ペマ・ギャルポさんチベット・モンゴルを語る

2007.05.12 Saturday 02:20
くっくり



産経新聞5/9朝刊総合面掲載
モンゴルの大地を駆ける(3)

チベット侵攻で逃亡生活に

 ――日本への帰化に不安は

 ペマ 最も心配したのは、日本国籍を取得した後で、私がチベットのために日本を裏切ることにならないかということです。数年間悩みました。しかし、少なくとも私が生きている間は、日本とチベットが対立することはないだろうと思ったのです。

 ――ダライ・ラマには報告されたのですか

 ペマ はい。ダライ・ラマ法王は常々、「チベット人はどの社会にいても、その国の法律を守り、迷惑をかけることなく、できることなら、歓迎されない人物ではなくて、人々から歓迎される人物になりなさい」と言われています。それと、法王は私のことをよく冗談で「お前は日本人だな」とおっしゃっていました。例えば、1970年代には、日本政府が法王の入国ビザを拒否したことがありました。私は抗議すると同時に、自信の反省も込めて丸刈りにしたのです。自分でも知らないうちに、日本人の価値観で行動していたのです。

 ――故郷ではどんな生活を

 ペマ 当時のチベット・カム地方ニャロン地区で生まれました。いまの中国四川省甘孜(かんぜ)蔵族自治州新竜県です。山や川など自然が豊かで農牧業が盛んでした。父は豪族の長で、私の兄2人は僧侶になることが決まっており、私が跡取りでした。翡翠(ひすい)の茶碗(ちゃわん)と象牙のはしを使って、大理石の机をもつなど、裕福で何不自由のない生活をしていました。しかし、中国人民解放軍がチベットに侵攻してから、私たち家族は逃亡の毎日を送るなど、生活が全く変わりました。

 ――それは大変でしたね

 ペマ 中国軍の兵士は当初、農作業や水くみを手伝うなど礼儀正しく親切でした。しかし、チベット側との関係が悪化してくると、民衆と衝突するなど紛争がチベット全土に拡大しました。父は新竜県の県長に任命されましたが、中国軍と戦うようになり、私は家族や家来ら20人くらいでチベット中を逃げました。私も流れ弾に当たったこともありました。まだ子供でしたから、正直言って恐ろしかったですね。

 ――それはいつごろですか

 ペマ 58年ごろです。インドに亡命するまでほぼ1年間、逃亡生活を送りました。夜は移動し、昼は隠れて寝る生活で、クマやシカまで食べました。徐々に南下してラサに入り、その後、巡礼者のふりをしてブータン国境に向かいました。59年3月にチベット蜂起が起こり、「ダライ・ラマ法王がインドに亡命された」とのうわさを聞いて、われわれもインドに入りました。


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