「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(3)

2009.09.28 Monday 01:12
くっくり


*3 引用者注:壬午軍乱=壬午事変。1882年7月23日、大院君らの煽動を受けて、漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件。学生等無関係な日本人も殺害された。事件を察知した閔妃はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱の力を借り窮地を脱した。詳細はWikipedia等を。

●事件の翌日早くに浮かんだ疑問は、「三浦子爵は事件に関与していたのか、いないのか」であった。この件に関して仔細に触れる必要はない。王宮での惨劇から一〇日後、日本政府は、三浦子爵、杉村書記官、岡本朝鮮軍務顧問官を召還、逮捕し、政府自体はこの凶行にまったく加担していないことをただちに証明した。以上の三名は数カ月後、他の四五名の被告とともに広島第一審裁判所で裁判にかけられたが、「いずれの被告も彼らが独自に企てた犯罪を実行したとする証拠は不充分である」という法的根拠のもとに無罪となった。この犯罪とは判決文によれば、被告のうち二名が「三浦の教唆により、王妃殺害を決意し、そのために仲間を集め(中略)*4他の十余名に対して王妃殺害の指揮をとった」ことである。(p.361)
*4 引用者注:この「中略」は原文ママ。引用者(くっくり)によるものではない。

●(前項のつづき)三浦子爵の後任大使には有能外交家の小村[寿太郎]氏が就き、そのしばらくあとに井上伯が悲運の朝鮮国王にあてた日本国天皇の弔辞をたずさえて到着した。日本にとって東洋の先進国たる地位と威信とをこれほど傷つけられた事件はなく、日本国政府には同情の余地がある。というのも事件関与を否定したところでそれは忘れられ、王妃殺害の陰謀が日本公使館で企まれたこと、銃と剣で武装して王宮襲撃に直接関わった私服の日本人のなかには朝鮮政府顧問官が数名いたこと、そのほかにも日本の守備隊はべつにして、日本公使館と関係のある日本人警察官や壮士と呼ばれる者も含めて総勢六〇名の日本人が含まれていたことが、いつまでも人々の記憶に残るからである。(p.361-362)

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