「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(2)終
2010.01.04 Monday 00:18
くっくり
明治以降の東京や国を護るキーマン、そして日本最大の怨霊、崇徳天皇(1119-1164)。
[以下、こちらの系図など参考にしながらお読み下さい(^^ゞ]
平安後期、院政がひかれ、武士が台頭してきていた1119年、崇徳天皇は鳥羽天皇を父に、白河上皇を曾祖父に誕生した。
実際は曾祖父である白河上皇の子であったと考えられている。
そのため鳥羽天皇は、本当は我が子ではなく叔父だという意味で、崇徳天皇を「叔父子」と呼び、嫌っていたという。
崇徳天皇は曾祖父の力で父から譲位され、幼くして天皇になる。父である鳥羽上皇はここでも屈辱を味わう。
だが、その後、白河上皇が亡くなり、鳥羽上皇の仕返しが始まる。
鳥羽上皇は実子を皇位に就けるため、崇徳天皇に譲位を迫り、崇徳天皇は鳥羽上皇の子・近衛天皇に位を譲る。
その後譲位された近衛天皇が若くして亡くなる。
この場合、鳥羽上皇の第一子である崇徳上皇の子が天皇になるのが普通だが、鳥羽上皇はこれをまたしても妨害。
結局、崇徳上皇の弟にあたる後白河天皇が即位することになり、これを不服とする崇徳天皇と後白河天皇の間に争いが起こった。
これが武士を巻き込んだ保元の乱。
この戦いに破れた崇徳天皇は、讃岐国に流刑となった。都に戻る望みは絶たれ、皇位も剥奪され、空しい日々を過ごす。
崇徳天皇はある決意をする。自らの血を使って写経をし、京都に送ることにしたのだ。法華経、涅槃経など全部で190巻にも上る膨大な量。
崇徳天皇はそこに帝となった弟に宛てた手紙をつけた。
「後生菩提のため、五部大乗経を書写したが、寺院の鐘やホラ貝のない遠い国に置くことは不憫であるから、都の周辺に置いて欲しい」
自分はもう二度と帰れない京の都に、せめて自分が書いたお経だけでも戻りたいという願いを込めたのだ。
ほどなくして都から返事が届いた。
弟の後白河天皇からの承諾の知らせと喜んで文箱を開けてみると、そこに入っていたのはビリビリに破かれたお経。
我が身ばかりかお経すら受け入れてもらえない。崇徳天皇は庭に飛び出し、その場で舌先を噛みちぎった。そして、その血で「天下滅亡」という呪いの言葉を書き残し、数日以内に憤死したという。
[7] << [9] >>
comments (25)
trackbacks (0)
<< 「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(1)
「アンカー」小沢と検察チキンレース&訪朝狙う民主政権 >>
[0] [top]