「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)
2009.09.13 Sunday 01:54
くっくり
●外国人のなかにも東学〈トンハク〉党に共鳴する声はあった。なぜなら悪政はこれ以上ひどくなりようのない状態で、あまりな搾取に対し、よくある農民蜂起を超えた規模で武装抗議するための時は熟していると考えられたからである。
しかしまさにこういったことがさしたる関心もなく元山で語られていたとき、既成のものごとの秩序に対する恐るべき脅威が形をとりつつあった。そして数日のうちに東学党は葬り去られてしまい、世界じゅうがこのちっぽけな半島に注目する結果となったのである。
わたしは六月一七日に汽船で元山を発ち、一九日に釜山に到着したが、釜山港に日本の砲艦が停泊しており、その朝、肥後丸から二二〇人の日本人兵士が上陸し、丘の上の寺に宿営していること、東学党が釜山・ソウル間の電信線を切断したことを知っても驚きはしなかった。
釜山に在住するわずかな西洋人のあいだに動揺はなかった。大規模な商業街を持っている日本人は防衛手段に多大な関心を示しており、それはまた当然至極な反応といえた。日本軍が済物浦〈チエムルポ〉(引用者注:ソウルの海港。漢江(ハンガン)の河口にある)に上陸したといううわさはまったく軽視されていた。
ところが、二一日の早朝に済物浦に到着すると、きわめて刺激的な事態が展開していた。日本の軍艦六隻、合衆国の旗艦、フランスと清の軍艦が各二隻、ロシアが一隻という大艦隊が外港に待機していたのである。(p.229-230)
●わたしが済物浦に着く二、三日前のできごとはこの局地的な動乱を陰へ追いやってしまったのである。なんと好都合な干渉の口実を東学党は日本にあたえてしまったことか、それを明らかにしたい一心で、わたしはいま、もはや過去の歴史となってしまったできごとをこのささやかな章で思い返している。
朝鮮にとって国の存亡に関わり、外交的に最重要な意味合いを持つ疑問は、「日本の目的はなにか。これは侵略ではないのか。日本は敵として来たのか、味方として来たのか」であった。(p.233-234)
●極東政治情勢の学徒ならだれしも、この日本軍の巧妙かつ常軌を逸した動きが済物浦やソウルの日本人街を守るためにとられたものではないこと、といって朝鮮に対してとられたものでもないことがわかっていたはずである。ぐらついた日本の内閣が失墜か海外派兵かの二者択一を迫られたのだとさまざまなすじは言い、またそう信じた。しかしこれはまったくのこじつけである。日本が何年も前からこのような動きを計画していたことは疑問の余地がない。朝鮮の正確な地図をつくり、飼料や食糧についての報告書を作成し、河川の幅や浅瀬の深さを測り、三カ月分の米を朝鮮で備蓄していたのであるから。そしてその一方で、変装した日本人将校がチベットとの国境にまでも足を運んで清国の強みと弱みを調べあげ、公称兵力と正味兵力、ダミーの銃器、旧式で鋳〈い〉ぞこないの多いカロネード砲について報告していたのであるから。彼らは清国各地方からどれだけの兵士を戦場に動員できるか、いかにして彼らを教練し武装させるかを清国人以上に知っていた。また、腐敗と不正がはびこり、そこに愛国心の欠落が結びついて、兵站部など書類上でしか存在しないも同然の状態になりはてている清国が、戦闘を維持するのはおろか、まともな軍隊を戦場に送りこむことすらとうてい不可能であることも知っていたのである。(p.234-235)
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