日本とトルコ 友好の歴史

2009.05.23 Saturday 02:29
くっくり


 9月16日深夜、灯台守が海岸で遭難者の一人を見つけました。服はぼろぼろで全身傷だらけのその男性は言葉も通じません。
 灯台守は「万国信号書」を見せて、三日月と星の国旗を決め手にトルコ人であること、多くの乗組員が海に投げ出されたことを知ります。

 灯台守は村人に知らせ、救出活動が始まりました。
 おびただしい船の破片、遺体。そこからまだ息のある人たちを抱き起こし、自分の体温で冷え切った遭難者の体を温め、命の灯を甦らせました。

 この時代、村には電気も水道もガスも電話もありません。井戸水もなく、雨水を利用していました。米もとれないところで、村人の生活は貧しかったのです。

 しかし、大島の400戸の島民は遭難者を救助しようと献身的に働き、負傷者の介抱や食事の世話に不眠不休で奔走しました。非常食用の鶏など、持てるもの全てを提供したのです。

 こうして69人の乗組員の命が救われました。
 また、亡くなった人たちは丁重に葬られました。

image[0522-03koube.jpeg]

 更なる治療を受けるため69人は神戸に移送されました。
 明治天皇は彼らのために侍医を派遣、皇后陛下は看護婦13名を神戸に遣わされ、彼らに白衣を賜いました。

 また、事件が新聞で報じられると日本中から2500万円に相当する義援金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられました。

 明治天皇は島民の立派な行いを賞賛し、費用を申し出ることを求めましたが、島民は「当たり前のことをしただけ」と言って、これをきっぱりと断りました。

 69人の生存者は、元気を回復して日本の軍艦「金剛」「比叡」に乗せられて帰国。
 翌明治24年1月2日に無事イスタンブールに入港、トルコ国民の心からの感謝に迎えられました。


 ——時は流れ、エルトゥールル号の遭難から95年後。
 昭和60年(1985年)3月18日。

 イラン・イラク戦争の最中、イラクのフセイン大統領は、3月20日午前2時をもってイラン領空を戦闘域に設定すると宣言。
 イラン上空を通る全ての飛行機を撃墜すると警告したのです。

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