「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(3)

2009.09.28 Monday 01:12
くっくり



●外国人の意のままになる国王には忠誠を誓うことはできないと謹みをもって訴え、あらたな王を規定していた東学党は、一月はじめに壊滅しており、その首領の首がある律儀な郡守によりソウルへ送られた。その首が《西小門》外の《北京街道》にあるにぎやかな市場にさらされているのをわたしは見た。首は三本の棒をキャンプのやかんかけのようにぞんざいに組み合わせたものに、もうひとつの首とともにつり下げられていた。少し離れたところにそれまでさらされていたまたべつのふたつの首は、棒からはずれて土ぼこりのなかに転がり、うしろ側を大きく犬にかじられていた。その顔には最期の苦悶の表情がこわばったまま残っている。そばに転がっていたかぶらを小さな子供がふざけて刻み、首の黒ずんだ口にさしだしていた。このむごたらしい首は一週間さらされたものだった。(p.345)

●「旧秩序」は日本人顧問の圧力下で日々変化を見せており、概してその変化はよい方向をめざしたものであったとはいえ、制定ずみもしくは検討中の改革の数があまりに多いため、なにもかもが暫定的で混沌としていた。朝鮮は清と日本のあいだで「迷って」いた。清が勢いを盛り返したら「憎まれる」のではないかと、日本の提案する改革に心から同意することもできず、また日本の天下がいつまでもつづくのではないかと思えば、改革に積極的な反対もできなかったのである。(p.347)

●わたしが朝鮮を発った時点(引用者注:1895年2月)での状況はつぎのようにまとめられよう。日本は朝鮮人を通して朝鮮の国政を改革することに対し徹頭徹尾誠実であり、じつに多くの改革が制定されたり検討されたりしていた。また一方では悪弊や悪習がすでに排除されていた。国王はその絶対君主権を奪われ、実質的には俸給をもらう法令の登録官となっていた。井上伯が「駐在公使」の地位にあり、政治は国王の名において一〇省庁の長官でなる内閣に司られていたが、そのなかには「駐在公使」の指名する者が数人含まれていた。(p.350)

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