外国人から見た日本と日本人(3)

2007.11.27 Tuesday 00:42
くっくり


 
■ヘンリー・ヒュースケン=オランダ人(アメリカ帰化)。駐日アメリカ総領事館の通訳として1856年(安政3年)に初代総領事タウンゼント・ハリスに雇われて来日。1861年1月14日(万延元年12月4日)、攘夷派の薩摩藩士に襲われ28歳で死去。
「日本日記」より
 1857年(安政4年)12月7日付の記述

 いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない。

■ローレンス・オリファント=イギリス人。旅行家。1858年(安政5年)、日英修好通商条約を締結するために来日したエルギン卿使節団の一員。来日するまでにセイロン、エジプト、ネパール、ロシア、中国などを歴訪。1860年(万延元年)、水戸浪士の襲撃を受けたが、一命をとりとめ帰国した。
「エルギン卿遣日使節録」より
 使節団宿舎の芝西応寺における記述

 われわれの部屋には錠も鍵もなく、開放されていて、宿所の近辺に群がっている付添いの人たちは誰でも侵入できる。またわれわれは誰でもほしくなるようなイギリスの珍奇な品をいつも並べて置く。それでもいまだかつて、まったくとるにたらぬような品物さえ、何かがなくなったとこぼしたためしがない。

■ニコライ・カサートキン=ロシア人。ロシア正教日本大主教。本名はイワン・ヂミートリエヴィチ・カサートキン。1861年(文久元年)6月に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。以後精力的に正教の布教に努めた。1869年(明治2年)、1879年(明治12年)に帰国した以外は日露戦争中を含め、日本を離れることはなかった。
「ニコライの見た幕末日本」より

 片田舎の農民を訪ねてみるがよい。政府について民衆が持っている考えの健全かつ自主的であることに、諸君は一驚することだろう。……民衆について言うならば、日本の民衆は、ヨーロッパの多くの国に比べてはるかに条件は良く、自分たちに市民的権利があることに気がついてよいはずだった。ところが、これら諸々の事実にもかかわらず、民衆は、自分たちの間に行われていた秩序になおはなはだしく不満であったというのだ!

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