長崎事件をご存知ですか?支那を憂う明治天皇と沿岸防備に寄附した国民

2012.11.05 Monday 17:11
くっくり


 
 明治維新以降、朝鮮の地位をめぐって日清両国は次第に対立を深めつつありました。
 朝鮮の宗主国たる清国は、日本を仮想敵国と見なして軍備増強に努めます。

 当時の清国北洋艦隊は「定遠(ていえん)」「鎮遠(ちんえん)」といった東洋一の鋼鉄製戦艦を擁し、海軍力において日本を圧倒していました。

 「定遠」「鎮遠」は共に排水量7000トン。
 一方、当時の日本海軍は、排水量4000トン級の巡洋艦「浪速(なにわ)」「高千穂」を擁するのみでした。

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【清国北洋艦隊の「鎮遠」(Wikipediaより)】


 1886年(明治19年)、長崎で事件が起きます。

 8月1日、丁汝昌(ていじょしょう)率いる清国北洋艦隊が「定遠」「鎮遠」以下4隻の軍艦を連ねて、艦艇修理のためと称して長崎に入港しました。

 しかし、その真の目的は、軍事的偵察と日本に対する威圧・恫喝のためでした。

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【明治期の長崎港(1893年)(Wikipediaより)】


 8月13日、数百人の清国水兵が長崎の町に上陸を開始します。

 その夜、数名の水兵が遊廓で登楼の順番をめぐる行き違いから、備品を壊したり暴行を働くなどのトラブルを起こしました。

 日本の巡査2名が現場に向かったところ、水兵らは彼らに暴行を加えました(通常の巡査は帯剣をしておらず警棒のみを所持)。
 巡査らはうち2名を逮捕したものの、他は逃亡してしまいました。

 その後、10数名の水兵が派出所前に現れます。
 その中に先の遊郭で巡査に暴行した者がいたので捕らえようとしたところ、日本刀で巡査を切りつけてきました。

 巡査は負傷しながらも、応援の巡査と共に刀を取り上げ、水兵を取り押さえました。
 そしてその水兵を警察署に送付、後に清国領事館に引き渡しました。

 この事件により、日本側と清国側で協定が結ばれます。

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