ドイツ移民政策の明暗に学ぼう!中国人大量割り込みが日常風景になる前に

2014.09.29 Monday 18:16
くっくり



 1950年代、西ドイツ経済は黄金時代を迎え、労働者が著しく不足した。そこで55年、ドイツはイタリア政府と就業協定を結び、労働者の期限付き誘致に踏み切った。当時のイタリアは国際収支の赤字に喘いでおり、出稼ぎ労働者からの送金は貴重な国家収入だった。

 イタリア労働者斡旋のピークは65年で、この1年だけで27万人がやってきた。ドイツ政府はその後、ギリシャ、スペイン、トルコ、モロッコ、ポルトガル、チュニジア、ユーゴスラビアと、次々に就業協定を結んだ。その結果、70年代初頭、ドイツの就労者の1割は外国人であった。

 しかし、その頃、すでにドイツの経済成長は止まっていた。オイルショックの起きた73年、政府は出稼ぎ労働者の受け入れを正式に終了するが、そのとき外国人労働者の数は、家族も含めると、すでに400万人に膨れ上がっていた。

 私がシュトゥットガルトに来たのは82年。行き過ぎた福祉も相まって、ドイツの経済成長が長い停滞期に入っていた時期だ。失業率は、80〜84年の間で3.3%から8.1%と急増。しかし、仕事が無くなっても、外国人の多くは帰らなかった。それどころか、家族を呼び寄せ、ささやかながらもドイツにしっかりと根を下ろし始めていた。

 現在のドイツには、難民として入ってきた外国人も少なくない。国連の推定によれば、95年、ユーゴ内戦を逃れて国外に出た難民は約74万人で、その半数をドイツが受け入れた。国連の要請による難民受け入れは、その後もコンスタントに続き、最近は毎年6万人程度。国連を通じて入国した難民は、難民資格が確定しているので、滞在、および保護される権利を有する。去年はシリア内戦に対応し、プラス1万人の「シリア特別枠」も設けられた。

 一方、ポーランド系、ロシア系、カザフスタン系の外国人は、第二次世界大戦後、ソ連と東欧の旧ドイツ領に残留していたドイツ系の住民とその子孫が多い。彼らが、90年代の共産圏の解体で、大挙してドイツに戻ってきたのである。戦後、特に旧ソ連は、厳しい同化政策を敷き、ドイツ系住民に母国語の使用や、ドイツ文化の継承を禁じた。そのため、大半の帰還者は、念願の祖国に戻ってきたものの、外国人と同じ問題を抱え込むことになった。


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