江戸時代を見直そう(2)
2010.03.30 Tuesday 00:53
くっくり
儒学の振興も重要です。武士から庶民にいたるまで浸透し、人間としても柱石となりました。徳川の儒学は何も小難しいことではありません。要するに「仁義礼知信」。私たちが教育勅語で習ったようなものです。
同時代、十八世紀ヨーロッパではディドロたちの「百科全書派」が旺盛な活動をしていました。『百科全書』のなかに「日本人の哲学」という長い論文が含まれています。これはケンペルの『日本誌』によって書いているもので、日本の哲学というのは「仁義礼知信」。非常に簡単明瞭でわかりやすく実践的な哲学だと、ディドロたちは評価しています。
こう見てくると、私たちはいまこそ、徳川日本の文明を謙虚に学び直すべきではないでしょうか。工夫を凝らして平和を作り上げ、これを維持しながら、あれだけ豊かな文化を下々に至るまで普及させた。その多くの所産は今日なお普遍的価値を持つ。明治維新は徳川の日本があったからこそ、徳川の日本人がいたからこそできた革命でした。明治維新は、要するに徳川日本の遺産です。明治維新をやった人は全部徳川生まれの徳川育ち。つまり明治維新というのは徳川があってできたということを、改めて考える必要があるでしょう。
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【古地図/三河國全圖(天保八年)】
■金森敦子(ノンフィクション作家)
旅日記を読んでいると、物と情報が旅人によってもたらされていることがわかります。たとえば稲です。伊勢参りの帰りに、実りのいい稲の穂を隠して持ってきて地元に植えたという話がけっこう出てくるのです。それに農具。街道を歩いていて便利そうな農具を目にすると、その形を覚えるなりスケッチするなりして、村に帰って野鍛冶に作らせる。一番大事だったのは情報です。旅人たちは情報配達人でもあったわけです。
先ほど関所抜けのお話をしましたが(「江戸時代を見直そう」前回分参照)、こんなこともあったそうです。江戸から中山道を下ると必ず木曽福島の関所を通らなくてはなりません。でも、その手前には塩尻から飯田を通って三河に至る伊那街道があります。塩尻の分かれ道には伊那街道のほうに「女道」という石標が立っていたそうです。「関所を通りたくない女はこっちに行け」と。飯田から馬籠に至る道があり、そこにも関所がありますが、その関所の近くに抜け道があるからこそそこを通れというわけです。旅人によってそんなことまでおおっぴらになっていたのです。
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