江戸時代を見直そう

2010.03.23 Tuesday 01:08
くっくり



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【道中独案内図/関東】

■金森敦子(ノンフィクション作家)

 江戸後期から増えてくる東北の農村地帯の人たちが書いた旅日記を読むと、「私が習った江戸時代の歴史、江戸時代のイメージっていったい何だったんだろう」と驚くことが多いのです。

 そのなかで一番驚いたのは、関所抜けです。関所抜けと言うと言葉は柔らかいのですが、つまり関所破りのことで、幕府の掟では磔の刑に処せられることになっていました。一番重い刑ですね。それを、江戸時代の庶民たちは実に易々と破りながら長い旅をしているんです。

〈中略〉庶民の女性は関所手形を持たないで長旅をするのが常識だったようなんです。

 越後と信州の間に北国街道が通っています。越後の一番はずれに関川という宿場があり、ここは高田藩が徳川幕府から預かっていた関川の関所があります。この街道は善光寺参りに利用されていたため、女性の往来が非常に多かった。それで、女性連れが関川の宿に着くと、真っ昼間から旅籠の宿引きが袖を引く。「お客さん、当店にお泊まりになると関所を通らない道をご案内しますので、是非うちにお泊まり下さい」と。

〈中略〉それでどこを通るのかといえば、関川の関所を通るんです(笑)。関所には鍵のかかった頑丈な木戸がありますから通れません。ところが、端のほうに小さなくぐり戸があり、そこを堂々と抜けていくんです。それが毎夜、毎夜繰り返されている。

 ある人の旅日記によると、そのくぐり戸の下の地面が窪んでいたそうです。どれだけ大勢の人がそこを通ったことか。関所の関守は関所の内部かすぐ近くに住んでいましたから、毎夜、毎夜繰り返される関所破りを知らないはずはないんです。それなのに捕まえたという記録がありません。

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