本多勝一が“誤用”を認めた南京事件捏造写真&「中国の旅」と支那人体験記の残虐記述がそっくりな件
2014.09.22 Monday 18:29
くっくり
「(賊の頭目の一人汪は)夫人と女の子を家に送り返してやるといった。嘘とは知らないものだから夫人は非常に喜び、娘を先に立てて歩かせ、自分はそのあとにつづいた。汪は刀を引っ下げてついていったが、数十歩も歩いたか歩かぬに、いきなり後ろから夫人の頸部をめがけて、えいとばかりに切りつけた。夫人はぶっ倒れて『命ばかりは』と哀願した。が、またもや一刀、首はころりと落ちた。汪はその首を女の子の肩に乗せて、背負って帰れといった。女の子は力およばず、地に倒れた。汪はこれを抱えおこし、刀をふりあげて女の子の顋門[くっくり註:幼児の頭蓋骨の泉門のこと]めがけて力まかせに斬りつけると、立ちどころに死んだ」
「『永利亜化学工場』では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという」
「喬(賊の頭目の一人)はひどく腹を立て立ちどころに二人を殺し、さらにその肝をえぐり取って、それをさっきの同伴者に命じて鍋の中に捧げ入れさせ、油で揚げて煮た上で一同に食べさせた」
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こういった残酷な殺害方法は、1937年(昭和12年)7月29日に支那軍が日本人を大量虐殺した通州事件でもみられましたね。
image[140922-04tuushuu.jpeg]
このように支那人の語ることが日本の常識や歴史から説明がつかないこと、それが支那では当たり前のように起きていることを考えると、日本軍が南京で行ったと語られた蛮行は、支那人が歴史的に繰り返して行ってきたことであり、日本人も同じことを行ったに違いないと彼らが思い込んだからだと、阿羅さんは指摘しています。
そして、その勝手な思い込みが、なぜ日本が南京を攻めた時に語られたかの手がかりも、「思痛記」にあると阿羅さんは言います。
というのも、南京から80キロほどのところに金壇という街があり、長髪賊は南京を落とす時に金壇城も攻めたのですが、そこが陥落した日のことはこう記述されているのです。
「入城した。新しい死骸、古い死骸が大路小路を埋めつくしていて、おそろしくきたなかった。城濠はもとから狭くもあったが、そのために流れがとまった。赤い膏白い膏が水面に盛り上がっていて、あぶくが盆よりも大きかった。それというのが、住民たちは城が陥ちたら必ず惨殺されることを予期して、選んでみずから果てたものもあったが、城の陥落する前に、官軍中の悪い奴らの姦淫強奪に会い、抵抗して従わなかったために殺されたものもあった」
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