ペマ・ギャルポさんチベット・モンゴルを語る

2007.05.12 Saturday 02:20
くっくり


 そこで2年ほど過ごした後、キリスト教系の団体から、難民の少年少女をミッション系スクールに入れる機会を与えられ、私はそちらに移りました。ダージリンは英国統治時代、英国人の避暑地でもあり、インドの中でも学校の教育水準が高く、すべて英語での授業でした。

 ――いつから日本に?

 ペマ 65年、12歳の時に、ほかの4人のチベット人と来日しました。当時の日本ではわれわれが難民第1号と言ってもよいと思います。


産経新聞5/11朝刊総合面掲載
モンゴルの大地を駆ける(5)

日本とチベット 橋渡し役に

 ――来日の経緯は

 ペマ まず、亜細亜大学の木村肥佐生教授が、チベット難民の子供たちを日本に呼びたいと提案し、同大の倉前盛通教授に相談されたのです。倉前先生が、埼玉医科大学を創設した丸木清美先生に話を持ちかけ、資金援助を得たのです。

 ――いろいろな方がかかわっていたのですね。

 ペマ 当初はチベット難民の医療向上のために、看護婦を養成する計画が立てられたそうです。ところが、チベット側は「第1期生は男子にしてほしい」と主張として、私を含めて5人の男子が選ばれたのです。私たちは1965年12月に来日しました。翌年4月から中学1年に編入するため、小学校の国語の教科書を使って日本語の猛特訓を受けました。

 ――中学校に入学してからいかがでしたか

 ペマ 丸木先生の地元の埼玉県毛呂山町の毛呂山中学に入学し、1年生のときは全く授業についていけませんでした。ただ、町の人が総がかりで温かく教えてくれました。教科書にルビをふってくれたり、食事に誘ってお風呂に入れてくれたりで、本当に親切でした。

 ――亜細亜大学に進学。在学中にチベット文化研究会を創設した

 ペマ ええ、1973年当時は日本にチベットを支援する団体がなかったので、自ら設立しました。72年に日中国交正常化が実現したばかりで、日本での中国熱は盛り上がっていました。少しでも反中的なことを言ったりすると、「反動分子」扱いされて困りました。そのような雰囲気が変わったのが89年の天安門事件で、それを境に、われわれの主張も聞いてもらえるようになりました。

 ――90年、ダライ・ラマの代表をやめています

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