「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(3)
2009.09.28 Monday 01:12
くっくり
●(前項のつづき)現在朝鮮の改革は日本の保護下では行われていないとはいえ、進行中のものはほとんどの段階においても日本が定めた方針に則っていることを念頭に置かなければならない。
日日新聞は井上伯が朝鮮に関し「王室と国しかわたしの眼中にはなかった」と述べたと報じている。一八九五年当初においてはこのような結論が正当だったのであり*1、おなじ結論に達したわたしは井上伯のように申し分のない権威に擁護されていることをうれしく思う。(p.327-328)
*1 引用者注:残念ながら朝鮮の国政改革は「洪範一四カ条」の通りには進まず、この後も延々と宮廷内の闘争が続く。特に閔妃は国政よりも王宮経営、それも自分と親族の権力や利権を守ることに必死な上に、相変わらずの浪費家であり、日本側が苦労して朝鮮兵や文官たちの給料を調達したり国家予算のほぼ全額を貸与したりという中に、幾度も宴会を開いていた。閔妃が支援を請うたロシア公使ですら、「若し君主が内閣の権力を奪取り、余り自身に之を振過ぎるときは、国家滅亡に至るべし」と述べている。詳細はこちらを参照。
●(バードが王妃に最初に謁見した際)王妃は皇太子の健康についてたえず気をもみ、側室の息子が王位後継者に選ばれるのではないかという不安に日々さらされていた。頻繁に呪術師を呼んだり、仏教寺院への寄付を増やしつづけたりといった王妃の節操を欠いた行為のなかには、そこに起因したものもあったにちがいない。謁見中の大部分を母と息子は手をとり合ってすわっていた。(p.332)
●その後三週間にさらにわたしは謁見をたまわった。二度目は前回と同じくアンダーウッド夫人(引用者注:王妃の侍医であり懇意な友人でもあるアメリカ人医療宣教師)とごいっしょし、三度目は正式なレセプションで、四度目は厳密に内々の面会で一時間を超えた。どのときもわたしは王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才に感服した。その政治的な影響力がなみはずれてつよいことや、国王に対してもつよい影響力を行使していること、などなどは驚くまでもなかった。王妃は敵に囲まれていた。国王の父大院君〈テウオングン〉を主とする敵対者たちはみな、政府要職のほぼすべてに自分の一族を就けてしまった王妃の才覚と権勢に苦々しい思いをつのらせている。王妃は毎日が闘いの日々を送っていた。魅力と鋭い洞察力と知恵のすべてを動員して、権力を得るべく、夫と息子の尊厳と安全を守るべく、大院君を失墜させるべく闘っていた。多くの命を粛清してきたとはいえ、そのために朝鮮の伝統と慣習を破るということはなく、また粛清の口実として、国王の即位直後に大院君が王妃の実弟宅に時限爆弾をひそませた美しい箱を送り、王妃の母、弟、甥をはじめ数名の人間を殺害したという事実がある。その事件以来大院君は王妃自身の命もねらっており、ふたりのあいだの確執は白熱の一途をたどっていた。(p.334-335)
[7] beginning... [9] >>
comments (21)
trackbacks (1)
<< 「アンカー」優先順位がおかしい鳩山政権&動き出してる外国人参政権
「アンカー」鳩山政権の経済対策は四方八方美人で国債大増発? >>
[0] [top]