2008.08.16 Saturday 01:54
くっくり
一瞬のうちにすべての松明と灯火が消された。完全に何も見えない暗闇に神社の境内が包まれた。暗黒の中で音楽が奏でられた。これは1000年以上も前の古い詩にそえて作曲された賛歌「海行かば」のしらべであった。その音楽に合わせて荘重な行列が近づいてきた。その中央には英霊の住居とされている棺のような箱がかつがれてきた。
ほとんど耐えがたい緊張に満たされた最高の瞬間であった。今や参列者一人一人はもはや耐え忍ぶことができなくなり、英霊に呼びかける声、すすり泣く声、そして祈る声が高々とひびきわたった。
わたしたちは最後の一人が神社境内を去る瞬間まで、靖国神社の中に留まっていた。参詣者が鳥居をくぐり並木道の参道を通って入ってきたときと同様、今度はわたしは去りゆく人々の顔付をながめようと努めた。彼らはわたし自身が感じた夢見心地とはいわないまでも、入ってきたときと同じく感慨無量の表情をしていた。
しかし同時にわたしはこの靖国神社の体験を何千キロの彼方に住み、この種の体験を欠き東方の魂を異質的なものと思っている欧米人に伝えることの困難さを痛感した。言葉などはただ不完全な手段にすぎない。神ならびに神格化の概念は東洋人と西洋人とでは、まったく異なった意味をもつ。
――そうはいうものの、この言葉の背後にある感覚は、少なくとも戦場に出た者すべてにとっては、東西を問わずなじみ深いであろう。おそらく、その感覚は大祭のはじめにあたってやにわにわたしの心に浮かんだ「われらは奥津城なり!」との言葉以上に適切に表現されることはあるまい。
結局、靖国神社の大祭も、このことを意味している。わたしたち西洋人も少なくとも戦場で隣にいた戦友が次から次へと戦死してゆく有様を見、さらには11月9日、ミュンヘンのフェルトヘッレンハッレ*1の祝祭に接して感銘を受けたはずだ。
これすなわち日本人の英雄神格化と同じ「われら生者は奥津城なり」の気持である。わたしの中に種子がまかれた。ただ心配なのはそれが開花し、果実を実らせるかどうかということだ。
*1 一般的には「フェルトヘルンハレ」と表記するようです。ヒトラーが起こしたミュンヘン一揆(1923年11月8日-9日)でナチスの党員16名が死亡したことから、ナチス・ドイツ時代に聖地となっていた場所。日本で言うところの靖国神社みたいなものであろうかと。
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