「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(3)

2009.09.28 Monday 01:12
くっくり



●戦時中であり、船が戦争にとられているうえ状況も不穏のため外洋交通は徹底的に乱れていた。大海戦が勃発するといううわさが毎日のように飛ぶなかで、何週間かかけてウラジオストク行きの汽船を探したが、ようやく見つかったのは、乗客ひとりだけならとしぶしぶ応じてくれたドイツの小型船しかなかった。そして悪天候にもまれた船で快適とはほど遠い五日間をすごしたのち、ちょうど菊が満開の季節を迎え、真っ赤な紅葉の燃えるように美しい長崎で、わたしはそれまでとはがらりと変わった気持ちのいい一日を味わった(引用者注:清国の芝罘から満州へ向かうのにバードが利用したこのウラジオストク行きの船は、長崎にも立ち寄るコースだった)。照明もあり、清潔で、完璧なまでに治安もよく、道路には穴ぼこもごみの山もない——この矮人〈こびと〉と人形のこぎれいな町は、清国のほとんどの都市ででも外国人居留地の外に出さえすれば見られる、吐き気を催すような不潔さやみすぼらしさとは、胸のすく対照を示していた。
 清国人は支配民族の一員たる雰囲気を漂わせて長崎の通りを歩きまわっていた。彼らに要求される唯一の手続きは在留登録で、それさえしてあれば、憂さなどとはまったく縁のないようすで商売にいそしみ、大事な買弁〈ばいべん〉[売買仲介人]の呼び出しを行っている。清国では日本領事の要請ですべての日本人が国外へ逃げだし、人身・物品の双方に危害を受け、はぐれた「矮人〈ウオジエン〉」が町で見つかろうものならまちがいなく殺されているはずなのに、である。(p.274-275)

●(ウラジオストクの港で)しばらくのあいだことばもちんぷんかんぷんななかで何隻ものサンパンを渡りあるいたすえ、わたしはよく笑い大声で話す、身なりの汚ない朝鮮人の若者多数に陸まで運んでもらった。この若者たちはわたしの所持品をめぐって仲間どうしかなり強烈なブローをかわし合ったあと、わたしの荷物を肩にかついでばらばらな方向へ逃げてしまった。わたしはけんかのあいだ必死で握っていたカメラの三脚とともに残され、途方に暮れた。そう遠くないところにドロスキー[ロシアで使われる屋根なし軽装四輪馬車]があり、四、五人の朝鮮人がわたしを捕まえて声高な朝鮮語で話しかけながら、それぞれ自分の馬車のほうへ引っ張っていこうとした。そこへコサックの警官が来て彼らをどやしつけ、いさめてくれた。波止場には何百人もの朝鮮人がいて、騒々しいのと強引な点をのぞけば、済物浦〈チエムルポ〉に上陸したようなものである。(p.277-278)

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