2010.12.04 Saturday 04:07
くっくり
命について言えば、僕は、昔、山本常朝の武士道について考えたことがある。『葉隠』の有名な一節には「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とあり、この言葉の解釈は、少なくとも現代になお通用するように解釈しようとすると、その命題は次のようなことになる。
「武士道とは『もしも最高の価値というものを見つけているのならば、その最高の価値のために』死になさいということだ」と。
さらに『葉隠』には「人生一生まことにわずかのことなり、好いたことをして暮らすべきなり」とも書かれている。
三島由紀夫さんは、「この二つの文章には矛盾があるが、山本常朝は矛盾したことを言っているから面白い」で済ませてしまった。しかし僕から言わせてもらえば、矛盾しているから面白いなどというのは文学者のとぼけた話であって、その矛盾は解決しきれないとしても、解決すべく論理を組み立てるべきです。
そこで、この二つの文章を結びつけるとこうなる。
「人生はまことに短いから、命を賭すほどの最高の価値はなかなか見つからないかもしれないが、最高の価値を見つけることが一番好きだと構えてこその人間なんだから、それを見つけるべく暮らしなさい」と。
「暮らす」とは、議論しなさい、間違っていたら訂正しなさい、新しいことを思いついたら人に話をしてごらんなさいということです。そういうふうに暮らしなさいと言っているわけです。
日本人は戦後、命を賭すほどの最高の価値を見つける構えを全て投げ捨ててきた。そして、なによりも命が大事で通してきた。
大東亜戦争で数百万人が犠牲になったことで日本人はすっかり腰を抜かし、亡くなった人たちはかわいそう、僕たち生きていて嬉しいな、今後ともできれば無限に生きたいものだ、と考えるようになった。
そこで最高の価値は何か、死を賭すに値する価値は何か、それを見つけることこそが一番の好きなことだと構えてこそ、名誉ある栄えある生き方ではないか。それが見つかれば、あるいは見つからないまでも、どうもこういうものではないかと思えるまでに至り、たとえある条件が押し寄せてきて、それが戦争であったり、革命であったりしても、敢然と引き受けることができる。ただし、絶対的な価値かどうかは神のみぞ知るところであり、いつまでもあれこれと考えても神様にはなれない。ならば、とりあえずはそれらの戦いを正戦として受け入れて、可能ならば命を懸けて死んでしまえという生き方がこそが、最も活気があって楽しい生き方だ。そのことを65年間日本人は知らされず、知ろうともしてこなかった。
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