「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(4)終
2009.11.01 Sunday 00:21
くっくり
●朝鮮にとって一八九六年は前年の深い憂鬱をひきずったまま明けた。小さな謀叛がいたるところで起きてさまざまな官僚が殺され、ソウルまで進んできそうな反乱軍もあった。日本の影響力は傾いていた。日本軍は駐屯地からしだいに撤退し、朝鮮政府各省の日本人顧問や検査官は雇用契約が切れても更新されず、日本が支配的立場にあったときに実施した改革も一部は自然消滅してしまい、時勢ははっきり退行を示していた。行政機関は全土で崩壊しつつあった。(p.459)
●(前項のつづき)国内全体が動揺し何件かの深刻な暴動が起きたのには原因がある。その原因はわたしたちにはばかばかしく思えようとも、朝鮮人には広く根づいた風習を捨てまいとするつよい保守性があることを、なにはさておき教えてくれている。その原因とは一八九五年一二月三〇日の勅命による「まげ」への攻撃である!*3 これが全土を炎と燃えさせた! 憎き日本が優位を誇ろうとも、あるいは王妃が暗殺されようとも、国王が幽閉同然の待遇を受けようともじっと耐えてきた朝鮮人が、髪形への攻撃にはどうにも耐えられなかったのである。朝鮮人にとって「まげ」は清国人にとっても弁髪のはるか上を行く。清国人の弁髪は政府への服従あるいは忠誠のしるしにすぎず、髪の伸びそろった幼児期から結いはじめる。
しかし朝鮮人にとって「まげ」は朝鮮人たるしるしであり、大昔からの慣習であり(五〇〇年前からとも二〇〇〇年前からともいわれる)、歴史のあるがゆえに神聖なものであり、たとえ実際にはまだ数歳の子供ではあっても、社会的法的に成人たるあかしであり、また姓の下につづけて、後世に残り祖先の位牌にも書きこまれるふたつの名を持っているというしるしでもある。(p.459-460)
*3 引用者注:断髪令は金弘集(内閣総理大臣)らが進めていた近代化政策である甲午改革、乙未改革の一環として行われたが、「身体、髪の毛、肌は父母から譲り受けたもので、傷つけないのが孝の始まりだ」という儒教の考えから反発が広まり、また断髪令は日本のまねだとして反日感情にも結びつき、乙未義兵が発生する原因にもなった。露館播遷後に、人心を収拾するため、断髪令は撤回された(Wikipediaによる)。
●これほど尊ばれ、いわれがあり、朝鮮人であることとかたく結びついている(朝鮮人は正真正銘の愛国心にははなはだしく欠けるとはいえ、愛国的傾向はつよい)「慣習」であるから、「まげ」を実質的に廃止する一八九五年一二月三〇日の勅命はまさしく青天の霹靂だった。「まげ」の廃止は前におもにアメリカ帰りの朝鮮人から提唱され、日本人の支持を得て内閣で討議されたことがあったが、一般の反発がすさまじく、政府も強要ができなかったのである。断髪令発令のすこし前には、三名の訓練隊高級将校が《中枢院》会議室に乗りこんで抜刀し、すべて公職に就く者には断髪を義務づける勅命を即刻発布することを求めた。震えあがった大臣たちはひとりをのぞいて全員それに応じたが、その例外となったひとりが、公布は王妃の葬儀が終わるまで待つよう了解を取りつけた。しかしながら、その後すぐに事実上幽閉の身だった国王が勅命を承認せざるをえなくなり、国王、皇太子、大院君〈テウオングン〉、そして閣僚が「まげ」を切り落とし、兵士と警察官がこれにつづいた。
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