2007.06.26 Tuesday 01:19
くっくり
産経新聞朝刊大阪版07年6月10日付社会面掲載
誰がために散る もう一つの「特攻」(6)
【突然の悲劇】殉職ショック乗り越え奮起
悲劇は突然だった。
回天搭乗訓練2日目の昭和19年9月6日、大津島地方は午後から急に風が強くなり、海面は大きくうねり出した。午後の訓練に臨む予定だったのは海軍大尉の黒木博司=当時(22)=と樋口孝(同)。天候不良を理由に訓練中止の声も出たが、黒木は「天候が悪いからといって敵は待ってくれない」と譲らない。樋口も「やらせてください」と続いた。
午後5時40分、樋口が操縦する回天は黒木を乗せて発進した。訓練は、大津島から5000メートル離れた浮標までの往復。浮標を回ったところまでは順調だったが、その直後に姿が消えた。
翌7日午前9時、大津島から約4000メートル離れた水深15メートルの海底に泥をかぶり突き刺さっている艇が発見された。死亡推定時間は、事故発生から約12時間後の7日午前6時過ぎだった。
艇内には事故直後からの応急処置、事後の経過など、黒木が息を引き取るまでの状況を記した、2000字にも及ぶ『19-9-6 回天第1号海底突入事故報告』が残されていた。そこには、<国を思ひ死ぬに死なれぬ益良雄が 友々よびつつ死してゆくらん>と辞世の歌もつづられていた。
樋口の手帳にも<犠牲ヲ踏ミ越エテ突進セヨ>と遺文があった。
2人の遺筆は、若い回天搭乗員に大きな影響を与えた。事故から2週間後に赴任した甲飛13期の竹林=旧姓・高橋=博(82)は「黒木少佐の殉職はショックだったが、それ以上に後に続くんだと奮起した」と話す。
■ ■
黒木の葬儀は、終戦から1年以上が過ぎた21年11月7日、郷里で行われた。簡略化され読経もなかった。「下呂楠公祭」事務局長で、大垣市立東中学校長の橋本秀雄(59)が言う。
「ご両親は世間をはばかれ、すぐには葬儀をあげられなかったのです。その後も非難ばかりで、肩身の狭い思いをしていたようです」
母親のわきは戦後、沈黙を保ち続けた。しかし一度だけ、思いを吐露したことがある。戦後25年ほどたったころだ。神経痛で病んでいたわきは、見舞客に次のように話している。
「私は博司のことは何とも思っとりゃしません。ただ、いつも心に思うことは、回天に搭乗し、博司の後に続いていった131人の英霊のこと。そのご遺族が、博司のことを恨んどりゃせんかということが一番気にかかり、夜も眠れないことが幾日とございました」
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