「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)
2009.09.13 Sunday 01:54
くっくり
●(金剛山の長安寺にて)修行僧たちはひどく無学で迷信深い。みずから信仰している宗教の歴史や教義についてほとんどなにも知らない。経文の意味についてもそれは同じで、彼らの大半にとってはお経もたんなる「文字」にすぎず、たえず繰り返せば「メリット」のあるものにすぎないのである。漢字を知っている者もなかにはいるものの、また朝鮮では漢字の読み書きとはすなわち「教育」であるとはいえ、礼拝の際には彼らには意味などちんぷんかんぷんのサンスクリット語あるいはチベット語の文句をつぶやいたり唱和したりするのである。大半の修行僧からわたしが受けた印象は、彼らはなんの意味もなく宗教的な儀式や作業を行っており、何人かの例外をのぞいて、信仰を持っていないというものであった。朝鮮人は一般に僧をはなはだしい放蕩者だと考えており、たしかに大きな寺院のひとつではそんな僧もいると気づかずにはいられなかったが、しかしロマンチックで古雅な環境や、見るからに秩序のある平穏なその生活ぶり、安心して世話を受けている老人や困窮者に対する慈善の心、それにやはりこの身に受けた好意や親切を考えると、わたしは彼らがなんらかの魅力を持っていると認めずにはいられない。そしてまた、その欠点よりも美徳のほうを忘れずにいたいと思う。(p.187-188)
●(金剛山の長安寺にて)ほんのひと握りの例外をのぞき、修行僧全員が頭陀袋〈ずだぶくろ〉を下げ鉢を手に徒歩の旅に出て、ぬかるみと土ぼこりだらけの険しい道を歩き、不潔でむさ苦しい宿に泊まり、その坊主頭と信仰をさげすむ人々に物乞いし、最下層の人々からも「目下に対することば遣い」をされなければならないのである。((中略))このあたりの寺院で仏教の生みだした文化全般、そして親切なもてなしや配慮、やさしい態度は、この地以外の儒教信奉者を自称する朝鮮人のなかで目撃した尊大な横柄さ、傲慢さ、慢心ときわめて対照的である。(p.196-197)
●大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生目標のひとつなのである。ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、糖菓を食間にとるが、それでもつぎの食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度でのぞむ。裕福な家では牛肉と犬の肉は大皿に盛る。また客のごちそうは銘々膳で供されるので、もてなす側は特別大事な客にはふんだんにふるまい、ほかの客には最小限度に抑えておくことができる。わたしは朝鮮人が一度の食事で三ポンド(引用者注:1ポンド=約454グラム)はゆうにある肉を食べるのを見たことがある。「一食分」が大量なのに、一日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。一度の食事で二〇個から二五個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。赤ん坊にまで食べさせる莫大な消費量の赤トウガラシがこの大食ぶりを助けているのは間違いない。朝鮮人には消化不良のたぐいの疾患が多いというのもうなずける。(p.203-204)
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