日本人と朝鮮人はとても仲が良かった!「朝鮮總督府官吏 最後の証言」より

2014.09.08 Monday 01:07
くっくり


 現代の人が今の価値観で空論を弄んでも、それは当時の実態と大きく異なります。戦後の教育なり、思い込みがあって私の話が信じられないという人の為に次の章以降で朝鮮人達との思い出や總督府の行政解説をします。】


 というわけで、ここからが本題だったりするのですが、あまりネタバレになってもダメなので、ごく一部だけ紹介すると……

●役所の中では、基本的に日本語で話していたが、朝鮮人同士は日本語か朝鮮語。自然なことだから、誰かが何か言うこともなかった。「朝鮮語を使うな」なんて言うこともなかった。

●道庁内で天皇陛下の御真影が飾ってあるということはなかった。国旗掲揚や国歌斉唱もなかった。皇民化政策について勘違いしている方が多い。日本人も朝鮮人も皇民だった。皇民化とは日本と朝鮮の格差や差別をなくすためのものだったと思う。

●「内鮮一体」ということは過去には差別があったということでもある。それを否定するつもりはない。しかし、差別を日本人は無くそう、朝鮮人も同じ権利にしようと努力していた。この努力を日本人は懸命にしていた事実を知ってほしい。

●徴用は強制だったが内地の日本人と同じ。朝鮮では徴用されても行かなかった人もいた。私の前の担当者は割り当ての人数を集められなかった。私は割り当て人数分を集めた。「こういう徴用をするのでどうか協力してください」と、面長(村長)や関係者にきちんと説明をして、本人にも納得するように説明してもらった。きちんと、日本に行って、日本人と同じ仕事をして、賃金もきちんと貰えると、係官に説明してもらった。

●創氏改名や徴用などは總督府の正式な行政手続きを踏んだもの。創氏改名は強制ではない。強制ならば總督府からの指令があったはず。總督府は「創氏改名は自由である」とはっきり言っていた。道庁の朝鮮人官吏でも創氏改名しない人は沢山いた。半数以上はそうだった。もし命令があったなら、朝鮮人官吏は真っ先に改名しなければならなかったはず。

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[画像をクリックすると拡大表示されます。ここに出てくる「總督」とは第七代の南次郎總督のこと。この記事は2013年3月8日の衆院予算委員会で中山成彬さんも紹介していました

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