが、けっこうあるのでしょうか。修学旅行というとどうも広島、長崎の原爆資料館というイメージがありまして(^^ゞ。実際、私も高校の修学旅行で長崎の原爆資料館に行きましたし。これらの資料館が悪いとは言いませんが、一方で、命をかけて国を守ろうとした若者たちがいたこと、そのことは今の若い人たちに知らせてあげるべきだと思います。大人の義務だと思います。
アルテイさん:
学校の授業に取り入れてほしい、本当にそう思います。「何で人を殺しちゃいけないの」「何で自殺しちゃいけないの」と問うてくる子供に、特攻隊がいかにして生き、そして死んだかを話せば、少しは違ってくるんじゃないかと本気で思います。
みけさん:
「戦争自体を過去のものとして避けて…」、本当にそうですね。戦争は悲惨なもの、してはいけないものとよく言われますが、確かにそうなのですが、そこで思考停止してはいけないですよね。戦争のことを決して忘れず、悲惨な目にあった人たちがいたこと、そして同時に、誇りを持って立ち上がった人たちもいたこと、とにかく戦争の両面を伝えていくべきだと思います。
道民さん:
初コメントありがとうございます。「回天の搭乗員は北海道出身の方が多かった」こと、恥ずかしながら道民さんのコメントで初めて知りました。確かに北海○新聞はこの方面では悪名高いですね(^_^;。しかも北海道では産経新聞はなかなか購読しにくいとか……、札幌に住んでいる方が、確か「1日遅れで読んでる」と言ってました(T^T)
にゃはにゃはさん:
参拝、お疲れ様でした。未だに靖国神社に一度も参拝したことがない私です。毎年、今年こそは行くんだと決意しつつ、金銭的・時間的余裕がなくていつも行けません(T^T)。「命令されてできることではない」、そうですね、重いですよね。(3)で関豊興搭乗員が記録の中で「死を決意し、それに着手する人間の心理過程は、決して簡単なるものでも、容易なるものでもない。それを苦しみながら、終に結論に到達する。それは人間という一事である」と書かれていますが、ものすごく葛藤されたことが忍ばれますよね。
匿名希望さん:
産経サイドから削除要請があればもちろん削除します。また、産経の特集記事というのはすぐにWEBには掲載されなくても、後日掲載されることもありますので、少し様子を見て、もし掲載されているのを見つけたら自主的に削除する方針です。以前はいちいちその旨を注意書きをしていたのですが、最近さぼってます。すみません。
蕩尽さん:
拙ブログの訪問者は、その日にもよりますが、1日あたり5〜6000人ぐらいのようです。これは多いんでしょうか、少ないんでしょうか(^_^;
>しかもこれはリアルではなく半月ほど前の記事です。くっくりさんなりの配慮ではないでしょうか。
それはなくはないですが、それよりも他に先に伝えたいニュースとかがあったから、だったりして(^^ゞ
いやー、逆にwebに載せてない方が産経がホントに大事にしてる(=あまり大々的に引用してほしくない)記事かと思いますよ。著作権以前の配慮の問題としてきになったので。気を悪くされたらすみません。
>8回分の連載全て引用しなくても、充分くっくりさんの言いたいことは伝わりますよ。
主張は建前上正論なんだが、8回連載分のみで「後に単行本化」する筈もないし、連載総てを引用しなければ執筆者の意図が伝えられないという判断もあるし、テキスト化自体が産経の評価を高めている実態があるのも事実。
著作権尊重は結構だが、引用テキストに支持が多い事について、新聞購買拡張の点から産経がマイナスと判断するか否か不明。
匿名希望、はっきり言ってウザイ。
ブログ主が要請で削除すると書いてる訳だから、御託を並べる前に、産経に注進して削除させたら済む。
こういうワザとらしい奴、・・・好かんです。
新聞を産経に変えることにした。
いま電話終わった。
うちは去年まで読売と朝日を半年交替で購読してきたが、くっくりさんのブログを読み進めるうちに産経へと気持ちが傾き、今では産経一本の購読をしている。貴君が心配するまでもなく、産経読者が一軒増えたということ。まっ、こういう例もあるということだ。
産経さん、地方に進出できませんか?取りますけど。
それから私もこれを読んで産経にしたくなりましたよ〜。念のため。
ブログで記事の一部を紹介したとて、販売に影響するほどのことはない。普通の人なら全ての記事を無償で毎日ブログに転載するほどの労力を掛けることはできない。万が一そのような奇特な人物がいたら、産経新聞からクレームが来るだろう。
全文とはいえ、たくさんある記事の内の一つの記事を紹介したに過ぎないし、今回紹介されたような記事だけを読むために産経新聞を購読するような人なんかはいないはずだ。
むしろ、産経新聞の拡販に繋がるケースの方が多いはず。
知っていれば、テキスト化された文章をメールか何かで送ったものを。産経新聞テキスト版を購読していましたので…。¥1050/月です。何かと便利です。
以下にアドレスを記します。
https://webs.sankei.co.jp/sankei/index.html
http://www.sankei-digital.co.jp/others/iprop_application.html
また、産経新聞社、日本工業新聞社が発行する記事等においても著作権については同様で、紙面(記事)利用の場合にはそれぞれ申請が必要です。産経新聞、サンケイスポーツ、夕刊フジ紙面上の掲載記事の複写・転載は産経新聞東京本社・調査資料部(TEL.03-3275-8717)、同大阪本社・調査部(TEL.06-6633-9651)へお問い合わせください。
匿名希望さんも何も悪意があって指摘されたわけではないでしょうし、私も今後はもう少し配慮するようにします。
お騒がせして申し訳ありませんでした。
「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」
東京新聞論説委員のコラムを読んでみました 2007/06/20 10:32
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/201270/
----<省略>-----
>話題のコラムは、《【私説・論説室から】「ここは腰を低くしないと」(2007年6月17日)》というものです。本当は全文を紹介したいのですが、イザ編集部に問い合わせたところ、著作権に引っかかるということなので、残念ですが一部引用にとどめます。-<省略>-ああ、全文紹介できないのが残念です。<
昭和46(1971)年、山口県徳山市商店街再開発計画に関係して徳山市を数度訪問、昭和53(1978)年2月13日午後からの徳山商工会議所講演会の前の午前中に、徳山港から船で約40分、回天基地のあった大津島を視察しました。御霊が漂ってるのか、寒々とした冷気を今でも想いだします。試験潜水の潜航艇が事故で浮上せず、乗組員二人、黒木、樋口大尉が息絶えるまで手帳にメモした事故報告書が、銅板に拡大して写されて、「回天記念館」入口壁に貼られてありました。当時は尚更のこと、今もこれを書きながら涙を禁じ得ません。
記念館に繋がる道路の両側には、一人一人の慰霊碑が建ち並んでいました。最初の碑に黒木大尉(岐阜県)、向っての碑には樋口大尉(東京都)と書かれていました。
同53年4月22日、岐阜県下呂町(現下呂市)の講演に行きました。講演前に町内を車で視察しました。ふと眼に止まったのが「黒木医院」と書かれた看板でした。ご案内下さった助役に、回天記念館前の「黒木大尉(岐阜県)」と書かれた墓碑の話をしたのです。黒木博司大尉(殉職後少佐)のお兄さんが院長の病院でした。私の講演会にお兄様がご来聴下さいました。勿論私は講演の中で博司大尉の話をしました。
以後、回天に関する資料、書籍、故博司氏が慕った東大教授平泉博士が故黒木少佐に餞とした「慕楠記」等を読みました。
この度、膨大な数のブログの中から、偶然にも、くっくりさんの労作に触れて、故黒木少佐とのご縁に感謝し、くっくりさんにお礼を申し上げます。
今回の連載を全く知りませんでした。時々、新聞を買う時は必ず産経を買っていますが、わたしのように定期購読していない多くの人にとってはくっくりさんの労力が無ければ、一生目に触れる事もなく終わってしまう所です。
法的な事はそれとして、恐らく記者の方も、こういう形で産経読者の何倍もの人達に貴重な事実が伝わり、残る事こそ本望では無いでしょうか。私が記者なら立場上出来ない事をやってくれて感謝しますよ。
回天は搭乗員が自ら発案、実現したんですね。「強制」だの「可哀想」だのと間違った「ファンタジー」を早く払拭して事実が広がるといいですね。それが、よりよい日本の社会を造っていくことにつながっていくと思います。
これからも、貴重な情報の拡声器として頑張って下さい。
実は私は「回天」については、今回の産経の連載を読むまでほとんど知りませんでした。黒木少佐というお名前も、記事で初めて知ったという超初心者です。非常に感銘を受け、多くの方に知っていただきたいと思い記事の起こしをしました。記事には妹の教子さんのコメントが出てきますが、お兄さまはいったいどのような思いで戦後を過ごされてきたのだろう?とふと思いました。
この度は大変ご丁寧なコメントをいただき、ありがとうございました。どうかお身体ご自愛下さい。
たかひろさん:
励ましのお言葉、ありがとうございます。「情報の拡声器」はいいキャッチコピーですね(^_^;
特攻は当初では志願制だったのが後には強制的なケースもあったと聞きますが、特攻隊員は敗戦講和条件の為に死ぬことを知っていたんですね。
しかし、硫黄島・沖縄の玉砕・特攻の後に広島・長崎への原爆投下で犠牲者が増え、講和条件は連合国のポツダム宣言を受け入れざるを得なかったから、結果論から言えば特攻の「国土・国民の命を守り好条件の講和を締結する」目的は達成されなかった、或いは特攻は逆効果だったと言えるかもしれない。
勝敗はすでに決していたのに、いたずらに終戦を引き伸ばして多くの将兵を死なせ民間人を巻き添えにした大本営と昭和天皇の責任は大きい。
戦争に勝っていれば回天と戦闘機の特攻は誰もが自己犠牲的英雄と称えるはずなのに、戦争に負けたから捨石・生贄・捨て身・自爆・無駄死・犬死と揶揄されるのは悲しい。
コメントありがとうございます。「負けるにしても少しでも日本に有利な条件で降伏できるように」というの、他のところでも聞いたことがあります。当時は特攻隊に限らず、多くの兵士たちがそう考えてたんだろうなと思います。それを思うとすごく切ないですね。でも特攻は逆効果ということもなかったと思います。日本人というのは国のためなら(天皇のためなら)死をもいとわない恐ろしい民族なのだ、ということをアメリカ人に知らしめたからこそ、皇室制度は残されたのではないかと思ったりもするからです。戦争には負けたけれども、国内で顕彰するぐらいいいじゃないですか。なのに反日サヨクは「戦争を美化している」と文句つける。うんざりしますよね。
私は九州北部出身で、地理的な事情から小学校の修学旅行で長崎・雲仙へ(この時長崎の平和公園&原爆資料館)、中学校では南九州周遊旅行で、そのコースの一つとして知覧特攻平和会館が入っていました。
現在もそういうコースなのかどうかはわかりません…が、多感な時期に異なる目線からの戦争の記録を見る事ができたことは、今にして想えば意義の有る事だったんだなあと思っています。
特攻隊は自爆させられてかわいそう、と何となく思っていたところへ、「死に損なった」という、まるで贖罪するかのごとく記念館のガイドをつとめる彼の言葉。忘れられません。
「命をかけて国を守ろうとした若者たちがいたこと、そのことは今の若い人たちに知らせてあげるべき」というくっくりさんのお言葉には本当に同感です。
>命をかけて国を守ろうとした若者たちがいたこと、そのことは今の若い人たちに知らせてあげるべき。
私も同感です。
しかし国は兵士の命を大切にしなかった。インパール作戦・玉砕作戦・特攻作戦は兵士の命を粗末に使い捨てにした作戦です。
「命をかけて国を守ろうとした兵士に感謝すべきだ。しかし国は兵士の命を大切にしない無謀な作戦があった」と両方を語るべきです。
特攻隊が命をかけて国を守ろうとしたことだけを言って賞賛し、国・軍部・天皇陛下の開戦・敗戦責任を不問にして(特攻隊に感謝→特攻作戦は良かった→特攻作戦の立案者・命令者は英雄)となってはいけないと思います。
>日本人というのは国のためなら(天皇のためなら)死をもいとわない恐ろしい民族なのだ、ということをアメリカ人に知らしめたからこそ、皇室制度は残されたのではないかと思ったりもするからです。
日本人は国(天皇)のためなら死をもいとわなかったのに対して
昭和天皇は1975年の記者会見で、原爆について「広島市民に対しては、気の毒であるが、やむを得なかった」と語り、
さらに戦争責任については「そういう言葉のアヤについては、私は文学方面をあまり研究していないので、よく分かりません」と答えました。
私は杉本幹夫(自由主義史観研究会理事)氏が「天皇陛下の責任」について「戦争責任を取り退位なさるべきだったと思っている。」という意見に賛成です。
くっくりさんにお尋ねします。
(1)昭和天皇に戦争責任があると思いますか?
(2)皇室制度を守る為なら国民が大勢死んでも良いと思いますか?
(3)皇室制度を守る為ならくっくりさん自身は自爆死しても良いと思いますか?
(4)イスラム教徒の自爆死は特攻隊と同じ自己犠牲的行為ですが支持しますか?
ガイドライン(投稿規約)は読んで下さいましたか?