中国が尖閣諸島を日本の領土だと認識していたことを裏付ける史料

2010.10.04 Monday 02:02
くっくり


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(1)1919年、尖閣諸島の魚釣島に漂着座礁した中国漁船の乗組員を救助した島民に対し、中華民国の在長崎領事の馮冕が送った感謝状
拙エントリー9/20付:中国政府の感謝状に「沖縄県八重山郡尖閣諸島」を再構成)

 1884年、福岡出身の商人・古賀辰四郎は、人跡未踏の尖閣諸島に探検隊を送り込んで調査を行った。周辺海域の魚影は濃く、とくに鰹の大きな群れが島の近場を回遊。これは将来有望だと判断し、古賀は魚釣島に移住開拓を図るのである。
 魚釣島で古賀の事業は成功した。豊富な鰹などの海産物は缶詰や干物に加工され、また無尽蔵とも思えるアホウドリなど海鳥の羽毛採取は莫大な利益をあげた。

 辰四郎の後を継いだ嫡男の善次が島主となった翌1919年(大正8年)、ひとつの事件が起こる。
 中国・福建省から船出した中国の漁船・金合丸が暴風雨に遭遇し、魚釣島に漂着座礁したのである。この船には船主兼船長・郭合順以下31名が乗り組んでいた。座礁したまま身動きがとれなくなって、魚釣島の島民に助けを求めた。
 善次の陣頭指揮のもと、金合丸の乗組員全員は無事救出された。手厚い保護を受けた遭難漁民たちは、やがて石垣島に送られ、半月余の後に台湾経由で故郷の福建省に無事帰還することができたのである。

 その後、魚釣島における善意の海難救出に尽力した古賀善次ら島民7名に対し、中国(中華民国)在長崎領事の馮冕より感謝状が届いた。その感謝状には、海難発生場所として「日本帝国沖縄縣八重山郡尖閣列島」と記されているのだ。

 感謝状は表記の玉代勢氏のほか、石垣村長(当時)の豊川善佐氏、古賀善次氏、そして通訳を務めた松葉ロブナストさんら計7人に贈られた。ここに取り上げたのは、私蔵されていた感謝状を玉代勢氏が1996年1月に石垣市に寄贈したもので、現存するのはこれ1枚だけである。

image[1010-01senkaku.jpg]

 原文は中国語だが、日本語による大意は以下の通り。

感謝状

 中華民国八年冬、福建省恵安県の漁民である郭合順ら三十一人が嵐(原文では風)に遭って遭難し、漂流して、日本帝国沖縄縣八重山郡尖閣列島内の和洋島(魚釣島の別名)に漂着。

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