外国人から見た日本と日本人(3)

2007.11.27 Tuesday 00:42
くっくり


 私は、東條英機に戦争責任がないとはいいません。ただ、大東亜戦争のすべての責任を彼だけに背負わせるような論調や風潮がおかしいと思うだけです。

■サティアブラタ・パール=インド人。1949年生まれ。英文学修士。1972年、インド外務省入省。現在は駐プレトリア(南アフリカ)インド高等弁務官。ラダビノード・パール博士の孫。
「正論」2006年12月号【孫が明かす東京裁判パール判事の気概】より

 私の祖母が危篤に陥ったため、ダドゥ(祖父)はカルカッタへ戻った(*1)。(中略)カルカッタで、彼は裁判のこと、日本人の境遇への同情、それに耐える不屈の精神に対する賞賛、そして、法が彼らの精神を破壊し、彼らの自尊心を奪い取るように堕落させられていることに対する憤りについて家族に話した。今や、ダドゥは真に日本と日本人を愛するようになったのである。

(中略)ダドゥの心は日本人のもとに注がれていた。なぜなら、彼らは二重の不正の犠牲者だからである。西側が準拠して戦ったという全ての戦争の法律に反して、日本国民は最も容赦のない爆撃の標的となり恐怖に陥れられ、最後には武器の法律に反して他の国の人々が経験したことのない−原子爆弾を広島と長崎に落とされたのである。彼らは無条件に降伏した(*2)。まるで町と同じように。彼らの自信も自尊心もぼろぼろであったが、それでも尚、十分ではなかったようである。彼らは野蛮人のように戦争を戦ったとされるリーダーの裁判を通して、儀式的に恥をかかされたのである。

 ダドゥにとっては、これは耐え難いものであった。東京の廃墟は彼を悲しませたが、彼の脳裏を離れなかったのは、2発の原子爆弾が落とされたことへの思いであった。彼の判決では核兵器の開発と使用の政治的、軍事的、法的、とりわけ倫理上の影響について再々繰り返している。1953年に彼の判決書をカルカッタで印刷してもらった時には、700ページにわたる濃密な法論議の中、驚くなかれ20ページの付録−2発の原子爆弾の犠牲者と生存者の写真が載っていたのである。これがダドゥの死んだ人への礼拝のやり方であり、生きている人の苦しみ、彼らになされた恐るべき不法行為、そして彼がそれを償うことが出来ないことに対する認め方なのである。

(中略)人間は西欧文明の中心でもあるが、西欧キリスト教社会においては、世界は神から与えられたもので、従って都合よく利用すべきものである。日本では、地域社会は幾世代にもわたって根気強く形作られ、それを理解し、守るべき義務とともに、先祖から伝えられた遺産なのである。日本が何故アジアの国で最初に西欧の産業文化を取り入れたかを知るのは容易であるが、第二次世界大戦までは、アジアの静寂主義と西欧の物質主義の間でサムライの刀の刃の上を歩いていた。ダドゥはこの見事なバランスに惹きつけられ、且つ魅せられたのである。

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