「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(3)

2009.09.28 Monday 01:12
くっくり



●(前項のつづき)王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。そしてその傾向は王妃の影響力がつよまって以来ますます激しくなっていた。わたしは国王が心底ではその知力と相応に愛国的な君主であると信じている。国王は国政改革にもむしろ乗り気で、申しだされる提案のほとんどを承認してきている。しかし不幸にも、また国にとってはさらに不幸にも、その声明が国の法となる立場の人間にしては、彼はあまりにも人の言いなりになりすぎ、気骨と目的意識に欠けていた。最良の改革案なのに国王の意志が薄弱なために頓挫してしまったものは多い。絶対王政が立憲政治に変われば事態は大いに改善されようが、言うまでもなくそれは外国のイニシアチブのもとに行われないかぎり成功は望むべくもない。(p.335)

●(前項のつづき)国王は四三歳で、王妃はそれよりすこし年上だった。国王がまだ未成年で例にもれず中国式の教育を受けているうちは、国王の父であり、ある朝鮮人作家の評するところによれば「鉄のはらわたと石の心」を持つ大院君が、摂政として一〇年間きわめて精力的に国を統治した。一八六六年には二〇〇〇人の朝鮮人カトリック教徒を虐殺している。辣腕〈らつわん〉であり、強欲であり、悪を省みない大院君の足跡は常に血に染まっていた。彼はみずからの息子すら亡き者にしている。摂政時代が終わってから王妃暗殺まで、朝鮮政治史はおもに王妃およびその一族と大院君の激しい確執の歴史であった。わたしは宮殿で大院君に拝謁し、その表情から感じられる精気、その鋭い眼光、そして高齢であるにもかかわらず力づよいその所作に感銘を受けた。(p.335-336)

●日本人はかつてイギリスがエジプトに対して行ったように、朝鮮の国政を改革するのが自分たちの目的であると主張した。たしかに自由裁量が許されていたなら、彼らはそれをなし遂げたはずだとわたしは思う。とはいえ、改革事業は予想をはるかに越えて難航し、井上伯がほぼにっちもさっちもいかない状態にあることは明らかだった。伯爵は「使える道具がなにもない」と考え、それをつくれたらという希望のもとに、上流階級の子弟多数を二年の予定で日本に留学させた。最初の一年は勉学に努め、つぎの一年は官庁で実務の正確さと「道義の基本」を学ばせるのがねらいである。(p.342-343)

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