新「南京大虐殺記念館」まだ30万人て言うとんのか!

2007.12.15 Saturday 03:08
くっくり



 南京の落城から、蒋介石は漢口に逃げ、その後、重慶に逃げました。その間、累計何百人もの外国人記者から300回にもわたりインタビューを受けています。にもかかわらず、その中で、日本軍の虐殺について述べたことは一度もありません。


 戦後、「南京大虐殺」は東京裁判で持ち出されました。ニュルンベルク裁判に合わせるためだったと言われています。
 ニュルンベルク裁判には、ナチスのユダヤ人虐殺の罪を裁く「人道に対する罪」という項目がありましたが、東京裁判にはそれに類似するものがないので、「南京大虐殺」がでっち上げられたというわけです。

 裁判記録によれば、「大虐殺」があったとは到底思えない証言を、とある重要人物がしています。アメリカ人のマギー牧師です。
 この人は南京の赤十字の責任者だったので、日本軍が入城してからも、南京のどこでも歩き回れる立場だった人です。

 マギー牧師は初めのうちは、「あそこでたくさん殺されたそうです」「ここでたくさん殺されたそうです」と証言していたのですが、アメリカ人の弁護士が「それは伝聞証拠だ。あなた自身は何人見たのか?」と反対尋問をしたところ、「1人です」と答えたのです。

 その1人が殺害された状況についてのマギー牧師の証言は、次のようなものでした。
 「安全区*1の境に日本の歩哨が立っていた所を、1人の中国人の青年が駆け抜けようとした。歩哨が“止まれ”と言ったが止まらなかった。そして追いかけていって撃ち殺した」
 彼が目撃した「殺人」はこれだけでした。

(*1 南京では外国人たちが安全区というものを造っており、日本軍が攻め入る時、そこに一般の民衆も逃げ込ませていたのです)

 また国民党政府は終戦直後、東京裁判に備え、南京の中国人に日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけていたのですが、なかなか虐殺の目撃証言が集まらず、2カ月半も調査した結果、法廷に最初に提出できた目撃証言はたった1件でした。

 それはこのような証言でした。
 「日本軍は、5万7418名もの難民と兵士を12月16日夜、ワイヤーロープで2人ずつ括り、下関・草鞋峡まで追い立て、機関銃で掃射しつくした後、さらに銃剣で突き刺し、最後に石油をかけ、火をつけて焼き、残った人骨を揚子江の中に投げ入れた。私はこの一部始終を目の前で目撃した」

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