2007.11.27 Tuesday 00:42
くっくり
(*1 東京裁判が開かれていた約2年半の間、パール博士が判決書執筆を中断したのは、夫人危篤の知らせを受けて、急ぎ帰国した時だけであった。病床で夫人は「あなたは日本国の運命を裁く大事なお体です。どうか裁判が終わるまで私の事は構わないで…」と述べた)
(*2 第二次世界大戦の終戦時の日本については有条件降伏であったとする説もある。こちらを参照)
「諸君!」2005年7月号【靖国参拝をやめる必要はありません】より
私は65年に青島で生まれ育ちましたが、当時は反日よりも、圧倒的に反ソ、反米でした。地域差もあるかもしれませんが、私の生まれた青島では反日よりもむしろ親日の人の方が多かった。
というのは、青島のありとあらゆる工場は、日本人が作ったのも同然だったからです。日本人が作らなかったのは、ドイツ人が残した青島ビールくらいでしょう(笑)。私の母が働いていた紡績工場も日本人が作ったものでした。そのうえ青島はずっと日本の統治下にあって、戦争にならなかった。
当時の中国人にしてみれば、それ以前に占領していたドイツ人よりも、日本人のほうが受け入れやすかったと思います。
「正論」2005年8月号より
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