新「南京大虐殺記念館」まだ30万人て言うとんのか!

2007.12.15 Saturday 03:08
くっくり



 この中国人は闇夜の中、犠牲者数を1桁までどうやって数えたのか?日本兵が要所を固めている時にどうやって現場近くまで行けたのか?6万人も機関銃を掃射すれば数時間ものすごい音が鳴り響いていたはずだが、それを聞いた人はいなかったのか?
 ……などなど、多くの疑問が残ります。


 今でこそ日本でも有名な「南京大虐殺」ですが、昭和46年に朝日新聞が「中国の旅」という連載を始めるまでは、日本国内ではほとんど報道されることはありませんでした。
 昭和20年から23年に限って報道がありましたが、これはGHQが報道機関に「太平洋戦争史」「真相はこうだ」などを報じるよう命じたものであって、「南京大虐殺」がその中に盛り込まれたのです。

 しかし、それでも当時の日本国内、特に知識人の間では「事件は創作されたフィクションである」との受け止め方が相場でした。
 陥落後の南京の実情を熟知した記者が、多数メディアの中堅として残っていたことも大きく作用しました(朝日新聞も南京に記者たちを90人以上派遣していました)。
 国民の間でも「南京大虐殺」を額面通りに受け取る人は少なかったそうです。

 要するに、昭和46年に朝日新聞が「中国の旅」で扱うまで、国内で「南京大虐殺」を真顔で報道する報道機関はなかったのです。
 その「中国の旅」にしても、本多勝一記者が、中国(中華人民共和国政府)がお膳立てした場所に行き、政府の監視下で政府が用意した“証人”にインタビューし(現在の北朝鮮を彷彿とさせますね)、そのまま記事にしたものでしかないのです。
 後に「中国の旅」に掲載した記事や写真がでっちあげであると次々に指摘されると、本多氏は「中国人の言ったことを書いただけ」と開き直りました。


 日本国内だけでなく、中国でも戦後長い間、南京事件が表立って持ち出されることはありませんでした。
 近現代史研究家の阿羅健一氏が、昭和54年3月発行の中国の歴史教科書で南京事件がどう扱われているかどうかを調べたところ、日本軍との戦いに敗れ、後退を続ける国民党についての記述は詳しく盛り込まれているものの、南京事件に関する記述は全く存在しなかったそうです。

 毛沢東は昭和51年に死ぬまで、「大虐殺」という言葉を口にしませんでした。
 中共政府が積極的に「大虐殺」を外交カードとして利用するようになったのは、蒋介石、毛沢東が亡くなって、トウショウヘイが実権を握った昭和50年代後半以降です。

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