命を賭すほどの最高の価値を見つける構えを持って(西部邁さんの論説)
2010.12.04 Saturday 04:07
くっくり
だからこそ、尖閣をはじめ北方領土や竹島といった領土問題その他で、中国からもロシアからも韓国からもアメ公、もといアメリカからも「お前たちの外交は5歳児か10歳児だ」とからかわれる顛末(てんまつ)になったんです。
僕の見込みでは、これからますます精神年齢が下がり続けるでしょう。毎年1歳ずつ下がり、あと9年後には0歳児になり、中国やアメリカの属国として存在するしかなくなる。誠に困りましたなあ。
確かに「命あっての物種」だと思うことはよくあります。
どんなに大きな夢や立派な志を持っていても、死んだらそこで終わり、だからたった一つの命を大事にしなければいけないのだと。
でも、そういった個人単位の「命」ではなく、うまく言えないけど、もっと違う次元というか、もっと大きな括りで、人間の「命」とは何ぞや?ってことを私たち一人ひとりが考えなければならない時というのは、いつの時代にもあるのではないでしょうか。
ぶっちゃけ、「生きざま」も大事だけど、「死にざま」を考えてみるのも大事なことじゃないか?と。たとえ平時であってもです。
てか、今、日本が置かれている状況は果たして「平時」なのでしょうか?
特に領土問題や安全保障について考えた時、その前提すら危うくなってきていると私には思えるのですが。
これはわりと有名な話だと思うのですが、2003年、小泉首相(当時)は有事関連法案の国会審議で、このように述べたそうです。
「私は、侵略者に抵抗しないで言いなりになる『奴隷の平和』は選ばない。平素から日本の平和と独立を侵そうとする勢力に対しては断固たる決意を持って抵抗するという備えがあって初めて戦争は防げるのではないでしょうか」
私は、小泉さんがどういう流れでこう発言したのか、また、どこまでの覚悟を持ってこう述べたのかは知りません。ひょっとしたらハッタリも多分に入っていたのかもしれません。
が、今、日本の舵取りを任されている菅政権の閣僚や民主党議員の方々を見て、皆さんどう思われますか。ハッタリを言える人さえ皆無に近いのではないでしょうか。
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