支那人の民族性を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ
2010.12.07 Tuesday 01:58
くっくり
【虐殺されても中国人をかばう宣教師】
福州を流れる川の上流でのこと。高齢のイギリス人女宣教師が2人、追剥に捕まり「裁判され」、「帝国主義者」にされ、「残虐なる死刑」に処された。生涯を聖職者として現地住民のために捧げた2人に待っていたのは、体中を切り刻まれ、長時間悶え苦しみ殺されるという無残な最期であった。当然ながら、中国国民党「政府」は何もしなかった。政策の一環であるから、助けるわけがない。
対照的に、こういう反外国人、反キリスト教運動がいくら起こっても民間人は別段驚かない。冷静に見ている。中国人はいつまで経っても中国人であって、いくら表で愛想を振りまこうとも、裏では何をするかわからない人間であることを重々承知しているからである。
毎回同じことの繰り返しだ。クリスチャンに対する大々的な虐殺、略奪がしばらく鳴りを潜めると、宣教師たちは「とうとう中国人もキリスト教徒となってくれた」と喜びの声を上げる。一方、民間人は、「ちょっと待ってくれ。元の中国人にすぐ戻るよ」と。
数十年経っても同じことの繰り返しである。民間人の方が正しく、宣教師がトンチンカンな反応をしている。例えば、反宣教暴動が勃発する数週間、もしくは数ヶ月前の宣教師の文書をめくると、「これで反布教運動は終わった。目覚めた政府に導かれ、民衆は福音に目覚めたのである。これほど素晴らしい国民はいない。素晴らしすぎて褒め称える言葉が見つからない」とまで書いてある。
〈中略〉同様の賛辞に騙され、数千人が2年後の1900年、血の海に沈んだ。「守護神」であったはずの政府が外国人撲滅運動を画策していたのである。いわゆる義和団事件である。
この事件で宣教師はじめ外国人追放運動に可能な限りの軍事援助をしたのがあの西太后である。いつもながらそのやり口が汚い。義和団が不穏な動きを見せていたが、政府は宣教活動の「守護神」として理解を示していた。そして義和団が無防備の宣教師を虐殺し、「できる」と見ると「君子豹変」した。数百の宣教師が殺害された。宣教師だけではない。「信者」のレッテルを貼られて虐殺された中国人は4桁にもなる。
同僚が惨殺されるのを何度も目の当たりにしながら、疑うことを止めない〈訳文ママ〉のが宣教師である。1926年になってさえも、国民党を中国人救済の最後の「盟友」と持ち上げている。おめでたい限りである。その1年後にはどうなったか。反クリスチャンの嵐が荒れ狂い、日本やフィリピンへと避難する羽目に陥ったのではないか。中国人の正体がわからないのか、知ろうとしないのか。攻撃体勢が整うまでは本心を表さない、手練手管に長けたのが中国人である。「同じ目的に向かい、手に手をとって進もうではありませんか」等と言われ、すっかりその気になるのが宣教師である。
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