長崎事件をご存知ですか?支那を憂う明治天皇と沿岸防備に寄附した国民

2012.11.05 Monday 17:11
くっくり




 8月20日、天津にいた李鴻章(直隷総督兼北洋通商大臣)は、天津領事の波多野章五郎を呼び出し尋問します。

 李鴻章は、「わが水兵の死者は5名」と犠牲者を4名水増しした上、「我が国の水兵と貴国巡査との間で喧嘩があった」「武器を持たない我が水兵を殺傷した」と事実に全く反したことを並び立てました。

 その上で、李鴻章は波多野に対して、こう恫喝しました。

 「今又この事については帯兵営から電報を発して、開戦してもよいかどうかと問うて来たが、自分からはこれを差し止めた。しかし、今戦争を開かんとするのは難事ではない。貴国にある我が兵船は船体銃砲皆使用可能で、自由に開戦することができるからである」

 2日後、李鴻章の態度はトーンダウンしますが(2日前は、長崎にいる丁汝昌提督らの電報を受けての対応だったため、内容の真偽をよく調べもせずに発言したようです)、巡査の行為を犯罪事件取締りの行為とは見ずに、あくまで巡査と水兵の「喧嘩」として通そうとしました。

 当時は清国、今は中華人民共和国と、国家の形態は変わりましたが、支那のこの尊大な態度、自分の落ち度を認めない姿勢は全く変わってませんよね(-.-#)

 その後、日清両国の調査委員会が発足、欧米各国の法律家なども巻き込んで何度も談判が行われますが、最終的には政治的決着が図られました。

 事件発生の翌1887年(明治20年)2月8日、井上馨外務大臣、徐承祖欽差全権大臣の両名によって条約が締結されましたが、その中身は日本にとって不利なものでした。

 日本は軍事的に清国に劣っていた上に、英独仏3国が清国を支援していて孤立状態だったからです。

 日本はやむなく清国に有利な条件、すなわち、暴動を起こし長崎市街を破壊した清国水兵を取り締まった巡査の行為を「喧嘩」として処理し、両国が慈善基金を出し合い、互いの死傷者に配分する案で妥協せざるをえませんでした。

 しかも、この妥協案では清国が死傷者を死亡8名、負傷42名と水増しされており(前年8月20日の李鴻章の発言より死者がさらに3名増えています)、日本から提供する金額の方が大きくなってしまいました。

 しかし、これはおかしなことです。
 そもそも日本と清との間には、1871年(明治4年)に調印した日清修好条規があります。

[7] << [9] >>
comments (6)
trackbacks (0)


<< 宮城県議会「李明博韓国大統領の言動に抗議し、対韓外交等の見直しを求める意見書」相沢光哉議員の賛成討論全文
「アンカー」脱・思い込み!日本外交・尖閣・竹島・拉致 >>
[0] [top]


[Serene Bach 2.04R]