誰がために散る もう一つの「特攻」(6)〜(8)

2007.06.26 Tuesday 01:19
くっくり



 そして、約束の昭和30年11月8日。早くも午前6時に訪ねてきた男性は玄関に入るなり、「お母ちゃん」と抱きついてきた。連れていた5歳ぐらいの子供が物珍しそうに父親を見つめる。うれし涙が止めどなく流れるうちに、その数は十数人になった。

 午前10時、全員で大津島に渡った。その後、毎年11月8日には大津島で慰霊祭が行われるようになった。おしげさんは毎年参列し、息子たちの出撃前の様子を遺族に伝えてきた。

 おしげさんは18歳の2人の少年が出撃するのを見て、「どの人も死なせたくはないけど、まだ幼顔の残るこの2人は、ことさら私の胸をえぐるのでした。『これが戦争というものなのだ』。そう自分にいいきかせて、じっと耐えるしかありませんでした」と語っている。

 そんな思いを少しでも和らげようとしたのだろうか。松政の2階にある小さな自分の部屋に、夫の位牌(いはい)と『人間魚雷回天将兵の諸英霊』の戒名を施した白木の位牌を置き、朝夕、お経をあげていたという。

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【写真】回天記念館は、戦後62年たった今も搭乗員らの思いを語り継いでいる=山口県・大津島

 回天特攻作戦では、回天の故障などで帰還した搭乗員も多い。甲飛13期出身の吉留文夫(80)は20年5月5日、「振武隊」として出撃。同月27日未明に敵船団と遭遇したが、電動操舵(そうだ)機が故障し発進できなかった。「自分が発進できなかったことに対する自責の念が強くて、頭の中は真っ白だった」

 2回目は7月19日。「多聞隊」として出撃し、太平洋で敵艦隊を求めたが、8月9日に急遽(きゅうきょ)、帰投命令が出た。そして15日、洋上で玉音放送を聞いた。

 「帰ってきたのは自分の責任で、戦友に合わす顔がないというのが正直な気持ちだった。映画なんかで、生きていてよかったという場面があるが、それはウソだと思う。戦後、大暴れして特攻崩れといわれたが、それはある種、死に場所を探していたんだ。戦友に申し訳ないと」

 吉留は戦後、肺がんを患い、医師から余命1年と宣告されたことがある。そのとき、考えたのは親のことでも子供のことでもなかった。亡き戦友に会ったとき、何を話すかだった。

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