2007.06.26 Tuesday 01:19
くっくり
回天基地のあった大津島の丘の中腹には、回天碑と並んで搭乗員の名前を刻んだ石碑がある。戦後、この石碑を慈しむように指でなぞる女性がいた。通称・おしげさん。「回天の母」と呼ばれた。
本名は倉重アサコ。大正15年、19歳で徳山駅近くの高級料亭「松政」に女中奉公に出て、以来45年間、松政で働き続けた。当時、徳山には海軍燃料廠があり、松政は高級士官の定宿としてにぎわっていた。奉公に出て2年目、海軍主計兵曹と結ばれた。しかし8年後、夫は病気で急逝、独身を通した。
男のようにさっぱりとした性格は高級士官にも好かれ、犬養毅首相や南雲忠一海軍大将、山本五十六海軍元帥ら重鎮の接待を担当したという。
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【写真】「回天の母」とよばれた、おしげさんこと倉重アサコさん
昭和19年11月7日。おしげさんはこの日を生涯忘れなかった。
大津島から突然、板倉光馬少佐が訪ねてきて「今夜60人のすき焼き会を催したいから用意を頼む。物資は全部部隊から持参する」。七輪を近所から借り、テーブルの代わりに雨戸を並べた。
宴会は午後6時から始まり、夜が更けると、大広間に「同期の桜」の大合唱が響いた。壮行会だった。若者たちが翌日に出撃した「回天特別攻撃隊菊水隊」の搭乗員だと知ったのは、翌20年3月末のことだった。彼女はそのときの思いを手記の中で語っている。
<私は隊員さんたちが特攻隊であること、大津島がその基地であることは知っていましたが、それがどういうことをするためであったかは、新聞で初めて知ったようなわけです。新聞には隊員28人の写真も掲載されていました。私は新聞の写真の上に、ボロボロと涙をこぼしました。菊水隊は3カ月前に、金剛隊は2カ月前に「お母ちゃん、行ってきます」。そういって二度とは帰らぬ日ととも見えぬ元気さで、松政の玄関を出ていったのです>
松政では出撃の2日前に壮行会が行われるのが恒例だった。おしげさんは手記で、隊員の誰の目も澄み切り、死にに行くことなどみじんも感じさせぬ立派な態度だが、その胸の内には語れぬものを抱えていたのだろう、と回顧している。
20年7月14日に出撃した竹林(旧姓・高橋)博(82)も2日前の12日夜、壮行会に参加し、初めておしげさんに会った。「おふくろのような感じで、自分の母親の顔と重なった」という。
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