「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(2)終
2010.01.04 Monday 00:18
くっくり
「崇徳天皇の最期は、およそ天狗のようであったと伝えられていまして、自分は日本国の大魔縁となると。天皇を民に貶め、そして民を天皇にすると、国家滅亡の呪いの言葉を発せられて、それで崩御されたと」(竹田恒泰)
崇徳天皇の憤死後、弟の後白河天皇の周囲に怪異が続いた。
息子の二条天皇が在位中に23歳で亡くなり、息子の后である中宮、自らの女御がひと月をあけずに若くして亡くなり、その10日後には孫である六条院までもが13歳で亡くなる。
さらに京都の街の3分の1を焼く大火が起こり、死者1000人に及び、後白河天皇が暮らす御所も被害に。
これは崇徳天皇の祟りに違いないと、後白河天皇は崇徳天皇を手厚く祀り始めた。実は「崇徳院」という名前も、この時に送られた天皇を称える特別な敬称。さらに成勝寺で供養も行われた。
だが、その後、源平合戦が起こり、鎌倉幕府が誕生。武士が政権を握ることに。まさに天皇を平民に、平民を天皇にという崇徳天皇の呪いが実現したとも言えるのだ。
「(崇徳院の死後)武家政権が成立し、混迷の度合を深めていきますので、武家の時代というのは呪われた時代ということになりますね。その後(崇徳天皇の死を祀る)100年ごとの式年祭があるんですけど、その度に天変地異・国家動乱が起きるんですね」(竹田恒泰)
1164年=崇徳天皇亡くなる
1263年=元に国交を迫られる(元寇のきっかけとなる)
1364年=南北朝の動乱
1467年=応仁の乱
だが、これだけの力を持った怨霊は丁重にお祀りすれば強力な守り神になる。
明治天皇は、崇徳天皇を新国家の守り神にしようとした。
「明治天皇は即位の前日、というと大変忙しいはずなんですが、重要なお祀りをされています。それは700年ぶりに崇徳天皇の御霊を、四国から京都に移すというお祀りをされている。新しい国家体制を作っていくにあたって、崇徳天皇との和解をすませておくのが絶対の条件だと信じられていたからです」(竹田恒泰)
明治天皇の即位式は慶応4年8月27日。その前日の8月26日、明治天皇は崇徳天皇の御霊を四国から京都へ移された。天皇の巡幸と同じように、神輿と400名もの従者を伴って行われた。
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