本多勝一が“誤用”を認めた南京事件捏造写真&「中国の旅」と支那人体験記の残虐記述がそっくりな件

2014.09.22 Monday 18:29
くっくり



 安全区は金沢の兵隊が掃蕩(掃討)し、揚子江岸には津の兵隊が真っ先に進出したので、もし「中国の旅」が事実なら、殺戮や強姦は彼らが行ったことになります。

 しかし、どれほど多くの方々に会っても、「中国の旅」の内容を否定したそうです。
 反対にこんな返事が返ってきたのだとか。

「戦前の日本は農村社会で、ひとつの村から何人も同じ中隊に入りました。もし強姦などすれば、すぐ郷里に知れ渡り、除隊しても村に帰れなくなります。日本の軍隊が同じ郷土の若者から成り立っていたことは、軍紀を守らせる役目をはたしていたんです」

 実は、本多勝一は「正論」1990年9月号で、前号の田辺敏夫氏の記事への反論という形で、このように述べているそうです。

「問題があるとすれば中国自体ではありませんか」

 この言葉から、本多自身が「中国の旅」が虚偽に満ちていることを知っていたことが分かります。

 そして、支那人が本多に語ったことは、自分たち支那人が行ってきたことをオウム返しに語っているだけではないか、ということに気づかせてくれます。


 たとえば、「中国の旅」と李圭の「思痛記」という本を比較すればそれは明らかです。

 「思痛記」は1879年(明治12年)に書かれた本で、李圭は清朝の役人でした。

 1850年に広西で長髪賊の乱(太平天国の乱)が起こり、3年後には南京を落とし、支配した地域を太平天国と称しました。
 太平天国は清と戦い続けましたが、1864年に敗れて滅びます。

 南京郊外の豪族の家に生まれた李圭は、1860年に長髪賊に捕まり、2年以上軟禁されて逃れたあと、清朝の役人となりました。
 そして軟禁されていた頃の体験談をまとめました。
 それが「思痛記」です。

 この本の中で、李圭は周りで起こった悲惨な出来事を記述しています。
 「中国の旅」の記述と比較して下さい。
 赤文字は「中国の旅」の記述、青文字は「思痛記」の記述です。

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「日本兵が現れて、若い女性を見つけ次第連行して行った。彼女たちはすべて強姦されたが、反抗して殺された者もかなりあったという」

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